富士山と宝永山

 すさまじい宝永噴火の跡を見る

1996年8月31日


御殿場口6合目付近より望む宝永山
 
富士宮口新5合目(650)→7合目(805〜815)→8合目(840〜850)→9合目(910)→富士宮口山頂(1005)→剣ヶ峰(1015〜1100)→お鉢巡り→御殿場口山頂(1155)→8合目(1225)→7合目(1305)→宝永山分岐(1315〜1325)→宝永山(1335〜1340)→新6合目(1420)→富士宮口新5合目(1430)

 
 宝永山に行ってみようと思った。宝永4年(西暦1707年)の富士山大噴火によって富士山中腹に盛り上がった山である。優美な円錐形を誇る富士山の唯一アクセントとなっている。その三つの噴火口跡とともに、大噴火のすさまじさを今に示しており、一見の価値はありそうである。しかし、宝永山だけでは物足りない。どうせなら富士山頂まで登って帰路に宝永山に寄ってみよう。

 5時過ぎ、家を出る。空は厚い雲に覆われ、天気さえよければよく見えるはずの富士山は姿を見せない。予報も曇り時々晴れ一時雨とはっきりしない。この夏は秋の訪れが早く、8月下旬より秋雨前線が掛かって毎日鬱陶しい天気が続いている。富士山に登るのはこれで5度目である。前回はちょうど2年前に登った。通る車とてない富士山スカイラインをどんどん登っていくと、3合目過ぎで雲の上にでた。頭上に朝日を浴びた富士山が初めてその姿を現わす。6時40分、富士宮口新5合目着。2年前は駐車場が超満杯で、1キロ以上も下方の道路端に駐車せざるを得なかったが、今年は空いていた。

 6時50分登山を開始する。上空は真っ青に澄み渡り、雲一つない。山頂の測候所ドームが手の届きそうな高さで朝日に輝いている。ただし、下界は全て雲の下で、展望はいっさいない。この地点が2400メートル、山頂まで1300メートル強の登りである。新6合目で宝永山への道を分けると森林限界となる。2年前に比べると登山者の数ははるかに少ないが、それでも切れ目ない列が山頂を目指す。今日は下山者がほとんどいないので楽である。この富士宮登山道は登り下りが同じ道なので、2年前は登り優先のルールも知らない登山者のために苛々した。今日はいたって体調がいい。7合目まで一気に登る。それほど飛ばしているつもりはないのだが、追い抜く一方である。さらに山頂を目指す。2年前はもう少しきつかった記憶があるのだが。小学校1、2年生の子供が父親と一生懸命登っている。なんとも微笑ましい。私も10年前、当時小学校1年生の長男をつれて登ったことを思いだす。8合目からアベックが私の後にぴったりついて懸命に後を追うが、9合目で力尽きる。シーズンオフのこの時期に登るのはある程度経験者とみえて富士山特有の高山病でぶっ倒れているものはいない。9合5勺を過ぎいよいよ胸突八丁の急登に掛かる。前回はこの辺りで苦しくなったが、今日はどうということはない。あっという間に登り切ると、浅間大社奥の宮の鎮座する山頂の一角に達した。そのまま通過して、剣ヶ峰山頂を目指す。

 10時5分、ついに日本最高地点到着。休憩約30分を含めても3時間15分で登り切った。標準登山時間が4〜6時間といわれるから相当早い。途中一人も抜かれなかった。つい2週間前、大無間山に登った際には、いささか歳を感じたが自信回復である。残念ながら下界は全て雲海の中であるが、上空は快晴である。Tシャツ一枚で登ってきたが、それでも直射日光で暑いぐらいである。さぁ、のんびりと昼寝を楽しもう。この剣ヶ峰山頂まで登ってくる者はそれほど多くはない。多くは各登山口山頂で満足して下山するようである。昼寝をしていたら、50歳ぐらいの髭もじゃの男性を先頭に10人ほどのパーティが登ってきた。横断幕を広げて記念写真を撮るは、シャンペンを抜いて乾杯をするは、うるさくてしかたがない。たかが富士山ぐらい登ってなんと大袈裟な。

 11時、お鉢巡りに出発する。前回は外院コースを回ったので、今回は内院コース回りとする。お鉢巡りをしているものはほんのわずかである。試しに少々ジョギングをしてみる。息はまったく苦しくないが、気圧が低いせいか、少々ふらふらする感じがする。火口底にはまだ残雪が見られる。富士吉田口山頂は相変わらずにぎやかである。銀明水のある御殿場口山頂に達する。いよいよ下山である。砂礫の道をジグザグを切ってどんどん下る。この登山道は何と人影が薄いことか。富士宮登山道は切れ目なく登山者の列が続いていたが。はるか下方に一組、はるか上方に一組見えるだけである。御殿場道は登山口の高度が低いので利用者は少ないと聞いていたが。しかし、この登山道はいたって下りやすい。富士宮登山道は岩盤の上に薄く砂が乗っていて滑りやすくて閉口したが、ここは砂礫が深く下るのには楽である。8合目の山小屋は廃屋となっていた。赤岩8合目の小屋を過ぎると下方にスプーンカットしたような地形が広がり、その向こうに宝永山が盛り上がっている。すっかり崩壊した山小屋の跡を過ぎ、7合目から砂走りとなった。一歩3メ−トル、なんとも早い。すぐに目指す富士宮口分岐に達した。雲との境目まで下ったようで、下からガスが押し寄せてくる。

 右手の小尾根に緩やかに登ると目の前に宝永山の大噴火口が現われた。すさまじい光景だ。今から300年近く前の宝永4年12月、富士山はこの地点において大噴火した。砂走村において火山礫が3メ−トル、江戸でも火山灰が1センチ積もったといわれる。この噴火は宝永大地震の49日後に起こった。その後富士山は平穏な日々を過ごしているが、近々起こるといわれる東海大地震をきっかけに再び噴火しないとも限らない。富士山は未だ生きた火山である。尾根上に標示があり、富士宮登山道へは火口底に向かって下っていくのだが、尾根上を宝永山に向かって踏み跡が続いている。ほぼ水平な尾根道をわずかに進むと目指す宝永山山頂に達した。山頂標示はないが、何本かの真新しい杭が打たれ、分解された展望盤が置かれている。これから山頂整備をするのだろうか。あいにくガスが押し寄せ、一切の視界を奪う。

 分岐まで戻り、富士宮登山道へ向け急坂を下る。礫が厚く積もったガラガラの道である。下るのは到って楽であるが、登るとなると足場が固まらず大変である。下り着いたところは第一火口と第二火口の間のわずかな高まりで、ベンチやテーブルがあり、何組かの家族連が遊んでいた。第二火口はガスの切れ間にわずかに覗くことができた。少し登って巻道を右にとると、富士宮口新6合目に出た。観光客の多い道を10分も下ると新5合目の登山口に下り着いた。見上げると山頂のドームが午後の陽に輝いていた。

 家に帰り、テレビのニュースを見てびっくりした。何と山頂で会ったオッサンは日本人で初めてK2にも登った世界的に有名な登山家・重広恒夫氏であるというのだ。百名山踏破最短記録に挑み、本日123日目で最後の山・富士山に登ったという。どうりで大袈裟なセレモニーをしていたはずである。それにしても、百名山早登りなどに挑むとは大登山家とも思えないが。

        
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