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高麗川駅(820)→稲野辺神社(900)→天神社→高麗川CC入り口(935)→下浅間神社(950〜955)→富士山山頂(1000〜1010)→白銀平(1020〜1035)→宿谷の滝(1125〜1130)→ヤセオネ峠(1210)→物見山山頂(1210〜1225)→日和田山山頂(1310〜1315)→日和田山登山口(1345)→聖天院→高麗神社(1420)→高麗川駅(1455〜1501) |
4日前に小川町の富士山に登った。この際の調査で、埼玉県にはもう一つ富士山と称する山が存在することを知った。地図で調べてみると、二万五千図「飯能」に確りとその名が記されている。この富士山も、小川町の富士山と同様、「ふじやま」と称する。標高221.2メートルの三角点峰で、高麗川左岸稜上の物見山と尾根続きの山である。ポピュラーな奥武蔵ハイキングコースである高麗川左岸稜の側にこのような山が存在することに今まで気がつかなかった。何ともうかつである。何はともあれ行ってみることにした。
地図を眺めているうちに懐かしさが広がった。尾根続きの隣りの山・物見山、およびその隣りの日和田山は今から30年以上昔、幼い子供たちを連れて歩いた山々である。久しぶりに訪れてみるのも悪くない。また、これらの山々の麓に広がる「高麗の里」は、古代朝鮮文化の香りを今に残す山里である。時間と体力に余力があれば、この里をのんびりと歩いてみるのも悪くない。 大宮、川越と乗り換え、8時12分、川越線の高麗川駅に到着した。「高麗の里」の現在行政区・日高市の中心となる駅である。他にハイカーの姿は見られない。寒さは厳しいが、今日一日の晴天が約束されている。先ずは高麗川カントリークラブの前を通って富士山へ向うつもりである。持参している地図は2001年発行の昭文社の登山地図と平成12年発行の二万五千図である。いずれも少々古過ぎることは否めない。まぁ、何とかなると思って持参したのだが、地図と目の前の現実が全然符合しない。都市の発展スピードは想像以上である。 勘を頼りに北西方向に歩き始める。しばらく歩くと偶然、「四本木の板石塔婆」に行き当たった。掲げられた説明によると、市指定文化財で、高さ266センチ、正和3年(1314年)の銘があるとのこと。一見の価値のある素晴らしい板碑である。何やら得をした気持ちになった。とはいっても、この板碑は地図に記載されておらず、ここがどこなのかさっぱり分からない。人に聞くのもシャクである。 さらに歩くが、一向に現在地が特定できない。いくら何でもこれは少々ヤバイか。と、小さな神社が現れた。標示を見ると「稲野辺神社」。この神社は地図に記載されている。やれやれ、現在地確定である。地図を確認しながら北上を続ける。辺りはすでに畑の広がる農村地帯、変化は乏しく昔の地図でも充分に間に合う。高麗川を渡る。実にきれいに澄んだ水の流れに驚く。松福院、天神社と過ぎると、ようやく道は登り坂となった。 目標とした高麗川カントリークラブ入り口を過ぎると、道は二股に分かれた。ここに初めて道標を見る。左に分かれる小道を「白銀平展望台」と示している。私の進むべき道だ。ゴルフ場の金網に沿ったハゲチョロ舗装の細道を登って行く。人影もない暗い道だ。右側に鳥居が現れた。何も標示がないので一瞬通り過ぎようとするが、思い返して、鳥居を潜って奧に進んでみる。正解であった。10メートルほど奧に小さな石の社殿が鎮座しており、下浅間神社と標示してある。すなわち、これから登る富士山頂に鎮座する浅間神社の下社である。この日高の富士山も小川の富士山と同様、富士講に因む信仰の山であったのだ。 傍らに「御師岩(おしいわ)」と呼ばれるひと塊の岩がある。掲げられた説明書きによると、昔、富士講の行者はこの岩の上で禊をしてから富士山に登ったとのことである。岩の上で足を踏みならすと妙なる音が聞こえるとのことなので実施してみたが、特段の変化は感じられなかった。先日登った吉見町のぽんぽん山と同じ現象なのだろう。 この地点より、富士山頂へ山道が登り上げていた。恐ろしく急な道である。ただし、ほんの数分の努力で、富士山山頂に登り上げた。小平地の片隅に浅間神社の小さな祠があり、その前に221.2メートルの三角点が確認できる。周りは木々の枝が覆い、十分な視界は得られないが、わずかに下界の街並みが見える。備え付けのベンチに座り、持参の握り飯をほお張る。風もなく日差しが暖かい。 私の登ってきた下浅間神社からの道とは別の道が頂上に登り上げていた。こちらはコンクリの丸太で確り整備された道で、現在での本道なのだろう。この道を下ると、高麗神社および宿谷集落に到る登山道に降り立った。ここには確り富士山頂を示す道標が建てられている。この道を左にほんの数10メートル進むと、先ほどたどってきたゴルフ場入り口から白銀平に通じる小道に出た。この分岐にも確り道標が建っている。 白銀平に向う。富士山と同じ山塊に属する一峰で、展望台があるはずである。途中、車に抜かれる。狭い道だが、白銀平まで車で入れるようだ。10分ほどで到着した白銀平は尾根末端の小さな高まりで、コンクリート二階建ての展望台が設置されている。先程、車で追い越していった若いアベックが先着していた。展望台からは大展望が得られた。広々と開けた関東平野の背後に筑波連峰がうっすらと見える。東京の高層ビル群も一望である。背後には日和田山から物見山と続く高麗川左岸稜がまじかに聳えている。再び握り飯をほお張りながら絶景を眺め続ける。 富士山から降り立った小道まで戻り、そのまま先に進む。確りした登山道である。中年の単独行者とすれ違った。今日初めて出会ったハイカーである。樹林の中を緩やかに下っていくと三差路に出た。地図に「粕坂」と記されている地点であろう。道標があり、左の道を高麗神社方面、右の道を宿谷の滝、鎌北湖方面と示している。右の道を選択する。相変わらず確りした小道であるが人の気配はまったくない。 樹林の中を緩やかに下っていくと、車道に飛び出した。所がここに何の道標もない。何たる不親切。さて、どっちへ進んだものか。勘を頼りに左に進むと、すぐにより確りした車道に突き当たった。ここには道標があった。左を宿谷の滝、鎌北湖方面、右を毛呂山町方面と示している。私の進むべき方向は左だ。所が、別の道標が「埼玉県指定文化財『山根六角塔婆』まで200メートル」と右を示している。どんなものか知らないが、行きがけの駄賃に見てみよう。行ってみると、金網で囲まれた小屋の中に、六枚の板碑を六角形に組み合わせた珍しい六角塔婆があった。残念ながら、板碑は一枚が失われている。貞和2年(1346)の建立であるとのことである。 典型的な山村である宿谷集落の中を進む。宿谷川沿いの車道を緩やかに上って行くと、目指す宿谷の滝入り口に到着した。広場にトイレと駐車場が設置されているが人影はない。滝は少し奧のようだ。よく整備された谷沿いの遊歩道を奥に進む。所が、目指す滝がなかなか現れない。狭い谷間の道をいらいらしながら10分ほど進むと、ようやく滝が現れた。誰もいない。落差は12メートルあるが、いかんせん水量が少ない。わざわざ来るほどの滝でもないが、通り道である。 さて、ここから物見山に登るつもりでいるのだが、物見山を示す道標はいっこうに現れない。地図で確認すると、ルートはこのまま宿谷川を遡るようだ。続いてきた遊歩道は滝の上部へとさらに続いているので、刻まれた石段を滝上部へ登ってみる。そこはベンチやテーブルの設置された小さな広場で、ここに確りした道標があった。沢にそって奥へ進む山道を「物見山」、右に別れる山道は「鎌北湖」と示している。今日初めて見る「物見山」の標示である。 谷沿いの登山道をたどる。しばらく進むと、道は谷筋から離れ、支尾根の急登に変わった。凄まじい急登である。この急登があるがために、登山地図ではこのコースは「難路」として扱われている。ただし、今日の私は調子がよい。自分ながら惚れ惚れするほどの登りっぷりである。息も切らせずグイグイと登って行く。それにともない、遥か彼方の上空が次第に手元に引き寄せられる。人影はまったくない。 30分も登り続けると、車道に飛びだした。物見山隣りの高指山山頂に設置されている電波塔の補修路となる車道である。車道を横切り、さらに登る。上空から人声が聞こえ、稜線は近そうである。ひと登りで、ついにヤセオネ峠と言われる物見山の肩に登り上げた。と、一人の女性が物見山から下ってきて「こんにちは」と挨拶する。そのアクセントに違和感を感じて顔を直視すると、何と、何と、白人の若い女性ではないか。びっくりする。ちょっとした立ち話になるが、日本語で話すべきや、はたまた英語で話すべきやーーー。 すぐに物見山山頂に達した。その瞬間、思わず目を見張った。山頂は大勢のハイカーで埋め尽くされている。その数は30人を下らないだろう。まったく人影のない山中を歩いて来ただけに、びっくりである。山頂は小広く開けており、幾つかのベンチが設置されている。東から南にかけて展望が開けており、広がる関東平野の奧に新宿や池袋の超高層ビル群が見える。真っ正面にはスカイツリーが見えた。私も山頂の一角に座り込んで握り飯をほお張る。 この山頂は三度目である。1980年6月、当時7歳の長女と3歳の次女を連れて日和田山ー物見山ー北向地蔵ーユガテと縦走した。また1983年4月には当時6歳の次女とわずか2歳7ヶ月の長男を連れて日和田山ー物見山と縦走した。実に28年ぶりの頂である。 重い腰を上げて日和田山を目指す。よく踏まれた縦走路を下っていく。ひっきりなしに、登ってくるハイカーとすれ違う。この地はまさにハイキングのメッカである。下りきったところは物見山と高指山の鞍部、ここまで舗装道路が上ってきており、二軒の茶店がある。付近にはハイカーの姿が一層濃くなる。舗装道路を歩いて巨大な電波塔の建つ高指山に向う。ただし、山頂は立ち入り禁止で、ルートは山頂を右から巻いて日和田山へ向って行く。さすがここまで来ると、足が痛みだす。特に下りは苦しい。歩みは遅くなり、幾つかのパーティに抜かれる。 物見山から45分も掛かって日和田山山頂に到着した。山頂には二人の子供を連れた夫婦連れが先着していた。狭い山頂の真ん中に1725年建立の大きな宝篋印塔が建っている。南側に大きく展望が開け、飯能市街から東京に広がる街並みが一望である。 真下に見える巾着田めがけて山を下る。山頂で出会った子供連れの夫婦と抜きつ抜かれつである。しばらく下ると中腹に鎮座する金比羅神社に達した。社殿の前が小規模の岩場となっていて、今日最大の大展望が広がっていた。奥武蔵、奥多摩、丹沢の山々、その背後に真っ白な富士山が真っ青な空をバックに、山肌を白く輝かせている。何人かのハイカーが動く気配もなくただただ山々を見つめ続けている。私もしばしの間、山々を見つめ続ける。 ルートはここで男坂と女坂に分かれるが「男坂は危険なため、女坂を通行のこと」との注意書きに従う。13時45分、ついに日和田山登山口となる車道に下りついた。ここで、次の行動を一瞬考えた。足がもはや限界に近い。このまま高麗駅に向おうか。いやいや、初心貫徹、高麗の里を歩いて聖天院、高麗神社に向うべき。下した結論は後者である。痛む足を引きずり引きずり、東に向って歩き始める。 足は痛むが、高麗の里歩きは実に気持ちがよい。辻辻にお地蔵様や様々な神様仏様が座している。「如意輪堂」なる感じのよい小さなお堂があった。陽は燦々と降り注ぎ暖かい。高麗の里は8世紀に朝鮮からの渡来人によって開かれた地である。続日本紀に、「霊亀2年(716年)、関東周辺の高麗人1799人を武蔵の国に集め、高麗郡を置いた」とある。それにしても聖天院は遠かった。歩けど歩けど到達しない。半ばやけっぱちに歩いて行くと、山の中腹に巨大な伽藍が見えてきた。 聖天院はこの地に移住した高麗人(高句麗人)を率いた高麗王・若光の菩提寺である。参拝をせんと楼閣のような巨大な山門を潜る。すると、「これより先は一人300円の参拝料が必要」との掲示。「ふざけるな!」少々のお賽銭は献上するつもりでいたが、参拝料を払えとは何事ぞ。参拝の気持ちは一瞬にすっ飛んだ。山門横の若光の墓をお参りして早々に聖天院を去る。 そこから、今日の最終目的地・高麗神社までは一足長であった。厳かな参道を進むと、山々を背に拝殿と本殿が鎮座している。実に好まして古社である。この神社に祭られている神はもちろん高麗王・若光である。彼がいつ高句麗から日本へ渡来したかは定かではないが、666年に来日した高句麗からの使節の中に若光の名が見られるという。それからわずか2年後の668年、高句麗は新羅と唐の連合軍によって滅ぼされる。おそらく、若光の来日は滅亡寸前の祖国からの亡命であったのだろう。祖霊の地を追われた彼らは、この武蔵の未開の地を切り開き、新たな安住の地を求めんとしたに違いない。人影薄い境内のベンチに座り、遥かなる古に思いを巡らす。 さて、ここから高麗川駅まで戻らなければならない。どうやって行ったらよいのか。いい具合に駐車場に案内が標示されていた。「高麗川駅へ 神社横の小道を直進して出世橋で高麗川を渡れ。徒歩15分」。痛む足を引きずり高麗川を渡る。今朝方も驚いたが、何と水が澄んでいることか。川の向こうに今日たどってきた山々が見える。一番前に聳える双耳峰は富士山である。富士山の名前とはほど遠い山容ながら案外目立つ山だ。女の人に駅までの道を聞くと親切に教えてくれた。15分どころか30分以上掛かってようやく今朝方出発した高麗川駅にたどり着いた。幸運なことに、発車寸前の川越行き電車が、すでにホームに停まっていた。
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