山の名前を考えてみるとおもしろい。山自体は(一部火山を除いて)有史以前から今と同じ形でそびえ立っていたはずである。その山にいつの間にか名前がついた。ついたと言うより、人々がつけたのである。名前がつけられるということは、その山が、人々に特定される必要があったということである。山が生活の場であったり、移動上の目印であったり、或いは火山などの場合恐怖の対象であったりしたためである。最初に名前を付けられた山々は、生活に密着した山々であり、その名前も、おそらく、裏山、高山、西山、北山等であろう。人々の生活の場が広がるにつけ、名前をつけられる山々も増えていった。次第に、奥地の山、遠くの山も名前を持つようになっていった。この結果、全国ほとんどの山々は名前を持つことになった。
大変珍しい例と思うが、昭和になっても無名峰で残った山々があった。安倍川水源の山、現在八紘嶺と呼ばれている1,918メートル峰もそうである。この山が、なぜ無名峰として残ったのか不思議である。決して、人の目に触れないような山奥の山でもないし、瘤のような小さな高みに過ぎないわけでもない。それどころか、駿河と甲斐を結ぶ昔のメイン道路の一つであった安倍峠の隣の山であるし、又、駿河からの身延山への参拝コースであった七面山ルートは、この山上を通っている。以上のことを考えるなら、地元においてなんらかの名前があったと考えたほうが自然である。ただ、いずれにせよ、地図上の名前はなかった。
先の戦争中に、この山に名前が付けられた。付けられた名前が、選りによって「八紘嶺」である。名付けたのは、地元梅ヶ島温泉の旅館の主人であったという。「八紘嶺」という名前はこの山と何も関係のないものであった。戦争中の標語「八紘一宇」から取られたものである。この山にとっては、えらい名前を付けられてしまったものである。今であるならば、「安倍川の頭」とか「梅ヶ島山」と付けられたと思うが。
名前はともかく、安倍川水源の山、安倍川最奥の山である。今日はこの山に登る。いつもの通り、5時起床、5時50分車で静岡の自宅を出る。真暗の中、勝手知った梅ヶ島街道を奥に進む。6時50分、梅ヶ島温泉の無料駐車場に車を放り込んで歩き始める。温泉街を抜け、安倍峠越の立派な舗装道路を5分ほど登ると、「八紘嶺、安倍峠登山口」があった。ここで改めて身仕度を整える。ここに大きな看板があり、次のような趣旨のことが書かれている。
一、大光山から刈安峠の間は崩壊が激しく通行できない。現在迂 回路を作っている。
二、刈安峠から東峰に下る登山道も崩壊が激しく通行禁止である。
三、大光山から東峰、草木に下れる。
この看板により、先の十枚山から奥大光山までの縦走中の疑問は一気に解決した。どうせなら、同じ看板を十枚山登山口にも立ててほしかった。
植林地帯のジグザグの急登が続く。ちょうど安倍峠の上から朝日が登る。木々の合間から見上げる空は、真っ青に晴れ渡り、快晴である。この分では、山頂からの展望が楽しみである。時々、安倍川本谷方面が開ける。谷はまだ日も射さず、薄暗い。休むこともなく、小1時間もぐいぐいと登っていくと、突然、先ほど別れた安倍峠越えの舗装道路に出た。ここでひと休みする。日が当たり暖かい。道標があり、ここで安倍峠越えの道と別れる。安倍峠へは道路に沿って行くようになっているが、八紘嶺へは道路を歩くことなく再び山道を進む。樹相が変わり、植林から自然林となる。傾斜も大分緩やかになり、明るい道である。途中、再び安倍峠への細い踏み跡を分け、さらに15分も登ると、上のほうで人声がする。こんな早朝に、他の登山者がいるのかと思いながら進むと、富士見台に出た。女2人、男1人の三人パーティが休んでいた。聞けば梅ヶ島温泉に泊まったとのこと。
富士見台は八紘嶺から安倍峠に続く稜線上の痩せたキレット状のところで、北面がガレている。北東方面に大きく展望が開ける。今日初めての展望である。真正面に絵のような富士山がそびえ立っている。富士見台の名前の通りである。絵葉書的とはいえ、幾ら見ても見飽きぬ姿である。七面山に続く尾根が目の前に見える。ただし、同じようなピークが続き、地図と合わせるも、どのピークが七面山か特定できない。10分ほど休み、先発した3人連れを追い掛けるように八紘嶺に向かう。
痩せた稜線上の道であるが、確りした道であり、迷う心配は全くない。時々西方に視界が開け、安倍川本谷を隔てて「七人作りの峰」が見える。朝日が当たり、紅葉がきれいである。30分程度で頂上と思っていたので、ぐいぐい飛ばすがなかなか着かない(後で調べたら、1時間20分コースであった)。頭上に頂上と思えるピークが見える。しかし、そこまで登ってがっかり、その先にまた新たなピークがそびえている。
富士見台から45分掛かって、ようやく山頂に達した。期待通りの展望が待っていた。何はさておき、まず展望を楽しむ。もちろん南アルプスの展望である。赤石岳が、目の前にその全貌をさらしている。その左隣りは聖岳だ。右隣には荒川岳が白峰南嶺に半ば隠れながらも見える。3千メートル以上はうっすらと雪を被っている。意外に雪が少ない。笊ヶ岳は一目でわかる。すぐ隣の山だ。雪は全く着いていない。大無間山、小無間山は、山伏に続く稜線に隠れてみえない。あの山は何だ! 白峰南嶺の奥深く、奇妙な山が見える。薄く雪を被ったゆったりした山があり、その隣にまるで小さな尖がり帽子のような山がくっついている。なんとも奇妙な山容である。ゆったりした山は雪を被っていることから、3千メートル程度ありそうであるが、それに付随する尖がり帽子は真っ黒である。地図を出し、方向を合わせるがわからない。方向からして、塩見岳ではなさそうである。白峰南嶺北部の一峰との結論を出したが山を特定することはできなかった。
パンをかじっていたら3人組が登ってきた。男性が同行の女性に得意そうに山々の説明を始めた。聞いていたら、荒川岳と赤石岳を逆に説明している。「違いますよ」と、余計な口を出したが、頑固に自説を主張する。やっと女性が「荒川岳のほうが左のはずよ」と言ったので結論が出た。少々余計なことを言って、恥を掻かせてしまったかと思った。
早々に山頂を辞して、大谷崩ノ頭に向かう。急な下りである。更に一峰を越える。五色の頭との標示がある。雑木林の中の尾根道で、時々展望が開ける。振り返ると八紘嶺と富士山が一直線に重なってみえる。左手には、相変わらず白峰南嶺の山々が連なる。そのとき突然思い付いた。もしかしたら北岳だ! あの尖がり帽子の山である。そうであるならば、その隣の雪を被った山は、間ノ岳か農鳥岳である。南アルプス北部で、鋭角的に見える山は北岳だけのはずである。それにしても、あれ程尖がり帽子に見えるものであろうか。しかも、雪を全く被っていない。半信半疑である。80%程の確信と、20%の疑問が残った。(帰ってからこの疑問を解くべくいろいろ調べたが解からない。翌日東京に出張したおり、本屋で偶然南アルプスの写真集を見つけ、頁をめくると笊ヶ岳からの展望写真があった。これを見た瞬間疑問が解けた。やはりあの尖がり帽子は北岳であった。北岳があのように変わった姿で見えたのである。すっかり嬉しくなってしまった。)
樅の大木の茂る緩やかな尾根を大谷崩ノ頭めざして進む。やがて、見覚えのある山頂に達した。当然誰もいない。風が少し出てきて、山伏方面はガスが湧き出している。山頂は日が射して暖かい。標示盤に取り付けられている寒暖計を見ると13度である。程なく先ほどの3人組が登ってきた。荷物の大きさからして、八紘嶺から七面山に向かうと思っていたので、意外であった。すぐに、この山頂にもガスが立ち込め出し、寒くなってきた。新窪乗越に向かって下り始める。
ここからは勝手知った道である。男女のペアが登ってくる。女性のほうはひぃひぃ言っている。単独行の男性も登ってくる。急に山が賑やかになった。天気さえよければ、時間もまだ早いので、山伏まで行ってもいいと思っていたが、ガスが立ち込めてしまったので、新窪乗越から下ることにした。11時30分、新窪乗越に出た。驚いたことに、20人ほどの登山者が座り込んで、食事の真っ最中、休む場所とてない。そのまま一気に大谷崩れを下る。
9月に登ったときには、ひぃひぃいったザレの急坂だが、下るときはまるで砂走りを走り下りるように加速がついて早い。すぐ後ろから単独行の男性が下ってくる。約45分で扇ノ要に下り着いた。見上げる山頂部はガスに閉ざされているが、山肌を染める紅葉がすざまじい。まさに山燃えるである。こんなすばらしい紅葉を見るのは久振りである。扇ノ要には、紅葉狩りの人々が車で登ってきている。
ここから長い長い林道歩きが待っている。車は梅ヶ島温泉に置いてあるので、約2時間強の車道歩きが必要である。周りのすばらしい紅葉を見ながら、新田への道をのんびり下る。紅葉狩りの車がどんどん登ってくる。先ほどの30歳ぐらいの単独行者と後になり先になりする。1時間ばかり歩いて、新田の山伏との分岐に達した。9月に来たとき、車を置いた場所である。100メートルばかり先を歩いていた単独行者は、ここに車を置いていた。私の追い付くのを待っていて、乗っていけと声を掛けてくれた。渡りに船と乗り込む。梅ヶ島温泉に戻って、風呂に入っていくつもりだという。大助かりである。車の中で話をした。女房と喧嘩をしてむしゃくしゃしたので、朝5時前に家を出て、山伏から新窪乗越まで縦走してきたという。おもしろい男である。梅ヶ島温泉付近は、紅葉狩りの車で大混雑であった。家に15時前に帰り着いて しまった。
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