おじさんバックパッカーの一人旅   

 コラートとピマーイ遺跡への旅

 イサーンの大地にクメールの遺跡を訪ねて

2005年6月23日

      〜6月25日

 
   第1章 タイの偉大なる田舎・イサーン

 イサーン(Isan)と呼ばれるタイの東北地方は国土の1/3を占める広大な地域である。その大部分はコラート高原と称される標高200メートルほどの高原地帯で、土地は痩せ、降水量も少なく、農業生産生の低い、タイで最も貧しい地域である。このため、バンコクの風俗店で働く女性の多くは、イサーン出身と言われる。

 イサーンは、14世紀後半までアンコール王朝の支配下にあったため、クメール遺跡が各地に点在している。また、過去にラオスからの入植が繰り返された地域であり、イサーン方言はラオ語とほぼ同じである。これらのことから、バンコク平原に住む人々は、イサーンに対して蔑みの感情を持つと同時に、偉大なる田舎として郷愁の念をも抱く。

 私は未だこの地域に足を踏み入れていない。一度ゆっくり旅してみたいと思っているが、今回、その入り口だけでも覗いてみようと考えた。このため「マレー半島縦断とジャワ島の旅」の最後に、数日間の日程を残して置いた。今回目指すのは、「タイのアンコールワット」とも称されるピマーイ遺跡である。
 

   第2章 コラートへの列車の旅

 6月23日木曜日。早朝5時30分、ナコーン・シー・タマラートからの夜行列車を降りると、すぐにホアランポーン駅のチケット売り場へ行く。バンコクを素通りして、ナコーン・ラーチャシーマー(Nakhon Ratchasima)へ列車で向うつもりである。6時40分発特急の2等指定座席券が得られた。安心して、駅構内をぶらつく。早朝にも関わらず、駅は既に全開である。人々でごった返している。

 定刻通り、列車は発車した。2等車だが冷房はなく、天井で扇風機が回っている。70%ほどの乗車率で、私の隣の席は空席であった。アユタヤ、サラブリと過ぎていく。窓外には田圃と湿地帯と林からなるバンコク平原の雑然とした景色が続く。ナコーン・ラーチャシーマーは、通常、「コラート」と呼び習わされている。バンコクから北東へ255キロ、イサーンの入口に位置するイサーン最大の都市である。バスだと3時間ほどだが、列車だと6時間もかかる。

 やがて車窓の景色が大きく変化した。バンコク平原が尽き、山岳地帯に入った。山々は原生林というほどではないが、広葉樹の自然林である。列車は速度を落とし、カーブを繰り返し、坂道を喘ぐように登っていく。時々小さな駅が現れるが集落はない。いよいよイサーンへの入口に差しかかったのだ。時刻表と比較すると、列車は20分程度遅れている。

 しばらくすると、またもや景色が一変した。まだ皴のような丘の連なりは残るものの、周囲が大きく開け、広大な平坦地が出現した。コラート高原の一端に達したようだ。ただし、田圃はまったく見られない。赤茶けた畑地が広がっている。やがて、大きな湖水が現れた。小さな船が2〜3艘見られるが、まるで大きな水溜まりのような、凡庸とした湖水である。

 さらに、小さな山並みをひとつ抜けると、見渡すかぎりの大平原が現れた。地平線まで、真っ平らな大地が続いている。バンコク平原の景色とはまったく異質の光景である。これこそがコラート高原だ。列車はようやく速度を上げて、大平原の中を邁進する。それにしても、凄まじい光景だ。大地は小さなうねりさえなく、ただただ無限に続いている。

 列車の遅れから考え、まだまだと思っていると、大きな駅に列車は滑り込んだ。窓から駅標示を確認すると「ナコーン・ラーチャシーマー」とある。コラートだ。列車はいつの間にか遅れを取り戻したようだ。慌ててザックを背負いホームに下り立つ。物売りが列車に殺到してくる。

 駅舎を出ると、途端にトゥクトゥクの運チャンが群がってきた。適当に相手をしていると、1人の男が進み出て、「私はトゥクトゥクドライバーのNoiというものである。私はあなたを希望するところへ連れていくことができる。どこへ行くことを望むか」と、教科書のような英語で名乗りを上げた。他の運チャンは皆黙ってしまった。おそらく彼だけが英語を話せるので1目置かれているのだろう。
 
 いずれにせよ、どこか安宿を見つけなければならない。連れていかれたところは、新市街地の中心近くの古びたホテルである。冷房、ホットシャワー付きで1泊330バーツ(約900円)だという。ゴキブリが這いずり回っているが、何とも安い。部屋も広いので、ここに決めた。男は部屋まで荷物を運んでくれた。その上で、明日1日トゥクトゥクをチャーターして欲しいという。値段を聞くと1500バーツとの答え。ずいぶん吹っかけている。いずれにせよ私にそのつもりはない。
 

   第3章 二人の英雄  タオ・スラナーリーとアヌウォン王

 近くの食堂で昼飯を掻き込み、早速街に飛びだす。まず向ったのは、コラートのシンボルであるタオ・スラナーリーの像である。コラートの街は、環濠で囲まれた旧市街と、その西に開けた新市街とに分かれている。両市街地の境、即ち街のど真ん中の広場にこのタオ・スラナーリーの像が建っている。広場は人々で賑わっていた。そして多くの人々がタオ・スラナーリーの像の前で膝まづき、祈りを捧げている。

 タオ・スラナーリーはタイのジャンヌ・ダルクと言われ、ヤー・モー(モー夫人)の愛称でタイの人々の尊敬を集めている。1826年、タイの属国であったラオ・ビエンチャン王国のアヌウォン王は突如タイに反旗を翻し、軍勢を率いてコラートに攻め込んだ。当時副領主の妻であったタオ・スラナーリーは留守の夫に代わり防衛の指揮をとる。そして、敵陣に潜入して敵兵に酒を振る舞い、酔い潰して街を守り通した。 
    
 一方、アヌウォン王は現在でもラオの英雄である。ラオはその歴史上、常に、タイの影響下、支配下に置かれてきた。その中にあって、タイに正面から戦いを挑んだ唯一の王がアヌウォン王である。破れたとはいえ、強国タイに一矢を報いた英雄として、今なお語り継がれている。

 事件の背景及び経緯は次の通りである。1767年、栄華を誇ったアユタヤ王朝がビルマの攻撃を受け滅亡する。しかし、アユタヤ王朝の武将であったタークシンはすぐに反撃に移り、ビルマ勢力をアユタヤから駆逐するとともに、勢いに乗って、ビルマの勢力下にあったタイ北部のラーンナー王国、及びラオ三国(ルアンプラバン王国、ビエンチャン王国、チャンパサック王国)をも支配下に収める。このとき、タイの領土は史上最大となる。人質としてタイに連行されたビエンチャン王国の王子・アヌウォンはタークシン王朝の後を継いだチクリ王朝(現王朝)の武将としてビルマとの戦いに多いに活躍する。このことにより、チャクリ王朝のラーマ2世にかわいがられ、ビエンチャン王国の王位に就く。ビエンチャン王国はチャクリ王朝の属国として繁栄する。

 しかし、ラーマ2世が没し、その葬儀に出席したアヌウォン王は、強制連行された自国民の返還を後継者・ラーマ3世に求めるが拒否される。それまでに、多くのラオの人々がコラート高原開拓のために強制連行させられていたのである。この一件が尾を引き、アヌウォン王はチャクリ王朝からの独立を決意、タイに奇襲攻撃を掛ける。タオ・スラナーリーが活躍したのはこの戦いである。その後、ビエンチャン王国はチャクリ王朝に反撃され1828年に滅亡する。アヌウォン王も捕らえられ、バンコクに護送されたのち、辱められて殺される。
 

   第4章 コラートの街並み

 旧市街を囲む環濠は公園風にきれいに整備されている。城壁は既にないが、4方の城門は残されている。タオ・スラナーリー像の背後にある西の城門・チョンポン門を潜り旧市街に入る。街並みは新市街と特に変わりはなく、賑やかな商店街が続いている。15分も歩くと、左手に大きな寺院が現れた。ワット・プラ・ナーラーイ(Wat Phra Narai)である。境内には若い僧の姿が目立つ。この寺は仏教学校を併設しており、教室では授業が行われていた。

 北の城門を潜り、環濠に沿ってタオ・スラナーリーの像に戻る。今度は新市街をぶらつく。高層ビルはないが、市場やデパートがあり、その一角は人波でごった返している。タイの典型的な地方都市である。「ラーメン」と看板を掲げた小さな食堂があった。途端に我慢出来なくなって入ってみたが、注文した味噌ラーメンの味は、日本のものとは異質であった。
 
 街を一通り歩き回ったが、別段興味を引くこともない。夜、ナイトバザールが開かれるという旧市街の一角へ行ってみたが、小規模なもので面白いものでもなかった。雨が降りだしたので早々に宿に引き上げる。
 

   第5章 ピマーイへ

 6月24日金曜日。今日は日帰りでピマーイ遺跡を見学に行く。ピマーイ(Phimai)はコラートの北東約60キロにある小さな街だが、「タイのアンコールワット」と呼ばれるクメール時代の寺院遺跡がある。バイタクに乗ってコラートのバスターミナルへ行く。タイのバスターミナルでは必ずどこからか、「どこへ行く」と声が掛かる。「パイ・ピマーイ」、「向こうだ」、「コップンクラップ」。これを何回か繰り返せば、自ずと、ピマーイ行きバスに行きあう。ターミナルの隅にオンボロバスが停まっていた。横5座席のローカルバスである。

 バスはすぐに出発した。しかし、しばらくの間は、自転車並みの超低速でのろのろと、お客を探しながら走る。時々お客が飛びだしてきて、手を上げる。郊外に出て、やっと速度を上げた。80%ほどの乗車率である。

 窓際に座っていると、突然、「すみません、窓を閉めてもらえませんか。後のお姉さんが髪の毛を気にしているので」と日本語の声が飛んだ。驚いて振り向くと、2座席後に若い男がいる。一見、タイ人か日本人か区別はつかない。それにしても、なぜ、私が日本人とわかったのだろう。私は日本語を一言も発していない。今もって不思議である。関西訛りの流暢な日本語であった。結局窓は毀れていて閉まらなかった。隣のオッサンが、不思議そうな顔をして、私に向って「あなたは中国人か」と、タイ語で聞く。耳慣れない言葉を中国語と思ったのだろう。そもそも外国人が乗るようなバスではない。約1時間走ると、右手にピマーイ遺跡が現れた。バスを降りたのは私1人であった。
 

   第6章 ピマーイ遺跡

 イサーン地方は11世紀から14世紀後半に到るまで、アンコール王朝の支配下にあった。このため各地に、アンコール王朝により建造されたクメール様式の寺院遺跡が残されている。その中で最大の建造物がピマーイ遺跡である。その姿形が似ているところから、「タイのアンコールワット」とも言われている。1108年頃の建造と考えられ、ヒンズー教の影響を強く受けた大乗仏教寺院と言われている。現在、遺跡周辺はピマーイ歴史公園として整備されている。

 40バーツ(約110円)の入場料を払って、歴史公園に入る。遺跡を眺めた第1印象は、「なぁんだ、思ったより小さいなぁ」であった。「タイのアンコールワット」と聞いていたので、アンコールワットのイメージを持ってやってきた。この比喩はちょっと現実離れしている。ただし、冷静に、「イサーン地方のクメール遺跡」と見れば、大型の立派な遺跡である。

 聖蛇・ナーガが欄干となった橋を渡り、正門より寺域に入る。普通、クメールの寺院の正門は東を向いているのだが、ここの正門は南東を向いている。その方向にアンコール王朝の都があるためと言われている。正面から中央祠堂を眺めると、空に向かって三つの尖塔が突き上げている。一段高い中央の尖塔は高さ28メートルあるという。渡り廊下を進み、中門を潜る。さらに回廊を進み、中央祠堂に到る。その真ん中には、ナーガの光背を配した仏像が座している。ふと思った。この構造は、その規模は遥かに違うが、アンコールワットとまったく同じではないか。このため、この寺院はアンコールワットを建設するための試作として造られたとの説さえある。寺院の周囲は回廊で結ばれているが、回廊は崩壊が激しく通行止めになっている。壁に刻まれた彫刻は、非常に少ない。遺跡の中を、ノートを抱えた小学生たちが、遺跡の石から石へ飛び移りながら見学していた。

 誰もいない遺跡の隅で、崩壊した石塊に腰を下ろし、東南アジアの神々について考えた。現在、東南アジアの国々の宗教は主として上座部仏教とイスラム教である。すなわち、ミャンマー、タイ、ラオ、カンボジアが上座部仏教、マレーシア、インドネシア、ブルネイがイスラム教である。しかし、東南アジア一帯の基盤となっている宗教は、アニミズムを別にすれば、ヒンズー教である。紀元前後からインドからもたらされたヒンズー教が東南アジア一帯に広く行き渡った。従って、その影響は、現在のイスラム教国にも仏教国にも色濃く残っている。話は跳ぶが、どうやら、その影響は日本にも達したようすである。八岐大蛇はナーガであり、ヤタガラスはガルーダであるし、狛犬はシンハーである。因幡の白兎説話に日本には生存しない鰐が出てくるのも、南方文化の影響である。こう考えると、大野晋博士の「日本語のタミル語起源説」もあながち奇説とは言えない。

 このヒンズー教世界の中に、ときおりポコリポコリと中国からもたらされた大乗仏教が顔を出す。ヒンズー教を国教としたアンコール王朝においも、アンコール・トムを建設したジャヤヴァルマン7世だけが熱心な仏教徒であった。ジャワ島中部には7世紀に仏教王国・シャイレーンドラ王朝が突如出現する。スマトラ島にも7世紀に仏教王国・シュリーヴィジャヤ王朝が出現する。このピマーイ遺跡も大乗仏教寺院だという。アンコールワットはヒンズー教寺院である。同じ頃、同じ設計思想に基づき建築された二つの寺院も、祀る神が異なっている。
 

   第7章 ピマーイの街と国立博物館

 歴史公園をでる。南門(正門)から伸びる道を200〜300メートル進むと、ラテライトの石材を積み上げた城門と土塁跡の残る城壁に行き当たる。この門はプラトゥー・チャイ(戦勝門)と言われ、225キロ彼方のアンコールの都へ通じている。現在は寺院遺跡周辺のみが歴史公園として整備されているが、建設当時の寺域は、この城壁に囲まれた範囲で、1,020×580メートルに及ぶ広大なものであった。このピマーイからコラートにかけての辺りが、アンコール王朝の西側の拠点であった。

 昼食に、小さな食堂に入る。しかし、外国人と見てびびったのだろう。女店員がなかなか寄ってこない。このシャイなところがタイ族の特徴である。ビルマ族なら、興味津々、嬉々としてやって来る。おずおずとやって来た女店員にタイ語で注文すると、ようやく安心したようすで、にっこり笑った。この笑顔もまた、タイ族の特徴である。
 
 昼食後、歴史公園の北にあるピマーイ国立博物館に行く。受付で、何と! 日本語のパンフレットをくれた。タイ国内のいろいろな博物館に行ったが、日本語のパンフレットをもらったのは初めてである。館内は閑散としていたが、国立博物館を名乗るだけに立派な博物館である。コラート周辺の歴史的遺物が数多く展示されている。中でも、ジャヤヴァルマン7世の座像が目に付く。ピマーイ寺院遺跡に鎮座していた石像である。
 
 ジャヤヴァルマン7世の石像がピマーイ遺跡に鎮座していたことは、アンコール王朝の歴史を見る上で重要なことである。アンコール王国中興の英雄ジャヤヴァルマン7世は、ヒンズー教を国教としていたアンコール王朝において、唯一大乗仏教に帰依した異端の王である。彼は、有名なバイヨン寺院を初めとして、多くの仏教寺院を建設した。しかし、13世紀後半、ジャヤヴァルマン8世の時代に仏教弾圧の激しい嵐が吹き荒れる。おそらく、宗教戦争に名を借りた権力闘争であったのだろう。多くの仏教寺院はヒンズー教寺院に改修され、刻まれた仏像は削り取られ、鎮座する仏像は首を切られて埋められた。
 
 以上の歴史的背景の中で、ピマーイ遺跡寺院が仏教寺院であり続け、かつ、その最大の守護者・ジャヤヴァルマン7世を祀っていたことは、この地がアンコール王朝の中央で起った政治的・宗教的騒乱の外にあったということにほかならない。言い換えれば、中央の権力も及ばない独立勢力がこの地に存在したということである。このピマーイ、コラート地方には、これだけの寺院を建造する経済的財力と、中央の指示に必ずしも従わない強い政治権力が存在したのだろう。単なる、アンコール王朝の辺境の地ではなかったようである。
 
 コラートに帰ることにする。バス停を受付の女の子に聞くと、どこでも手を上げれば停まるとのこと。博物館の前で、いつ来るとも知れぬバスを待つ。30分ほどでやってきたバスは、行きのバスとは大違いの冷房完備の立派な大型バス。一瞬、間違って観光バスを停めてしまったのかと思った。ただし運賃は、行きの28バーツに対して、確りと39バーツ取られたが。
  

   第8章 バンコクへの帰還

 6月25日。バイタクに乗ってバスターミナルへ行く。バンコクへは列車よりもバスの方が遥かに便利である。列車は6時間掛かるが、バスは3時間〜3時間半である。しかも、各バス会社から頻繁に出ている。すぐに発車するというバスに乗り込む。私が最後の乗客で、乗ると同時に発車した。横4座席の特別豪華なバスではないが、トイレが付いている。ほぼ全座席埋っていた。料金は171バーツ、列車の2等車が175バーツであったからほぼ同じである。
 
 バスは大平原の中に1直線に引かれた道を時速100キロ以上のスピードでひた走る。発車してすぐに、おしぼりと、コーラと、パンが配られた。長距離バスは、バス会社間の競争が激しいと聞く。冷房が効き過ぎて寒い。車掌が毛布を配って歩く。ならば、冷房を弱めればよいものを。乾いた大地がどこまでも続く。田圃もあるが、コラート高原では降雨が少ないため、1期作きりできない。やがて緩やかな下り坂となり、バスはますますスピードを上げる。お昼頃、バスは時刻通りに、バンコクの北ターミナルに滑り込んだ。

 長かった旅の終わりである。明日はI君と1ヶ月半ぶりに会って、旅の自慢話ができる。そして、明後日は、日本へもどる。次はどこへ旅立とうか。
(完)

 

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