陣見山から不動山へ

忘れられた峠を訪ねる感傷の山旅

2000年11月26日


 
 
波久礼駅(750)→登山道入口(805)→190.7m峰(820〜825)→337m峰(855〜900)→大槻峠(915〜920)→車道(955)→陣見山(1000〜1025)→岩谷洞(1030)→車道(1100〜1105)→榎峠(1115〜1120)→510m峰(1155)→間瀬峠(1230〜1235)→不動山(1305〜1325)→不動峠(1330)→苔不動(1340)→糠掃峠(1355〜1400)→出牛峠(1415)→県道(1445)→野上駅(1505〜1508)

 
 寄居町から長瀞町にかけての荒川左岸に一つの山塊が盛り上がっている。標高500メートルほどの低い山並みではあるが、秩父郡と児玉郡の郡界尾根ともなる山並みで、また、荒川水系と利根川水系の分水稜でもある。地図を眺めると、陣見山、不動山の山名が記されているが、山稜は林道でずたずたにされており、登山意欲は著しく殺がれる。現に私もいまだこの山域に足を踏み入れていない。しかし、この山稜は、古来より秩父地方の北への出口に当たるため、実に多くの峠が存在する。山々には特別登山意欲が湧くわけではないが、今は役割を終えたこれらの峠を尋ねてみるのも一興である。

 7時50分、秩父鉄道波久礼(はぐれ)駅で降りたのは私唯一人であった。今日は移動性高気圧に覆われ、小春日和の一日が期待できる。ただし、このような気圧配置は展望は良くない。やはり山里の朝は寒い。セーターにヤッケを着込み、手袋をして取り付き点となるカンポを目指す。今日の計画はこの山稜の最末端に取り付き、陣見山、不動山と縦走して、出牛峠まで行くつもりである。距離はいささか長いが、時間切れとなれば峠道も多く、どこからでも下山は可能である。カンポに通じる急な車道を登る。門の手前に「円良田湖に至る」との確りした道標があり小道が分岐する。建物の下をトラバース気味に進むと、「陣見山」との小さな道標があり、山道が分岐した。これで一安心、あとは一本道のはずである。

 雑木林と桧の植林の入り混じった雑然とした道を緩やかに登る。道は意外に確り踏まれている。やや急な坂を登ると小さな石の祠のある小ピークに達した。地図上の190.7メートル三角点峰である。一休みの後、尾根道をさらに辿る。小ピークを4〜5個越すと、小道が乗越す鞍部に出た。ハイキングコースと記した立派な道標があり、右に下る道を「円良田湖」、尾根を進む道を「山頂」と示している。尾根道は急に立派となった。丸太で整備された相当急な階段を上る。振り返ると、靄った視界の先に、釜伏山から大霧山に続く稜線が見える。登りあげた山頂は地図上の337メートル標高点ピークで、立派な四阿が建っていた。朝日が燦燦と注ぎ暖かい。ヤッケを脱ぐ。

 ハイキングコースを示す立派な道標に従い下り出して途惑った。どうも方向が違う。山頂に戻り、改めて進む方向にルートを求めると踏み跡が見つかった。ハイキングコースが「山頂」と標示していたのはてっきり陣見山のことと思い込んでいたが、どうやらこの337メートルピークであったようである。すぐに尾根を切り割った溝を二ヶ所通過する。山城の堀切跡であろう。戦国の昔このあたりに虎ヶ岡城という山城があったらしい。鉢形城の出城であろう。尾根道はもとの細い踏み跡に戻った。雑木林の間から目指す陣見山がちらちら見える。2〜3ピークを越えて滑りやすい急斜面を鞍部に下ると、そこが大槻峠であった。左より確りした小道が登ってきており、右の稜線直下を走る林道に下っている。樹林の中で展望はいっさいないが、二つの石碑が残されている。一つは安永9年銘で「馬頭観世音」と刻まれており、もう一つは○文9年銘で「如意輪観世音」と刻まれている。おそらく「寛文9年」であろうから17世紀半ば過ぎのものである。古の峠の賑わいが忍ばれる。

 更に稜線を辿る。368.4メートル三角点峰を越え、桧林の中の急登に息を切らす。もう11月も終わりだというのに道端にタムラソウの紫の花とリュウ ノウギクの白い花が咲いている。ついに車道に飛び出した。この山域の稜線付近は縦横に林道に侵食されている。今日は何回も車道に出会わなければならない。車道を横切り、陣見山への最後の登りに掛かる。

 ちょうど10時、ついに山頂に達した。しかし、雑木に囲まれた狭い山頂は鉄条網に囲まれたテレビ埼玉児玉中継所の建物と電波塔が占領しており何の風情も無い。木漏れ日の当たる一角に腰を下ろし朝食兼昼食の握り飯を頬張る。今朝から何も食べずにここまで登って来た。それにしてもこの山域は静かだ。山に入って以来誰にも会っていない。陣見山の山名は鉢形城の見張り台があったためと思っていたが、帰ってから調べてみると違っていた。何と、「天正18年、上杉謙信、武田信玄の合戦のさなか、武田軍勢の物見の兵が、この山頂より敵方陣地の児玉雉ヶ岡城を見下ろしたことによる」とある(角川日本地名大辞典)。山頂より北に下る尾根には「秋山十二天」との標示があるが、私は主稜線を西に向かう。ほんの1〜2分で右斜面を下る細い踏み跡を道標が「岩谷洞奥の院」と示している。この地方の昔からの霊場のようである。5分ほどとのことなので寄ってみる事にする。樹林の中の急斜面を下ると小さな岩屋があり、中に仏像が安置されている。今でも地元での信仰対象となっているようである。戻って縦走を続ける。雑木林の尾根を小ピークを越えながら次第に高度を落す。まだ葉を落しきらない椚や楢の広葉落葉樹の間から越えてきた陣見山が見える。

 鞍部で再び車道に飛び出した。三叉路となっている。ワゴン車が1台通り過ぎていった。車道を横切り、ロープの張られた急斜面を登って再び山稜に取り付く。突然ガサと音がして目の前を大きにシマヘビが横切った。もう蛇も冬眠に入ったと思って安心していたのでビックリである。そう言えばいまだ蜘蛛も活動しており、時々巣が顔に掛かる。静岡の山では11月も20日を過ぎれば、どちらも居なくなったものだが。男女5人パーティとすれ違った。山中で今日初めて見る人影である。相手も初めて人に会ったと言っている。緩やかなピークを二つほど越えると榎峠に達した。陣見山方面から山稜直下を巻いてきた車道が通過しており、おまけに防火用水のドラム缶が数本並べてあって何とも興ざめである。しかし、秩父側から確りした小道が登ってきており、小さな石の祠と「馬頭尊」と刻まれた天保2年8月銘の石碑が残されている。この峠も大月峠同様昔は馬が越えたのだ。

 車道はこの地点で二分しており、1本は更に山稜の北側を巻きながら水平に間瀬峠方面に続いている。もう1本は児玉側に下っている。水平車道を50メートルも進むと、地道の荒れた林道が分岐し、稜線に這い上がっていく。次の目標である間瀬峠には水平林道を行くのが一番確実かつ早いのだが、なるべく稜線を進もうとの気持ちからこの地道林道に踏み込む。これが結果的に大誤算であった。地道林道は小ピークを巻きながらもほぼ稜線上を進んでいく。かすかな踏み跡を便りに忠実に稜線を辿ってみたが、薮と蜘蛛の巣でうんざりである。地図上の310メートル峰に達した。ハンググライダーの滑空場所となっており、数人の若者が次々と真っ青な空に飛び出していった。今日初めて秩父側に展望が大きく開け、眼下に荒川がゆったりと流れ、越えてきた陣見山が一望できる。更に林道を辿る。地図にはこのピークの少し先から間瀬峠に直接下る破線が記されているのだが、その踏み跡が見当たらない。ススキが両側から覆い、最近車の通った跡もない林道は山稜の南斜面をどんどん下り、南西に伸びる支稜を大きく巻きにかかる。大遠回りである。12時30分、何と榎峠から1時間10分も掛かって間瀬峠に到着した。水平林道を辿れば30分ほどで来れたものを。

 間瀬峠は県道長瀞児玉線が乗越しており、また続いてきた水平林道が交差していて車の通過も多い。しかし嬉しい事に、道端に「庚申塔」と刻まれた文政11年3月銘の石碑と「馬頭観世音」と刻まれた天保2年3月銘の石碑が残されていた。昔はここに茶屋もあったという。秩父側に下った地点にライフル銃の射撃場があり、ひっきりなしに銃の発射音が聞こえる。感じのよいものではない。切り通しの北側に回り込んで絶壁のような急斜面をロープを便りに稜線に這い上がる。再び樹林の中の尾根道を進む。不動山は登るものも少ないとみえ、踏み跡は今までに比べずいぶん細い。不動山への最後の登りとなった。まだ幼い桧の植林と潅木の間の嫌な登りである。蜘蛛の巣が多い。ようやく登りあげた不動山も何ともつまらない山頂であった。雑木とまばらな杉が生えた薮の中で、展望も一切ない。三角点と、消えかけた山頂標示がぽつんとあるだけであった。三角点に腰掛け一人握り飯を頬張る。

 薮っぽい道を下るとすぐに稜線直下を北側からまいてきた林道に下り立った。この地点を不動峠というらしい。「苔不動」との標示があり、秩父側に急な踏み跡が下っている。麓の洞昌院の奥の院となる霊場である。寄ってみることにする。ロープのはられた急斜面を2分ほど下ると岩壁を背に不動明王像が安置され、周りに多くの卒塔婆が置かれていた。この苔不動が不動山の山名の由来である。戻って林道を出牛峠に向かう。ここから先は稜線上に踏み跡はない。ほぼ稜線に沿って開削されたこの林道をたどるしかなさそうである。舗装された立派な林道だが通る車とてない。何のためにこんな林道を作ったのか理解に苦しむ。右側には児玉地方の山々がぼやけた視界の先に広がっている。

 のんびりと歩いていると、道路端の薮の中の「糠掃峠」と記載した標示に気づき慌てて立ち止まる。注意しみると、秩父側に微かな踏み跡が下っている。深い薮に覆われたこの峠道の痕跡が消え去るのも時間の問題だろう。林道をさらに辿る。林道が山稜の右側から左側に移る地点が「グミの木峠」のはずである。何の標示もない。児玉側の樹林の中を注意深く観察してみると、微かに峠道の痕跡と思える踏み跡が続いている。さらに林道を進む。421メートル峰を左から巻くと目指す出牛峠に到着した。立ち木に打ち付けられた小さな標示以外峠を示すものは何もないが、秩父側児玉側に割りあい確りした踏み跡が下っている。

 明治17年11月4日午後、大野苗吉率いる秩父困民党の軍勢5〜6百人はこの出牛峠を越えて児玉へと進軍していった。上州で同盟軍の蜂起を促し、共に東京へ進軍し革命政権を樹立するとの壮大な志を胸に。11月1日に下吉田の椋神社に蜂起してから4日目のことである。しかしながら、その夜、待ち構えていた帝国陸軍鎮台兵と金屋村で激突し、激しい戦闘の結果壊滅する。生き残った敗残軍は再びこの出牛峠を越えて故郷秩父へと敗走した。この峠に二度立った困民軍の農民はその時、何を見、何を思ったのだろう。今や稜線林道の通過するこの峠に立ち昔日を思う。

 野上に通じる細い踏み跡を辿る。雑木林と植林と竹林の入り混じった雑然とした林の中を深くえぐれた一筋の踏み跡が続く。この踏み跡こそ、今から116年前に秩父困民党が攻め上り、そして敗走した道である。やがて道幅を広げた峠道は長瀞ゴルフ場の取り付け道路と合わさる。峠道の一部は今やゴルフ場への車道に変っているのである。歴史の変遷は感傷を無視する。すぐに県道に出る。ここから野上駅までは20分の道程であった。幸運な事に待ち時間ゼロで上り電車がやってきた。 

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