杖立峠と破風山踏み跡絶えた急斜面にカタクリの大群生 |
1999年4月4日 |
破風山山頂より城峯山(中央奥)を望む
小峰神社(840〜845)→登り口(905)→稜線(915〜920)→小峰山(930〜945)→629.2m三角点峰(950)→天狗山(1010〜1015)→大前山(1030〜1040)→札立峠(1100〜1110)→破風山(1120〜1135)→風戸分岐(1200)→露石ピーク(1205)→446m峰(1215)→間違いに気づき戻る(1300)→370m峰(1310〜1315)→347.0m三角点峰(1325〜1340)→車道(1420)→皆野駅(1445〜1457) |
桜花満開の便りが各地より届き、季節はまさに春爛漫である。しかし、私の気分はいま一つすっきりしない。左足首が一向によくならない。どうも靭帯が切れていると思われる。この冬のシーズンもすっかり棒に振ってしまった。登山意欲は湧かないのだが、無理やりにでも山に行かないことにはますます気分が滅入りそうである。
皆野町の北に赤平川と日野沢川に挟まれた小さな山塊がある。山塊の盟主は626.5メートルの破風山であるが、この山塊の主役は何といっても札立峠である。東西に面なる山塊の北側に秩父札所の結願寺・34番の水潜寺がある。この潜水寺に参拝するためのお遍路道の越える峠が札立峠である。今でも白装束のお遍路達が時折この峠を越えて行く。秩父の代表的な峠の一つである。札立峠と破風山だけではいかにも物足りないので、この山塊を西から東に完全に縦走してみよう。雑誌「新ハイキング」の今年2月号に山塊の西半分の縦走記録が載っており、稜線上に踏み跡があることが確認できるが、東半分はどうなっているのか全く不明である。得意の藪山歩きとなるかもしれない。 熊谷発7時16分の秩父鉄道に乗る。電車はがらがらである。熊谷付近では既に満開の桜も寄居、長瀞と進むにつれて5分咲き程度となる。皆野着8時16分。下車したハイカーは私一人であった。西門平行きのバスは30分待ちなので予定通りタクシーを奮発する。運転手がカタクリの花が咲きだしたと言う。しかし、人の目に触れるところは盗掘されてほとんど無くなってしまったと嘆いている。ひょっとしたら、今日カタクリの花と出会えるかも知れない。車は水潜寺の前を通り、日野沢川に沿ってさらに奥に進む。8時40分、小前集落上方の小峰神社前で下車する。支度を整え、細い舗装道路を緩やかに小前集落へと下って行く。今日の降水確率は50%、空はどんよりと曇っている。開けた山間の小平地に数軒の家が点在している。闖入者の気配を感じ、集落中の犬がほえ声を上げる。今日の第一の心配は、登山口が上手く見つかるかどうかである。「新ハイキング」に簡単な解説はあるのだが、集落内は道が入り組みさっぱりわからない。集落最底部の人家の前を過ぎると道は地道の林道となった。1、2分で右に確りした作業道が分かれる。勘としてはこの道である。緩やかにしばらく登ると、左側の急斜面を登る細い踏み跡を見る。入り口の森林公社の石杭に赤テープが巻かれている。その10メートル先で作業道は終わりであった。どうやら先ほどの赤テープが登山口らしい。これでひと安心である。 まだ若い桧の中の細い踏み跡を急登する。打ち枝が踏み跡を覆い登りにくい。それでも10分ほどであっさり稜線に達した。小さな鞍部である。西側のちょっとした高みに登ってみると、眼下に先ほど通過した小前の集落が見える。西側には城峰山がゆったりと聳えている。稜線上には割合はっきりした踏み跡がある。あとはこの稜線を忠実に破風山までたどればよい。3、4回短い急登を経ると最初のピークに達した。二万五千図上の629.2メートル三角点峰手前のピークなのだが、地図は不正確でこのピークが記載されていない。山頂標示はないが、「新ハイキング」では小峰山と呼んでいる。山頂には石積の祠の台座のみ残されている。小峰神社の奥の院があったとのことである。西方奥に両神山が霞んでいる。いったん鞍部に下って登り返すと三角点峰である。三角点がぽつんとあるだけでなんの表示もない。このピークを小峰山と呼んでいる資料もある。 急坂を下ると確りした踏み跡が鞍部を乗越している。稜線はここで左にカーブするのであるが、続いてきた稜線上の踏み跡は次のピークを左から巻くようにまっすぐに進んでいる。うっかりするとこの踏み跡を進んでしまいそうである。踏み跡はないが、左手の桧林の中の斜面を登る。登るに従い再び踏み跡が現れる。ピーク直前の地点で、左より明確な踏み跡が登ってきており、初めて道標を見る。下る先を「大前」、登る先を「鞍掛山、ニョッキン」と示している。鞍掛山、ニョッキンとはどこを言うのであろう。ピークに達すると、「天狗山(天狗様)」との山頂表示があり、小さな石の祠が安置されている。すぐ目の下に大前の集落が見える。 小休止後急坂を鞍部に下る。ここにも大前からの踏み跡が登ってきている。尾根は痩せた岩稜となる。アセビの木が目立つ。天狗山からは踏み跡がすっかり明確となった。ハイキングコースとなったようである。この山稜は枝尾根がなく二万五千図を読む必要もない。鎖場が現れた。653メートル標高点ピークに達する。金属製の基準点が設置されていて大前山との山頂表示がある。明治27年8月18日銘の神主姿の珍しいの石像が設置されている。小ピークを連ねたこの山稜はピークごとに信仰の痕跡がある。小休止後、鎖場の急坂を下る。ガリガリの岩稜である。高さ3メートルほどの自然石の石柱があり、ニョッキン様(如金さま)との表示がある。説明板によると金精大明神で生々化育の神として信仰されたとある。要するに男性のシンボルであろう。天狗山の道標にあるニョッキンとはこのことであった。ニョッキンの後ろには「富士山浅間大神」と大書きされた明治26年正月17日銘の石碑が建てられている。 アセビの目立つ緩やかな道を下っていくと、目指す札立峠に達した。樹林に囲まれた暗い峠で、いくつもの標示板が立ち並んでいる。峠の真ん中には大正年代の石柱の道標があり、交わる四方向の旧村名を示している。何百年もの間、多くの巡礼達がこの峠を越えて行った。峠を下れば、もう結願寺の水潜寺である。苦しかった巡礼の旅路の終わりである。いかなる思いをもってこの峠に立ったことだろう。峠は無人であった。青いザックが一つデポされている。破風山に行っているのだろう。峠の南側直下に農家風の廃屋がある。この廃屋は文献に出てくる。「峠 秩父への道 (大久根茂著 さきたま出版会)」によると、尾沢国一さんの家屋で6代にわたってこの山上に住み続けたが昭和51年ついに山を降りて廃屋となったとのことである。しばし峠で感慨にふけっていると、破風山からザックの持ち主が下ってきた。50年配の男性で、ハイカーと思ったが聞けば、秩父札所を歩いて回っているという。現代のお遍路である。今日は33番菊水寺から3時間の道のりを歩いてここまでやって来たとのこと。「いや、この峠の登りはきつかった。しかし、ここを下ればもうおしまいです」。「結願ですね」というと、「ええ」とうれしそうな笑顔を残して峠を下っていった。 見違えるように立派となった道を破風山に向かう。札立峠ー破風山ー風戸集落を結ぶコースは初心者用のハイキングコースである。急に人影が濃くなった。尾根は広々として展望がよい。天気も好転し日が射してきて温かい。単独行の中年女性が下ってきて、「あの山はなんという山ですか」と西側の山を指さす。「あれは城峰山です」。緩やかに登り、わずかに急登するとあっさりと山頂に達した。小さな祠と欠けた三角点のある山頂は大展望が広がっていた。眼下に秩父盆地が大きく広がりそれを囲む山々が濃い春霞みの中に沈んでいる。まず目に付くのはゴルフ場の多さである。三つも四つもみえる。なぜこんな山国にこれほどゴルフ場を造る必要があるのか。山々の同定作業に移る。すぐ目の下の蓑を伏せたようなこんもりした山は蓑山である。もう2週間もしたら名物の桜が満開となるだろう。正面に見える三角錐の山は秩父の象徴・武甲山である。すっかり形が変わってしまって痛々しい。その左には奥武蔵の特徴のない山並が続く。わずかに二子山がその特徴ある山容から確認できる。さらに左手には比企丘陵の山々が連なる。堂平山、笠山、大霧山。冬晴れの日ならば奥秩父連山も一望できそうである。山頂には二人連れがいるだけであった。私も山々を眺めながら昼食とする。日が射して暑いほどである。しばらくすると、風戸方面から中年の単独行者が登ってきた。気にくわぬことにラジオをがんがんかけている。時々こういう登山者がいるが、いい迷惑である。逃げ出すに限る。 アセビの道を緩やかに下ると、すぐに場違いなほど大きな休憩舎があった。ルートが分岐し道標は左に90度曲がる道を「猿岩、風戸」、まっすぐの道を「桜ヶ谷」と示している。真っ直ぐ進みかけて、慌てて見ることもなかった二万五千図を出して確認する。尾根筋が消えていたのでうっかりしたが、ここは左(北)へ直角に曲がるのが正しい。下るに従い再び尾根筋が現れ、猿岩との標示のある岩塔が現れた。その基部を右から巻いて東に向きを変えた尾根をたどる。階段整備された立派な道である。やがて風戸分岐に達した。ハイキングコースはここで尾根を離れ左に下ってゆく。ここからがいよいよ今日本番である。私は踏み跡があろうがなかろうがあくまで尾根を末端までたどる計画である。改めて二万五千図を頭にたたき込む。 幸運にも尾根上には割合確りした踏み跡が続いている。しかし道標は何も示していない。そのまま緩やかに登ると大きな一枚岩の露石があるピークに達した。地図上の445メートル峰の一つ手前のピークである。正面に宝登山が聳えているがその西面は一面ゴルフ場となっていて痛々しい。尾根の続きは絶壁となっていて進めない。10メートルほど戻って、ヤブの中のかすかな踏み跡を追って岩峰の基部を巻く。尾根に戻るが、踏み跡は細々としたものとなる。ただし、点々とテープがあり、私以外にも物好きにこの薮尾根をたどった者がいると見える。445メートル峰を越え、二つ目の400メートル峰に達する。尾根筋通り進むと南に延びる枝尾根に引き込まれる。ここはいったん北へ直角に曲がってすぐに西に向かうのが正しい。地図を読み切って微かな踏み跡を追う。尾根は南東に向きを変える。尾根を覆う潅木はまだ茶色一色であるが、よく見ると木の芽は大きく膨らみ、芽吹きは近い。蜘蛛も一部は活動を開始したと見えてたまに踏み跡を横切る糸を見る。突然、薮の中に真っ赤なツツジの花を見る。わずか一株だけだが、1ヵ月も早い開花である。 小ピークをいくつか越えて尾根を南東に進む。薄いながら踏み跡は続いており、このまま進めば無事縦走は完成しそうである。突然踏み跡が行き詰まり、左右に分岐する。見通しが利かずはっきりしないが、尾根も左右に分岐しているようだ。どっちへ進んでも下界に導いてくれそうであるが、私は347.0メートル三角点のある尾根を下るつもりでいる。二万五千図を懸命に読むが、地形が細かすぎてよくわからない。この辺りで尾根はまるでアメーバーの足のようにてんでんばらばらに分裂して荒川に向かって雪崩落ちている。勘としては南東に向かう右の踏み跡である。進むと尾根筋もはっきりしてきて赤テープもある。しかし、なぜか私の山勘がいやいやをしている。小峰を越えてしばらく進むと左側に展望が開けた。急峻な谷を隔てて隣の尾根が見える。露石の目立つ尾根である。改めて二万五千図を広げチェックする。進むべき347.0メートル三角点峰に続く尾根もわずかだが露石記号がある。どうやら尾根を一本間違えたようだ。現在進んでいる尾根も踏み跡もあり、このまま下界に導いてくれそうであるが、あくまでも狙ったルートを踏破するのが私流である。時刻もまだ1時であり、時間的余裕もある。 迷った地点まで戻り、北に向かう踏み跡に入る。こちらの踏み跡の方がずっと細い。すぐに回り込むようにして目指す南東に向かう尾根に入る。この辺の微妙な地形は二万五千図でも表せていない。わずかに登ると岩峰に達した。実に展望がよい。岩の上に腰を下ろしてのんびりと握り飯を頬張る。あとはこの尾根をひたすらたどればよい。尾根が痩せて岩稜となる。絶壁の岩場を危なっかしくトラバースするような個所も現れ、少々やばい。しかし尾根は次第におとなしくなり三角点峰との鞍部に向かって緩やかに下る。踏み跡はあるかないか程度であるが、尾根筋ははっきりしていてルートに心配はない。少し登ると目指す三角点峰に達した。四等三角点標石を確認する。少々トラブったが目指すルートでここまで来れた。この山頂も実に展望がよい。すぐ目の下に赤平川沿いの集落が見える。もう終着駅も間近である。再びのんびりと握り飯を頬張る。 さて、最後の行程と思ったら、意外なことに先に進むルートが見つからない。私はこのピークから真東に延びる尾根を辿るつもりでいるのだが、切れ切れに続いてきた踏み跡は南の支尾根に向かっており、私の目指す尾根は藪に閉ざされ入り口すらわからない。薮の中をうろついて何とか入り口を見つけようとしたがさっぱりわからない。こうなれば意地である。潅木の密藪を強引に突破して尾根筋と思われる方向に進む。ひとくだりするとようやく目指す尾根に乗った。尾根には踏み跡はないが気配らしい痕跡はある。尾根筋を追って緩やかに下る。すぐ目の下に人家が迫ってきた。尾根の最末端に達したと思ったら、最後の難関が待ち構えていた。急斜面となって尾根は途切れた。左側の急斜面は何とか下れそうである。潅木のまばらに生えた20メートルほどのがけに近い斜面だ。下りだして目を見張った。何と! 何と! 斜面いっぱいに紫色のあでやかな大柄の花が一面に咲き誇っているではないか。カタクリである。うれしいやらびっくりするやら。大感激である。タクシーの運転手が「人目につくところではもう見られなくなった」といっていたカタクリの花が今目の前に無数咲き乱れている。苦労して踏み跡も定かでない藪尾根を辿ってきた苦労が酬われた。潅木にぶら下がるようにして急斜面を何とか下るが、花が踏みつけずに下るのが難しいほどだ。20メートルほど下ると堰堤のある小沢に下り着き、ほんの10メートル進むと舗装道路に出た。縦走の終結である。 大淵集落を抜け赤平川、荒川を渡ると皆野の小さな町並みはすぐであった。駅につくと、待つほどもなく満員の行楽客を乗せた上り電車がやって来た。 あれほどのカタクリの群生に出会えるとは何と幸運な山旅であったことか。 |