鎌倉散歩 (その二)

 天園コースと祇園山コース 

2012年4月29日

源頼朝の墓
高時腹切りやぐら
                                                         
 北鎌倉駅(820)→円応寺(835)→建長寺(837)→葛西善蔵の墓(946)→半蔵坊(856)→勝上けん展望台(903)→十王岩(913)→大平山(941)→瑞泉寺(1032)→永福寺跡(1056)→護良親王の墓(1103)→鎌倉宮(1120)→覚園寺(1136)→荏柄天神社(1200)→源頼朝の墓(1213)→来迎寺(1238)→宝戒寺(1255)→高時腹切りやぐら(1314)→祇園山コース見晴台(1341)→八雲神社(1352)→常栄寺(1355)→妙本寺(1359)→本覚寺(1425)→蛭子神社(1432)→日蓮辻説法跡(1435)→大巧寺(1445)→鎌倉駅(1450)

 
 桜も散り、ゴールデンウィークがやって来た。昔は絶好の雪山シーズンであったが、残念ながら、もはやピッケル、アイゼンの世界とは縁遠くなった。それでも家に蟄居していても仕方がない。前回やりかけた「鎌倉散歩」が残っている。春本番の暖かな気候に誘われて再び鎌倉に行ってみることにする。前回は、鎌倉の西を区切る山稜、すなわち「葛原岡・大仏ハイキングコース」を歩いた。今回は北と東を区切る山稜、すなわち「天園ハイキングコース」と「祇園山ハイキングコース」を歩いてみることにする。

 北鴻巣6時11分の上り列車に乗るも、座れず。さすがゴールデンウィークである。上野経由で北鎌倉着8時20分、やはり鎌倉は遠い。鎌倉街道を南に歩く。車の混雑はまだ始まっていないが、今日は凄まじい渋滞になるのだろう。約15分で左手に建長寺の総門が現れた。鎌倉街道を挟んだその斜め向いが今日最初の訪問地・円応寺である。前回、門前近くを通りながら訪問し忘れた。円応寺は建長寺の塔頭である。1250年創建の臨済宗建長寺派の寺で、人が死後冥界で出会う十王を祀る寺である。本尊の閻魔大王像は運慶作と言われ国の重要文化財となっている。

 数メートルの石段を登り山門に達すると、門は閉まり、「拝観は終了しました」の掲示。どうやら開門前らしい。塀越しに中を覗き込んでいたら、寺の関係者らしい人がやって来て、「拝観は9時からですよ」と言い捨てて山門脇の小扉から中へ入って行った。現在の時刻は8時35分、25分間もこの場にたたずんでいるわけには行かない。階段を下り、建長寺に向う。

 建長寺は鎌倉五山第一位に列する大寺である。前回十分に見学したので訪問する必要はないのだが、天園ハイキングコースへ入山するにはこの寺の境内を通らざるを得ない。拝観料徴収所には「天園ハイキングコースへ向う方も、境内を通過しますので拝観料が必要です」と、丁寧にも注意書きが掲示されている。まったくもぉーーー。300円の損失である。所が、受付窓口が閉まっており、横に小さな掲示。「ただいま係の者が席を外しています。拝観料はお帰りの際に支払い下さい」。私は境内を通り抜けるので、この場所に戻ることはない。300円の儲けである。

 三門を潜り、佛殿、法堂に参拝し、方丈の裏手より半蔵坊への道を辿る。今日は途中で一つ寄り道を考えている。塔頭の一つ回春院の墓地に作家・葛西善蔵を訪ねるつもりでいる。葛西善蔵(明治22年〜昭和3年)は大正から昭和初期にかけて活動した津軽出身の小説家である。その生活はめちゃくちゃで破滅的であった。重い結核を患う病身ながら大酒を喰らい、極限の貧困の中で手当たり次第に借金を重ね、その上、妻以外の女性と同棲して子供まで生ませてーーー。そしてその破滅的な生活を私小説の題材にしてーーー。なんとも、はや、どうしようもない人間である。

 すぐに道の左手にバラックのような平屋建てが2〜3軒現れた。そのうちの1軒に「招寿軒」の消えかかった表札がかかっている。すでに営業はしていないが、かつて半蔵坊への参拝者を相手とした茶屋、招寿軒である。そしてまた、葛西善蔵と深いかかわりを持った茶屋である。

 善蔵は、大正12年、妻子を故郷津軽に残したまま上京し、病気療養も兼ねて建長寺の塔頭・宝珠院の庫裏を借りて生活を始める。三度の食事はこの招寿軒に頼み、店の娘・浅見ハナが運んだ。その後、善蔵は借金を残して東京に去る。その借金を取り立てるため東京に赴いたハナと、何と、同棲を始め、子供二人をもうけるのである。

 回春院へ向う小道の分岐する角に墓地があった。入るとすぐに「葛西善蔵の墓」と刻まれた墓石を見つけた。墓石の横面には「藝術院善巧酒仙居士」と戒名が刻まれている。この墓には浅見ハナも合葬されている。

 墓を出て、正面に聳える山に向って進む。その山頂近くに目指す半蔵坊は鎮座している。目の前に樹林の中を登り上げていく急な、かつ長大な石段が現れた。前回は、一気に登りきれず、途中の踊り場で握り飯をほお張り、エネルギー補充をせざるを得なかった。足下だけを見つめ、ゆっくりゆっくり登って行く。今日は未だエネルギーの十分にある朝方、前回ほどの苦しさはない。それでも何回か立ち止まる。

 登り上げた半蔵坊に人の気配はなかった。眼前に、大展望が広がっている。つい2週間前に見たのと同じ景色である。ただし、その眺めは大きく変わっている。2週間前には山肌のあちこちに煙るような薄いピンクが混じっていたが、今眼前に広がる山肌はただ一面の新緑である。前回はっきりと見えた海も、春霞の中にぼやけて空との区別がつかなくなっている。

 ザックを降ろすこともなく、展望をひと眺めして、堂宇の背後に続く登山道に踏み込む。いよいよここからは、天園ハイキングコースである。今まで以上に急な石段を頑張って登ると、山頂直下の展望台に出た。「勝上けん展望台」である。先行パーティである中年の夫婦連れが休んでいた。このパーティとは、時々言葉を交わし、前後しながらハイキングコースを辿ることになる。ここからの展望は、半蔵坊からの展望よりも高度が上がったためにより立体感がある。海に面し、三方を山に囲まれた鎌倉の地形がはっきりわかる。

 ほんのちょっと上が「勝上けん」147メートルの山頂である。展望もない樹林の中で、山頂標示もない。三差路となっていて、左へ向う道は明月院に到る。前回、私が辿った道である。天園ハイキングコースは右に向う道である。小さな上下を繰り返しながら樹林の中の尾根道を行く。天気予報通り、空は真青に晴れ渡り、気温はぐんぐん上昇している。暑くてたまらず、Tシャツ一枚になる。辺りは全て照葉樹の森である。普段、武蔵野のクヌギやコナラなどの落葉広葉樹の森を歩き廻っているので、何となく新鮮な気分になる。

 「勝上けん」からほんの10分ほどで十王岩に着いた。露石に、だいぶ摩耗しているが、三体の仏像が刻まれている。案内書によると、如意輪観音、血盆菩薩、閻魔大王とのことだが、この三仏の関係がよく分からない。閻魔大王は確かに十王であるが、他の二仏は十王とは関係ないはずである。何故、この岩が十王岩と呼ばれるのだろうかーーー。難しいことはさておき、十王岩上部からの展望が素晴らしい。この展望は「神奈川の景勝50選」に選ばれている。眼下に鎌倉市街地が広がり、その中心を若宮大路が太く一直線に貫いている。

 さらに尾根道を数分進むと覚園寺分岐に達した。確りした道標があり、小道が右へ下っている。さらに縦走路を進む。道ははっきりしており、不安は何もないのだが、一昨日降り続いた雨のためか、所々泥濘が現れ閉口する。今日の私の足回りは、舗装道路歩きが多いことを考え、ジョギングシューズである。何人かのハイカーとすれ違う。いずれも単独または二人連れで、前回の葛原岡・大仏ハイキングコースのように数十人の大パーティではないので気分的にはよい。やがて尾根道の左側は杭やロープで区切られるようになった。どうやらゴルフ場のようである。まったくもぉーーー、こんな所までゴルフ場を造りやがって。

 覚園寺分岐から約20分、ちょっとした登りを経るとピークに達した。鎌倉市の最高峰・大平山159メートルである。久しぶりに展望が東方に開け。緑豊かな山並みが累々と広がっている。とはいっても、山頂の北側半分は金網で仕切られ、ゴルフ場の敷地に取られてしまっている。目の前には鎌倉カントリークラブのクラブハウスがどっしりと建ちはだかり、ハイキングのムードの半分は吹き飛んでしまっている。

 ひと休みしたいのだが、山頂はどうもムードが悪い。おまけに日陰もなく暑くてたまらない。山頂の東側直下に大きな平坦地が広がっており、その隅の方に日陰が得られそうである。山頂から急な岩稜を下る。草原に腰を下ろし握り飯をほお張る。勝上けんから常に前後しながらやって来た夫婦も、少し離れた日陰で弁当を広げている。

 今日はまだまだ先が長い。早々に腰を上げる。ルートは何と車の通れる地道となった。左側にはゴルフ場が続き、ルートのすぐ横にティーグランドが現れる。うんざりしながら進むと、茶屋が現れた。天園、或いは六国峠と呼ばれる地点である。相模、伊豆、武蔵、上総、下総、安房の六国が見渡せたという。しかし、それはどうも昔のことのようだ。展望の得られそうな場所はおろか、茶屋の椅子以外に腰を下ろせそうな場所もない。そのまま通過する。一段下にももう一軒茶屋があった。この辺り道が離れたり合わさったり少々複雑である。ただし、道標は確りしているのでよく確認すれば問題はない。

 ここからは下り一方の道となった。逆方向へ行くハイカーと頻繁にすれ違う。やがて名王院分岐に達した。思いのほか確りした登山道が左に分かれる。一瞬右手に展望が大きく開けた。越えてきた大平山がよく見える。ただし、その横にクラブハウスまではっきり見えるのは興ざめである。瑞泉寺へ向けての急な下りとなった。岩盤剥き出しのいたって歩きにくい道である。我慢もしばしの間、すぐに瑞泉寺の参道に下り立った。天園ハイキングコースの終焉である。

 拝観料200円を払い参道を進むと、道は二つに分かれる。どちらも心地よい石段となって緑豊かな境内に続いている。左が旧道で「男坂」、右のやや緩やかな石段は新道で「女坂」と呼ばれている。女坂を進むと、二つの石段は山門の前で再び合わさる。

 大き過ぎず、小さ過ぎず、禅宗の寺らしい心休まる山門を潜り、緑溢れる境内に入る。溢れる木々の緑に半ば隠れながら本堂、仏殿が姿を現す。静寂のみが辺りを支配している。境内の細道を辿ると自ずと仏殿の前に導かれる。緩やかに反った二層の屋根を持ち、まるで奏でる音楽を聞くかのような美しい伽藍である。本尊の釈迦如来を礼拝して伽藍の背後に廻ると、夢窓疎石の作と言われる庭園が広がっている。背後の岩壁に「天女洞」と「坐禅洞」の二つの洞窟が掘削され、その前面に池が配され橋が掛けられている。国の名勝に指定されている庭園である。夢窓疎石は京都の西芳寺(苔寺)や天龍寺の庭園も造っており、作庭の名人でもある。

 瑞泉寺は1327年、夢窓疎石によって開かれた臨済宗の寺である。その後、初代鎌倉公方・足利基氏が中興し、鎌倉公方代々の菩提寺となった。関東十刹第一位の格式を誇った名刹である。現在は「花の寺」として名高い。男坂を下ってこの美しい寺を去る。

 紅葉川に沿った小道を下る。瑞泉寺は二階堂川の枝沢である紅葉川最奧に位置する。今日はこれから、二階堂川沿いの寺社仏閣や旧跡を訪ねながら鎌倉中心部に向うことになる。紅葉川と二階堂川の合流点で道玄橋を渡る。右手に、テニスコートと未整備の原野が広がっている。ここが永福寺(ようふくじ)跡である。道端に永福寺跡の碑が建っている。今後遺跡としての整備が進められるようである。

 源頼朝は三つの大きな寺社を建立した。すなわち、鶴岡八幡宮、勝長寿院、そして永福寺である。このうち現存するのは鶴岡八幡宮のみである。永福寺は弟・義経と奥州藤原氏の鎮魂のために1192年建立された壮大な寺院で、奥州平泉の中尊寺二階堂を模した二階堂を中心に薬師堂、阿弥陀堂、三重塔が配された。1405年に焼失したが「二階堂」の名はこの付近の地名として現在まで残されている。

 理智光寺橋で二階堂川を渡って理智光寺谷に入る。少し進むと道端に理智光寺跡との石碑を見る。この寺の詳細はよく分からないようだが、源実朝の供養のために建てられた寺とも伝わる。明治初期まで阿弥陀堂が残ってたが廃寺となった。この寺が登場する歴史的事柄がわずかにある。1335年に、殺害され捨てられた護良親王の首を拾い、埋葬したのが理智光寺の住職であったと伝えられている。

 護良親王は後醍醐天皇の第三皇子である。11歳で比叡山延暦寺に入るも、後醍醐天皇が倒幕の旗を掲げると還俗して倒幕武力闘争の第一線に立ち、建武の中興に大いに貢献する。しかし、倒幕後、いったんは征夷大将軍になるも、足利尊氏と対立し、捕らえられて鎌倉の東光寺に幽閉される。その後、1335年に殺害された。

 この理智光寺跡碑と道を隔てた反対側、山際に護良親王の墓がある。どういうわけか、地図には記載があるものの、案内書にはこの墓についての記載は一切ない。そのためだろうか、二階堂川沿いの道には多数見られた観光客の姿は、この理智光寺谷に入った瞬間皆無となった。

 石垣で囲まれた墓域に「後醍醐天皇皇子 護良親王墓」と刻まれた石柱が立ち、その背後の山肌を、天に昇るのかと思えるほどのただ一筋の長大な石段が登り上げている。どうやら墓はこの石段の先にあるらしいがーーー。石段の前で登るのを逡巡する。いくら何でも、この石段を登るのはどれほどの体力が必要だろう。上を見上げるも石段は視界の外へと消えている。覚悟を決めて石段に取りつく。深い樹林の中、途中に踊り場さえない急登である。辺りに人の気配はまったくしない。否、最近人が訪れた気配さえ感じられない。

 息も絶え絶えに墓前に到達した。墓はさらに数十段の石段の先にあるが、カギのかかった鉄扉にに閉ざされている。扉の前に花が供えられていた。一体どんな人がここまで参拝にやってきたのだろう。慎重に慎重に危険な石段を下る。この墓は宮内庁が管理しているという。

 二階堂川沿いの小道をさらに少し下ると、鎌倉宮に達した。立派な神社で、参拝者で溢れていた。この地はもともと、護良親王が幽閉されていた東光寺のあった場所である。明治2年、明治天皇はこの地に、護良親王を祭神として鎌倉宮を創建された。建武の中興を多いに評価する明治維新直後の熱い空気の中でなされた、極めて政治的な創建であったのだろう。社殿の奧に。親王が幽閉されていたという土牢があるとのことだが、拝観料が別途300円とのこと。そこまでして土牢を見たいとは思わない。

 鎌倉宮の門前から北へ向って山懐へ入って行く谷を薬師堂ヶ谷と呼ぶ。薬師堂とはこの谷の奧にある覚園寺(かくおんじ)の本堂である。少々遠いが、谷を遡って訪問してみることにする。家々の建ち並ぶ緩やかな坂道を登って行く。進むに従い坂は次第に傾斜を増す。15分ほど進み、谷が詰めに入るところで、続いてきた小道は覚園寺に突き当たった。この寺は、1218年、二代執権北条義時が建てた大蔵薬師堂を前身とする。1296年に9代執権北条貞時が、元寇が再び起らぬようにとの願いをこめて、寺として再建した。

 石段を登り、山門を潜って境内に入る。境内は意外に狭い。正面奥に建つのが愛染堂と呼ばれる仏殿で、なかなか趣のある堂宇である。廃寺となった大楽寺の本堂を移したものである。この寺の最大の見所は背後の山中にある薬師堂である。所が、薬師堂へ続く小道は柵をもうけて通行止め。掲示があり「薬師堂の見学は一時間ごとの指定時間に係りのものが案内する。拝観料は500円」。境内に所在なげにしている人が数人いるが、いずれも薬師堂見学時刻を待っているようである。私はそれほど暇でもない。まして、500円も払えとはーーー。覚園寺を去る。

 いったん鎌倉宮の前まで戻り、二階堂川沿いに少し下って右に入る。荏柄天神の門前に達した。その先には数十段の少々長い石段が神門へと登り上げている。時刻はちょうど12時、大分腹も減ったが、我慢して石段を登りきる。すると、朱色の本殿が、新緑に染まった山肌をバックに、色鮮やかに現れた。古色蒼然たる堂宇を多く見てきた目には実に新鮮で美しく見える。

 荏柄天神は1104年創建と言われる。すなわち、鎌倉幕府成立以前からこの地に鎮座する神社である。荏柄天満宮とも呼ばれ、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮とともに日本三天神と称されている。もう受験シーズンは終わったはずだが、境内は多くの参拝者で賑わっていた。境内奧には河童の絵をレリーフにした絵筆塚がある。

 いよいよ鎌倉幕府の核心部に入る。荏柄天神からほんの100メートルほど西へ行くと清泉小学校がある。この辺りが大蔵幕府跡、すなわち、最初に鎌倉幕府が開かれた場所である。1180年10月、鎌倉に入った頼朝はこの大蔵の地に御所を構え、この御所で政治を行った。このため、この地に置かれた幕府は、後に、大蔵幕府と呼ばれるようになった。頼朝、頼家、実朝の源氏3代の将軍はこの幕府で政務を執った。1225年、3代執権北条泰時は幕府を宇都宮辻子に遷し(宇都宮辻子幕府)、さらに1236年、幕府は若宮大路へ移った(若宮大路幕府)。

 清泉小学校の北東の角で「東御門の碑」を見て、そのまま西に進んで北西の角を北(右)へ曲がる。小道はすぐに山裾にぶつかり、急な石段となって山腹へ登り上げている。源氏を象徴する白い幟の立ち並ぶこの石段は頼朝の死んだ年齢と同じ53段ある。息を切らして登り上げた山腹の小平地に源頼朝の墓があった。頼朝は1199年、落馬が原因で53歳で亡くなった。しかし、頼朝の死は幕府の公式記録・吾妻鏡に記載されておらず、北条時政に暗殺されたとの疑いが濃い。

 墓は、石材で囲まれた3メートル四方ほどの領域で、高さ186センチの五層の石塔が建っているだけである。これが日本で最初に幕府を開いた人物の墓なのかと、その余りの質素さに驚く。徳川幕府を開いた家康の墓は日光東照宮であり、比べようもない。しかも、この墓とて、1779年に薩摩の島津氏によって造られたものである。それまでは高さ1メートルにも満たない五輪塔があるだけであった。そもそも、この場所には、頼朝の持仏堂である「法華堂」が建っており、頼朝はこの法華堂に葬られたのである。しかし、法華堂はその後、石段の下に位置する現在の白旗神社の領域に移された。

 墓前を辞し、石段下に位置する白旗神社に寄る。掘っ立て小屋に近い社殿が一棟あるだけである。もちろん、社務所などない。この神社が頼朝の持仏堂であり、死後その廟となった法華堂とは信じがたい。明治の神仏分離令により法華堂は廃され現在の白旗神社が創建された。

 清泉小学校の北西の角まで戻り、西へ数十メートル進むと北へ向う道に突き当たる。ここに「西御門の碑」がある。この辺りが大蔵幕府の西の限りである。谷沿いの道を北へ向う。何という名前の谷なのだろう。薬師堂谷の一つ西よりの大きな谷である。およそ400メートルも進むと右側の高台に目指す来迎寺があった。またまた石段登りである。

 真新しい本堂と方丈の建つ平凡な寺であった。見学者もおらず、わざわざ来るほどの寺ではない。1293年、一向上人によって開かれた時宗の寺院である。見所は、本堂に安置されている阿弥陀如来座像と如意輪観音半跏像である。前者は報恩寺(廃寺)の本尊であった仏像であり、後者は頼朝の持仏堂である法華堂にあった仏像である。いずれも南北朝時代の作で県の重文に指定されている。ただし、本堂の扉は閉められ、仏様を拝顔することは出来なかった。

 来迎寺門前に「太平寺跡の碑」が建っている。太平寺は鎌倉尼五山第一位の大寺として隆盛を極めた。しかし、1556年、安房の里見義弘が鎌倉に攻め入り、太平寺の住職であった青岳尼を連れ去り、還俗させて自分の妻とした。住職を失った太平寺はまもなく廃寺となった。漫画のような実話である。

 南に下って金沢街道に出る。広い通りは車と歩道を埋める人の群れで混雑している。ここはもう鶴岡八幡宮の東隣り、鎌倉の中心部である。瑞泉寺から続けてきた二階堂川に沿った地域の名所旧跡巡りも終了である。ただし時刻は未だ正午過ぎ、まだまだあちこち廻れそうである。鎌倉の東を区切る山沿いの名所旧跡を巡ってみよう。

 金沢街道から小町大路に移る地点に宝戒寺がある。この場所は鎌倉時代、執権北条館があった。すなわち、国家最大の権力の所在地であった。しかし、1333年、盛者必衰のことわりにより、鎌倉幕府並びに北条氏は滅亡した。1335年、後醍醐天皇は足利尊氏に命じ、北条一族の霊を弔うためにこの場所に宝戒寺を建立させた。現在は「萩の寺」として知られている。

 山門復興費用と銘打った拝観料100円を払い境内に入る。山門はない。駅近くに位置するためか、多くの見学者で賑わっている。境内は割合広く緑豊かである。正面に、田舎寺の本堂という感じの、いささか趣のない大きな本堂がデンと構えており、靴を脱いで上がることが出きる。内部ではお護り品等の販売に忙しい。この寺に見るべきものは特にない。ただ、物の哀れを感じればよいのだろう。

 いったん小町大路に戻り、宝戒寺の背後に聳える山に向って細道を進む。東勝寺橋で滑川を渡り葛西ヶ谷と呼ばれる谷沿いの坂道を登ると、「国指定史跡 東勝寺跡」の掲示を見る。ここが、北条一族最後の地となった東勝寺跡である。1333年5月、攻め寄せる新田軍と鎌倉を死守する北条軍との闘いは三日を経ても決着しなかった。闘い四日目、新田軍は稲村ケ崎でついに北条軍の堅陣を破り、鎌倉へとなだれ込んだ。14代執権北条高時以下北条一族870名余は北条館背後の山腹に建つ氏寺・東勝寺に退き、寺に火をかけて自刃した。ここに150年続いた鎌倉幕府は滅び、北条氏は滅亡した。

 東勝寺は1237年、三代執権北条泰時が建立した北条氏の氏寺である。鎌倉幕府滅亡時の焼失後、寺はすぐに再興され関東十刹第三位に列する名刹となったが、戦国時代に廃絶した。

 東勝寺跡のすぐ裏の山の斜面に「高時腹切りやぐら」と呼ばれるやぐら(横穴式の墳墓)がある。高時以下自刃した北条一族の墓と言われている。やぐらに手を合わせ、ジグザグを切って山を登る。この東勝寺背後に聳える山々は鎌倉の東を区切る山稜である。この山稜上に「祇園山ハイキングコース」が開かれている。北の端・東勝寺跡から南の端・八雲神社まで30分ほどの極く短い行程である。これからこのハイキングコースを辿る。時刻はまだ1時過ぎ、時間はたっぷりある。稜線まで登り、尾根道を辿る。標高50〜60メートルの稜線である。展望は利かないが、照葉樹の深い森が続く。

 小さなピークを幾つか越えて進むと、祇園山見晴台に到着した。このハイキングコース唯一の休み場である。数人のハイカーが眼下に広がる展望に見入っている。鎌倉の街が広がり、その背後に海に突き出た稲村ケ崎がよく見える。あの岬から、新田義貞の軍勢は鎌倉になだれ込んだのだ。ひと休み後、八雲神社めがけて山稜を下る。凄まじい泥んこ道で閉口する。

 下り着いた八雲神社は山を背にして建つ小さな神社であった。参道には厄除け祈願と染め抜かれた赤い幟が無数にはためいている。特徴のない小さな神社の割には参拝者で賑わっている。この神社は、新羅三朗義光(源義家の弟)が京都祇園社の祭神を勧請したのが始まりである。厄除けの神様として崇められている。

 山裾に沿って北に進むと常栄寺があった。何の変哲もない寺院だが、門柱に「ぼたもち寺」と大書きされているのが目を引く。この名は、1271年、日蓮上人が瀧の口の法難により刑場に引き立てられて行く途中、ここに住んでいた尼がぼた餅を捧げたという故事に因む。故事来歴に今度は日蓮が登場した。鎌倉の街を歩き廻ると、日本史を飾ったビッグネームが次々に登場する。確かに、日蓮も鎌倉の歴史に大きな足跡を残している。

 さらに山裾に沿って北上すると、立派な山門の前に出た。妙本寺である。今日一番訪れてみたかった寺院である。妙本寺の建つ場所は、もともと幕府の有力な御家人・比企能員の屋敷があった場所である。1203年、幕府の実権を握らんと陰謀を巡らした北条時政は、比企能員を巧みに自宅に招き暗殺する。と同時に、比企邸を攻撃し、比企一族を滅亡させた(いわゆる比企の乱)。当時2歳で、好運にもこの乱を生き延びた能員の末子・比企能本が、1260年、この地で滅んだ比企一族の霊を弔うためにこの寺を建立した。日蓮宗の寺である。。

 鎌倉幕府の歴史は、ずいぶん血なまぐさいが、中でも、初代執権北条時政の生涯は血に塗られている。日本の歴史上これほど冷酷にして残虐な陰謀家は他にいないであろう。この人物はまさに悪魔である。何しろ、孫である三代執権北条泰時でさえ、謀反人であるとして彼に対する仏事を行わなかったほどである。幕府の有力御家人である梶原景時、比企能員、畠山重忠等を謀殺し、2代将軍源頼家を殺し、その嫡男・一幡をも比企一族とともに葬り、さらに三代将軍源実朝の暗殺を企てた(失敗)。刃は常に敵ではなく味方に向けられていたところが凄まじい。落馬が原因とされる源頼朝の死についてさえ、時政に暗殺されたとの説が根強く語られている。恐ろしい人物である。

 山門を潜る。大きな寺である。右は幼稚園、左は民家の参道を70〜80メートル進むと、左に蛇苦止堂への細道が分かれる。またここに方丈門があり、方丈及本堂へ向う細い石段の道が左斜め前方に分かれている。ここからいよいよ境内に入る。鬱蒼とした木々に囲まれた参道が背後の山に向って続いている。進むに従い赤い二天門が木の間隠れに見えてくる。石段を登り、赤く塗られた大きな二天門を潜る。と、目の前に堂々とした大きな堂宇が現れた。妙本寺の中心的建物・祖師堂である。二天門は右側に持国天、左側に多聞天が安置されているのでこの名がある。天保年間(1830〜1843年)の建立と言われている。祖師堂も同じく天保年間の建立で、日蓮、日朗、日輪が祀られている。

 境内には参拝者の姿がちらほら見られるが、広々とした境内のためか、静寂が保たれている。何とも味わいのある素晴らしい寺である。また、拝観料などとらないのもよい。

 祖師堂にお参りし、妙本寺の雰囲気を十分に味わった後、先ほどの分岐まで戻って、蛇苦止堂(じゃくしどう)への細道を進む。石段の続く道で閉口する。ようやくたどり着いた蛇苦止堂は平凡なお堂があるだけで、ここまでわざわざやって来たとの自己満足を得るだけであった。1203年の比企の乱で、北条氏に攻められ比企一族は滅亡するが、その際、比企能員の娘にして将軍源頼家の側室であった若狭の局は井戸に飛び込み自害した。その後、1260年に到り、七代執権北条政村の娘は、恨みをいだいて死んだ若狭の局に祟られ、蛇のような狂態を見せるようになった。このため、政村は、蛇苦止堂を建て、若狭の宮の霊を祀った。

 妙本寺の総門前から道なりに数十メートル進むと、滑川を夷堂橋で渡る。すると目の前に立派な重層の山門が現れた。「えびす神」と書かれた大きな提灯がぶら下がっている。日蓮宗の寺院・本覚寺である。身延山から分骨した日蓮上人の遺骨が納められているため「東身延」と呼ばれている。

 元々この地には幕府の鬼門除けとして頼朝によって建てられた「夷堂」があった。佐渡流罪から戻った日蓮はこの夷堂を拠点として活動した。この日蓮ゆかりの地に、1436年、日出上人によって創建されたのが本覚寺である。本覚時にあった夷堂は、明治の神仏分離令により蛭子神社に移転したが、昭和56年に本覚寺内に再建された。

 江戸時代建造という仁王門を潜り、境内に入る。正面に重量感のある本堂が位置し、右手には独特の形をし銅版屋根が美しい夷堂が建っている。境内は参拝者が多い。

 小町大路を北上すると右手に小さな神社があった。蛭子神社である。明治の神仏分離令により本覚寺の夷堂が移された神社である。ひっそりとして人影はなかった。さらに小町大路を北上すると、右手に「日蓮上人辻説法跡」があった。石柱で囲まれた一角に石碑が建っている。1254年に鎌倉に入った日蓮は、松葉ヶ谷に草庵を結び、この辺りの辻に立って、民衆への布教を熱心に続けた。日蓮もまた鎌倉の歴史に強烈な彩りを添えた人物の一人である。

 100メートルほど西に歩けば、若宮大路、鎌倉駅の目の前である。ここに大巧寺がある。「おんめさま」の名で親しまれる安産祈願で有名な寺である。また、花の寺としても知られている。私には無縁の寺だが、通りがけついでに参拝しよう。元々は「大行寺」という十二所にあった寺だが、頼朝がこの寺で戦評定を開いたとこめ大勝利を収めたので、「大巧寺」と改め、1320年に現在の地に移ったとのことである。どうやら表門は小町大路側にあったようで、若宮大路からの入り口は裏門であった。境内は狭いが、緑豊かである。参拝して鎌倉駅に向う。

 これで今日の鎌倉散歩は終了である。ずいぶん歩いた。特に、どれほどの段数の石段を登ったことかーーー。明日はさぞかし足が痛いだろう。ただし、古都の春を十分満喫することが出来た。連休中のためか鎌倉駅は観光客でごった返していた。

登りついた頂 
   勝上けん 145 メートル
   大平山     159 メートル
  

トップ頁に戻る

山域別リストに戻る