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極楽寺駅(850)→極楽寺(859)→成就院(911)→御霊神社(922)→長谷寺(940)→甘綱神明神社(1006)→光則寺(1017)→鎌倉大仏(1031)→大仏切通し(1049)→佐助稲荷(1117)→銭洗弁天(1130)→源氏山(1146)→葛原岡神社(1156)→浄智寺(1223)→長寿寺(1242)→建長寺(1303)→半僧坊(1334)→明月院(1412)→東慶寺(1443)→円覚寺(1502)→北鎌倉駅(1550) |
桜が満開となり春本番である。うららなる陽気に誘われて古都を散策するのも悪くない。鎌倉に行ってみる気になった。どういうわけか、鎌倉からさほど遠からぬ所に住んでいながら、この街へはまともに行ったことがない。記憶の底を探ると、微かに、小学校時代に遠足で行った記憶が思い浮かんだ。鎌倉の大仏、鶴岡八幡宮の大銀杏、そして長谷観音が思い出される。改めて案内書を開いてみると、見所としての旧所名跡はこれら三カ所どころかわんさわんさと書き記されている。さすが古都、とても一日では廻り切れない。
6時半前に家を出る。鎌倉までは2時間以上掛かる。近いようでもやはり遠い。東京駅で横須賀線に乗り換える。穏やかな春の休日にしては列車はガラガラである。鎌倉駅で江の島電鉄に乗り換える。「江ノ電」の愛称で知られるこのローカル鉄道には一度乗ってみたかった。家々の軒先をかすめながら走ること4駅目、極楽寺駅で降りる。時刻は9時少し前である。周囲に観光客の姿は見られない。 先ずは駅近くの極楽寺へ。茅葺き屋根の情緒を感じる山門を潜ると数10メートルの桜並木が本堂まで続く。はらはらと散る花びら、参道に敷き占められたピンクの絨毯、初っぱなから日本の春の美しさを満喫させてくれる。落ち着いたいい寺である。 東へ少し行くと鎌倉七切通しの一つである極楽寺坂切通しである。現在は舗装道路が越えているが、通る車は少ない。この場所は鎌倉の西の出入り口である。と同時に、西からの脅威に対する重要な防衛拠点でもあった。 元弘3年(1333年)5月、この切通し坂で歴史的な合戦が行われた。鎌倉幕府を滅ぼさんと押し寄せた新田義貞の大軍勢と、鎌倉を文字通り死守する幕府・北条軍とがこの地で激突した。激戦は5月18日から4日間続けど、北条軍の守りは堅く、新田軍はどうしてもこの拠点を抜くことができなかった。極楽寺坂の突破を諦めた新田義貞は稲村ケ崎にて竜神に祈り、5月22日、奇跡的に潮の引いた海岸に沿って鎌倉に突入した。14代執権北条高時は東勝寺にて一族郎党870名余とともに自害し、150年続いた鎌倉幕府は滅亡した。 極楽寺坂切通しの崖の上に3代執権北条泰時によって承久元年(1219年)に創建された成就院が建つ。あじさい寺として有名な寺である。花の季節には未だ早かったが、庭のきれいな静かな寺であった。門前から、由比ヶ浜が眼下に眺められた。 坂を下ると、天平時代に行基によって開かれたといわれる虚空蔵堂があり、その前に、鎌倉10井の一つ・星月の井または星月夜の井と呼ばれる井戸がある。この井戸の中に、昼間でも星の影が見えたのでこの名がついた。今は蓋をされていて中を覗くことは出来ない。 その少し先の御霊神社参道入口にある駄菓子屋風の小さな店が力餅家である。昔から御霊神社に寄り添って商売を営んできた和菓子屋で、名物の権五郎力餅という名のあんころ餅を売っている。10個入りで650円、お土産に一箱購入する。 参道を進み、門前を横切る江ノ電の線路を越えると御霊神社である。祭神は平安時代後期の鎌倉武士団の頭領・鎌倉権五郎景政である。権五郎景政は豪勇で知られた武将で後三年の役では源義家にしたがって活躍した。境内には人影もなく、ひっそりとしずまりかえっていた。本殿前には1本の桜が満開の花を散らし始めていた。 極楽寺坂通りに戻り、大きな三差路を左折する。長谷駅横で線路を越えると長谷観音入り口である。途端に、どこから湧きだしたのか、観光客が道路を埋める。さすが、うららかな春の休日である。人波に従い長谷観音に向う。小学校の遠足でもこの寺に来た微かな記憶がある。 拝観料と称して300円徴収される。何故お寺に参拝するのに金を払わされるのか。腹立たしいかぎりである。寺がすでに信仰の対象ではなく、観光の対象となっている証拠だろうがーーー。ならば税金を払えといいたくなる。宗教法人は無税である。そのくせ、本尊である十一面観音の前では脱帽して手を合わせよと、宗教的儀式を強制している。 境内に入る。緑豊かな山腹に各伽藍が並んでいるため、下から眺めると何とも美しい。ただし伽藍はいずれも新しく、時代を感じる建物はない。本尊・十一面観音は像高9.18メートル、さすがに迫力がある。境内からの相模湾の一望は見事である。込み合う境内を早々に辞す。 近くの甘縄神明神社へ向う。710年創設と伝えられる鎌倉最古の神社である。そしてまた源氏縁の神社でもある。源頼義が祈願して子の八幡太郎義家を授かったと伝えられ、源頼朝も社殿を修理している。たどり着いた路地奧の甘縄神明神社は、社務所もない小さな神社であったが、何とも神々しい心休まる神社であった。やや急な長い石段が山腹に向って一直線に登り上げ、その先に社殿が鎮座している。そして、石段の前には数本の桜の木が満開の花をつけていた。神社の裏山は神輿ヶ嶽(見越ヶ岳)とい、古くから歌に詠まれた。「都には はや吹きぬらし 鎌倉の 神輿ヶ崎 秋の初風」 再び観光客で混雑する長谷観音前交叉点に戻り、長谷寺の北隣の光則寺へ行く。日蓮宗の寺である。 ここは元々、北条時頼の近臣・宿谷光則の屋敷であった。1271年の龍の口法難で日蓮は佐渡に流され、ともに捕らえられた弟子の日朗はこの地の土牢に幽閉された。光則は日朗を監視する役目を担ったが、次第に日蓮、日朗に心を動かされ、後に日蓮に帰依して自宅を寺とした。 山門を潜ると、今までとどうも雰囲気が違う。一眼レフを取り付けた三脚を抱えた人がうろうろしている。本堂前まで進んでようやく事情を理解した。巨大な一本の樹木が、本堂を覆い隠すがごとく、濃いピンクの花を枝一杯につけている。そして、この景色を写さんと、三脚を抱えたカメラマンたちが周りを取り囲んでいる。 最初、桜かと思ったが、それにしては花の色が濃い。すぐにカイドウの花だと気がついた。樹齢200年といわれる古木である。この寺はカイドウの寺と呼ばれている。 大通りを北上して鎌倉の大仏を目指す。狭い歩道は観光客で溢れ、歩きにくい。長谷寺から大仏に向うこの道はまさに鎌倉観光のメイン道路である。200円の拝観料を払い境内に入る。60年ぶりの大仏さんとの再会である。大仏の座す広場は多くの人々で賑わっていた。皆、大仏をバックに記念撮影に余念がない。私も立ち止まって大仏を見上げる。顔をつくづくと眺めながら、次の一句を思い浮かべた。 「鎌倉や 御仏なれど釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな」 与謝野晶子の有名な一句である。この句のおかげで、鎌倉の大仏は何とも親しみのある存在となった。 大仏を眺めながら面白いことに気がついた。この大仏は高徳院という浄土宗のお寺の御本尊である。晶子の歌と異なり、釈迦牟尼ではなく阿弥陀如来だそうだがーーー。それにもかかわらず、誰一人御本尊に向って手を合わせている人はいない。考えてみれば不思議である。 この大仏製造の経緯はよくわかっていないようだが、1252年に鋳造が開始されたと考えられている。高さ13メートル、総重量は122トンに上るとのことである。かつては大仏殿に収まっていたが、大仏殿は明応の大地震による津波で流されてしまった。この地まで押し寄せた大津波があったと思うと恐ろしくなる。 高徳寺を出て、長谷通りを北西に進む。途端に観光客は姿を消す。すぐに道は新大仏坂トンネルとなって立ちはだかる山稜の下を貫いて行く。私はトンネル入り口から山稜を登って行く細い山道に踏み込む。ここからいよいよ葛原岡・大仏ハイキングコースである。鎌倉の西の境となる山稜上に設けられたハイキングコースである。 丸太を横木とした急な階段が延々と続く。のっけからものすごい一直線の急登である。しかも昨日一日降り続いた雨のためか、足下に泥濘が多い。意外なことに、反対方向からハイカーが続々と下ってくる。幾つもの団体のようだが、切れ目がなく列が続く。狭い山道ゆえ、いたって登りにくい。 ハイキングコースは稜線に達する手前で右に斜行するが、踏跡を辿ってそのまま稜線まで登り上げてみる。一筋の踏跡が稜線を乗っ越している。ここが昔の鎌倉七切通しの一つ・大仏坂切通しの跡である。梶原・山崎を経て藤沢に通じる切通しである。ずいぶん険しい坂であったことが伺える。 尾根道を行く。相変わらず、次から次へと団体ハイカーの列がすれ違う。旗を持ったガイドらしき人が先頭を行く。年寄りや子供も多く混じる。旅行社公募の団体旅行なのだろう。山道ではあるが人の足に馴染んだ確りした道で危険はない。それでも時折大きな段差があったり、泥濘があったりで年寄り子供が難渋している。尾根は木々に包まれているが、多くは照葉樹である。奥武蔵の広葉落葉樹林の森とは異なる。鎌倉はやはり温暖なのだろう。時折、桜の木が混じり、花吹雪を浴びせかける。 15分も進むと、「佐助稲荷」と標示された小道が右に分かれる。ハイキングコースを捨て、小道に踏み込む。谷底に佐助稲荷が見えている。しかし、この道はひどかった。急峻なうえにグジャグジャの泥濘道、おまけにつるつるの岩が露出している。とてもではないがまともには歩けない。通る人もほとんどいなさそうである。 何とか下り、赤い幟のはためく佐助稲荷に到着した。伊豆に配流中であった源頼朝の夢枕に「隠れ里の稲荷」と名乗る神霊が現れ、挙兵を勧めたという。頼朝は天下統一後、畠山重忠に命じ、隠れ里と呼ばれたこの地に社殿を建て神霊を祀った。「佐殿」と呼ばれていた頼朝を助けたので「佐助稲荷』と呼ばれるようになったとのことである。 いくら何でもあの悪路を戻る気はしないので、無数の赤い鳥居と赤い幟の連なる参道を谷に沿って下る。その上で改めて隣りの谷の源頭に建つ銭洗弁財天を目指す。たどり着いた弁財天は大賑わいであった。洞窟から湧きだす銭洗水と呼ばれる霊水で銭を洗うと数倍になるという。何とも嬉しい神社である。老若男女各々が貸し出された笊にお金を入れ、柄杓で懸命に霊水を掛けている。笊の中は、多くは千円札だが中には万円札の人もいる。せっかくだから私も試みることにする。ただし百円玉だがーーー。 岩をくりぬいたトンネル状の参道を通って境外に出る。急な傾斜の車道を登って行くと尾根に出た。佐助稲荷分岐で分かれたハイキングコースと再会である。一帯は源氏山公園として自然豊に整備され、また桜の名所ともなっている。ハイカーの姿が多い。尾根に沿って右に進むと、道は源氏山と呼ばれる穏やかなピークに登り上げる。その手前で、左に下って行く急な坂道がある。 この坂道が鎌倉七切通しの一つである化粧坂(けわいざか)切通しである。鎌倉から武蔵方面に通じる主要な出入り口で、また鎌倉防衛上重要な拠点でもあった。元弘3年の新田義貞による鎌倉攻めの際にはこの坂は激戦地となった。寄り道となるが、この有名な坂を歩いてみよう。坂道を往復してみる。今でも岩盤の露出した極めて急な坂道で、お年寄や幼児が難渋していた。 源氏山の頂に至る。大きく開けた広場となっていて、その中心に源頼朝の大きな銅像が建っている。銅像の周りでは多くのハイカーが座り込んでお弁当を開いていた。時計を見ると、もう12時近い。 ゆったりした尾根道を進むと左側に日野俊基の墓があった。俊基は後醍醐天皇の近臣で鎌倉幕府打倒のために奔走した。捕らえられ、1332年この地で処刑された。そのすぐ先が葛原岡神社である。日野俊基を祭神として明治20年に創建された神社である。余りありがたみの感じられない神社と見え、参拝する人は少ない。ただし、その門前の広場は大賑わいである。満開の花をつけた桜が立ち並び、その花の下で、何組ものグループがお弁当を開いている。近くにはビールを販売する露店まで開かれている。私も一人寂しく、その隅でコンビニの握り飯をほお張る。 葛原岡神社から道は下りとなって北鎌倉へと続いている。急に人影の薄くなった道を足早に15分も下ると、浄智寺に達した。5代執権北条時頼の3男宗政の菩提を弔うために夫人と子の師時が創建した寺である。鎌倉5山第4位に列する大寺で、盛時には塔頭が11院もあったといわれている。現在はキキョウやシュウメイギクなどの花の寺として知られている。 200円の拝観料を払い境内に入る。二階が鐘楼となっている珍しい造りの山門を潜り、仏殿である曇華殿の前に出る。意外に質素な、かつ、味気ない建物である。その他見るべき建築物もない。伽藍はいずれも昭和になってから再建されたとのことである。 参道を下ると車の往来の激しい鎌倉街道に出た。ハイキングコースの終焉である。JRの北鎌倉駅がすぐ側だが、時刻はまだ12時半、北鎌倉に点在する寺院を廻る時間は十分ありそうである。踏み切りを渡って鎌倉街道を南に歩く。この道は車道も歩道も車と人で溢れている。絶好の行楽日和に誘われ、多くの人が古都を訪れたようだ。 「犬も歩けば棒に当たる」というが、棒ならぬ素晴らしいお寺に行き当たった。何とも心休まるお寺であった。その興奮が帰宅した今も続いている。寺の名は長寿寺、足利尊氏を供養するため息子の足利基氏によって建てられた寺である。現在は建長寺の境外塔頭となっている。 のんびりと鎌倉街道を歩いていると、右側に茅葺き屋根の優雅な山門を持つお寺が現れた。そして「本日公開中」の標示。後で知るのだが、公開は限定的で、「雨天を除いた金曜日、土曜日、日曜日のみ」とのことである。どんなお寺か知らないがーーー。見学してみることにする。拝観料300円を払い山門を潜る。 「どうぞ玄関からお上がり下さい」と受付の僧が柔らかな物腰で対応する。どうも今まで参拝してきた寺院と雰囲気が違う。山門の奧にはよく手入れされた庭が広がり、その先に未だ新しい書院造の建物が見える。 玄関に赴くと別の僧が出迎え、「どうぞお上がり下さい。奥の部屋に御本尊をお祀りしておりますのでどうぞ御参拝下さい」と廊下の奥を指し示す。その和室には焼香台を備えた祭壇が設けられていた。勝手はわからぬが正座して御本尊に手を合わす。戻ると、「どうぞごゆっくり御見学下さい」と廊下続きの隣りの建物に導く。そちらが書院らしい。 廊下伝いに書院に移った瞬間、思わず「うぇーー、これはすげぇ」と少々下品な大声をあげてしまった。目の前に、何とも表現しようもない、優雅そのものの日本庭園が出現したのである。と、別の僧がニコニコしながら現れ「この部屋の奥に座って眺めると一層素晴らしいですよ」と静かにアドバイスする。いわれた通り、部屋奧の畳の上に座し、庭を眺める。畳、障子、廊下、そしてその向こうに広がる日本庭園、何とも表現しようもない優雅な景色である。書院のさらに奧には小さな方丈、この方丈から眺める庭も素晴らしい。参拝者は私のほかに3人ほど、皆、単独である。言葉を発することもなく、庭を眺め続けている。 しばし日本の美の極致を味わった後、玄関より裏庭に出る。その片隅にはいささか古めかしい茅葺き屋根の優雅な建物が建っていた。旧本堂で、現在の観音堂である。観音堂奧の崖には大きな石窟が掘られ石塔が並んでいる。足利尊氏の遺髪を納めた墓地と伝えられている。 長寿寺を出て、建長寺に赴く。車も人も多い鎌倉街道を少し進むと、左側に建長寺の総門が現れた。この門には「巨福山」と山名を記した扁額が掲げられているのだが、「巨」の字に筆勢から点が加えられている。この点は百貫の価値があるといわれ「百貫点」と呼ばれている。 門を潜り境内に入る。建長寺は1253年、5代執権北条時頼が宋の蘭渓道隆を招いて開いた日本最初の禅宗の寺であり、鎌倉5山第1位に列する大寺である。伽藍配置は中国の径山万寿寺を模して、山門、仏殿、法堂が一直線に並んでいる。当初の伽藍は数度の火災で多くが焼失したが江戸時代に再建された。 300円の拝観料を払い、桜並木となった参道を散る花びらを浴びながら三門に向う。建長寺は桜の名所でもある。建長寺の山門は「三門」と呼ばれる。「建長興国禅寺」と記された扁額がか掛けられているが、この文字は後深草天皇の宸筆である。三門の右横には鐘楼がある。国宝となっている梵鐘は北条時頼の寄進で、蘭渓道隆の明文が浮き彫りにされている。鋳物師は物部重光である。つい1週間前に訪れた埼玉県ときがわ町の慈光寺の鐘も物部重光の作であった。説明文を読みながら懐かしく感じた。 山門を潜り仏殿に向う。と、その手前で度肝を抜かれた。巨大な7本のビャクシン(柏槙)の出現である。幹周り7メートルにも及ぶ幹は波打ちうねり、その古さが尋常でないことを示している。この柏槙は蘭渓道隆が宋から持ってきた種を植えたものと伝えられ、建長寺創建当時を偲ぶ貴重な遺物である。芝増上寺から移築されたという仏殿に詣で、その奧の法堂に進む。法堂は履物を脱いで上がることが出来た。見所は法堂裏手に広がる庭園である。蘭渓道隆の作庭で国の名勝に指定されている。法堂の内部より庭園を眺める。 多くの見学者はここで引き返すが、元気のよいものは、建長寺最奧の堂宇・半僧坊を目指す。建長寺は大きく開けた谷の奧に向って伽藍が並んでいるのだが、その谷の最奧、稜線に近い山腹に半僧坊を祀った一宇がある。立ち並ぶ塔頭の間を抜けて奧へ奧へと進む。建長寺の塔頭は最盛期には49院を数えたというが、現在も12院が残っている。初め緩やかであった傾斜も次第に増し、やがて急峻かつ長大な石段となった。この石段は手強かった。登れど登れど尽きない。ついに踊り場のベンチにへたり込み、握り飯をほお張る。エネルギーを補充である。 急峻な山腹に張り付くようにして建つ半僧坊の堂宇に登り上げた。半僧坊とは天狗のようなもので、浜松市郊外の奥山方広寺において寺の鎮守として長年祀られてきた。この半僧坊が、どういうわけか、1890年に建長寺に勧請され、寺の鎮守とされた。半僧坊の堂宇は急峻な斜面に張り付いているのでここからの展望は絶佳である。眼下に小さく建長寺の建ち並ぶ伽藍が見え、目を左に振れば相模湾が春霞にかすんでいる。視界の良い日には連なる山並みの背後に富士山が見えるという。 ここまでやって来た参拝者は元の道を引き返していくが、私はこの上の山稜上に設けられた「天園ハイキングコース」を利用して明月院に向うつもりでいる。半僧坊の裏手から再び急峻な石段に挑む。少々頑張ると半僧坊の裏山となる「勝上けん(山冠に献)」と呼ばれる145メートルピークに登り上げた。山頂直下には展望台が設けられていて、数人のハイカーが展望を楽しんでいた。 山頂から右に続く山道は十王岩、鷲峰山を経て瑞泉寺に向うルート、私は左に続く山道、すなわち明月院に向うルートを辿る。人の気配の消えた樹林の中の尾根道を進む。顕著な一峰を越え、道なりに下っていくと住宅地に下りついた。さらに明月院谷沿いの細い舗装道路を下る。やがて左手に明月院の山門が現れた。 明月院はもともと、関東10刹第1位の大寺・禅興寺の塔頭であった。所が、禅興寺は排仏毀釈のあおりを受け、明治初年に廃寺となってしまった。このため、塔頭であった明月院のみ残ることになった。明月院は紫陽花寺として有名である。 拝観料300円を払って境内に入る。境内は何やら温和な優しい雰囲気に満ちている。建長寺の雰囲気とはまったく異なる。総門から山門へ向け、緩やかな登り坂となった参道を進む。両側を埋め尽くす紫陽花は未だ花はつけていないが、緑の若葉が美しい。そして並木となって続く桜はピンクの花びらをはらはらと散らす。花一杯の枝垂れ桜は枝先を我が肩先へとしだれかける。寺全体が日本の春の美しさを見事に奏でている。 山門を潜って方丈に達すと、そこには枯山水の美しい庭園が広がっている。方丈の座敷奥の円窓を通して見える背後の庭園も、まるで丸く切り取られた絵画のようである。方丈の奧の一段高い山裾には、茅葺き屋根の美しい開山堂(宗猷堂)が建っている。その背後の岩壁には鎌倉最大と言われる「やぐら(鎌倉時代の横穴式墳墓)」があり、やぐら内中央の宝篋印塔は上杉憲方の墓とされている。今朝方一番で見学した極楽寺坂にも上杉憲方の墓と称する七層塔があったがーーー。また、明月院入口には5代執権北条時頼の墓とされる宝篋印塔があった。美しい寺を去る。 いったん鎌倉街道に出て、北鎌倉駅方面に向って北上すると東慶寺の門前に出た。少々長い石段を登り、茅葺きの小さな山門を潜る。100円の拝観料を払って境内に入る。東慶寺は1285年の創建以来明治35年に到るまで、男子禁制の尼寺であった。そして、駆け込み寺、縁切り寺として不敏な女性を救済してきた。開山は8代執権北条時宗の妻・覚山尼である。 特異な歴史のある寺ではあるが、見るべき所はあまりなかった。花の寺として人気があるらしいがーーー。仏殿も現在の建物は昭和10年建立された比較的新しいものである。国の重要文化財に指定されている旧仏殿は、明治40年に横浜市の三渓園に移築されてしまった。境内にある松ケ岡宝蔵には縁切り状等見るべきものがあるようだが、別途入館料300円と聞いて入館を諦めた。また、この寺には、和辻哲郎、高見順、鈴木大拙、西田幾多郎、岩波茂雄等の著名人の墓地がある。ただしこれらの墓地を探し当てる気も起きず、寺を後にした。 今日最後の見学地・円覚寺に向う。横須賀線の線路を越えると総門の前に出た。時刻はすでに午後3時だが、門前はまだ大勢の参拝者で賑わっている。門を潜り、拝観料300円を払って境内に入る。円覚寺は鎌倉5山第2位に列する大寺であり、境内は広大である。大きく開けた谷間に、下流から上流に向って多くの伽藍や塔頭が並び建っている。伽藍配置は建長寺と同じく中国の径山万寿寺を手本としたもので、山門、仏殿、法堂が直線上に配置されている。この寺はは元寇で死んだ日本・蒙古両軍の兵士を弔うために、8代執権北条時宗により1282年に建立された。 1780年代に再建された巨大な山門を潜る。掲げられた「円覚興聖禅寺」の扁額は伏見上皇の宸筆と伝えられている。山門の先には仏殿があるのだが、そこへ行く前に、右手高台にある洪鐘(梵鐘)と弁天堂を見学しておこう。長大な石段を登る。この階段登りは苦しかった。何度も何度も立ち止まり息を継いだ。ようやく登りついた鐘楼は人影もなくひっそりしていた。その隣りに弁財天の堂宇が建つ。鐘楼に吊るされた梵鐘は巨大である。高さ2.5メートルと関東一の大きさを誇り、国宝に指定されている。この洪鐘(おおがね)は9代執権北条貞時によって寄進された。巨大さがために鋳造は失敗を繰り返し、3度目の鋳造でようやく成功したと言われる。貞時は鋳造成功に感謝し、鐘楼の隣りに弁天堂を建立した。 案内書によると、鐘楼の隣りに帰源院がある。円覚時の塔頭の一つである。明治27年の年末から翌年の初めにかけて夏目漱石がこの寺院に参禅した。この体験が小説「門」に書かれている。鐘楼からすぐに行けると思ったが、直通路はなく、いったん山門近くまで下って、改めて高台に登り直さなければならなかった。今度の登りは石段でなく急な舗装道路であったがーーー。しかし、起源院の門は閉じられ、「関係者以外立ち入り禁止」の標示。庭を覗き込んだだけで引き返した。 仏殿に行く。昭和39年に再建された鉄筋コンクリート造りで、ありがたみは余り感じられない。ただし、掲げられた「大光明宝殿」の扁額は後光厳天皇の御宸筆と伝えられている。また、天井に描かれた「白龍の図」は前田青邨監修、守屋多々志揮毫で見ごたえがある。仏殿の奧は方丈、さらにその奧へと伽藍が続く。かなり奧の山裾まで続いているようだ。いずれも円覚寺の塔頭である。最盛期には42院を数えたという。現在でも19院が建ち並んでいる。 ぶらりぶらりと傾斜の増した坂道を登って行く。左手に妙香池があった。創建当時からの池で、夢窓疎石の作庭だという。さらに進むと左手奧に舎利殿があった。鎌倉で唯一国宝となっている建物である。ただし立ち入り禁止となっており、遠くから眺めるだけであった。さらに進むと、8代執権北条時宗の廟所である佛日庵があった。ただし更なる拝観料が必要なので入場はパス、外から茅葺き屋根の堂宇を眺める。戻ることとする。 時刻も午後4時近くなり、広大な境内も閑散としてきた。山門まで戻ると、右手に松嶺院という塔頭があった。何気なく門前をふと見ると、「坂本弁護士の墓地はこちら」との小さな標示が目に留まった。この表現だけで特定できる弁護士は日本に一人きりいない。オウム真理教に惨殺された坂本弁護士一家であろう。こんな所に墓があるなどとはまったく知らなかった。通りかかったのも何かの縁、お参りしていくことにする。伽藍の裏手の高台にある墓地に赴く。墓前で手を合わす。同じ墓地に開高健の墓もあった。 総門を出てJR北鎌倉駅に行く。すぐ目の前である。やってきた上り列車はラッシュアワー並の超満員、びっくりした。これだけの人が今日、古都鎌倉を訪れたのだ。大船で乗り換えた東海道線上り列車は充分に座席を得ることが出来る込み具合であった。
登りついた頂
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