天気予報が梅雨の中休みを告げているが、強いて登りたい山があるわけではない。空気の透明度は最低だし、からみつく湿度は不快である。この時期のメリットは日が一年で一番長いことぐらいである。ならばこの唯一のメリットを活かして、久しぶりに足試し長距離縦走でもやってみようか。あらかじめ最終点を決めずに、一日でどこまで行けるか尾根をひたすら辿る縦走である。奥多摩の主稜線を辿ってみよう。日の出山から御獄山→大岳山→御前山→三頭山と続く稜線である。地図で検討してみると、青梅線の二俣尾駅から歩き始めて大岳山まではいけそうである。勝負は、御前山まで行けるか否かである。
いつもの通り北鴻巣発5時24分の一番列車に乗る。先月まではハイカーで大混雑していた立川駅も、この時期閑散としている。二俣尾駅着7時50分。降りたのは同年輩の単独行者と二人だけであった。青梅街道を横切り、多摩川を奥多摩橋で渡り、登山口となる愛宕神社を目指す。空はどんよりと曇り、予想通り山々の展望は絶望的である。愛宕神社は大きな社域をもつ立派な神社であった。長い石段を登り社殿に今日の無事を祈る。
全国に展開する愛宕神社の総本社は京都北嵯峨の愛宕山に鎮座する愛宕神社である。愛宕神社は火の神・迦遇槌命(かぐつちのみこと)を祭神とし、修験道の開祖である役行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの修験系の神社である。今日はこれから修験の色の濃い山々を辿ることになる。一休みしていたら駅で見かけた単独行者が追い越していった。
道標に従い樹林の中に入る。雑木林の若葉が美しい。手入れのよい杉檜林の中を左にトラバースして支尾根に登り、右折して急登に入る。斜面に点々と四国八十八カ所を記した板碑が建てられている。おそらく、この板碑を巡礼すれば四国八十八ヶ所を巡礼したのと同じ効果があるとされたのであろう。69番で尾根に達した。三室山(みむろやま)までは愛宕尾根と呼ばれるこの尾根を辿ることになる。先行した単独行者を抜き、小峰を越える。最後の板碑88番を過ぎ、さらに登ると送電線鉄塔に出た。視界は開けているが何も見えない。樹林の中には点々とコアジサイが見られる。夫婦連れパーティに追いつく。なおも緩やかに登っていくと愛宕山と呼ばれる愛宕神社奥宮の鎮座するピークに達した。無人ではあるが大きな社である。一休みする。
小道とも云える緩やかな尾根道が続く。樹林の中を微かに霧が流れる。時折鶯の鳴き声が聞こえるだけで人影はない。今日この尾根を登るのは私も含め4人だけのようである。登山道はピークを右から大きく巻いて鞍部で尾根に戻る。標示はないが、巻いたピークは三室山と思える。三室山などどうでもいいピークなのだが、ピークハンターをもって任じる私としては素通りするわけには行かない。細い踏み跡を辿り巻いたピークに登り上げる。過たず三室山であった。樹林に囲まれ展望もない平凡なピークで、三角点と小さな私製山頂標示のみがあった。この三室山は昔は「丸ドッケ」と呼ばれていたようである。ドッケとはピークを意味する古代朝鮮系の言葉である。一休みしていたらなんと今朝ほどの単独行者が登ってきた。物好きは私一人ではないようである。
マウンテンバイクで十分走れそうなよい道が山稜の左側を巻きながら平坦に続く。どこまでも杉檜林の中で、野の花も見られない。道が尾根上に戻ると送電線鉄塔が現れ、そのすぐ先が車道の乗っ越す梅野木(うめのき)峠であった。舗装道路となった尾根道を少し登ると、大きな無線中継塔がある。そこから先は再び山道となった。ただし稜線の左側を平坦に続く巻き道である。どこまでも変化のない道が続く。飽き飽きする頃、久しぶりに稜線に戻り、と同時に急登に変わった。日の出山への最後の登りなのだろう。自分でも惚れ惚れするようなリズムで急斜面を登っていく。周囲にコアジサイが群生している。花もない植林の中を辿ってきたので、この地味な花にも心が和む。今朝ほどの夫婦連れに追いついた。三室山に寄っている間に抜かれたのだろう。何を思ったのか、男が女を置き去りにして私を追いかけだした。競争となれば負けるわけには行かない。岩場となった最後の段を登り切ると、そこが日の出山山頂であった。
広々と開けた山頂には四阿が建ちいくつものベンチが置かれている。数組の登山者が休んでいる。この山頂から空気の透明度がよいときには高層ビルの立ち並ぶ都心の向こうに東京湾を望むこともできると云う。ただし今日は隣の山も見えない。開けた視界の先には白く濁った空気がよどんでいるだけである。私もベンチに座り込んで昼食とする。日の出山の名は御岳山から見て日の出の方向にあるために名付けられたといわれる。
しばしの休憩の後、急坂を下って御嶽山を目指す。すれ違う登山者が多くなった。御嶽山から日の出山への縦走は初級者向けコースである。子供連れ、家族連れも多い。樹林の中の小道を最低鞍部に下ると畑があった、キャベツやジャガイモが育っている。登りに掛かると、板碑や墓地などの宗教施設が現れだし御嶽山の雰囲気が次第に濃くなる。何軒かの宿坊を見、舗装された小道を登るとお土産物屋の並ぶ参道に出た。ケーブルカーで登ってきた観光客が多くなる。大岳山に向かう縦走路と別れ、長い石段を登って御岳神社本殿に向かう。本殿ではちょうど結婚式が行われていた。綿帽子をかぶった花嫁と紋付き袴の花婿が並んでいる。
この御岳山は今に続く山岳宗教のメッカである。神社由緒には次のように記されている。
社伝によれば、創建は第十代崇神天皇と伝えられ、第十二代景行天皇の御代
日本武尊御東征のみぎり難を狼の先導によって遁れられたといわれ、古くより
関東の霊山として信仰されて参りました。 平安時代の延喜式神名帳には大麻
止乃豆天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記されております。
山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の一大中心として、鎌倉の有力な
武将たちの信仰を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う
多くの人達の参拝によって栄えました。天正十八年徳川家康公が関東に封ぜ
られますと、朱印地三十石を寄進され、慶長十一年大久保石見守長安を普
請奉行として社殿を改築、南向きだった社殿を江戸城守護のため東向きに
改めました。人々の社寺詣が盛んになるとともに、世に三御嶽の一つとして、
御岳詣も、武蔵・相模を中心に関東一円に広がり、講も組織され、現在に及
んでおります。 明治維新により、御嶽神社の社号となり、更に昭和二十七年
武蔵御嶽神社と改めました。 現在の幣殿拝殿は元禄十三年に徳川幕府によって
造営されたものです。
ここで、御嶽山(ミタケサン)の山名について考えてみる。
古代において、神の宿る神聖な場所を「タケ」あるいは「タキ」と称したと思われる。沖縄においては現在においても神の存する神聖な場所を「ウタキ」と呼んでいる(ウはすばらしいとか美しいとかを意味する接頭語)。7世紀以降、修験道の発達によりこの神聖な場所が急峻な山岳に求められた。その結果、この神の宿る急峻な山岳が「タケ」と呼ばれるようになった。最初は単にタケと呼ばれていた山も美称の接頭語「オン、ミ」が冠せられ、さらに敬称の「サン」が付け加えられた。御嶽山のサンは本来「山」ではなく敬称の「サン」である。現在、日本の山の呼称は
○○山と並んで○○岳が多い。この岳は上記の「タケ」から生じた呼称であり、いつしか「タケ」が急峻な山の一般呼称となったのである。。
一休みした後、大岳山に向かう。今から21年昔の1980年5月、当時7歳であった長女を連れてこの御嶽山から大岳山へ縦走したことがある。尾根左側の巻き道を進むとすぐに、「天狗の腰掛杉」と標示された樹齢350年の大杉があり、奥の院から鍋割山(なべわりやま)を経由する尾根道が右に分かれる。どちらの道を行こうか考えたが、昔辿った巻き道を行くことにする。遊歩道とも云える平坦な小道を進む。ガスが鬱蒼とした樹林を包み、幻想的雰囲気を醸し出している。すれ違う登山者も多い。大岳山と御嶽山を結ぶコースは一般ハイキングコースである。しばらく進むと沢に出た。掛樋から引かれた冷たい水にのどを潤す。そのすぐ上に見覚えのある大きな休憩舎があった。遊歩道のような小道もここまで、沢沿いの登山道に変わる。道端にはコアジサイやタマアジサイが咲いている。
沢を右岸に渡るとジグザグの急登が始まった。足下に白い小さな落花が絨毯のように続く。何の花だろう。見上げてもそれらしき花は見られない。やがて露石の登りとなった。頻繁に「滑落注意」の標示があり鎖場や梯子も現れる。山慣れた者にはどうということもないのだが、一般ハイカーには厳しいかもしれない。21年前、幼児連れでここを辿ったはずだが記憶にない。四苦八苦している夫婦連れを追い抜く。傾斜が和み、大きな鳥居の立つ広場に達した。一段下に大岳山荘があるが、営業していないようで人影はない。一段上には大嶽神社の奥社が鎮座している。ここで、馬頭刈(まずかり)尾根コースが分かれる。21年前に下ったコースである。一休みする。
今ではその宗教的にぎわいは隣の御岳山に譲るものの、大岳山も神の座す山である。御岳山が7世紀以降開かれたのに対し、大嶽の神はさらにそのはるか昔からこの山に座していたに違いない。この山頂直下に鎮座する大嶽神社の里宮は南の麓、白倉の集落にある。大岳山の山名も御岳山と同様、神聖な場所を意味する「タケ」に、美称の接頭語「大」と敬称の「サン」が加わったものと思える。
神社の脇から最後の急登に挑む。距離は短いが、手足を動員する岩場の急登である。ちょうど1時、大岳山山頂に達した。さして広くない山頂に登山者が溢れている。マウンテンバイクで登ってきた若者もいる。こういう場所では単独行者は身の置き場に困る。片隅に陣取り握り飯を頬張る。南側に視界が開けているのだが、乳白色の幕が一切を隠し何も見えない。それでも天気は幾分回復し、薄日が射し暖かい。
今日はその山容を望むことはできなかったが、大岳山の山容はじつに特徴的である。まるで鶏冠のような山頂部を持ち、どこからでも一目で同定できる。おそらく、関東平野から望める山の中で、富士山を別とすれば、その同定のしやすさは両神山と双璧であろう。それゆえ、古くは東京湾を行き来する舟のよき目印とされたようである。
まだ先は長い。のんびりともしていられない。岩場の急坂を慎重に下ると緩やかな尾根道となった。軽い上下を繰り返しながら明るい雑木林の中を進む。蝉が盛んに鳴いている。もう夏である。すれ違う登山者はすっかり姿を消した。ひたすら尾根道を急ぎながら、これからの予定を考える。次の鋸山(のこぎりやま)から鋸尾根を下るか、さらに縦走を続けて御前山まで行くか。飽き飽きする頃、鋸山分岐に達した。御前山への縦走路は鋸山を左から巻いて行く。ただし、ピークハンターたる私は山頂を踏まないわけには行かない。露石の急登を10分もがんばると山頂に達した。先着者が一人いたが、すぐに大岳山に向かって出発していった。
この1109メートル峰には現在は鋸山の標示がされ、また二万五千図にも鋸山と標記されている。しかし、このピークの本来の名前は天地山である。鋸山とはこのピークから北へ伸びる鋸尾根の総称であったようである。
樹林に囲まれた山頂は薄暗く、展望も全くない。一人座り込んで次なるルートを考える。いよいよこの地点で最終結論を出さざるを得ない。時刻はすでに2時30分、常識的にはここから鋸尾根を奥多摩駅に下ることだろう。下り1時間40分のコースである。御前山まで行くとなると、山頂着は4時過ぎ、奥多摩湖への下山は6時を過ぎてしまう。しばし迷いに迷った。突然、むらむらと闘志が湧いてきた。行こう! 御前山まで。御前山は私にとって未だに未踏峰である。チャンスを逃がすと登る機会はなかなか訪れない。体力もまだ余力がある。しかも、一年で一番日が長いこの時期、7時までは明るい。懐電も持っている。そうと決めたら先を急ごう。
急坂を縦走路に下り、少し進むと車道の乗越す大タワにでた。御前山にカタクリの咲く早春には、観光バスでここまで登ってきて御前山を目指す登山ツアが盛んだとの話を聞いた。ここから山頂まで約1時間半の行程である。すぐ上に避難小屋がある。女性三人連れとすれ違った。そして彼女らが今日山中で出会った最後の人影となった。軽く一峰を越えると、ジグザグを切った樹林の中の急登となった。さすがに疲労を覚える。腹も減って力が入らない。登り切ると鞘口山(さやぐちやま)との標示がある。備え付けのベンチに座り込んで最後の握り飯を喉に流し込む。
以下鞘口山と御前山についてのとりとめもない妄想である。
鞘口(sayaguchi)はおそらく塞口(sayguchi)の転嫁であろう。塞口とはある特定の場所を封印する出入口である。ならば、封印された場所とはどこであるのか。御前山のはずである。御前山の山名由来については二つの説がある。一つは「姫御前」説である。男性的な山容の大岳山に対しいかにも女性的なゆったりした山容の御前山を姫御前にたとえたとの説である。二つ目は「御膳」説である。その山容が神に供する飯盛りの形に似ているためとの説である。私の考えは「御膳」説ではあるがやや違う。御前山一帯はいわゆる「標野(しめの)」であったのではないかと考えている。神に捧げる贄を捕るため一般の人の立ち入りを禁止した区域、すなわち神の御膳に盛る食物をとる神聖な場所である。この贄を捧げる神はおそらく大嶽の神であったであろう。この神聖な場所への立ち入りを禁止した場所が塞口である。御前山の西方、三頭山の東の鞍部にも鞘口峠がある。鞘口山と鞘口峠が標野たる御前山への立ち入りを制約した東西の場所であったのではないか。
前方に視界が開け、上空微かに御前山らしきピークが見える。ルートは左から大きく回り込んで数個のピークを越える必要がありそうである。山頂まで一気に行こうと覚悟を決め、再び樹林の急登に挑む。登り切ると今度はクロノヲ山との標示がある。さらに急登を続ける。高度計の数字がなかなか上がらずいらいらする。やがて傾斜が若干緩むと、御前山避難小屋への道が右に分かれ、山頂まで15分との標示があった。もうひと踏ん張りである。登山道の左右にはザイルが張られている。この辺りがカタクリの群生地なのだろう。カタクリは今でこそ貴重な花だが、本来どこにでもあるありふれた花である。この春、越後の守門岳に登った際にこの花が無数に群生していた。最後の踏ん張りを利かせると、ちょうど4時、ついに御前山山頂に達した。やれやれである。広く開け、平坦な山頂には丸太のベンチがいくつも設置されている。当然ながら誰もいない。周囲はカラマツに囲まれ視界はよくない。今日一日展望には全く恵まれなかった。
いよいよ下山である。ここから約1時間45分の行程である。日暮れまでには下れるであろう。三頭山への縦走路を進み、軽く登ると今日最後のピーク惣岳山(そうがくさん)に達した。山頂には防火用のドラム缶がいくつも置かれ、何とも情緒のない頂である。今日はいくつのピークを越えてきたことか。下山路はここから奥多摩湖に張り出す大ブナ尾根と呼ばれる急峻な尾根に開かれている。緩急をまじえながら、樹林の中の下りが続く。雑木林の緑が実に美しい。道はしっかりしているが途中道標が不思議なほどない。もっとも迷いやすいところもないが。案内書にあるとおり相当急な尾根であり、登りは大変だろう。惣岳山から45分下ると小さなテレビアンテナがあった。はるか下に奥多摩湖がちらちら見える。「スズメバチに注意」との標示が現れる。どうやって注意しろと云うんだ。ザイルの張られた猛烈な急斜面が現れた。もう足ががくがくで踏ん張りが利かない。
5時35分、ついに奥多摩湖湖畔に下りついた。御前山からノンストップで下りきった。10時間に及ぶ長距離縦走の終着である。堰堤を渡り、バス停に急ぐ。最終バスの時刻が心配である。湖畔には数組のアベックが散策している。ダムサイドから少し下った水根(みずね)バス停に達すると、幸運なことに、わずか5分待ちでバスがやって来た。
今日一日、よくも歩いたものである。
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