沢口山から蕎麦粒山へ

積雪の南ア深南部を一人縦走

1995年3月19日〜20日

     

蕎麦粒山より黒法師岳を望む
 
19日 寸又峡温泉(730〜740)→富士見平(1055)→沢口山(1150〜1215)→うつなし峠(1400)→天水(1450〜1500)→板取山(1605)
20日 板取山(730)→広河原峠(745〜755)→巻道分岐(850〜905)→山犬の段(925〜930)→蕎麦粒山(1005〜1015)→山犬の段(1035〜1045)→大札山登山口(1215)→尾呂久保集落(1355)→田野口駅(1540)

 
 この冬はもっぱら静岡市近郊の低山を歩いた。決して低山俳循の老ハイカーになったわけではない。この山域は踏み跡も定かではない薮山のため、この時期でないと歩けないのである。低山といえども地図とコンパスを駆逐しての縦走は相当グレードが高い。とはいえ、たまには重荷を背貫っての深山縦走がしたくなった。久しぷりに南アルブス深南部に出かけてみよう。

 南アルブス深南部とは寸又川を馬蹄型に囲む山域の通称である。日本で最も未開の山域の一つであり、この積雪期にとても一人で縦走できるような山域ではない。ただし、この山域の中にあって、沢口山から山犬ノ段に至る稜線上だけには登山道がある。もちろん、登山道と行っても整備されたものではないだろうが。この稜線なら積雪期ではあるが、やってやれないこともなかろう。ちょうど馬蹄型の南側の山稜の縦走である。今ならぱ、逆に山蛭の心配もない。

 沢口山は、前黒法師岳、朝日岳とともに寸又三山の一つであり、寸又峡温泉を起点とするハイキング対象の山である。実は1昨年の夏、この山に登りに行って、山蛭の群れに遭遇し、嫌気がさして登らずに帰ってきた経緯がある。一度落とし前を着けておく必要もある。一方、山犬ノ段は蕎麦粒山の北東に位置する小平地で、深南部唯一の山小屋がある。また、ここまで南赤石幹線林道を車で行くことができるため、周辺の蕎麦粒山、高塚山は登山ハイキングの対象となっている。

19日  朝6時、車で寸又峡温泉を目指して出発する。移動性高気圧が張り出しこの3日間は天気が安定するとの予報である。今回の計画は「寸又峡温泉から沢口山に登り、板取山を越えて山犬ノ段まで縦走する。さらに、山犬ノ段の山小屋をベースとして蕎麦粒山、高塚山を登った後、大井川鉄道の田野口駅に下る。そして、電車バスを乗り継いで寸又峡温泉に戻り車を回収する」つもりである。

 寸又峡温泉の駐車場は飛び石連休のためか多くの車が駐車していた。大きなザックを背負って歩く私を浴衣姿の宿泊客がもの珍しそうに眺める。温泉街を突っ切り、勝手知った登山道に入る。杉檜林の中の薄暗い急登である。前回ここで山蛭の群れに遭遇した。足元をよく見ながら登るが、季節柄その気配はない。久しぷりに担ぐ重荷はさすがに苦しい。今回は、樹林地帯の縦走という状況を考え、ピッケルでなくストックを持参している。ストックを杖代わりにして急登に耐える。2ピッチで尾根筋に達した。樹相が変り自然林となる。木々の間から前黒法師岳が見える。下のほうで人声がして、4人パーティに追いつかれた。軽装であり沢口山往復だろう。私の重荷を見て「縦走ですか」と妬ましげな目を向けた。テレビ中緩アンテナを過ぎ、緩急の登りを繰り返す。高度計を見ると10分で50メートルぐらい登っているので、それほど遅い速度ではない。1200メートル付近に達すると尾根は二重山稜となり、左の山稜に乗り換える。ちょっとルートがわかりにくい場所である。ようやく雪が現われた。尾根は左にカーブし、アセピの木が目立つようになる。雪を踏んで、急登に耐えると平坦地に出た。「富士見平」との標示はあるが雑木に囲まれ展望はない。いったん下ると窪地があり「鹿のヌタ場」との標示があるがすべて雪の下である。尾根筋が消え、山頂直下の急登に入る。一度解けた雪が氷結しており、非常に滑りやすく苦労する。アイゼンは持っているが、着けるのもわずらわしい。ようやく主稜線に達し、50メートルほど左に登るとそこが沢口山山頂であった。11時50分である。3時間弱の標準コースタイムを4時間も掛っている。

 山頂は樅などの自然林の中で、あまり展望はよくない。それでも、木々の間から、大無間山、朝日岳、前黒法師岳などが見える。追い越していった4人組がのんびり昼食をとっていた。できたら今日中に一気に山犬ノ段の山小屋まで行きたいので、のんびりはしていられない。50メートルほど戻り、足跡一つない雪の斜面を下る。いよいよ縦走開始である。困難な縦走路の入り口に立つとき、「この稜線に足を踏み入れたらもう後戻りはできないぞ。その覚悟はできているだろうな」との声がいつも私自身に語りかけてくる。今時この稜線を歩いている者などいないはずだ。急な下りである。積雪が薄く、雪道、氷結道、地道が交互し、時々スリップする。鞍部からひと登りすると横沢ノ頭である。尾根が次第に広がってきて、尾根筋は消える。地形は実に複雑で、いくつもの小さな山稜が絡み合っている。点々と赤布があるので助かるが、地図とコンパスだけで、この地点を突破するのはかなり困難であろう。雪は10〜20センチほどであるが、時々スズタケの藪に入ると膝まで潜る。緩やかな上下が続く。雪の上には鹿かカモンカと思える足跡が点々と続いている。左に緩く曲がり気味に下って、天水との鞍部と思われる地点に達する。この鞍部を地図にある「うつなし峠」かと思っていたが、何の標示もない。一転して樹林の中のものすごい急登となった。雪が深く固く締まっていてキックステップが利くので何とか登れるが、それでも恐い。スリッブしたらストックでは止められない。急斜面の途中に「うつなし峠」との標示がある。こんなところがなんで峠なのだ。道型の痕跡はまったくない。赤布の示すルートはジグザグであるが、斜登は危険なので、慎重にキックステッブを切って直登する。登り切ると道標があり、「オチイ沢の頭を経て榛原川林道」ヘのルートが左に下っている。

 痩せ尾根を緩やかに登ると天水と呼ばれる1521メートルピークに達した。待望の大展望が開けている。よく目立つ正三角形の黒法師岳から目の前の前黒法師岳に尾根が続き、その背後には丸盆岳が見える。鋭く天を突く朝日岳の背後に大無間山が見慣れぬ形でそびえ立っている。大無間山の左奥には白い山々がうっすら見えるのだが雲が掛かり同定はできない。来し方を振り返れば、うねうねと続く稜線の先に、今日の出発点・沢口山の丸い頂が鎮座している。まさに今、私は南アルブス深南部の直中にいるのだ。時刻はすでに3時、とても山犬ノ段までは無理である。行けるところまで行ってテントを張ろう。それほど歩みが遅いとは思わないのだが、意外に時間が掛かっている。やはり雪山のせいだろうか。

 潅木の痩せ尾根を下る。潅木帯に入ると日当りがよいので雪が薄く、氷結しているので非常に危険である。下る切ると行き詰まってしまった。ナイフリッジとなっており、登山道は右北側の急斜面に工作してあるようであるが、雪がついていてとてもそこは歩けない。唯一の歩行可能なルートはリッジ上なのだが、潅木の密生した岩稜で果たして歩けるかどうか。両側とも絶壁で落ちたらひとたまりもない。ピンチである。「やるっきやない」と覚悟を決めてナイフリッジに踏み込む。潅木と押し合いへし合いしながら、絡み付く枝をかき分ける。ザックが引っ掛かり大変である。岩場は片手一本で体重を支えるようなアクロバット的な前進となる。その時、突然右足太股に鋭い痛みを感じる。肉離れか! やぱい! こんなところで歩くのに支障をきたしたら絶望的である。ようやく悪場を突破した。痛みは残るがなんとか歩けそうである。痩せ尾根の登りとなる。雪の上には点々とほんの少し前に歩いたと思える動物の足跡が続く。二本指の足跡は偶蹄類と思えるのでカモシカか鹿であろう。五本指の足跡は熊だろうか。立ち木に熊が爪を研いだと思われる跡がある。もう冬眠から覚めたのだろうか。

 4時5分、ようやく板取山山頂に達した。北側に大きく展望が開けている。空は晴れ渡り、天水では霞んでいた背後の真っ白な山々がはっきり見える。一つは形からして聖岳に間違いない。その右の山は上河内岳だろうか。大無間山の左に見える鋭峰は何だろう。ここから山犬ノ段まで標準コースタイムは1時間半。明るいうちに到達するのはとても無理である。この山頂にテントを張ることにする。夕食後テントから首を出してみたら、なんと雪が降っている。今回は冬山用の外張りを張ってあるので雪は大丈夫である。見る間にテント内のものが凍り出す。寒さはやはり相当厳しい。夜に入ると上空で風がうなり声をあげ始めた。山頂は風が弱いから心配することはない。夜中に外に出てみると、いつのまにか雪は止み満天の星が輝いていた。

20日  寝坊して目覚めたのは6時であった。山々が朝日に輝いている。快晴無風、絶好の登山日和である。うっすらと昨夜の雪が積もる緩やかな尾根道を下っていく。心配した右足の腿は大丈夫のようであるが、どうも今日は身体が重く調子が悪い。15分で広河原峠に達した。左南側に榛原川林道への確りした道が下っている。すぐに道は二分する。稜線上を進み八丁段ノ頭を越えていく道と北側からこのピークを巻く道である。雪山の鉄則からして稜線上の道を進むべきなのだが、目の前にそびえるピークを見ると、どうしても登る気力が湧かない。巻き道は北側だけに雪が多い。樹林地帯なので雪崩の危険はないと思うが、トラバースは滑落の危険がある。進んで見て危険なら戻ろうと決めて巻き道に踏み込む。少々恐い斜面もあるが、雪の固さがキックステップにちょうどよく、一歩一歩ステップを確かめながら進む。約1時間掛かってようやく八丁段ノ頭を巻き終わる。やれやれである。もう山犬ノ段は目の前のはずである。行く手に蕎麦粒山が高々とそびえ立っている。突然足跡が現われ、すぐに大きな家が出現した。静岡大学の山林研究施設との標示があるが人の気配はない。ここからは林道となった。轍の跡の残る道を進むと大きな広場に達した。山犬ノ段である。ついに縦走は成功したのである。広場の奥には立派な山小屋が建ち、四駆が一台止まっていた。

 さて、これからの予定を決めなければならない。ここから空身で蕎麦粒山を越えて高塚山を往復して今日この小屋に泊まるか、または、このまま今日中に下山するかである。縦走を無事終えたこともあり、急速に闘志が萎んでしまった。蕎麦粒山だけを往復して林道を下ることにする。すぐにカメラだけを持って蕎麦粒山に向かう。登り40分の行程である。縦、ツガ、シナノ木などの気持ちのよい原生林の中を登る。今日登ったと思える2〜3人の足跡が雪の上に残っている。雪は40〜50センチはありそうである。山頂に達した。

 東側にすばらしい展望が開けている。富士山と大無間山は一目であるが、あとは腰を据えての山座同定である。大無間山の右になだらかな山頂を雪で白く染めているかっこいい山は……。山伏だ。安倍奥の最高峰・山伏がこんなにはっきり見える。うれしくなった。となると、そこから続く高原状の尾根は安倍西山稜であり、目の前に高く盛り上がっている山は七ツ峰だ。そこから右に続く特徴のない山稜は天狗石山と智者山だ。視界の一番奥に、富士山の中腹を横切るようにうっすらと見える山稜は ………。待てよ、見覚えがある。八紘嶺、十枚山、天津山と続く安倍東山稜ではないか。竜爪山も確認できる。私のホームグランドの安倍奥の山々がみんな見えるではないか。山頂に鉄塔が微かに確認できる山は志太山地の主峰・高根山だ。時間の経つのも忘れ、浮き浮きしながら山座同定を楽しむ。

 山犬ノ段から続いていた足跡はさらに高塚山方面に続いている。この日本三百名山にもいつか行ってみたいものである。下山に掛かる。空身の下りはキックステップで躯け足だ。木々の合間に黒法師岳が端正な姿を見せている。この深南部の主峰は、こうして原生林の間から眺めるのが相応しい。山犬ノ段に戻っていよいよ下山に掛かる。地図で見るかぎりここからの林道歩きはとてつもなく長い。4時間は掛かるだろう。これが南アルブス深南部なのだ。林道は山肌を無理矢理削って作られたもので、山肌からひっきりなしに落石があり恐い。所々雪解け水が完全に氷結しており、恐々歩く。行く手にらくだのこぷを連ねたような大札山が見える。林道はうねうねと何処までも続く。通る車はまったくない。蕎麦粒山と大札山の鞍部を乗っ越し、1時間半歩いて大札山登山口に達する。広場となっていてテーブルやベンチがある。山頂まで住復1時間であるが、またの機会にしよう。右側に高塚山が見える。根張の大きな魅力的な山だ。3時間歩き続けて、最初の集落・尾呂久保に到着。標示によって山犬ノ段からここまですでに12キロ歩いたことを知る。地図を見ると駅までまだ8キロはある。林道歩き4時間との見当は甘すぎたようである。集落から道は舗装道路となる。登山靴での舗装道路の歩行は苦痛である。

 突然道路脇の山肌でガサガサという音がし、大きな動物が道路に飛び出した。見るとカモシカである。10メートルぐらい先でこちらをじっと見ている。おびえるでもなく、威嚇するでもなく実に素直な視線である。カメラを構えてもじっとしている。雪上の足跡はたくさん見てきたが、ついにその姿を見ることができた。苦痛な林道歩きでも時にはうれしいこともある。大井川河畔の上長尾集落を抜け、山犬ノ段から実に5時間の林道歩きのすえ、3時40分、ようやく無人の田野口駅に到着した。千頭行きの列車は3時58分であった。

 
  トップページに戻る

 山域別リストに戻る