上州の山 大峰山と吾妻耶山

曇天の中、伝説と信仰の山を訪ねて

2004年9月20日


上牧駅より望む大峰山と吾妻耶山
 
 
上牧駅(805〜810)→ 関越自動車道(835)→ 配水池(905)→ 二本松(920〜930)→ 水分不動尊(940〜950)→ 大峰沼(1010〜1025)→ 大沼越(1040)→ 大峰山電波塔ピーク(1110〜1120)→ 大峰山山頂(1125)→ 赤谷越峠(1150〜1200)→ 吾妻耶山山頂(1225〜1250)→ 大峰沼(1345〜1350)→ 水分不動尊(1405)→ 二本松(1410)→ 配水池(1420)→ 上牧駅(1505〜1525)

 
 上越線沿線にいくつかの気になる未踏峰がある。吾妻耶山もそのひとつである。上牧駅付近で車窓から西を眺めると、その山名の由来となった四阿に似た鋭角的スカイラインが望まれる。この山は伝説と信仰の山であり、そして展望の山でもある。日本武尊の伝説を秘め、またその秀麗な山容から古代より神奈備山として崇められてきた。現在においては、上越国境稜線の山々の展望台として有名である。このため、関東百名山にも選ばれており、いつまでも登り残しておくわけには行かない。
 
 三日連休だが、強いて行きたい山も思いつかない。季節的には最悪なのだろうが、気になる山、吾妻耶山に行ってみることにした。調べてみると、吾妻耶山は隣の大峰山とセットで登るのが常識らしい。しかも、車で行くと両山縦走の拠点となる大峰沼までわずか30分で到達でき、いたって安易な登山が可能なようである。しかし、少しはルートに独自色を出さないと面白くない。長躯、上越線上牧駅から歩くことにする。大峰沼まで片道2時間の距離である。

 いつもの通り、北鴻巣駅発6時5分の下り一番列車に乗り、高崎駅で水上行き鈍行列車に乗り継ぐ。三連休だというのに、早朝の鈍行列車はがらがらである。三日間で今日が一番天気がよいとの予報であったのだが、空は厚い雲に覆われ視界は最悪である。車窓の左右に展開するはずの山並みはまったく見えない。8時5分、上牧駅で降りた登山者は私一人であった。高台となった駅ホームから西を眺めると、大峰山、吾妻耶山と続く稜線が灰色の空に消え入るようなスカイラインを描いている。どこが山頂ともつかないテーブルマウンテンの大峰山から稜線は一旦大きく落ち込み、ピラミダルな吾妻耶山を盛り上げている。このスカイラインはちょうど奥武蔵の堂平山ー笠山が描くスカイラインとよく似ている。

 利根川を渡り、入り組んだ街中の道を進む。しかし、辻々には「大峰沼」を示す道標が確り立てられていて、迷うことはない。先日、三峰山に登った際は、街中に道標がなくずいぶん困ったのだが。遊歩道のような細い道を登って河岸段丘上部に達する。ここからは一本道であった。関越自動車道を潜ると、林沿いの上り坂となる。道端には栗の毬がたくさん落ちている。通る車とてない、傾斜の増した車道を足早に進む。今日は体調がいたって悪い。昨日より薄風邪を引いたと見え、熱っぽく身体も重い。よほど出発を見合わせようかと思ったが、気合でやってきた。それでも歩くほどにリズムが出てくる。

 しばらく登ると、眼前が大きく開けた。黄色く色づいた稲田が棚田となって上部に見える集落に続き、その背後に大峰山と吾妻耶山がスカイラインを描いている。あいにくの濁った空気の中、景色はくすみ気味であるが、秋晴れの日ならば、絵のような美しさだろう。まさにこれこそ日本の原風景である。上部の小和知集落に達する。大きな家と、白壁の土蔵の目立つ。実に味わいのある集落である。こういう美しい山里を歩くのも山旅の楽しみの一つである。集落内は道が複雑だが、要所要所には必ず道標があり助かる。集落を抜けると、白い花の咲く蕎麦畑、収穫の終わったキュウリ畑、そして荒れるに任せた桑畑が目に付くようになる。おそらく、一昔前までは養蚕が主たる生業であったのだろう。

 配水場で、辿ってきた舗装道路は終わり、傾斜の増した山道となった。耕作地もここで終わり、回りはうっそうとした杉檜林となる。水流で荒れた山道を辿る。人の気配はまったくない。駅を出発して以来、既に1時間以上休むことなく歩き続けている。そろそろ休みたいのだが、適当な場所がない。案内書にある「二本松」まで頑張ろう。 細まった山道を辿ると、それと思える二本の松が現れた。何の標示もないがここであろう。傍には清流も流れている。座り込んで、朝食のパンを頬張る。ここまで、朝から何も食べずに登ってきた。

 重い腰を上げる。しばらく登ると「馬頭大王」と刻まれた明治32年銘の石碑を見る。この道は、吾妻耶神社への参道であったはずである。その昔には馬が登ったのだろう。すぐに、今は使われていない立派な林道を横切る。道標がこの林道を下る方向を「上毛高原駅」と示している。その一段上が、水分不動尊であった。立派なお堂があり、周りの斜面からはいたるところ水が湧き出している。水分(ミクマリ)の神とは記紀神話に登場する神で分水嶺の神にして、水の神である。不動尊(不動明王)とは真言密教において大日如来の仮の姿とされる仏である。どのような縁起があるか知らないが神と仏がごっちゃになっている。ここから本格的な登りとなった。登山道は階段や木道でよく整備されているが、時々蜘蛛の巣が顔に掛かるのが鬱陶しい。今日この道を辿るのは私が最初、そしておそらく、唯一であろう。

 大きな伐採跡に出た。背後に大きく視界が開けている。空気の透明度がよければ、すばらしい展望が得られるだろうが、今日は子持山がうっすらと見えるだけである。再び深い樹林の中に入る。きつく、緩く、変化のない登山道がどこまでも続く。もうそろそろ大峰沼に着く頃なのだが。漸く傾斜が緩み、しばらく進むと、目指す沼に到着した。駅から休憩も含めちょうど2時間であった。

 大峰沼は大峰山の稜線直下、標高1000メートルの地点に広がる割合大きな湿地帯である。沼というより高層湿原に近い。貴重な植物も多く、学術的にも貴重な存在だとのことである。深い原生林に囲まれた沼は幽玄な雰囲気を醸し出しているのだが、残念なことに、周りに立ち並ぶいくつものバンガローがこの雰囲気を台無しにしている。ただし、シーズンオフ今、沼畔は静まり返り、本来の神秘さを宿している。

 一休みの後、沼の背後にそそり立つ稜線を目指す。沼を半周した後、岩かど木の根を踏んでの大急登に移る。栃の実がたくさん落ちている。山ではすでに秋が始まっている。わずか10分ほどで登り上げた稜線上の鞍部は「大沼越」と呼ばれる峠で反対側に湯宿温泉への道が下っている。いよいよここから、大峰山山頂を越えて吾妻耶山までの縦走開始である。

 下から眺めたときは穏やかに見えた尾根だが、露出した岩の間に雑木の茂るなかなかの痩せ尾根である。ただし、危険というほどでもない。麓にサーキット場があると見えて、エンジン音とタイヤのきしむ音が耳障りである。しばらく尾根を辿ると、突然尾根が断ち切れた。目の前に深さ20〜30メートルの深いキレットが立ちふさがっている。案内書に鎖場との記載があるが、これほどの尾根の切れ目は想像していなかった。ただし、鉄製の立派な梯子が架けられていて通過はスムーズである。おそらく、少し前までは梯子でなく鎖であったのだろう。

 さらに稜線を辿る。小ピークをいくつか越えながら次第に高度を上げていくと、大きな電波塔の建つ、芝生のピークに達した。ここが山頂と思い、芝生の上に座り込む。目の前には大きく視界が開けているものの、何も見えない。まったく今日はなんと空気の透明度が悪いのだろう。2万5千図で確認すると、本当の山頂はまだこの先である。

 少し下ると立派な車道が登ってきている。電波塔の補修道路だろう。中年の男女二人連れを追い越す。今日はじめて会う登山者である。緩やかに登って行くと、櫓を組んだ展望台があった。登ったところで何も見えないだろう。そのまま通過して、さらに緩やかに登っていくと、突然、三角点と「大峰山山頂」との標示が現れた。山頂とも思えぬ尾根の一角である。休み気にもなれず、証拠写真を撮っただけでそのまま通過する。下りに入ると再び大きな電波塔に出会う。

 長い下りに入った、周りは水楢や小楢の気持ちよい雑木林である。所々巨岩の積み重なった地形を見る。この地形は明らかに火山性のものである。大峰山の両側が切れ落ちた細長い稜線は、おそらく、昔の火口壁なのだろう。犬を連れた単独後者とすれ違う。小ピークを越えると、尾根が断ち切られていた。慎重に鞍部に下ると、そこが赤谷越峠であった。暗く小さな尾根の切れ目である。道標が西に下る道を「赤谷・高原千葉村」、東に下る道を「スキー場経由大峰沼」と示している。一休みする。

 いよいよここから吾妻耶山への登りである。辿ってきた尾根はこの辺りから二重山稜のような複雑な地形となる。二段に分かれたジグザグの急登に耐える。今日初めての本格的な登りである。もとより覚悟の上、リズミカルにグイグイ高度を稼ぐ。やがて傾斜が緩み広々としたうねる台地に達した。山頂部の一角である。小ピークでルートは大きく右に曲がる。この小ピークが1322.7メートル三角点のある西峰のはずであるが、寄り道する価値もなさそうである。前方左奥に絶壁を掛けたピークが見える。おそらく山頂となる1341メートルピークだろう。道標があり、左に仏岩峠へのルートが分かれる。案内書によると、このルートは落石の危険のため、現在通行禁止となっている。うねる樹林の中を小さな上下を繰り返しながら進む。わずかな登りを経ると、そこが吾妻耶山山頂であった。誰もいない。

 山頂はちょっとした平坦地となっていて、大きな石の祠が三つ並んでいる。説明書きがあり次のように印されている。
   
  吾妻耶神社
 この地は御殿上といわれ、沼田城主真田伊賀守が寛文2年(1662年)、
 ここに吾妻耶神社神殿を建立しました。神殿は3社からなる立派な
 ものであったそうです。この3社の神殿は、その後数回野火にも焼
 かれたりしましたが、歴代の沼田城主の助援を受け村々で修復して
 きたようです。地元民の信仰が厚く、明治初年頃までは9月3日、9日
 の祭日には参詣者が多く、山道の途中に露店が並ぶほどにぎわった
 そうです。」
 
  現在の吾妻耶神社の石殿について
 現在の吾妻耶神社石殿は明治24年に建立されたものです。一社は
 石倉・小川・寺間村、月夜野町、一社は羽場・新巻村、一社は相
 俣村でこの石宮を建立しました。この三社には真田家の「六文銭」
 が刻まれていて、真田家の再建・建立の功績が伝えられています。
 大峰沼からノルンスキー場にかけての林道沿い(鳥居平)には、石の
 鳥居があり、当時の吾妻耶神社の参道を偲ぶことが出来ます。この
 鳥居は何度建て直しても一本になってしまうことから「一本鳥居」
 とも呼ばれています。すぐ近くには、崩れてしまった元の鳥居の
 沓石や石柱などが残っています。
 
 それにしても大きな石祠だ。いったいどうやってこの山頂まで持ち上げたのだろう。もちろん人が担いでであろうが。説明書きにあるとおり、庇の部分には、消えかかった六文銭の浮き彫りが確認できる。戦国時代の勇・真田氏は天正8年(1580)から天和元年(1681)までの100年にわたり、沼田城主としてこの地方を領有した。 

 山頂は木々に囲まれているが、展望は確保されている。特に北方は大きく開け、目の前に屏風のごとく高々と連なる上越国境稜線が立ちふさがっている はずなのだがーーー。今日はただ灰色の空虚な空間が広がっているだけである。眼下には、微かに上牧から水上にかけての温泉街が見える。吾妻耶山の名称は、もちろん、四阿に似たその山容から名づけられたものであろう。同名(漢字表記は異なるが)の山は、上信国境の深田百名山・四阿山、秩父の福寿草で有名な四阿屋山など全国にいくつか見られる。一人山頂に座し、パンを頬張っていたら、犬を連れた男性が登ってきた。続いて、大峰山山頂付近で追い越した中年の男女が。 

 山頂を辞す。帰路は山稜の中腹を巻くルートで大峰沼まで戻ることにする。山頂直下で縦走路と別れ、急な坂道をぐいぐい下る。このルートは昔の 吾妻耶神社への参拝道のはずである。いい加減下ると赤谷越峠道と合流するが、この地点は峠からほんの10メートルの地点。何のことはない、縦走路を戻っても、この中腹の道を下っても同じことであった。樹林の中をさらに下る。あちこち大岩がごろごろしていて意外に下りにくい。古い溶岩流の跡と思える。この大峰山から吾妻耶山にかけては明らかに火山地形であるが、もともとの噴火口はどの辺りにあったのだろう。さらに下るとスキー場に出た。現在では吾妻耶山のなだらかな東面を利用してスキー場(ノルンスキー場)が開かれている。ゲレンデは薄の原となっている。 

 ここからは林道となった。再び樹林の中に入り、平坦な道を進むと石の鳥居に出会う。「一本鳥居」と呼ばれ、昔の参道を示す遺物である。中年の男女二人連れを抜き、再び山道に入って緩く下ると、大峰沼に下りついた。やれやれである。一休みする。あとは、今朝登ってきた道を上牧駅に下るだけ、それでも2時間近くの行程である。 

 天気は悪化のきざしで、樹林の中は夕暮れのように薄暗い。伐採地に出ると、なんと雨が降ってきた。天気予報は大外れである。幸い雨具をつけるまでもなく雨はやんだ。刈り入れの進む稲田を眺めながら里道を下る。振り返ると、大峰山と吾妻耶山の寝ぼけたスカイラインが灰色の空を横切っている。 

 大峰沼から1時間45分、ノンストップで歩き続け上牧駅に到着した。乗降客は誰もいず、暇な駅員と話しこんだ。この時期、山では熊や猿とちょくちょく出会うとのこと。そういえば、道々「熊出没注意」「猿に餌をやらないでください」などの標示が頻繁に見られた。残念ながら出会うことはなかったが。運良く、20分待ちで、臨時の特急があった。「えぇ、上牧駅に特急が止まるの」といったら、駅員はむきになって、「今は一日2本だが昔は全部止まった」。しかし、やってきた特急に乗ったのは私ただ一人。降りた乗客はゼロであった。 

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