火剣山と小夜の中山

旧東海道を金谷宿から掛川宿まで歩く

1996年9月16日


金谷坂の石畳
 
金谷駅(1000)→金谷坂(1015)→諏訪原城址(1030〜1050)→菊川の里(1105)→小夜の中山峠(1135)→火剣山(1205〜1210)→小夜の中山峠(1225)→事任八幡神社(1320〜1330)→掛川駅(1520)

 
 金谷町と掛川市との間に広がる丘陵地帯は古来東海道の難所の一つである。金谷宿から日坂宿に行くにはこの丘陵を「小夜の中山」で越えねばならなかった。小夜の中山は平安時代以降 歌枕となって多くの歌に詠まれた。特に
  「年たけて また越ゆべしとおもいきや いのちなりけり さやの中山」
と歌った西行法師の歌は名高い。牧ノ原台地を含むこの丘陵地帯は明治以降開墾され、今では日本一のお茶畑が広がっている。この丘陵の最高峰が火剣山(ひつるぎやま)である。標高わずか283メ−トルで、わざわざ登りに行く程の山ではないが、金谷から小夜の中山を越えて掛川に通じる旧東海道は、昔の雰囲気を今に色濃く残しており、是非一度歩いてみたい。街道散策のついでに火剣山に登れば一石二鳥と言うものである。

 10時、金谷駅を出発する。カメラだけを持った軽装である。空は晴れ渡り、夏を思わせる陽気である。駅前を50メ−トルほど下ると金谷一里塚がある。ここから旧東海道をたどることになる。急坂を登って県道を横切ると、石畳の金谷坂である。この石畳は平成の普請によって復活した。町民一人一人が石を運んでの普請であったと聞く。金谷町のシンボルであり、また誇りでもある。見た目には実にきれいであるが、歩いてみるといたって歩きにくい。ハイカーの姿もちらほら見受けられる。石畳の急坂を上り詰め、牧ノ原台地に出る。周りは全て茶畑、日本一の茶の産地である。ここに諏訪原城址がある。武田勝頼が馬場美濃守に命じて築城させた城である。国の史跡に指定されており、堀跡など当時の様子がよく保存されている。

 再び石畳の急坂を下ると「菊川の里」に入る。菊川の里は中世東海道の宿場として栄えた。源頼朝が泊まった記録もある。しかし、江戸時代には東海道五三次の宿場から外され、金谷宿と日坂宿の間の「間の宿」としてわずかに余命を保った。思いのほか小さな集落で、昔の街並も残っていない。ただし、集落内の街道の曲がり具合はいかにも旧東海道の雰囲気が感じられる。街道に人影はない。集落を抜けるといよいよ小夜の中山への登りに掛かる。箱根と並び称された東海道の難所である。舗装された道であるが通る車もない。左手には茶畑に囲まれた火剣山が見える。坂道をグイグイ登って行く。高度差約150メートルであり、登山を考えれば大したことはない。

 小夜の中山峠に達した。ここに久延寺がある。境内には有名な「夜泣石」と家康お手植えの五葉松がある。しかし、松は枯れていた。寺の隣に茶店がある。ただ一軒、江戸時代から当時のたたずまいのままで続く扇屋である。名物の子生長飴(こそだてあめ)を売っている。一人で店番をしている川島ちとせさんは何と!御歳百歳。耳も確りしており元気なものである。店前の縁台に座り、おばぁさんと話をしていると、はるか江戸時代に戻ったような錯覚に陥る。茶店の道を挟んだ反対側は中山公園として整備されており、かの有名な西行法師の歌碑が建っている。西行は69歳のとき東大寺再建の勧進のために再びこの難所を越えた。そのとき詠んだ歌である。

 街道を外れ、今日の目的の一つ、火剣山に向かう。火剣山は中山峠から尾根続きとなっている。公園を横切り、茶畑の中を鞍部に向かって緩く下る。見渡す限り、台地が大きくうねり、どこまでも茶畑が続いている。はるか彼方に、遠州灘が見えるような見えないような、霞みの中である。谷は意外と深い。今は陽を浴びて明るいこの台地も、江戸時代までは灌木の茂る荒れ地で、盗賊の出没する危険地帯であったのだ。鞍部まで下り、雑木の中の遊歩道のような小道を登る。282.6メ−トル三角点峰を越え、次のピ−クに緩く登るとそこが火剣山山頂であった。樹林で展望もなく、火剣権現の祠だけが鎮座している。もちろん人影もなく、セミの声だけが聞こえる。

 中山峠に戻り、日坂宿を目指して尾根道を緩やかに下っていく。右手には山腹に大きな「茶」の字を浮き上がらせた粟ヶ岳が見える。周りはどこまでも茶畑、人影もない明るい道である。小夜鹿一里塚、鎧塚、夜泣石跡などの旧跡が点々と現われる。昼も過ぎ腹も減った。日坂宿まで行けば食堂ぐらいあるだろう。沓掛の小さな集落から道は急坂の九十九折となって一気に日坂の宿に下っていく。道端には彼岸花が鮮やかな朱色の花を咲かせている。日坂バイパスの工事現場と車の往来の激しい国道一号線を横切ると日坂宿に入った。金谷宿と掛川宿の間にある江戸から二五番目の宿場である。集落の中を緩く曲がりながら続く街道は、いかにも旧東海道の雰囲気だが、昔の家並みは意外と残っていない。わずかに川板屋だけが当時の旅籠の雰囲気を伝えている。

 日坂の宿は思った以上に小さな集落であった。食堂は一軒もない。東海道五三次の宿場のうちでこれほど寂れてしまった街もなかろう。掛川からバスがここまで通じているのだが、2時間も待ち時間がある。空腹のまま掛川まで歩くしかない。やけっぱちである。集落を抜けた国道端に事任八幡(ことのままはちまん)神社がある。なんでも願い事を聞いてくれるというありがたい神社で、枕の草子にも登場する古社である。

 ここから掛川まではほぼ国道1号線を歩くことになる。それでも時々国道から外れ、旧道が現われる。暑い日差しの中を缶ジュースを飲みながらひたすら歩く。成滝集落から国道を外れ掛川市内へ向かう。ようやくたどり着いた掛川の街はお城を中心とした画期的な街造りが進められている。平成6年に全国初の木造建築の天守閣が復元され、これにともない街並も極めて復古調に変えられつつある。蔵造りの銀行や商店が立ち並び実に楽しい。これほど街づくりのコンセプトを明確にした都市も珍しい。

 金谷宿から日坂宿までの約6.3キロは旧東海道が昔のまま残っており、ハイキングコースとしてよく整備されている。歩いてみる価値の充分ある道であった。

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