比企丘陵 飛脚道からユガテ、顔振峠へ 

34年振りに辿る高麗川左岸稜ハイキングコース 

2015年5月6日


 
福徳寺の阿弥陀堂
桃源郷・ユガテ
                            
東吾野駅(735〜738)→福徳寺(749〜754)→吾那神社分岐(808)→雨乞塚分岐(817)→雨乞塚(821)→雨乞塚分岐(826)→男坂・女坂分岐(829)→橋本山山頂(833〜846)→ユガテ(905〜908)→鋪装林道(917)→エビガ坂(928〜932)→鋪装林道(952)→十二曲(955)→獅子ヶ滝分岐(1016)→一本杉峠分岐(1023)→一本杉峠(1027〜1037)→林道笹郷線(1045)→金比羅神社(1103〜1107)→越上山山頂(1118〜1123)→縦走路(1133)→諏訪神社(1139〜1141)→鋪装林道(1150)→顔振峠(1159〜1228)→登山道入口(1245)→傘杉峠(1302〜1304)→役ノ行者像分岐(1340)→黒山三滝(1346)→黒山バス停(1400〜1408)

 
 今年のゴールデンウィークは珍しく晴天続きである。休日を待ち望んでいた人は大喜びだろうが、私は毎日農園の作物への水やりに追われている。その連休も今日で終わりである。一日ぐらい私もどこかへ出かけたい。山にでも行ってみようか。3月、4月と地図読みを必要とする少々ハードな登山をしたので、今回は道標完備のハイキングコースがよい。

 高麗川左岸稜に行ってみることにした。昨年12月と今年1月、この山稜上の関八州見晴台周辺を歩いたが、その南に続く顔振峠、ユガテ周辺が未踏のまま残っている。いや、正確に言うと、今から34年前の昭和56年の5月、当時8歳の長女と4歳の次女を連れてユガテから顔振峠まで歩いたことがある。しかし、それはあまりにも遠い昔の思い出である。

 北鴻巣発5時23分の上り一番列車に乗る。東の空は既に日の出を迎えており、空は真青に晴れ渡っている。今日一日、素晴らしい晴天が期待できそうである。大宮、川越、東飯能と乗り換え、7時35分、西武秩父線の東吾野駅に着いた。数人のハイカーが降りたが、国道299号線を吾野方面に歩き始めたのは私一人であった。

 先ずは山上の桃源郷・ユガテ集落を目指す。国道を200メートルばかり歩き、「ユガテ方面」との道標に従い、虎秀川沿いの道に入る。休日の早朝、山里はまだ動き始めていない。人影のない道をのんびりと進む。沿うている虎秀川の清流には小魚の影が見える。川沿いの道を5分も歩くと、右手上部に福徳寺を見る。そして、その前面に建つ実に優雅な姿の御堂に思わず目を見張る。この御堂こそ、国の重要文化財に指定されている福徳寺の阿弥陀堂である。鎌倉時代末期の創建といわれている。その屋根の反り具合など何とも言えない趣がある。「雛には稀な」と言うと語弊があるが、実に雅た美しい御堂である。小休止する。

 ユガテへの通常ハイキングコースは虎秀川沿いの道を更に奥に進んでいく。34年前もそのコースを歩いた。しかし、最近、この福徳寺を始点としてユガテまで通じる「飛脚道」と呼ばれる古道が整備復活したと聞いている。今日はこの「古道・飛脚道」を辿ってみるつもりである。幸い、福徳寺の門前に次のように記載された立て札が見られた。

『ハイキングの皆さんへ 地主さんの御厚意により福徳寺裏からユガテまで古道(飛脚道)を復活し整備致しました。五十分ほどです。歩いてみて下さい。自然を大切にしましょう。 虎秀やまめクラブ』

 虎秀やまめクラブに感謝しつつ。道標に従い福徳寺裏手より山中に続く登山道に入る。鬱蒼とした檜林の中のやや急な尾根道である。15分も進むと標示があり、「吾那神社」への道が右に分かれる。「吾那(あがな)神社」とは東吾野駅近くの国道299号線沿いにある神社で、旧虎秀村及び平戸村の鎮守である。更に尾根道を進む。一峰を左から、次の一峰を右から巻き終わると「雨乞塚」と標示された踏跡が左に分かれる。興味本位に行ってみる。踏跡を辿ると5分ほどで小峰に登り上げた。その頂きの薮の中に「雨乞塚」の標示がぽつんと立っているだけである。塚らしきものなど何もない。一体どんな謂れのある場所なのかーーー。登山道に戻る。

 数分進むと、登山道は尾根道と巻き道に分岐した。道標が、右からピークを巻いていく道を「女坂」、ピークを登り上げていく急峻な尾根道を「男坂」と標示している。もちろん「男坂」を選択する。4〜5分、凄まじい急登に耐えると、ぽんとベンチの設置された山頂に飛びだした。321メートルの橋本山である。西側に大きく視界が開け、新緑に染まった奥武蔵の山々が広がっている。その真ん中にひときわ高く天を衝くのは盟主・武甲山である。山々を眺めながら握り飯を頬張る。ここまで朝から何も食べずに登ってきた。山頂は人の気配もせず静かである。

 ピークを下ると先程分かれた「女坂」と合流した。小さなピークを二つ越すと、右から半ば廃棄された地道の細い林道が登ってきて、登山道と合流した。更に進むと、右に「きのこ園」の看板があり、薮の中に椎茸の榾木を見る。つづいて、左から福徳寺で分かれた元々のユガテへの登山道が合流した。ちょうど下から4〜5人のパーティ登ってきた。

 すぐに今日の第一目標地・ユガテに到着した。山上の小平地に開かれた桃源郷と呼ばれる小集落である。ただし、集落と言っても人家は現在わずか二軒である。緩やかな尾根を背にし、前面に畑地を抱いて、大きな確りした民家が並び立っている。開けた平地にはあちこちツツジなどの花が咲き誇りまさに桃源郷の趣がある。あちこちから鴬の鳴き声も聞こえる。一角にベンチとテーブルが設置され、トイレも建てられ、ハイカーへ休憩場所を提供している。数人のハイカーが休んでいた。「ユガテ」という集落名は語源不明の難解な地名である。漢字表記もない。おそらく、古代朝鮮語に由来する地名と考えられる。この辺りは旧高麗郡に属し、8世紀に朝鮮からの渡来人によって開かれた地である。福徳寺の建つ虎秀集落も同様の難解地名である。

 一休み後、次の目的地・越上山を目指して出発する。二軒の民家の間を抜け、裏の尾根に登ると、車道に出会う。この山上の小集落にも今では車道が通じている。道標に導かれてすぐに登山道に入る。再び人の気配は消えた。鬱蒼とした檜林の中を10分も進むと、舗装された林道・奥武蔵グリーンラインを横切る。そのまま尾根状の地形を登って行くと分岐にでた。「エビガ坂」との標示があり、鎌北湖への道が右に分かれる。一休みし、ルートを確認している間に、男女二人連れと単独行の男が追い抜いていった。

 顔振峠を示す道標に導かれて左折し、相変わらず展望の利かない檜の植林の中を行く。地図上の450メートル標高点ピークを越えると、ザイルの張られた急降下となった。短い距離だが幼児連れには大変だろう。すぐに再び奥武蔵グリーンラインに降り立った。まったくもぉ、この山域は稜線林道だらけである。林道を右に2〜3分進むと、「十二曲」の道標があり、登山道が右に分かれる。「十二曲」とはどこを指す地名なのだろう。木の根がやたらに這い廻っている登山道を登る。尾根道を進み、送電線鉄塔の下を潜ると、一瞬左側に展望が得られた。打ち重なる奥武蔵の山々の背後に真っ白な富士山が見える。

 獅子ヶ滝分岐を過ぎ、檜林の中を更に進むと登山道はまたもや分岐した。道標が右へ分岐する道を「一本杉峠、鼻曲山、桂木観音」、左に進む道を「諏訪神社、顔振峠」と示している。どちらに進むべきか迷う。私は、諏訪神社、顔振峠を目指して縦走路を進んでいる。一本杉峠はその縦走路の途中にあると認識している。しかるに、目の前の道標によれば一本杉峠へは別方向が指示されている。改めて地図を確認してみるがよく分からない。何はともあれ、まずは一本杉峠に行ってみよう。右の道を進む。緩やかな地形の道をほんの2〜3分ほど進むと、何とそこが一本杉峠であった。大きな一本の杉の木が立ち、道はそこから鼻曲山、桂木観音方面に向け急激に下っている。ようするに、一本杉峠はユガテから諏訪神社、顔振峠に向う縦走路上ではなく、縦走路から鼻曲山方面に向うルートに少し入り込んだ場所にあったのだ。ようやく納得し、座り込んで握り飯を頬張る。辺りに人の気配はまったくない。

 縦走路に戻り、少し進むと登山道は林道笹郷線を横切る。次の目標は越上山(おがみやま)である。縦走路はこのピークを左から巻いているので、右に分かれる踏跡を注意しながら進む。反対側から幼稚園児と小学校低学年生と思われる子供を連れた夫婦連れがやって来た。34年前の自分を思い起こし、思わず頬が緩む。林道から15分も進むと突然登山道の左側に鳥居が現れた。その奥に社がある気配である。地図にも案内書にも載っていない施設である。興味を覚え、鳥居を潜って、奥へ少々登ってみると、金比羅大権現を祀った社があった。

 一休みしながら、そろそろ越上山分岐のはずだと地図を確認すると、何と! 分岐は既に通り越してしまっている気配である。愕然とする。それにしても分岐には気がつかなかったがーーー。狐に騙された気持ちである。いずれにせよ越上山をパスするわけには行かない。慌てて縦走路を引き返し始める。所が、わずか10メートルほど戻ると、越上山に向う分岐があった。何で気付かなかったのか不思議である。山頂に向う。

 道型ははっきりしているが、思いのほか厳しい登りである。凄まじい急登を経ると今度は幾つもの露石が現れる。山頂直下の大きな露石を何とか乗り越え、ようやく山頂に辿り着いた。山頂は樹木に囲まれ展望は得られない。山頂標示と、566.32メートルの三等三角点「越上」が出迎えてくれた。もちろん無人である。ほっとして腰を下ろす。それにしても、34年前に当時4歳の幼児が本当にこの山に登ったのだろうか。今登ってきた登山道の険しさを考えるとちょっと信じがたい。当時の記憶を思い起こしても、これほどの難路を登った記憶はない。帰宅後、改めて34年前の写真を確認してみると、山頂の三等三角点の上に得意げに立つ幼児の姿が写っていた。

 縦走路に戻り、ほんの数分進むと、駐車場が現れ、神社の境内へと引き込まれた。稜線近い山中に鎮座する阿寺集落の鎮守・諏訪神社である。この神社は毎年10月に奉納される獅子舞で有名である。立派な社殿に今日の無事を祈る。

 境内を出て、今日最後の目的地・顔振峠に向う。樹林の中の平坦な道を10分も歩くとまたもや奥武蔵グリーンラインに下り立った。顔振峠まではこり鋪装された立派な林道を歩くことになる。何とも味気ない。車の通行はそれほど多くはないが、サイクリングの自転車とトレイルランのランナーが時折駆け抜ける。すれ違った中年のハイカーが「諏訪神社へはこの道でよいんでしょうか」と尋ねる。このハイキングコースは道標は多数あるものの林道と頻繁に交差し、ルートは若干わかりにくい。

 林道を10分も歩くと、辺りが何となく騒がしくなり、今日の最終目的地・顔振峠に到着した。好展望と伝説に彩られた奥武蔵の名勝である。ハイカー、サイクラー、ドライバーで賑わっていた。2軒の茶屋(平九郎茶屋と顔振茶屋)が稜線直下を走る奥武蔵グリーンラインを挟んで向いあっている。普通、峠では峠道が主役であり主軸である。しかし、現在の顔振峠においては、どうも、稜線に沿って走るこの鋪装道路が峠の主軸、主役となっているようにみえる。峠の標示もこの林道脇に建てられている。林道から数メートル上部の峠道の稜線乗越地点、すなわち本来の峠の頂点に何かないものかと行ってみる。樹林の中に薮が広がっているだけで、峠を示す標示は何もなかった。ただ数個の小さな石塔が薮の中に並んでいた。茶屋が並び、人の群れ、「顔振峠」と呼ばれるこの辺り一帯は、もはや本来の峠的雰囲気は薄く、むしろ観光道路端の休み処と言う雰囲気である。その証拠に、茶屋の前で、一人の若い女性に「峠はどこなんですか」と意外とも思える質問を受けた。「この辺りですよ」と答えたが、彼女は何やら納得できない表情であった。

 もちろん、この林道・奥武蔵グリーンラインが開鑿される以前、すなわち昭和40年代半ば以前においては峠道が主役、主軸であった。当時ただ一軒あった平九郎茶屋も峠道に面していたはずである。この茶屋は江戸時代末期には既に存在していた。もっとも当時の屋号は「峠」であった。現在の屋号「平九郎」と変わるには痛ましい歴史上の事件があった。峠に掲げられた石碑には次のように刻まれている。

 『明治維新の際幕軍の勇士(子爵渋沢栄一の義弟)渋沢平九郎は飯能の戦いに敗れ単身顔振峠に落ち来たり、峠の茶屋にて草鞋をもとめその代価として刀を預け店主加藤たきに秩父路の安全なることを聞くも、遠く故郷大里の空を見て望郷の念止みがたくすすめるお茶ものみ残し黒山に下りて官軍に遭遇し、
 【惜しまるる時散りてこそ世の中は 人も人なり花も花なれ】
と世辞を残して自刃若冠二十二才の若桜おしくもこの峠の麓に散りました』

 昨年12月、関八州見晴台から傘杉峠を経由して黒山集落に下った際に、平九郎の自刃の地を訪れた。今年1月には黒山集落から四寸道を辿った際には平九郎の遺体を葬ったという全洞院を訪れた。「渋沢平九郎」何やら心に残る人物である。

 時刻はちょうど12時、平九郎茶屋でウドンを一杯食べ、次なる行動を考えた。ここから南に下れば吾野、北へ下れば黒山、稜線を更に辿れば傘杉峠から関八州見晴台に行ける。大分迷ったが、傘杉峠まで行き、黒山集落に下ることにする。稜線に沿って奥武蔵グリーンラインを歩き始める。当面、この林道が縦走路となる。林道にはもはやハイカーの姿はなく、出会うのはトレイルランナーとサイクリングの自転車ばかりである。長い長い一直線の登りが続く。急ではないが、意外に疲れる。

 顔振峠から1.1キロの地点でようやく登山道が右に分かれた。グイグイ登って地図上の622メートル標高点ピークを越える。ピーク山頂にはベンチが設置さけていた。幼児二人と犬を連れた家族連れが登ってきた。一家総出のハイキング、何ともほほ笑ましい。下ると再び林道に下り立つ。そして、そこが傘杉峠であった。顔振峠から約30分の行程である。

 この峠は昨年の12月以来5ヶ月ぶり、二度目である。休むこともなく。そのまま黒山への下山道に踏み込む。この道も勝手知った道である。この時刻でもまだ登ってくるパーティがある。峠から約40分で黒山三滝に下り着き、更に車道を15分歩いて、黒山のバス停に着いた。越生行きのバスはわずか8分待ちとグッドタイミングであったのだが、バス停には既に30人ほどの長蛇の行列ができている。皆ハイカーである。一体どこからこれほどのハイカーが湧きだしたのだろう。
 

登りついた頂  
     橋本山    321    メートル
     越上山    566.3 メートル
    
                                  

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