大霧山から釜伏山へ 

両神、城峯の名峰を眺めつつ、困民党の故郷へ

2002年1月13日


皇鈴山より城峯山を望む
 
経塚バス停(755)→旧定峯峠(835〜845)→大霧山(915〜925)→粥新田峠(945〜950)→県営牧場(1010〜1025)→二本木峠(1050)→愛宕山(1055〜1100)→皇鈴山(1115〜1130)→登谷山(1150〜1200)→釜伏峠(1220)→釜伏山(1235)→日本水(1245〜1255)→塞神峠(1320〜1330)→長瀞駅(1445)

 
 比企三山の一つ・大霧山から北に続く長大な山稜は実にゆったりとしている。かなり上部まで集落が開け、稜線付近にはいくつもの牧場が広がっている。数十年前まではハイキングの好適地であったが、今では車道が縦横に走り、むしろピクニックやドライブがてらの行楽地となっている。ただし、外秩父7峰縦走40キロハイキングコースがこの稜線を通過しているため、大会当日は足自慢のハイカーが足早に稜線の車道を歩き抜けていく。私も1987年の4月、この稜線をわき目も振らず猛烈なスピードで歩き抜けた。
 
 この山稜の北端にある釜伏山が前々から気になっている。稜線上の小さな瘤のような存在なのだが、その釜を伏せたような山容は麓からもあるいは近くの山から眺めても実によく目立つ。この辺りに伝わるダイダラボッチの伝説によると、粥新田峠で粥を炊いたダイダラボッチが釜を置いたところと言われている。ちなみに、炊いた粥の湯気が霧のように立ち上ったのが大霧山、箸を置いたのが二本木峠、笠を置いたのが笠山、蓑を置いたのが蓑山である。なんとも楽しい話である。
 
 釜伏山近くには日本百名水の一つ「日本水」もある。また、釜伏山近くの稜線の左右に展開する風布の集落は秩父事件の震源地の一つでもある。ほとんどが車道歩きとなる点は不満だが、冬晴れの一日、大霧山からのんびりと釜伏山へ縦走してみるのも一興である。
 
 休日は山麓のバスがいたって不便である。北鴻巣発5時24分の上り一番列車に乗り、大宮、川越と乗り換え、小川町発7時23分の白石車庫行きバスに間に合った。経塚のバス停で貸し切りバスを降りる。ここが旧定峰峠への登り口である。
 
 ここ2〜3日異常に暖かい日が続いている。今日も一日穏やかな日になりそうである。しかし、こういう日は展望に関しては期待薄である。小沢沿いの細い舗装道路を進み、すぐに道標に導かれて沢沿いの山道に入る。道は次第に谷底を離れ、やがてジグザグの急登となって右の支尾根に登り上げる。樹林の中の尾根道を緩急混じえて登っていく。道は確りしていて、道標も頻繁にある。現在、旧定峰峠(従って本来の定峰峠)への登山道はこの経塚集落からのルートとなっているが、峠道の本道は下流の新田集落から中腹の朝日根集落を経由していたとのことである。この峠道本道はすでに消失してしまっている。
 
 15分も尾根道を辿ると、朝日根集落から新定峰峠に通じる車道に飛びだす。車道を5分も歩き、道標にしたがい右の山道に入ると、すぐ上が目指す旧定峰峠であった。鬱蒼とした杉檜林の中の薄暗い小さな鞍部で、一段上に小さな石の祠が祀られている。ここが本家本元の定峰峠である。昭和30年に、ここから約2キロ程南の鞍部に車道が開削され、その鞍部が新定峰峠と呼ばれた。現在は桜の名所となっている。その後、いつの間にか新定峰峠が定峰峠となり、本来の定峰峠が旧定峰峠と呼ばれるようになった。おかしな話である。今日はこれからいくつもの峠を通過する。しかし、この定峰峠を除きすべて車道が開削されてしまっている。この定峰峠は昔のまま残された数少ない奥武蔵の峠の一つである。
 
 小休止の後、縦走に移る。稜線上はよく整備されたハイキングコースである。早朝のためか人影はない。ひと登りで桧平と呼ばれるベンチの設けられたピークに達する。90度右に曲がって緩やかな尾根道を進むと、右側が放牧場となり、鉄条網に沿うようになる。短い急登を経ると大霧山山頂に達した。10人ほどのおじさん・おばさんのパーティが休んでいたが私の到着とともに定峰峠に下っていった。
 
 この頂は15年ぶり、3度目である。1987年1月、当時6歳の長男を連れて笠山から長駆縦走してこの頂に達した。吹きつける寒風に追われ、腰を下ろす間もなく粥新田峠に下った思い出がある。2度目の頂はその年の4月であった。外秩父7峰縦走ハイキング大会において、24キロ地点のこの頂をわき目もふらずに通過していった。
 
 山頂は西から北にかけて大きく展望が開けている。幾重にも重なる奥武蔵の山並みの背後に、雲取山から甲武信岳に続く奥秩父主稜線が壁のごとく連なり、その右には故郷の名峰が二つ、両神山と城峯山が寝ぼけた空に浮かぶように聳えている。今日は一日、この二つの山を見続けることになる。両神山の左に真っ白な山が二つ、点のように見える。設置された展望盤により八ヶ岳連峰の赤岳と横岳であることを知る。北を眺めると、これから辿る緩やかな太い稜線が足下から続き、その先に釜伏山の独特の山容が望まれる。視界さえよければ、その背後彼方に上越国境の山々、日光連山が連なっているはずなのだが。山頂はいまだ陽も当たらず、寒風が吹きつけて寒い。

 粥新田峠に向け下る。点々と数パーティとすれ違う。2番バスでやってきたのだろう。ほんの20分で車道の乗越す粥新田峠に下り着いた。四阿風の休憩舎が建つ。この峠は歴史ある峠である。明治期まで、江戸から秩父の札所に向かう巡礼は主としてこの峠を越えて秩父盆地に入った。白装束の遍路の列が絶えることなくこの峠を越えていったと云われている。ひと休み後、縦走を続ける。ここからは車道歩きとなる。稜線の右側直下を巻く舗装道路を緩やかに登ると、周囲が開け、県営牧場に入る。振り返ると、9日前に登った笠山と堂平山が逆光の朝日の中に黒く浮き上がっている。山羊の放牧場の前にベンチとテーブルを見つけ朝食とする。ここまで朝から何も食べずに登ってきた。朝日が当たり暖かい。
 
 てくてくと車道を歩き続ける。早朝のためか通る車もなく、また周囲も明るく開けているので苦痛はない。山陰はアイスバーンとなっている。この道は15年前、足裏にできたマメの痛さをこらえながら必死に歩いた記憶がある。左側に大きな鉄塔が現れると、二本木峠はすぐであった。昔はここに二本の大杉が生えていたとのことであるが、今は車道の十字路である。小学生の頃、両親に連れられてこの二本木峠から波久礼の駅までハイキングをした記憶が微かにある。もう50年も昔の話である。
 
 ここからハイキングコースは一時的に車道を離れ、愛宕山のピークに向かう。外秩父7峰ハイキングコースはこのピークを巻いているので私にとって愛宕山は初登頂となる。山頂直下に小さな天文台とベンチ、テーブルがある。山頂は藪に囲まれた小平地で三角点はあるものの平凡である。
 
 鞍部で車道を横切り皇鈴山の登りにはいる。登り上げた皇鈴山の頂は何ともすばらしい。雑木林に囲まれた広々とした芝生の広場に冬の陽が燦々と注いでいる。西に展望が開けていて埼玉の誇る二つの名峰、両神山と城峯山が寝ぼけた空にゆったりと浮かんでいる。特に、城峯山の悠然とした大きな鈍角三角形の山容は惚れ惚れする。この山は間違いなく天下の名峰である。山頂の一角には四阿風の休憩舎もあり、小さな祠も祀られている。誰もいない山頂で一人握り飯を頬張る。なんとも気持ちがよい。山頂の東の端には大きな電波塔が建っているのだが雑木林で隔てられていて全く違和感はない。この皇鈴山には日本武尊にまつわる伝説がある。日本武尊がこの地を通ったおり、腰に下げた弟橘姫の形見の鈴を振ると、アズマギクがいっせいに咲き誇ったといわれる。山名はこの故事に由来する。
 
 いったん車道に下って、登谷山の登りに掛かる。常に左側に展望が開けていて両神山、城峯山が見え続けている。到達した登谷山山頂は何ともがっかりである。狭い山頂を巨大な電波塔が占拠して視界と雰囲気を台無しにしている。それでも北から東にかけての大展望は見事である。視界さえよければ上越国境の山々が一望できるはずである。今日は眼下の寄居の町並みと、その背後の鐘撞堂山から不動山にかけての低い山並みが見えるだけである。関東平野のはるか彼方に目を凝らすと熊谷の町並みが微かに見える。「トヤ」とはかすみ網で鳥を捉えた場所を言う。登谷山の山名の由来である。数人の登山者ですでに一杯の山頂に長居は無用と、すぐに下る。
 
 下り着いた鞍部は登谷牧場で、車でやってきた観光客でにぎわっていた。稜線の左側を巻く車道を進むとすぐに車道の十字路となっている釜伏峠に達した。この釜伏峠も歴史ある峠である。現在、秩父鉄道、国道140号線の通る荒川沿いは古代よりの秩父盆地に入る重要なルートの一つであるが、寄居から長瀞にかけて荒川は峡谷となっており昔は通行が著しく困難であった。このためこの部分を避け、この釜伏峠において山越えを行なうのが一般的なルートであった。すなわち、この峠は秩父盆地と外界を結ぶメインルート・秩父往還の越えた峠なのである。2年前この釜伏峠の真下をくり貫いて国道140号線の寄居皆野バイパスが完成した。まさに現在の釜伏峠道である。峠の一段上の樹林の中に埋もれている一里塚跡が、昔の峠の繁栄をわずかに偲ばせてくれる。
 
 私はさらに稜線を北上するつもりである。外秩父7峰ハイキングコースはこの峠から寄居の街に下っているので、ここから先は未知のルートである。峠の北側に釜山神社が鎮座しており、峠から参道が続いている。狼の狛犬の守る参道を100メートルも進むと本殿に達した。なかなか立派な神社である。この神社は昔は東側山腹にある釜伏集落に鎮座していて釜伏神社と称したとのことである。昭和16年に焼失したのを機に現在の場所に移された。釜山神社の裏手に聳えるのが今日の目的の一つ釜伏山である。地図に破線もなく、案内もないため登山ルートが見いだせるか心配していたが、神社裏手よりしっかりしたルートが開かれていた。
 
 今までの平穏な道とはうって代わって、岩稜の急登となる。手摺りやロープがあり、それほど危険はないがハイキングコースとしては厳しい。一気に登り上げた頂は樹林の中で、釜山神社の奥の院の小さな祠があるだけで山頂標示もない。小学生の男の子と父親の二人連れが休んでいた。この二人とはこの後、長瀞駅まで後になり先になりする。ひと休みしていたら反対側から単独行の男性が登ってきて「釜伏山の山頂はどこですか」と聞く。「ここですよ」と答えると、「何の標示もない」と不満そうにつぶやいていた。
 
 「日本水」の標示に従い、反対側に下る。この下りも岩場の厳しい下りである。鞍部に下って、左にトラバース気味に進むと、日本百名水の一つ「日本水」に達した。今日の山旅で楽しみにしていた一つである。垂直に切れ落ちた大絶壁の下から水が湧き出している。周囲は注連縄が張られいくつかの板碑が立てられている。早速、柄杓で一杯、冷たい水が五臓六腑に染み渡る。一切の味やにおいのない純粋な水の味である。水道水の詰まった水筒を空にして、「日本水」を詰め替える。いいおみやげができた。この湧き水はどんな日照りの時でも枯れることはないと云う。昔、この地を通りかかった日本武尊が喉の渇きを覚え、剣を岩肌に振るうと、この泉が湧きだしたとの伝説が残る。
 
 稜線をさらに北に辿りたいのだが、ルートがさっぱり解らない。釜山神社まで戻ればはっきりするのだが、それでは大変である。何の道標もないが、日本水の先に、水平なトラバース道が続いている。この道を辿れば稜線に戻りそうである。小道とも云えるしっかりした道を進む。いくつものポリタンを持った人々とすれ違う。中には数十リットルのタンクを積んだキャリーカーを引いてくる人もいる。10分も歩き、ちょっとした九十九折りを登ると、過たず稜線の車道に飛び出した。名水汲みの車が10台以上駐車している。
 
 車道を北へ向かう。左側眼下、山の緩斜面に、まるで島のように一つの集落が見える。地図で確認すると阿弥陀ヶ谷集落である。明治期風布村を構成した集落の一つである。いよいよ今日最後の、そして最大の目的、困民党の故郷・風布が近づいてきた。塞神峠に達した。粥新田峠からずっと続いてきた稜線上の車道もここで二つに分かれ、右・寄居と左・長瀞に下っていく。この塞神峠の稜線近くの左右に七つの集落が点在する。左、すなわち西側の集落は大鉢形、阿弥陀ヶ谷、蕪木、植平。右、すなわち東側に風布、扇沢、釜伏。現在は西側の集落は長瀞町に、東側の集落は寄居町に属しているが、明治期にはこの7集落で風布村を構成していた。現在ではミカン北限の産地としてのどかな山村風景を見せているが、この風布は日本近代史にを重くその名を残している。
 
 明治17年11月、日本中を震撼させた秩父困民党の蜂起にさいし、最精鋭部隊をなしたのがこの風布村である。秩父困民党事件の主たる震源地は北秩父、城峯山麓の谷々に点在する集落である。ところが、中心地から飛び地のごとく遠く離れたこの風布が79戸の全戸を上げてこの蜂起に参加するのである。全戸からの参加者を見たのはこの風布村だけである。しかも、蜂起の失敗が決定的となり、革命本部も崩壊する事態に陥る中、風布隊140名を主力とする約500名の部隊は敢然として出牛峠を越えて関東平野へと進軍するのである。部隊を率いたのは大野苗吉、若干22歳、大鉢形集落の人である。何が、この山上の小村をして蜂起・革命へと走らせたのだろう。
 
 現在では車道の交差点と化してしまった塞神峠であるが、見ると、車道とは別に西側に下る昔の峠道が残されている。この峠道を下って長瀞駅に向かうことにする。うれしいことに、峠の下り口には「塞神」と刻んだ古い石碑が建ち周囲に注連縄が張られている。峠名の由来である塞の神を祀ったものである。深くえぐれ、昔の峠道の雰囲気を色濃く残す小道を厚く積もった落ち葉を蹴立てて下る。途中地蔵仏も見られる。
 
 約15分の下りで小さな集落に達した。この集落こそ大野苗吉の故郷・大鉢形集落である。わずか3〜4軒の家屋が急な斜面にへばりついている。周りに目立った耕地も見られず、その生活の厳しさは想像を絶するものだったろう。苗吉の生家の横に大野家代々の墓がある。源氏の系列に繋がることを示す碑が誇らしく中央に建ち、周りを囲む墓石の年号は江戸時代に始まっている。苗吉の墓石を探してみたが見つからなかった。彼は11月4日深夜、児玉町郊外金屋村での鎮台兵との壮絶な銃撃戦いにおいて戦死した。遺体は現場の円通寺に身元不明のまま埋葬された。苗吉の生家からは谷を挟んだ山腹に阿弥陀ヶ谷集落が見通せる。
 
 ここから長瀞駅までは車道歩きである。今ではこの山中に孤立している集落まで立派な車道が開通している。途中、阿弥陀ヶ谷集落からの道、続いて蕪木集落からの道、さらに植平集落からの道を合わせ、荒川河岸へと下っていく。金石水管橋で荒川を渡り、ひたすら駅を目指す。たどり着いた長瀞駅は多くのハイカーで混雑していた。
 
 故郷の名峰・両神山、城峯山のを眺めつつ、困民党の故郷を尋ねるという何とも思い出深い山旅の終焉である。

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