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西吾野駅 (755) → 森坂峠(825〜830)→ 本陣山(840〜850)→ イモリ山(915〜925)→ 森坂峠(935)→ 下久通集落(945)→ 琴平神社(955〜1005)→ 542mピーク(1100)→ 670mピーク(1125〜1140)→ 尾根最上部(1220〜1225)→ 伊豆ヶ岳山頂(1240〜1300)→ 長岩峠(1315)→ 正丸峠(1330〜1335)→ 正丸山(1400〜1405)→ 川越山(1415)→ 旧正丸峠(1425〜1430)→ 県道(1500)→ 芦ケ久保駅(1600) |
伊豆ヶ岳東尾根は10年来気になっているルートである。このルートを初めて知ったのは1993年発行の「ハイグレード・ハイキング(山と渓谷社)」においてである。奥武蔵人気No.1の山・伊豆ヶ岳に登山道の無いバリエィションルートから登るということに多いに興味が湧いた。しかし、当時は「ハイキングの山など登っていられるか」との思いが強く、「歳をとってからゆっくり」と考えていた。どうやらようやくその時が来たようである。ゴールデンウィークの真っ最中、名のある山は人波が押し寄せているが、このルートならその心配はなさそうである。
いつもの通り、北鴻巣発5時24分発の上り一番列車に乗る。大宮、川越、東飯能と乗り換え、西武秩父線の西吾野駅に降りたのは7時49分であった。奥武蔵ハイキングコースのど真ん中を貫いているこの鉄道はよく利用するが、西吾野駅で降りるのは初めてである。4〜5人のハイカーが下車したが、国道299号線を南に歩き出したのは私1人であった。さすがゴールデンウィーク、早朝にも関わらず国道は車の列である。すぐに右側を流れる高麗川にかかるガードレールのある橋が現れた。道標はないものの森坂峠入り口である。橋の向こう側は門扉でとうせんぼされている。扉の隙間を抜け、上部に続く砂利道を登ると、造成された草原に出る。途中で中止された宅地造成地らしい。ひと休みして、セーターを脱ぎ、体制を整える。今日は一日穏やかな五月晴れが約束されているが、体調がどうもよくない。昨夜はほとんど寝ていない。 草原を横切り山中に入る。道標は無いものの、しっかりした踏跡が杉檜の茂る山中に続いている。10分も登ると、小さな鞍部に達した。森坂峠との標示がある。地図に峠道の記載はないが吾野集落と下久通集落を結ぶ昔からの峠である。峠道がしっかりしているところを見ると今も利用されているのだろう。杉檜に囲まれた薄暗い峠に腰を下ろす。伊豆ヶ岳東尾根へのルートはこのまま峠を西に下り、下久通集落へ向うのであるが、その前に行きがけの駄賃に登っておきたい山が二つある。峠の北に聳える本陣山と南に聳えるイモリ山である。どちらも2万5千図には山名の記載はない。 峠から左右に続く稜線上には確りした踏跡が確認でき、「本陣山」「イモリ山」を示す小さな道標もある。まずは本陣山へ向う。地図上の442メートルの標高点ピークである。10分ほど登ると山頂に達した。杉檜林の中の、静かさだけが取り柄の何の変哲もない山頂である。展望も一切無く、小さな山頂標示のみぽつんと立っている。よほどの物好き以外訪れるものの無い頂きである。ひと休み後下山に掛かる。微かな物音にぎくりとして足を止める。何と、大きなアオダイショウが悠然と踏跡を横切っていく。2メートルはあるだろう。 峠まで戻り、そのまま今度は南へ続く稜線上の踏跡を辿る、小ピークを2〜3越え、踏跡の乗っ越す切り通しのような鞍部を越え、急登すると、急な平斜面にぶつかり尾根筋は消える。微かな踏跡がそのまま急斜面を登っているが、確りした踏跡は左に斜面を巻いている。巻道を辿る。山腹を大きく巻いて、東側に出ると、確りした別の踏跡が合流した。意外にも道標があり、合流した踏跡の下る方向を、「小床部落経由西吾野」、上部に向う方向を「子ノ権現」と示している。また別の小さな道標が、辿ってきた巻き道を「森坂峠」、上部への踏跡を「イモリ山」と示している。こんなところに、確りしたハイキングコースがあったのは意外であった。登山地図にも載っていないルートである。 露石の現れた急な踏跡を登ると、小さな石の祠が現れ、細い踏跡が右に分かれる。小さな道標が「イモリ山」と示している。ナイフリッジとなった岩稜を登ると岩の露出した小さな頂に達した。周りは自然林で若葉が目に染みる。ヤマツツジの花も咲き誇っている。展望はないが実に気持ちのよい頂きである。このイモリ山は三角点も標高点もないが、等高線を読むと430メートルある。イモリ山とはまた奇妙な山名である。どんな謂れがあるのだろう。露石に腰掛け、しばし静かな山頂を満喫する。 もと来た道を峠に戻る。ガサと言う微かな音に思わず立ち止まると、またもや蛇である。70〜80センチほどのアオダイショウが懸命に逃げていく。蛇は気持ちのよいものではない。峠をそのまま素通りして下久通集落へ下る。沢状の雑然とした地形だが峠道は相変わらず確りしている。約10分で集落に下り着いた。集落中の犬が闖入者の気配に一斉に吠え声を上げる。案内に従い家の軒先を通り川向こうの道に向う。軒先で集落の人が4〜5人立ち話をしていた。挨拶をすると、ここは通ってはいけないという。「案内書にはここを通れと書いてある」と、持参の案内書のコピーを見せると、「道理で。登山者がいつも庭先を通り迷惑している」と怒っている。 集落内の川沿いの狭い舗装道路を少し進むと、右手山腹に鳥居が見えてきた。ここが目指す東尾根への取り付き点である。鳥居を潜り、急な石段を登ると粗末な社殿があった。ひと休みして、コンビニで買ってきた稲荷寿司を頬張る。ここまで朝食抜きで登ってきた。中腹の社殿からなおも参道が尾根に向って登っている。恐ろしく急な石段を登り尾根に出ると、ここにも社殿があった。琴平神社とある。いよいよ東尾根の縦走開始である。 何の標示もないものの、尾根上には明確な踏跡があった。少々拍子抜けである。この尾根を忠実に辿っていけば伊豆ヶ岳山頂に達するはずである。地図を読むかぎり、尾根は明確で注意しなければならない地点もなさそうである。杉檜の鬱蒼とした樹林の中の尾根道を辿る。緩急をまじえて単調な尾根道が続く。意外にもテープが極めて少ない。所々に白いピニールテープを見るが、植林管理のテープと区別がつかない。時々踏跡が左右に下るが、登りの場合は尾根道は明確であり、迷うようなところもない。長い急登が現れた。登山道ならジグザグを切るのだろうが、踏跡は直登である。登りきって、ひと休みする。ここはどこだろうと、初めて2万5千図を出して確認すると、542メートル標高点ピークの少し手前である。1/3程度来たことになる。 標高点ピークを通過し、なお先に進む。登り下り以外に何の変化も面白味もない尾根である。もちろん展望も一切ない。ようやく調子も出てきた。ゆっくりだが確実な歩みが続く。左上方に大きなピークが見える。地図上の670メートルピークと思われる。長い急な斜面が一気に突き上げている。上を眺めると気が滅入る。足下だけを見つめて一歩一歩身体を引き上げる。突然南側に小さな視界が開けた。子ノ権現方面がよく見える。山肌を染める緑が実に美しい。ようやく670メートル標高点ピークに登り上げた。ひと休みして握り飯を頬張る。2/3は登ったことになる。ゴールデンウィークの最中だというのに尾根には人の気配がまったくない。今日この尾根を登るのは私1人のようだ。 腰を上げてなおも先に進む。相変わらず尾根上の踏跡は明確である。所々に広葉樹の自然林が現れるようになる。若葉が何とも目に優しい。林床に笹が現れだした。2メートルほどあるが、まばらであり、通行の妨げになるほどではない。痩せた岩稜を過ぎ、一峰を越えると、突然、前方上空からにぎやかな人声が聞こえだした。木々の間を透かしてみると、目の前に大きなピークが聳えており、人声はその上から聞こえる。伊豆ヶ岳だ。ついに伊豆ヶ岳の足下に達したのだ。 すぐに辿ってきた尾根は尽き、山頂に突き上げる恐ろしく急峻な平斜面が立ち塞がった。ここは登れない。踏跡は山腹を左に巻きながら斜登し、小さな支尾根に登り上げた。この支尾根も恐ろしく急な傾斜をもって山頂に突き上げている。辿ってきた踏跡は分かれ、薄い踏跡はこの急峻な支尾根を直登している。確りした踏跡はさらに山腹を巻きに掛かる。一瞬考えたが、無理することもなかろう。巻き道を辿ると、程なく子ノ権現から伊豆ヶ岳に続く縦走路に飛びだした。山頂はもはや一足長であった。 登り上げた伊豆ヶ岳山頂は大にぎわいであった。家族連れを含めた数10人の登山者が、思い思いの場所に陣取り、狭い山頂部は足の踏み場もないほどである。人気のないルートを辿って来た身には、環境の変化はあまりにも大きい。隅の方に座り込み、1人寂しく握り飯を頬張る。この頂きは昨年の4月以来の4度目であるが、来るたびに山頂周辺の木々が成長し、視界の妨げを加速している。もはやわずかに、木々の間から、武甲山、武川岳が眺められるだけである。しかし、それらの木々の若葉が何とも素晴らしい。 いよいよ後半の行動に移る。今日の予定は、ここから正丸峠を経て旧正丸峠まで縦走するつもりである。ポピュラーなハイキングコースであり、もはや何の心配もいらない。山頂直下の急斜面を足早に下る。先行パーティを次々と追い抜く。この時刻でも、まだ登ってくるパーティが多い。正丸駅への下山路を右に分けると、ようやく人影は薄くなる。緩やかな下りを駆けるがごとく突き進む。この道は昨年の4月に通ったばかりであり、勝手は知っている。この縦走路は落葉樹林に包まれており、展望はないが気持ちのよい尾根道である。小高山を過ぎ、すぐに車道の乗っ越す正丸峠に下り着いた。伊豆ヶ岳山頂から30分も掛からなかった。峠も行楽客で混雑していた。峠の茶店の前は車で溢れている。 休む気にもなれず、そのまま反対側の山稜に取りつく。実は、奥武蔵の縦走路において、この正丸峠から旧正丸峠に続く稜線だけが未踏破のまま残っている。今日、その宿題を片づけてしまうつもりである。急な石段をしばらく登ると登山道となった。思いのほか急な登りである。登山姿でない何人かが下ってくる。峠まで車でやってきた行楽客が、ピークに登ってみたのだろう。道端にはテーブルやイスが点々とあり、四阿まで立っている。やがて、目の前に丸太で階段整備された見上げるような急斜面が現れた。第一級の登りである。こんな急登は想定外である。ストックを頼りにゆっくりゆっくり登る。この急斜面をスカートに革靴姿の女性が下ってくる。こちらが馬鹿にされたような気になる。登り上げた山頂は無人で、「正丸山」との標示があった。もちろん2万5千図には山名記載はない。西にわずかに視界が開け、木々の間から武甲山、武川岳が見える。座り込んで、最後の握り飯を頬張っていたら、中年の夫婦づれが登ってきた。男が「あれが甲武信ヶ岳だ」と、武甲山を指して女に説明している。 ゆるやかな尾根道を進み、ちょっとした急登を経ると、地図上の766.3メートル三角点ピークに達した。このピークも2万5千図には山名記載はないが、「川越山」との標示がなされていた。緩やかに下ると、道端にマムシソウ群生していた。何とも不気味な草である。わずかに北方に視界が開け、丸山のなだらかな頂が見える。すぐに急降下となった。旧正丸峠に向って一気に斜面が雪崩れ落ちている。そろそろ疲れの覚えた足で慎重に下る。下り着いた旧正丸峠は切り通しのような小さな鞍部である。この峠は2002年の2月以来である。このときは正丸集落から峠道を登ってきた。腰を下ろし一息つく。 虚空蔵峠方面から、3パーティほどやって来たが、いずれも休むことなく正丸集落への道を下っていった。私は反対側、初花集落に向け昔の峠道を下るつもりでいる。正丸峠道は昭和12年に新正丸峠(現在の正丸峠)越えの車道が国道299号線として開削されるまで、秩父盆地と江戸を結ぶ最短のルートとして賑わった。正丸集落側の峠道は今でもハイキングコースとして確り整備されているが、初花集落側はかなり荒れていると聞いている。しかし、峠には「初花・芦ケ久保」を示す確りした道標があり、見た目には確りした峠道が下っている。安心して峠道を下りだす。しかし、しばらく下り、沢に降り立った地点で踏跡は怪しくなる。勘を頼りに踏跡の痕跡を辿る。沢の左岸に到ると再び踏跡ははっきりするが、至る所倒木が行く手を阻む。雪害なのだろう。跨ぎ、潜り、下っていくと道の両側に柵があった痕跡が続く。何の跡なのだろう。やがて細い舗装された林道に下りつくが、相変わらず倒木が頻繁に現れる。 どこかに昔の峠道の跡を示すものがないものかと思っていたら、「追分の道標」との標示があり、大木の根本に原形を留めぬほど崩れた石碑があった。こんなところに「追分」とはどういうことなのだろうと不思議に思ったが、帰ってから調べてみたら、この地点が正丸峠道と山伏峠道との分岐であったとのことである。やがて橋を渡り、初花集落で迂回してきた新正丸峠越えの車道にでた。この道も昭和57年に正丸トンネルが開削された後には国道から県道53号線に格下げされてしまった。今では正丸峠に向う行楽客だけが利用する旧道である。 すぐに正丸トンネル入り口で国道299号線にでた。さすがゴールデンウィーク、国道は車が溢れのろのろ運転である。ここからこの国道をひたすら歩いて芦ケ久保駅に向うことになる。初花集落からちょうど1時間歩き、無事に西武秩父線芦ケ久保駅に辿り着いた。今日も何とよく歩いたことか。
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