粟野廃村から城峯山へ深雪をラッセルし、道なき薮尾根を登る |
2001年2月11日 |
吉田町役場(635〜640)→万松寺(650)→粟野廃村(735〜805)→675.3m三角点(835〜840)→660m峰(855〜905)→675m峰(915)→送電線鉄塔(935〜950)→914m峰(1100〜1110)→関東ふれあいの道(1140〜1145)→城峯山頂(1205〜1225)→城峯神社(1235)→登山口(1315)→太田部峠道(1320)→沢戸集落(1330)→吉田町役場(1350) |
城峰山南尾根より二子山を望む
北秩父の名峰・城峯山から大きな尾根が南に張り出している。石間(いさま)川と阿熊(あぐま)川の分水稜となる尾根である。地図を眺めると、この尾根上に粟野と言う集落が記載されており3軒の家屋記号が見られる。こんな山上にいかなる集落があるのかと不思議に思えるが、実は、粟野集落はすでに廃村となっている。この山上に住む人はいないのである。しかし、集落は消えたといえども、この粟野の名は永遠に歴史に名をとどめている。歴史年表をめくると、「明治17年10月26日
秩父困民党、粟野山会議にて11月1日 一斉蜂起を決定」との記載を見ることができる。この日、粟野に大勢の農民が集まった。総理・田代栄助以下の秩父困民党の幹部、会議を聞きつけて駆けつけた近郊の農民たちである。このような秘密集会を開くにはこの山上の小集落は最適の地であった。当日の議題は重要であった。すなわち一斉蜂起日の決定である。事態はすでに切迫していた。幹部は準備不足を理由に蜂起の1ヶ月延期を請うた。つい数日前に、東京の自由党本部から蜂起延期の勧告を携えた使者を迎えたばかりであった。しかし、追いつめられた農民はこれを許さず、ついに11月1日の一斉蜂起が決定されたのである。以降の推移は歴史の示す通りである。
粟野の地から尾根を辿って城峯山に登ってみよう。この北秩父の名峰はあの百十数年前の壮絶な出来事から現在にいたるまでの、この地に生じた全ての出来事を眺め続けているはずである。そしてまた、この地に伝わる平将門にまつわる伝説がもし史実であるならば、その顛末さえ知っているはずである。粟野廃村までは尾根末端の井上集落から現在も小道が通じている。しかし、粟野廃村から先には登山道はない。地図読みと山勘の登山となる。しかも、この冬はすでに何度も雪が降り、ルートはかなりの積雪が予想される。久しぶりに血が騒ぐ。 夜明け前の5時25分、車で出発する。駐車予定地の吉田町役場到着6時35分。辺りに人影はない。支度を整え、尾根末端の万松寺を目指して歩きはじめる。今日の足回りは軽登山靴である。かなりの積雪が予想されるので本来は登山靴を履くべきなのだが、帰路延々と車道を歩かなければならない。考えた据えの結論である。さすがに寒さは厳しい。今日の天気予報は晴天であるが、一級の寒波が押し寄せている。約10分で山の斜面を背にした万松寺に達する。ここが尾根取り付き点である。墓地の中をわずかに急登して上の段に出ると確りした小道に出会う。粟野廃村に通じる道のはずである。東の空が茜色に染まり、ちょうど登谷山付近の山の端から朝日が昇ってきた。快晴 無風、絶好の登山日和である。雑然とした雑木林の中を10分も歩くと、意外にも立派な道標があった。行く先を「粟野」、来し方を「井上」と示している。困民党の史跡を訪ね、粟野まで行く人がいるのであろう。巾1〜2メートル程の小道は確りしており、簡易舗装の跡さえある。しかし、所々現れる残雪の上には踏み跡はなく、人が最近通った気配はない。作業小屋を見、急坂を登ると小さな鞍部に達する。左手に金岳の岩峰が朝日に輝いている。粟野は近い。道端に二体の石仏がたたずむ。二体とも文政13年の銘である。注連縄が張られ、まだ祀られている様子である。真新しい紙垂が微風に揺れている。この石仏は間違いなく百十数年前のあの壮絶な事件を見たはずである。 すぐに粟野廃村に達した。小広く開けた山の緩斜面に3軒の廃屋が見られる。すでに壁も剥げ落ち、戸も失われているが、いまだ出造小屋としては利用されている気配である。小さいながらも畑もある。上部の廃屋の前に粟野山会議に関する説明板が吉田町によってたてられている。 粟野山 秩父事件蜂起決定の地明治17年10月26日、この粟野山には、貧困にあえぐ農民達が続々と集まり、熱い討議の末11月1日 椋神社における一斉蜂起を決定した。秩父事件のプロロー グとして重要な役割を果たした地域である。 当時、この粟野山には 八戸の家があったといわれており、 この地から各耕地に通じる道筋が数多くあった。 西へ下れば、半根子(乙副大隊長 落合寅一の家)へ 北へ下れば、阿熊 (鉄砲隊長 新井駒吉の家)へ 南に道をとれば、井上(会計長 井上伝蔵の家)へ 通じていた。 困民党のオルグたちは、これらの路を頻繁に行き来し、 警察の目を逃れて、木の間隠れに多くの集合をもった。 こうした集合の合間には、粟畑の畔から、南にけぶる 武甲山と秩父盆地を遠望し、窮迫した生活を想い、秩父 一帯の総決起を密かに画策していたに違いない。 木々の間を吹き抜ける、風の中に、当時の農民達の苦 しみと、熱い息吹が、微かに聞こえはしないだろうか。 暴動と言われ、参加者は逆賊・暴徒と呼ばれ続けたこの事件も、最近その評価は大きく変りつつある。明言はしていないが、地元吉田町の事件を見る目は暖かい。廃屋前の日溜まりに座り、私も農民たちの熱き息吹に耳を傾けよう。辺りは静寂にして風の音さえしない。眼前には大きく展望が開け、秩父の町並みの背後に武甲山がひときわ高く盛り上がっている。百十数年前と同じ姿で。 いよいよここからは登山である。まずは集落背後の675.3メートル三角点峰にうまく達せられるかどうかである。三角点まで行けば、後は尾根を辿ればよい。辿ってきた小道は、室久保集落への道を右に分けた後も、さらに上部へと続いている。ここからは完全な雪道となった。100メートルほど辿り、右にカーブする地点で道を捨てる。地図によれば、この小道は少し先で行き止まりのはずである。鬱蒼とした杉桧の植林の中に踏み込む。踏み跡は愚か赤テープ一つない。林床は30センチほどの一面の雪である。まずは左手上部にみえる鞍部らしき地形を目指す。10分ほど進むと、意外にも右から登って くる道型にであった。先程の小道の続きかもしれない。鹿と思われる無数の偶締類の足跡がある。道型を辿り、目指した鞍部に達する。道型は鞍部を乗越しそのまま石間方面に下っている。石間と粟野を結ぶ昔からの道かもしれない。だとすれば、石間の人・困民党副総理加藤織平が粟野山会議に駆けつけた道である。 道型を捨て右手の尾根状地形に取り付く。何の標示もないが、この尾根が城峯山南尾根と思われる。潅木の生えた狭い薮尾根である。小峰を越えて急登する。左手、雑木越しに視界が開け、両神山と二子山が見える。まだ昇りきらない朝日に、山襞の陰影が浮かび上がり、実にきれいである。今日一日、両神山を見続けることになるだろう。登り切ると、そこが675.3メートル三角点峰であった。過たず目標にたどり着いた。さすがいい勘をしている。南に展望が得られ、木の間越しに破風山、甲武信ヶ岳、三宝山などの奥秩父主稜線核深部の山々が見える。ほっとして一休みする。後はこの尾根を忠実に辿ればよい。たまにはこの薮尾根を辿る物好きもいるとみえて、城峯山を示す消えかけた小さな道標があった。 潅木の薮尾根を辿る。行く手に城峯山がはじめてちらりとみえた。まだまだ遠い。尾根筋もはっきりしており薮も薄いので辿るのはそれほど難しくはないが、積雪が次第にその量を増す。760メートルの小峰でスパッツをつける。更に先に進む。地図を頻繁にチェックし、地形を一つ一つ確認しながらの前進である。二等水準点を見て、650メートル峰で左に90度曲る。突然稜線上にトレースともいえる無数の足跡が続きだした。人の踏み跡のようで不思議に思ったが、よくよく観察すると、動物のものである。鹿道となっているのだろう。同じ稜線を辿っても人間と鹿ではルート感覚が違うようで、私の採るルートと一致しない。面白く感じた。急登を経ると送電線鉄塔に達した。持参の昭和53年発行の古い二万五千図にはこの鉄塔は記載されていない。新しい地図に買い替える必要がありそうである。周りの雑木が 刈り払われているので実に展望がよい。腰を下ろして一休みする。眼前には雲取山から続く奥秩父の主稜線が、真っ青な空にスカイラインを描いている。右手には相変わらず両神山のどっしりした山容が谷筋の残雪を朝の日に輝かしている。 ここからしばらくは、鉄塔巡視路となり稜線上には明確な切り開きがなされている。しかし、積雪はますます深まり、脛まで潜る。やがて巡視路は左手に下り、稜線はもとの薮尾根となった。いくつものピークを越える。登り下りの連続で高度はいっこうに上がらない。二度ほど露石のピークが現れ、一瞬緊張するが、なんとかルートを確保し前進を続ける。雑木林と杉桧の植林が交互に現れ、植林の中は特に積雪が深い。膝上まで潜るようになる。登り下りはキックステップが効くのでよいが、平坦地は足をいちいち高く持ち上げなければならず大変である。これほどの積雪は予想外である。疲労が次第に増す。ようやく最後のピークとなる914メートル標高点峰に達した。深い樹林の中である。いささかくたびれはてて露石に越しかけ一休みする。遅くても正午までには山頂に達するとの予定は怪しくなった。 下ろうとして、斜面を覗き込んで驚いた。まさに逆さ落しの絶壁に近い斜面となっている。どうやって下るんだ。しかし、下る以外ない。鹿も下っているではないか。鹿の踏み跡に導かれ、潅木に抱きつきながら、何とか下まで転がり落ちる。巨大な鉄塔の立つ山頂がまだ高々と上空にある。急登して大岩を危なっかしく巻く。平坦となった樹林の中を、一歩一歩足を持ち上げながら進むと、ついに道に出た。「関東ふれあいの道」との標示のある。石間峠から城峯神社に通じる林道である。しかし、この林道も厚い雪に覆われ二人分の踏み跡があるだけである。林道を横切り、山頂に向かって最後の急登に挑む。ここはもう登山道なのだが下った一人分の踏み跡きりない。上方で人声がする。山頂はもう一息である。 12時5分、ついに山頂に達した。実に5時間半ものアルバイトであった。山頂には数組みの登山者がいた。今日はじめて出会う登山者である。この山頂は21年ぶりである。1980年11月、両親とまだ幼かった二人の娘を連れて門平集落から一般コースを登った。当時山頂には小さな櫓が立つだけであったが、今は巨大な鉄塔が立っている。途中まで登れるようになっているので登ってみる。眼前に大 展望が開ける。高まった午後の日に視界は寝ぼけているが、秩父主稜線が青空を切り裂き、その右奥には、八ヶ岳だろうか。微かな山並みもみえる。両神山、二子山の右手には、御荷鉾山、赤久縄山等の西上州の山々。すぐ目の下には神流湖が青く光っている。さすが一等三角点の山、素晴らしい大展望である。視界のよい早朝なら遠く北アルプスもみえるはずである。山頂は強風が吹き寒い。鉄塔の陰に座りこみ、一人握り飯を頬張る。至福のひとときである。 12時25分、山頂を辞す。確りトレースが出来、踏み固められた道は何と歩きやすいんだ。飛ぶように10分も下ると城峯神社に達した。山上とも思えぬ立派な社である。人影も無くひっそりしている。拝殿の正面には「将門」と大書きされた扁額が掲げられている。この神社は平将門を祀っているのである。将門は日本史上の大反逆者である。どうやらこの北秩父の山間の地には反逆、反骨の血が脈々と流れているようである。 半納(はんのう)登山口を目指して樹林の中の踏み固められた雪道をどんどん下る。この時間でもまだ登ってくるパーティと何組かすれ違う。神社からわずか40分で半納の集落に達し、舗装道路に降り立った。急な山腹に数軒の大きな人家がある。このような山中、いかなる暮らしなのだろう。この半納集落は秩父事件の際に、巡査を切って首を辻に晒すというもっとも過激な行動を取った。通る車もない車道を7〜8分も下ると、太田部(おおたべ)峠道に出会う。後は、石間川沿いのこの道をただひたすら歩くだけである。2時間も歩けば町役場に達するだろう。この石間川沿いに点在する集落はまさに秩父事件の震源地である。しばらく歩くと沢戸集落に達した。急な斜面の驚くほど上方まで人家が点在している。現在においても大変な暮らしであろう。 さらにしばらく歩くと、後方から来た乗用車が止まり、親切にも乗っていけという。山頂で見かけた同年輩の単独行者である。親切に甘える。 城峯山はよい山である。 |