岩嶽山と竜馬ヶ岳

伝説を秘めた幻の花・京丸牡丹を求めて

1995年5月13日

 
駐車場(730〜735)→登山口(750〜755)→荷小屋峠(835〜845)→岩嶽峠(915)→岩嶽神社(920〜930)→竜馬ヶ岳(1010〜1050)→岩嶽神社(1125)→岩嶽山(1145〜1150)→登山口(1250)→駐車場(1300)


京丸牡丹と呼ばれる赤ヤシオ
 
 「昔々、京丸川の奥の奥、人知れぬ隠れ里・京丸の里に一人の旅の若者が迷い込んだ。若者はいつしか、里長の一人娘と激しい恋に陥った。しかし、この里にはよそ者とは添えぬ固い掟があった。叶わぬ恋に悲観した二人は淵に身を投げて死んだ。里人は恋に殉じた二人を厚く葬った。それからというもの、60年に一度、開いた傘ほどもある巨大な牡丹の花が山里を包む山肌に咲き、二人の命日になると身を投げた淵に花弁を散らすようになった」。京丸の里に今に伝わる美しくも悲しい物語である。

 しかし、60年に一度咲くこの巨大な牡丹の花は未だ確認されていない。遠州七不思議の一つである。今では、京丸の里を隠すようにそびえる岩岳山、竜馬ケ岳の西面に群生するヤシオの花がこの牡丹の花に擬え、いつの頃からか京丸牡丹と呼ぱれるようになった。

 ちょうど今頃ヤシオが咲き誇っているに違いない。行ってみたくなった。岩岳山、竜馬ケ岳は南アルプス深南部の最南部に位置する山々である。京丸の里を包み込むように、日本三百名山の一つ・高塚山を頂点として左に京丸山、右に竜馬ケ岳と岩岳山が連なっている。二万五千図「高郷」および「蕎麦粒山」を見ると、岩岳山と竜馬ケ岳の西面に「京丸の赤ヤンオ、白ヤシオ群生地」と記載されている。この辺りは案内もなく状況がよくわからない。岩岳山へは気田川の支流・小俣川の奥から登山道があるようであるが、隣の竜馬ケ岳へ続く稜線上にはスズタケが密生していて、まともな踏み跡もないらしい。現地に行ってみなければ詳細な状況がわからない。

 気田川上流は、車でも3時問近く掛かる辺境の地である。5時前に出発する。夜半まで大雨を降らせていた低気圧も去り、天気は回復基調ではあるが予報は「曇り時々晴れ、一時雨」とはっきりしない。浜松市、浜北市を経由し、気田の大きな集落を遇ぎると国道362号線は杉川沿いの山道となる。渓谷の崖に紫色の藤の花が咲き誇っている。平城集落で国道と分かれ、わかり難い道を奥へ奥へと進む。やがて地道の林道となり、曲がりくねりながら緩やかに小俣川へと下って行く。突然、車の前をカモシカが横切った。さすが南アルプス深南部である。通行止めの柵があり、意外にも立派な駐車場が設置されている。すでに数台の車が止まっていた。時刻は7時半、家から2時間半も掛かった。何と遠いことか。

 新緑のまぶしい林道を10分も辿ると、落差20メートル程の「ヤシオの滝」の下にでる。ここが登山口となっていて、確りした道標と、岩岳山回遊コースを記した立派な案内板が設置されていた。岩岳山への登山道は確り整備されている様子である。すぐに小俣川に掛かる吊橋に出た。ここで、直登コースと荷小屋峠コースが分かれる。どっちを登ろうかと立ち止まって思案していたら、同年配の単独行者が追いついてきた。「直登コースは急なので帰りにとったらいいですよ」と一声アドバイスして先に歩き出す。ザックに「磐田山の会」と記されている。吊橋を渡り、急な丸大の階段を登ると緩やかなトラバース道となった。水場を過ぎ、杉檜の樹林の中をジグザグの急登を混じえながら斜登する。やがて上空が開け荷小屋峠に到着した。

 岩岳山の北の鞍部から派生する尾根の鞍部である。樅やシラビソに囲まれた静かな峠である。昔、京丸の里へはこの峠を越えて入ったという。二十万図にはいまだにこのルートが破線で記されている。しかし、今はこの踏み跡を辿る人はいない。なぜなら、京丸の里は今や無人なのである。それでも京丸の里へ続く峠道は微かな痕跡をとどめていた。木々の間から京丸山、高塚山と思える山々が見える。先ほどの単独行者に確認してみると、「そうです」とのみ答える。この人も口数が少ない。「お先に」との一声を残して出発する。すぐに小さな祠を見て、岩混じりの急登に移る。樅、山毛欅、シラビソなどの若葉が薄日に輝いている。峠から上は自然林である。今日も調子がよい。グイグイと登っていく。赤紫のツツジの花が現われ、登るに従い、その数を増す。萌えいでた若葉に濃い赤紫の花が映え、実に美しい。このツツジは三つ葉ツツジであろう。目指す京丸牡丹は大型の花で、ぼんやりと浮くように咲くと聞く。

 次第に稜線が近づいてきた。突然、足元に薄いピンクの落花の群れを見る。反射的に梢を見上げると、盛りを過ぎているが大柄のピンクの花が梢に引っ掛かるように咲いている。瞬間、これこそ目指す京丸牡丹であると理解した。登るに従い、京丸牡丹の花は次々現われる。ぼんやりとした薄いピンクの花は、周りの空気に溶け込むように、とらえどころのない優雅さを醸し出している。自己主張の強い三つ葉ツツジと感じは大いに異なり、まさに伝説の花、幻の花の雰囲気である。残念なことに、どの花も最盛期を過ぎ、落花のほうが多い。来る季節が遅すぎたのだろうか。白ヤシオの花は見えない。まだ咲き始めていないのだろうか。

 花に見とれている間に稜線に達した。岩嶽峠との標示がある。稜線を右に行けば岩岳山山頂。私は左、岩嶽神社、竜馬ケ岳を目指す。視界が開け、目の前に京丸山が大きくそびえている。眼を谷底に向けると京丸川が足下まで切れ込み、目を凝らすと、何と ! 京丸の里が見えるではないか。京丸の里にある唯一軒の家・藤原家が見えるのだ。平家の落人が住みついたという伝説の里・京丸。いまこの里は無人だが、昔の栄華を誇るがごとく、大きな藤原家だけが今でも残っているのだ。

 京丸牡丹の花の中を急登して岩嶽神社が鎮座する小ピークに達する。小休止していると先ほどの単独行者もやってきた。会釈を交わしただけで二人とも無口である。いよいよ竜馬ケ岳を目指す。竜馬ケ岳を示す道標はない。果たして無事に達することができるだろうか。かなりのスズダケの密生を覚悟しなければならないだろう。ところが、踏み込んだ稜線上には何と、下刈りがしてあり、確りした踏み跡が続いているではないか。一瞬拍子抜けはしたものの、道があるにこしたことはない。いったん鞍部まで下って、緩やかな登りに入る。すぐに玄馬沢への古びた道標を見る。小さな下りを混じえながら、笹と雑木の中を緩やかに登り続ける。木々の合間に目指す竜馬ケ岳の緩やかな山容が見える。この稜線にはヤシオの花はまったく見られない。私が今日最初の登山者と見えて蜘妹の巣が顔にあたる。時々現われる倒木を乗り越え、展望のない道を進む。尾根が広がり、美しい山毛欅林に出た。鹿のヌタ場と思える水溜りを過ぎ、ひと登りするとそこが竜馬ケ岳山頂であった。山頂は三角点を中心に、小さな切り開きがなされている。静かな静かな山頂である。

 西側に少し展望が開けて、高塚山から続く稜線の先に京丸山が大きく盛り上がっている。しかし、その背後に続く山並は実に痛々しい。稜線直下を林道と思われる傷跡が一直線に切り裂いている。山並の一段高いピークには鉄塔が見える。何という山だろう。地図を広げ同定する。竜頭山である。あの傷跡は悪名高いスーパー林道だったのだ。遠州の名峰といわれた竜頭山も、この林道のために無茶苦茶にされてしまった。悲しいことだ。木々の間に見え隠れする高塚山にガスが掛かり始めている。高塚山に向かう稜線上には微かな踏み跡はあるが藪が深そうである。時間が早いので行って行けないこともなかろうが、無理することもない。ふと頭上を見上げてびっくりした。何と、数本の京丸牡丹が咲き誇っているではないか。落花がないので今まで気が付かなかった。満開の京丸牡丹にようやく巡り会えたのだ。きっと私の来るのを待っていてくれたに違いない。

 40分もの長居の末、去り難い山頂を後にする。岩嶽峠から先、ナイフリッジとなった岩場の稜線は登山者で混雑していた。山頂に向かう稜線上は京丸牡丹一色である。すさまじいばかりの群生で、行く手に見える山頂の斜面は、まさにピンクに染まっている。大きなカメラを抱えた人、家族連れ、老若男女、続々と山頂に向かって行く。京丸牡丹の咲き誇るこの時期を選んで、年に一度のピクニックなのだろう。それにしても、これほどすぱらしい山が、ほとんど地元以外には知られていない。地方には隠れたすぱらしい名山があるものである。

 辿り着いた岩岳山山頂はごった返していた。敷物の上に用意してきたお弁当を広げ、まさにお花見の雰囲気である。身の置場もなく、当惑してたたずんでいると、「行ってきましたか」と声が掛かった。見ると、今朝ほどの単独行者がにこにこしながらたたずんでいる。「笹刈りがしてあったので楽でした」、「最近刈ったようですが、以前は笹の密生で大変でした」。会話はこれだけであった。相変わらず二人とも無口である。しかし、私は旧友にあったようにほのぼのとした気持ちであった。

 山頂は北側に展望が開けていた。辿ってきた稜線の先に竜馬ケ岳が緩やかに盛り上がり、その左に高塚山、右に蕎麦粒山が頂を覗かせている。目を右に移すと、見覚えのある山が見える。板取山だ。今年の3月、苦労して辿った稜線が目の前に広がっているではないか。その前方には、これも見覚えのある大札山がそびえている。いつのまにか、南アルブス深南部の山々にも知り合いが多くなった。

 混雑した山頂を早々に発つ。山頂から急な稜線を南に向かう。直登コースを下るつもりである。右側に大きなガレ場が現われる。相変わらず京丸牡丹の花が咲き誇っている。道標に従い、稜線を離れて右側の急斜面の道に入る。丸太の階段がつけられた、樹林の中のものすごい急坂である。突然周囲に白い花が現われた。白ヤシオである。ここまで見ることのできなかった白ヤシオはこんなところに群生していたのだ。下るに従い、三つ葉ツツジも現われる。若葉の緑と、白ヤシオの白と、三つ葉ツツジの赤紫が混ざり、なんともいえない美しさを醸しだしている。この時間になっても何組かのハイカーが登ってくる。それにしてもすさまじい急坂である。いつしか植林地帯に入り、なおも急坂を下ると今朝ほどの分岐に出た。下り着いた駐車場はいつのまにか数十台の車で大混雑であった。

 それにしてもすばらしい山であった。赤ヤシオの咲く静かな竜馬ケ岳山頂、赤ヤシオ、白ヤシオが山肌を染める岩岳山。京丸牡丹の伝説を秘め、いつまでもこのままでいてほしいものである。

    
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