光岳から池口岳へ

深南部の美しき双耳峰を目指し

1995年8月12日〜15日

 


光岳山頂より深南部の山々を望む    
 
12日 飯田駅(1404〜1450)→便ヶ島小屋(1700)
13日 便ヶ島小屋(525)→易老渡(545〜600)→面平(805〜830)→易老岳(1200〜1205)→三吉平(1345)→光小屋テント場(1520)
14日 光小屋テント場(530)→光岳(550〜555)→最低鞍部(640〜700)→2381m峰(740〜745)→2430m峰(820)→加加森山(850〜920)→鹿ノ平(1035〜1050)→加加森山分岐(1215〜1220)→池口岳北峰(1235〜1250)→加加森山分岐(1305〜1310)→ザラ薙平(1505)
15日 ザラ薙平(600)→黒薙(730〜745)→面切平(835〜850)→山の神(900)→遠山林道(925)→池口集落(940〜950)→大島集落(1030〜1035)→和田集落(1105〜1110)→平岡駅(1135〜1153)
   
 
 池口岳に恋をした。この山と初めて出会ったのは、3年前の12月、寸又峡温泉奥の朝日岳に登ったときであった。この美しい双耳峰は一瞬にして私の心を捉えた。以来、大無間山や黒法師岳などから何度もこの山を眺めるうちに、私の恋心はさらに募った。しかし、この山は南アルプス深南部の雄峰、光岳のさらに奥に位置する。恋をしたからといってもそう簡単に近づける山ではない。この1年、山への恋を叶えるべく準備を進めてきた。ルートを調ベ、登山記録を求め、地図を眺めてイメージトレーニングを積み。

 調べてみると、この山は麓の池口集落からはそれなりの踏み跡もあり、山中1泊で往復できるようである。77歳の今西錦司氏が18時間弱掛けて1日で往復したとの記録も見られる。麓からピストンで山頂を踏むだけならば何とかなりそうである。しかし、地図を眺めているうちに、光岳と結んでの縦走という大きな夢が膨らんできた。いつしかこのルートが私の心をすっかり魅惑してしまった。ただし、この稜線には登山道はない。縦走となると登山グレードは格段にアッブする。しかも、途中には大倒木帯と呼ばれる大きな難所があり、縦走記録を見ても相当な困難が予想される。果たして単独で突破できるであろうか。私ももう52歳、今年駄目なら来年できる保証はない。夢と現実の葛藤が心の中で繰り返される。

 一方、光岳もぜひもう一度訪れてみたい。この山の頂には昭和50年の夏、Y君と寸又川側から信濃俣を越えて到達した。途中、水無しのピバークを余儀なくされた苦しい登山であった。当時はハイ松の世界最南限の山といわれ、南アルプスで最も奥深いロマンに満ちた山であった。訪れた山頂には今でも心に残る二つの落書きがあった。「7年目の夢が叶いました。私は今憧れの山頂にいます」「憧れの山頂に来られました。山を降りたら私はお嫁に行きます」。

 この奥深かった光岳も、近年、遠山川奥に便ケ島小屋が開設されたことにより、多くの登山者を迎えるようになった。問い合わせた便ケ島小屋からの便りには、「光岳、登ってみれぱただの山」という信州大WVの落書きがなされているという(去年の夏、上河内岳であった連中に違いない)。ハイ松の南限も今では丸盆岳に譲っている。それでもこの山は、私が青春時代に思いを込めて登った、思いで深い山である。

12日  ついに光岳から池口岳への夢の縦走にチャレンジする時が来た。道なき稜線の縦走に一抹の不安はあるが、薮山でルートを臭ぎ出す私の鍛えられた臭覚を持ってすれぱ何とかなるであろう。畑薙第一ダムからの入山が道路崩壊で不可能のため、遠山川流域から入山することにする。飯田駅からは便ケ島小屋のリムジンが利用できる。

 静岡発8時33分の下り列車に乗り込む。浜松、豊橋で乗り換えて、飯田着14時04分。同じ静岡県の山に登るのになんと遠いことか。今年は7月23日の梅雨明けから記録的な猛暑が続いている。予報はこの1週間も猛暑が継続することを告げている。飯田駅を出発した10人乗りのリムジンバスは、遠山川の奥へと進む。昔は遠山川流域から入山するのは大変であった。本谷口のバス停から林鉄軌道跡を延々20数キロ歩いて登山口の西沢渡まで行ったものである。私も昭和49年と54年にY君とひいひいいいながらこの林鉄軌道跡を歩いた。今はこうして車で奥へ入れる。窓の外に昔の記憶を探るが、大きな砂防ダムなどもできており、昔日の面影は見出せなかった。

 17時、2時間走って便ケ島小屋着。お盆の連休とあって小屋は大混雑。小屋主の林さんは天手古舞であった。指示に従い伐採基地跡の広場にテントを張る。テント場は単独行の若者と二人だけであった。タ方から意外にも雨が降りだした。

13日  今日の行程は光小屋までと長い。3時に起きたが、雨がまだ激しく降っている。「初日から停滞か」。出鼻を挫かれたような嫌な気分になる。それでも夜明けとともに雨も小降りとなったので出発を決意。5時半、小雨の中を出発する。林道を30分歩いて易老渡まで戻る。易老渡には20台ほどの車といくつかのテントが張られ、多くのパーティが出発の準備をしていた。鉄橋を渡ったところでひと休みしていたら、大音響とともに林道に数個の落石があった。登山者の群れから数メートル離れていたので披害はなかったようだが、危ないものである。

 6時、いよいよ登山を開始する。易老岳まで約1500メートルの直登である。何とか12時までには登り切りたい。いつしか雨も止んだ。30人もの大パーティが前後する。狭い登山道に一列に休息するので抜きつ抜かれつするのが大変である。他にも10人前後のパーティがいくつか前後する。いずれも中年の男女パーティであり、若者の姿は少ない。私には大パーティを組んで山に登る気持ちがさっぱり理解できない。特に、光岳のようなロマンに満ちた山は2〜3人か単独で静かに登るのが相応しいと思うのだが。どの登山者の肩にも大きなザックが食い込んでおり、さすが南アルブス南部の感が強い。50歳を過ぎたと思えるおばちゃんが体よりも大きいと思えるザックを背負い顔を歪めながら登っていく姿は悲壮感さえ感じる。

 どこまでも樹林の中の一本調子の急登が続く。しかし、さすが光岳へのメインルートだけあって登山道はしっかりしている。最初は前後していたいくつかのパーティもピッチの違いが出て次第に間隔が離れていく。体調がそれほどいいとも思えないが、覚悟の急登ゆえ、ゆっくりながらも確実に高度を上げる。重荷を背負っての樹林の中の急登、この苦しさが南アルブス南部なのだ。耐える以外にない。木の間越しに見上げる空は雲に覆われ、晴れる気配はない。8時、傾斜が緩み、大木の欝蒼と茂る面平に到着。稜線まで残す高度差はあと800メートルである。

 今までにもまして急登が続く。ここまで前後していた幾つかのパーティが脱落していく。アベックパーティは女性が完全にダウン、今日中に光小屋まで行けるのだろうか。私はまだ太丈夫だ。今回は光岳から池口岳までの縦走が目的、いわば光岳まではアプローチだ。こんなところでバテてはたまらない。ようやく2254.1メートル三角点ピークに達した。易老岳まであと100メートルの高度差だ。いったん下り、痩せ尾根を経て最後の急登に耐える。ちょうど12時、ついに易老岳山頂に達した。ついに急登を登り切ったのだ。

 樹林に囲まれ、何の変哲もない平凡なこの山頂も、私にとっては思いで深いところである。昭和50年の夏、Y君とこの易老岳山頂にツェルトを張った。縦走路に達したことにより、登山者の数が急に多くなる。小休止の後、いよいよ光岳に向け縦走を開始する。ここから光小屋までまだ3時間は掛かる。20年前の記憶を思い出しながら稜線を辿る。稜線の西側を巻気味に大きく下った後、三吉平に向け小さな上下を繰り返す。樹林の中で、どこまで行っても展望はない。登山道は20年前に比べると格段に整備されている。

 小休止中にズポンの据をめくってびっくりした。靴下が鮮血で真っ赤である。血糊がペットリつき、小さな傷口からはまだ血が吹き出している。痛くも痒くもないのでまったく気が付かなかったが、山蛭の仕業である。蛭の姿はすでにないが、蛭に吸われた傷はなかなか血が止まらないのが特徴である。一般登山道なので山蛭に対しまったく無警戒であった。手拭いできつく縛って出発する。

 三吉平を過ぎると、見覚えのある沢状のだらだらした嫌な登りに入る。さすがにここまで来ると疲れを覚えるが、ここを登り切れば静高平、もう少しの辛抱である。樹林が切れて静高平に達した。いつしかガスが広がり、草原を白く染める。本来、お花畑のきれいなところなのだが、意外に花が少ない。トリカブトの紫の花もまだ蕾である。ハクサンフウロのピンクの花がガスに揺れている。静高平の水場は涸れていた。易老渡から抜きつ抜かれつして顔馴染みとなった中年の男女8人パーティが一緒に行きましょうというので、センジヶ原をのんびりと進む。いい加滅なパーティで、明日の行動も未定という。

 小屋の手前で小屋主の原田さんの出迎えを受け、15時20分、ついに光小屋のテント場に到着した。テント場は次々に到着する登山者を迎え、すぐに20張りほどのテントで満杯となった。原田さんはすばらしい人だ。次々とテント場に到着する登山者に適切な指示を与えながら、明日の行動の相談にのっていく。普通、小屋番は料金徴収の時以外テント場には現われないものだが。小屋の水場は、下り7分、登り15分と意外に遠い。しかし、千切れるほどの冷たい水が豊富に湧き出していた。

 タ食を済ましてもまだ明るいので、イザルガ岳に行ってみることにした。センジヶ原を横切り、ハイ松の中を緩やかに登っていくと、岩屑を敷き占めた山頂に達した。ガスが渦巻き、何も見えない。しかし私にとってはこの頂も20年ぶりである。6時半、テントに戻り、再び水場を往復して明日の縦走に備える。隣のいい加滅な8人パーティが酒盛りを始めて、8時半を過ぎてもまだ騒いでいる。怒鳴り付けたらようやく静かになった。外は雨が降りだしている。いよいよ明日は、池口岳である。気持ちは高ぶり、寝ようとしても目が冴える。真夜中にテントの外を覗くと、いつしか雨は止み、満月に近い月が光々と照っている。明日は晴天だろう。


 

14日

 いよいよ池口岳に向かう日が来た。不安と期待が入り混じったこのぞくぞくする気持ちを味わうのは久しぶりである。テント場の近くの高みに登ってみると、兎岳、聖岳、上河内岳が、朝の弱々しい光に輝き出している。目を90度右に転じれば、顔を出したばかりの太陽の脇に富士山が霞んでいる。ちょうど同じ構図のすぱらしい写真を高須さんから頂いた。昨年の2月、ご夫婦で光岳に登られたとき撮ったものだ。

 早朝から原田さんがテント場に現われ、相談にのってくれている。私も念のため池口岳へのルートを訪ねる。「二万五千図とコンパスは持っていますね」。単独でこの難ルートに挑むという中年の登山者に一瞬原田さんの目が光った。「加加森山までは踏み跡があり間題ありません。大倒木帯は踏み跡を探さず、コンパスで方向を定めて遮二無二突破してください。そこを抜ければ尾根筋が現われます。テープもありますが当てにしないでください。池口岳まで行けば明確な踏み跡があります。加加森山まで標準時間は3時間。加加森山から池口岳までは加加森山まで掛かった時間ャvラス1時間を見てください。池口集落から40分でバス停です」。至って短く的確なアドバイスだ。「この説明で分からないようではこのルートは無理だよ」と言外に言っている。

 隣のいい加減かつ迷惑パーティがまだ今日の予定を決めかねている。「茶臼まで行って畑薙に下ろうよ」「だけどバスは来ていないと小屋の人が言っていたわ」「便ケ島に戻ろうか」「それじゃつまらない」「隣の人と一緒に池口岳とか言うところに行ったら」「池口岳ってどこにあるんだ」。  早々に逃げ出したほうがよさそうである。

 4リーターの水が加わったザックはずしりと重い。原田さんに「池口岳の水場はわかるか」といわれたが、「わかりにくそうなのでここから背負っていく」と答えてある。20分で光岳山頂に達した。20年前、青春の情熱を掛けて挑んだ山頂だ。深田久弥氏はその名著「日本百名山」の中で、光岳の項の最後に「その頂上に再び立つ機会の私に恵まれることがあるだろうか」と書いている。氏は二度とこの頂を踏むことはできなかったが、私はこうして20年の歳月を経て再びこの頂を踏むことができた。幸せなことである。それにしても、深田久弥氏はよくぞこの光岳を日本百名山に選んだものである。その慧眼にあらためて敬服する。この山は展望にも恵まれず、山容だって大したことはない。しかし、この山は紛れもない名山である。なぜ名山かは登ったものだけが知る。

 山頂からちょっと先の岩場に移ると南側に大展望が開け、目の前に南アルプス深南部の山々が余すところなくその姿をさらしている。足元からクジラの背中のような波打つ太い稜線が朝日に揮きながら緩やかに加加森山を経て池口岳の双耳峰へ続いている。これから辿る稜線だ。その先には、鶏冠山、中ノ尾根山、合地山、黒沢山、不動岳と未知なる深南部核心部の山々が連なる。左手奥には大無間山が霞み、それに重なって大根沢山の平頂が見える。その右手には朝日岳、前黒法師岳も霞んでいる。まさに深南部の山々が全部見えるではないか。どの山も何と魅力的なのだ。果たしてこれらの山々に登る日が来るであろうか。

 傍らに私と同じく深南部の山々を目を輝かしながら見とれている一人の若者がいた。20歳前後だろうか。「どこまで行くんですか」。我慢できないという感じで彼が話しかけてきた。この山頂まで重いザックを担ぎ上げていることから、私が池口岳方面に縦走することは明らかである。その旨答えると、彼は妬ましげにつぶやいた。「私もそのコースをどうしても行ってみたいんです。だけどまだ自信がないので、今回は偵察をかねて加加森山までピストンします。大倒木帯がどんなものか見てくるつもりです」。彼もまた深南部に憧れる一人である。

 6時、ついに池口岳へ向けての第一歩を踏み出す。光岳山頂には、池口岳はおろか加加森山を示す道標もなかった。すぐに先ほどの若者が、サブザックの軽装で、「お先に」との声を残して、走るように加加森山との鞍部を目指して下っていった。私もマイペースで後を追う。鞍部まで約300メートルの急降下である。原田さんは加加森山までは問題ないといっていたが、踏み跡は意外と薄い。踏み跡を辿るというより、自分でルートファインディングしながら、切れ切れの踏み跡を拾うという感じである。ただし、尾根筋は明確なので不安はない。痩せ尾根を右側から巻く感じで鞍部に達する。二重山稜の間の草原に出るがこのあたりは特にルートがわかりにくい。今日この稜線を辿っているのは、あの若者と私の二人だけだろう。

 北側から大きく巻いて2381メートル峰に達する。樹休の中で展望はない。ここはもう加加森山の一角である。ルートは左に折れて西に向かう。小さなピークを四つほど越えれば加加森山である。樹林の中を緩やかに上下しながら次第に高度を上げる。木の間越しに光岳が見える。時々小さな草原が現われるが、その出口がわかりにくい。ルートには所々に新旧の赤布があるのだが、真新しいものがどうも私のルートファインディング感覚と異なる。

 8時50分、北側から大きく巻く感じで、ついに加加森山山頂に達した。光岳を出てから2時間50分、標準タイムで歩いたことになる。山頂は標示がなければどこともわからない広々とした樹林の中で、展望はまったくない。深南部の頂に相応しい静かな静かな頂である。先に進んだ若者の姿がない。どこかで擦れ違ってしまったのだろう。

 山頂をそのまま通り過ぎる感じで、確りした踏み跡がさらに続いている。池口岳へのルートにしては明確すぎる。南側から巻いてきた光岳からのルートだろうか。空身で偵察にいってみるが、池口岳へのルートと思われる。思いのほかはっきりした踏み跡があるのでひと安心である。昼食のパンを頬張っていたら、先ほどの若者が池口岳へのルートから現われた。大倒木帯を偵察してきたとのこと。「ものすごい倒木の連続で自分には突破できそうもない」という。私はヤルッキャない。さらに若者は「光岳からここまでも、聞いたのとは違いルートがかなりわかりにくかった。帰路に不安を感じ赤テーブをつけながら来た」という。真新しいテープは彼がつけたものだった。「テープおかしかったですか」と聞くので、「少しおかしいと思う。帰りに外したほうがいいよ」と率直に言ってやる。彼は素直にうなづいた。いずれ彼もこの程度のルートは赤布などに頼らず歩けるようになるだろう。

 9時20分、いよいよ池口岳に向けての一歩を踏み出す。緊張の一瞬である。樹林の中の急坂を下ると明確だった踏み跡も絶え、予想通り微かな気配だけとなった。傾斜が緩むと同時に倒木が現われ出す。シラビソの幼木がルートを埋めてうるさい。前方に池口岳がちらちら見えるので方向感覚は間違わない。それでも時々コンバスで方向を確認しながら倒木と藪の隙間を縫う。倒木を乗り越え、跨ぎ、潜り。しかし、それほど困難な前進でもない。湿地帯を抜けるが相変わらず同じような倒木帯で、覚悟している大倒木帯は現われない。おかしいなあ、ひょっとしたらここが大倒木帯なのだろうか。そのうち倒木が少なくなり、広々とした樹林の中に入った。やはりあそこが噂の大倒木帯であったのだ。いささか拍子抜けである。感覚としては、もちろんルートの明確さは大違いであるが、昔辿った奥秩父の小川山へのルート上の倒木帯のほうが凄まじく思えた。

 拍子抜けであっても、最大の難所の大倒木帯を無事突破したのだ。ひと安心である。しかし、抜け出したこの広々とした樹林地帯は、尾根筋も消え、展望も利かず、ルートファインディングがはるかに困難である。幸い林床には下草がなく自由に歩ける。こういう尾根でルートを臭ぎ出すのは私の得意とするところだ。時々コンパスで方向を確認しながら進むと次第に尾根筋が現われ、ルートに乗っていることが確認できた。樹林の中の尾根を緩やかに下っていく。人の気配はおろか、小鳥のさえずりも聞こえない。樹林が切れて小さな草原に出た。突然目の前に大きな大きな池口岳が現われた。知らない間に、もう池口岳のこんな近くまで来ていたのだ。「おおい池口岳、待ってろよ! もうすぐ行くからなぁ」。思わず大きな声で池口岳に呼びかけた。と、突然、何と二人連れの登山者が前方の樹林の中から現われた。大きな独言を聞かれたと思うときまりが悪い。まさかこの稜線で人に会うとは思ってもいなかった。

 すぐに右側がガレた広々とした草原に出た。鹿ノ平と呼ばれるところである。大きく展望が開け、辿ってきた太い尾根が加加森山から足元までうねうねと続いている。その左には光岳がその名前の由来となった二つの光岩を輝かせながらすっくと立っている。目の前には池口岳の南峰と北峰が立ちはだかり、早く来いと呼んでいる。草原にはアキアカネが群れ、まさにここは稜線上のオアシスである。パンを頬張り大休止をとる。

 すぐに最低鞍部に達する。あと約200メートル登れば憧れの池口岳である。登りに備えてTシャツ1枚になる。ところがこれが大失敗であった。ものすごいルートとなったのだ。シラビソの幼木などの藪がびっしり生えたナイフリッジの凄まじい岩尾根である。藪を強引にかき分ける度に剥き出しの腕は傷つく。着替えようにもザックを下ろす場所とてないのだ。岩稜は厳しく、所々稜線の通過は不可能となる。左、右と、絶壁に生えた潅木で体を確保しながら小岩峰を巻く。行きづまっては絶壁の間にルートを探す。相当危険な前進である。結果的には、この地点の通過が加加森山から池口岳の間で最も困難であった。岩稜を抜けると池口岳への最後の急登が待っていた。もう一息である。憧れの池口岳が間近と思うと、踏み出す足にも力が入る。

 12時15分、ついに池口岳北峰の肩で、池口岳登山道に飛び出した。ついにやったのだ。光岳から池口岳までの縦走という夢をこの瞬間実現したのだ。ザックを下ろし、思わず大きく息をする。ここで光岳以来初めて道標を見る。すぐにカメラだけ持って池口岳に向かう。ここから15分ほどだ。足取りは軽い。12時35分、憧れの池口岳北峰山頂に立った。万感の思いを込めて山頂標石を撫でる。小広く開けた山頂は樹林に囲まれ展望はない。柔らかな下草の上に座り、この静かな頂を満喫する。小鳥が盛んにさえずり、私を歓迎してくれている。

 山頂への未練を断ち切り下山に移る。南峰まで往復1時間程度であるが、最高地点の北峰だけで満足である。山頂直下に東方の視界が大きく開けた場所がある。光岳から加加森山を経てうねった稜線が足元に続いている。今日辿ってきた稜線である。下草に座り、あらためて感慨深く眺める。よくぞあの稜線を辿ってきたものである。ザックまで戻り下山に移る。今日中の下山は無理であり、どこか適当な露営地を探さなければならない。時刻はまだ1時、予想以上に早く到着できたので心に余裕がある。相当な急坂を慎重に下る。事故は下りに起きやすい。せっかくここまで来て事故でも起こしたら全てが水の泡である。この池口岳登山道は踏み跡は明確であるが、一般登山道のように整備はされていない。
 

 大きな岩が連続して二つ行く手を遮る。ザイルが取り付けられているが、越えるのにかなり微妙なバランスを要する。緩急をまじえながらどんどん下る。所々倒木帯もあり、乗り越えたり潜ったり苦労する。突然、シモツケ草の群生が現われた。光岳を出発して以来初めて見る花である。ミニチュア細工の様なピンクの花が眼に優しい。どこまで行っても樹林の尾根は狭く、なかなか露営に適したところがみつからない。高度が二千メートル前後となると、小さなピークが幾つか現われ、高度もなかなか下がらなくなる。事前調査ではザラ薙平と呼ぱれるところが露営に適するとあるが、道標があるわけでもなくどこがその地点かはわからない。やがて樹林の尾根がいくらか広がり、無理すれば露営できそうなところに出るが、どうもいまいちである。さらに進んでみることにする。顕著なピークを越えた。突然、水場標示が現われた。「下り20分、登り45分」とある。光小屋の原田さんが言っていた池口岳の水場とはここらしい。しかし、往復1時間以上とは何と遠いことか。小屋から水を背負って来て正解である。水場があるからには近くに露営適地があるはず。ほんの2〜3分進むと予想通りすばらしい露営地がみつかった。開けた尾根に小さな草原が広がり、その中にシラビソの大木がまぱらに立っている。どうやらここがザラ薙平らしい。

 テントを張り終わってもまだ3時少し過ぎである。紅茶でも沸かそう。幸い、水はまだたっぷりある。陽の燦燦と降り注ぐ草原に寝転べば、心は満足感に満ち、うとうとと眠気をもよおす。傍のシラビソの大木が、ちょうどバナナの皮を剥いたように、360度きれいに樹皮が剥かれている。熊の仕業であろうか。ここは大自然の真っただ中、その辺には熊も鹿もカモシカも沢山いるはずだ。今夜はこの大自然の中でただ一人静かに過ごせる。

 夜中に傍の枯れたシラビソの大木が騒がしい。キーキーと動物が騒ぐ気配。懐電で照らしてみると、二つの目がきらきら光る。何者だろう。そのうち木の根元から別の黒い影が木を駆け登り樹上の光る目玉と合流する。四つの光る目が絡みながらキーキーと鳴き騒ぐ。ムササビのようだ。暫くの間、懐電の光で四つの光る目玉と追い掛けっこをする。そのうち私と遊ぶのも飽きたのだろう。暗闇の中に次々と滑空していった。


 

15日

 柔らかな朝の光がテントを包んだ。今日は下山するだけだが、今日中に静岡に帰り着くにはゆっくりもしていられない。6時、すばらしい露営地を出発する。すぐに左側が大きくガレた小ピークに達する。ザラ薙である。展望が大きく開け、池口岳が朝日に輝いている。しかし、私の眼はその右奥に見える鋭角的な頂を持つ山に一瞬釘付けになる。何と魅力的な山なのだろう。鶏冠山のはずである。今度はこの山を目指してみようか。また新たに私の心を焚き付ける山が見つかった。1902メートル峰の登りに掛かる。所々かなりの倒木があり、乗り越えたり潜り抜けたり、時には気が付かずに頭を強くぶつけたり、まだまだ気の抜けないルートである。イワカガミの群生が目立つ。ピークからルートは尾根筋を外れる感じで直角に左に曲がる。次の1858メートル峰の登りに掛かると再び尾根筋が現われる。左側に大きなガレが現われ、黒薙の三角点に達した。再び大きく展望が開け、池口岳とともに先程見とれた鶏冠山が見える。朝からすでに1時間半も歩いているのに高度はわずか100メートルしか下がっていない。この池口岳西尾根は実に長い。幾つも幾つもピークを越えていく。

 この黒薙はかなり大きなガレで、ルートはそのガレのぎりぎりの縁を通るので少々恐い。左に緩くカーブ気味に下っていくと、笹が現われた。ただし、足首程度の背の低い笹で深南部名物のスズタケとは違う。ようやくシラビソを中心とした自然林が終わり、カラマツの植林となった。何時のまにか道も確りしだす。下界は近そうである。しかし、蜘蛛の巣が道を塞ぐようになりうっとうしい。1561メートル峰を越えると、面切平に到着した。樹に面が彫ってあるとのことなので探してみたが、それらしい樹は見つからなかった。

 カラマツとアカマツの植林の中を緩やかに下っていく。蝉が鳴いている。もう下界である。岩陰に祠がある。鳥居も崩れ、最近は祀る人もいないと見えてかなり荒れている。祠に詣で、山ノ神様に今回の山行きの無事に対し心からお礼を言う。「入山」の1234.9メートル三角点を左の植林の中に見てさらに下ると、9時25分、ついに林道に飛び出した。遠山私設林道である。ようやく4日にわたる困難な縦走が終わったのだ。

 林道を池口集落目指しのんびりと下っていく。最初の人家が現われた。遠山要さんのお宅のはずである。遠山さんは池口岳へのルートを切り開いた人であり、池口岳を目指す人はどの記録を見てもみな遠山さん宅へ寄ってアドバイスを得てから登っている。今西錦司氏も遠山さん宅をべースにして登っている。いわば池口岳の主である。70歳ほどの小柄な老人が道端の丸太に座ってぼんやりしている。目が合うと「ひと休みしていきなさい」と声を掛けてきた。「一人ですか。どこから来ました」と老人。「昨日の朝に光岳を発って、昨夜はザラ薙平で泊まりました」と私。話してみるとこの老人はいやにルートに詳しい。「お爺さん、池口岳に登ったことあるんですか」と私。「最近は身体を壊してしまって。ところで光小屋の原田さんは元気だったかい」と老人。はたと気付いた。何とこの老人が遠山要さんなのだ。池口岳の主に向かって「池口岳に登ったことがあるんですか」とはよくぞ言ったものだ。赤面の至りである。遠山さんの「その歳で、一人でこのルートをやるとは学生時代にだいぶ山をやっていたな」とのお世辞にのって、ついつい話が弾んだ。ザラ薙平の泊まり場でシラビソの樹皮が剥かれていたのは、やはり熊の仕業であるとのこと。きっとすぐ傍で熊が私を観察していたのだろう。

 遠山さんは「タクシーを呼んでやる」と親切に言ってくださったが、バス停まで歩くことにする。10時半に大島のバス停に着いたら、バスは出たばかり。次のバスは何と2時55分。4時間半後である。仕方なく、和田のバスターミナルまで歩く。ちょうど11時10分発の平岡駅行きに5分の差で間に合った。

 また一つ大きな夢を実現することができた。それどころか、南ア深南部の本格縦走を達成でき、次への展望が大きく開けた感じさえする。恐る恐る足を踏み入れてきた深南部へ本格的に入り込む自信ができた。鶏冠山というすばらしい山も見つけた。山蛭の洗礼も受けたことだし、さらに深南部の核心部へ進んでみよう。

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