鎌倉散歩 (その三)

朝夷奈切通しと衣張山コース 

2012年5月12日

朝夷奈切通し
鶴岡八幡宮
                                                         
 朝比奈バス停(850)→熊野神社分岐(901)→熊野神社(905)→横浜・鎌倉市境(916)→十二所果樹園分岐(930)→太刀洗水(931)→十二所神社(942)→光触寺(954)→明王院(1008)→浄明寺(1035)→杉本寺(1052)→衣張山(1126)→旧華頂宮邸(1205)→報国寺(1211)→釈迦堂切通(1239)→勝長寿院跡(1258)→鶴岡八幡宮(1326)→妙隆寺(1403)→巽神社(1419)→寿福寺(1431)→北条政子の墓(1438)→英勝寺(1449)→阿仏尼のやぐら(1507)→鎌倉駅(1530)

 
 三たび鎌倉に向う。4月に2度訪れたが、まだまだ名所旧跡の半分も廻りきれていない。乗りかかった船である。「武家の古都・鎌倉」を徹底的に探索してみよう。

 一日好天が続くとの天気予報を信じて、北鴻巣発6時11分の上り列車に乗る。連休明けの土曜日ゆえ、空いていると思ったが、列車は意外にも満席で座れず。上野、東京と乗り換え、8時20分、鎌倉駅に到着した。

 すぐに駅前より8時30分発の金沢八景駅行きバスに乗る。今日は、いったん、鎌倉市の外、東隣りの横浜市の金沢地区に出て、そこから鎌倉時代の古道である六浦道を歩いて鎌倉の中心部を目指そうという計画である。バスは数人の乗客を乗せ、金沢街道、すなわち、現在の六浦道を一路東に向う。8時50分、県道23号線沿いの「朝比奈」バス停で降りる。ここから、バスに乗った距離だけは歩くことになる。

 鎌倉は前面を海、背後を山に囲まれた天然の要塞である。この地形は軍事的には守りに易く、非常に好ましいのだが、経済活動にはいささか不向きである。陸路は、いずれの方向と結ぶにせよ、険阻な山を越えなければならない。ただし、海運が利用できれば、まだしもその欠点は補えるのだがーーー。事実、1232年に、現在の材木座海岸に「和賀江港」が築かれた。しかし、鎌倉の海岸は遠浅で港湾には不向きであった。せっかく築いた和賀江港も座礁による海難事故が絶えなかった。

 鎌倉に幕府を開いてから約50年、政治の中心都市としての体裁が整い、人口も増加するに従い、この物流動脈の細さが鎌倉の致命的欠陥として浮かび上がってきた。1240年、三代執権北条泰時は六浦、すなわち現在の横浜市金沢地区とを結ぶ六浦道を新たに開削することを決意する。東京湾に面した六浦は良港で、国内各地はもとより海外からも物資の集まる貿易港であった。この港が利用できれば、鎌倉の物流問題は大きく解決することになる。また、六浦道開削のもう一つの理由は「塩の道」を造る必要があったことである。六浦は塩の産地でもあり、六浦から塩を運搬する必要があった。

 六浦道開削の最大の難門は鎌倉と六浦との間に横たわる山並みを切り裂く「朝夷奈切通し」の開削であった。硬い岩盤を穿ち、荷車がすれ違える道幅の道路を開削する必要があった。工事は困難を極めた。泰時自らが自分の馬で土石を運び、人夫を励ましたと伝えられている。

 現在は、金沢街道(県道204号線)と呼ばれる自動車道路が、朝夷奈切通しの北側で山稜を越えて鎌倉と六浦(横浜市金沢地区)を結んでいる。しかし、嬉しいことに、今や利用する人もいなくなった鎌倉時代の朝夷奈切通しが、昔のままの姿で残されている。この切通しを越えて鎌倉を目指してみよう。何ともロマンチックな徒歩の旅が期待できる。

 バスを降りるとすぐに、バス道路から分かれて西に向う小道を、道標が「朝夷奈切通」と指し示している。人気もない裏寂れた小道を200メートルも進むと、鉄工所の裏で道は二つに分かれる。四角い石柱の道標があり、一面に「朝夷奈切通」、他面に「左 熊野神社」と刻まれている。道端には数個の庚申塔と青面金剛像が並んでいる。いよいよここから朝夷奈切通しなのだろう。すぐに高速道路である横浜横須賀道路の下を潜る。人家は絶え、小道は緩やかな上り坂となって、山中へ入って行く。

 道幅は3メートルほどだろうか。いかにも古道という趣の道が続く。歩きながら嬉しくなってきた。辺りに人の気配はまったくなく、鴬の声のみ響き渡る。路面は石畳で思いのほか平らである。次第に両岸がシダ類の繁茂する切り立った崖となる。いかにも「切通し」と言う風情である。切り立つ崖には鑿で穿った跡が確認できる。鑿とハンマーで岩壁を切り開いた道なのだ。

 7分ほど進むと熊野神社分岐に達した。石柱に「左 熊野神社」「右 かまくら」と刻まれている。ここから500メートルほどの距離なので熊野神社に立ち寄ってみることにする。左の小道を進む。鬱蒼とした杉林の中のよく踏まれた山道である。突然前方から人声がして、おじさん、おばさんの3人連れが現れた。作業服姿なので山仕事なのだろうか。挨拶してすれ違う。まさかこの山中で人にあうとは思わなかったが。すぐに分岐に達し、道標に従い右の道に入る。と、びっくりした。何と! 山道がきれいに掃き清められているではないか。落ち葉一つなく、箒の目も鮮やかにーーー。先ほどのおじさん、おばさんの仕業だ!。ここからは熊野神社の参道なのだろう。

 すぐに長大な石段の前に達した。鳥居の先に数十段の石段が続き、その先に社殿が静かに鎮座している。石段をゆっくりと登る。この石段もきれいに掃き清められている。しばしの後、未だ新しい、山中に不似合いなほど立派な社殿の前に立った。鴬の声のみ響く鬱蒼とした深い森の中の社。何とも神々しい雰囲気である。この社殿は拝殿で、さらに上部に小さな本殿が鎮座していた。この熊野神社は、幕府の鬼門となるこの地点に、頼朝が熊野三社大明神を勧請したことに始まる。その後、北条泰時が社殿を建立し、以降、朝比奈町の鎮守として里人によって大切に守られてきた。現在、神社は朝夷奈切通しからも離れ、山中に完全に孤立しているが、朝夷奈切通し開削以前の六浦道はこの地点を通っていたのである。もちろん荷車の通行不能な杣道であったのだろうが。

 朝夷奈切通しに戻る。大きく岩肌を切り抜いた坂道を登ると、峠に達した。ここが切通しの最高地点、鎌倉市と横浜市の市境でもある。道端には、「神奈川県」「横賓市」と両面に刻まれた石杭がある。切り立った道路脇の岩壁には1体の仏像が刻まれていた。立ち止まって、感慨にふけっていると、人声がして犬を連れた二人連れが登ってきた。「ここが鎌倉と横浜の市境ですよねぇ」と話し掛けると、「そう言えばそうですねぇ。毎日犬の散歩で通っているが、意識したことはなかったがーーー」と答えて鎌倉方面に下っていった。

 私もゆっくりと後を追う。ここからは一層古道の雰囲気が色濃く漂う道となった。この道は鑿と槌で穿かれ、切り開かれたのだ、との情景が色濃く残る。道の両岸は鑿の跡の残る崖が深く切り立ち、足下の路面も岩盤を削り均した岩道である。岩肌からは到るところで水が染み出し、岩の路面に小さな流れを作る。案内によると、切り立った両岸の岩壁には多くの「やぐら(横穴式墳墓)」があるとのことだが、生い茂る雑木に隠され確認できない。道端に小さな石仏がたたずんでいる。何時の時代のものなのだろうか。

 うっとりとしながら峠を下って行くと、左から十二所果樹園からの細道が合流する。朝夷奈切通しもここまでである。道の右側には、岩壁から染み出し路面を濡らしていた水が集まり、いつの間にか小さな流れとなって下っている。太刀洗川の源頭である。いくらか優しさの増した道をほんの1〜2分下ると、岩壁基部より湧きだした水が竹樋に導かれて太刀洗川に流れ落ちている。側に「太刀洗水」と標示がある。

 1183年(寿永2年)、幕府の有力な御家人・梶原景時は源頼朝の命を受け、上総介広常をこの付近にあった広常の屋敷において暗殺した。その後、血のついた太刀をこの湧き水で洗ったとの言い伝えが残っている。上総介広常は、石橋山の戦いで敗れ、安房に逃れた源頼朝のもとに、2万騎の兵を率いて参陣した、いわば、頼朝の決起を成功に導いた最大の功労者である。その功労者を傲慢だの理由で暗殺するなど、頼朝、ひいては鎌倉幕府そのものの冷酷かつ陰険な一面のよく現れた事件である。

 道なりに下っていくと、人家が現れ、十二所の集落に入った。やがてたどってきた峠道は県道204号線、すなわち現在の金沢街道に合流した。今朝方バスで通った道である。その道の向こう側に十二所神社がある。行ってみるが、いたって平凡な神社であった。もと、光触寺境内にあった熊野十二所権現社が前身とのことだが。この地の十二所(じゅうにそ)と言う珍しい地名は、この神社名に基づくとのことである。

 金沢街道を鎌倉方向へ歩いて、光触寺に向う。向こうから鎌倉名所巡りと思われる二人連れのおばさんがやってきた。「光触寺からですか」とおばさん。「いえ、光触寺へ行くんです」と私。「光触寺は向こうのはずですよ、私たちこれから行くんです」と私の来た方向を指さす。「いえ、こっちだと思いますが」私が反対側を指さす。トンチンカンな問答の末、互いに自分の信ずる方向へと別れた。

 すぐに光触寺に到着した。私の方向感覚に間違いがあるはずがない。1279年創建の時宗の寺である。思いのほか小さな寺であった。山門を潜ると1706年(元禄16年)に再建されたという本堂がすぐ目の前である。その傍らの小さなお堂に伝説の塩嘗地蔵が安置されている。六浦からやって来た塩商人の供えた塩を舐めたとの言い伝えが残る。境内には十数人の団体の見学者がおり、ガイドが一生懸命説明している。「鎌倉幕府というのは、武士のイメージとはほど遠く、陰険陰謀、血なまぐさい政権でした」との説明が耳に入ってきた。

 再び金沢街道を歩き、少し脇道に入ると明王院に達した。1235年(嘉禎元年)、四代将軍藤原(九条)頼経が幕府の鬼門除けとして建立した五大明王を祀る寺である。何とも素晴らしい寺であった。さして広くはない境内は草木で埋められ、その背後に実に趣のある茅葺きの本堂が建っている。満開のつつじの花と相まって実に美しかった。

 この明王院の東側一帯に、かつて、七堂伽藍を有する壮大な寺院があった。1212年(建暦2年)に三代将軍源実朝によって建立された「大慈寺」である。しかし、この大寺院もいつしか衰え、現在は基礎石一つ残っていないという。その寺院跡を示す石碑があるはずなので、民家の間の路地を探してみたが、見つけることは出来なかった。

 途中、大江広元邸跡、足利公方邸跡、青砥藤綱邸跡などの石碑を見て、金沢街道をてくてくと歩く。大江広元は鎌倉幕府の基礎を築いた優秀な文官である。その子孫が毛利氏を名乗って長州藩の祖となり、明治維新を成し遂げるのであるから歴史は面白い。足利公方とは鎌倉公方のこと。鎌倉を拠点として、東国支配を担う室町幕府の地方長官である。初代は足利尊氏の子・基氏が務め、代々その子孫が世襲した。この邸宅地は、足利氏の祖先であり、鎌倉幕府の有力な御家人であった足利義兼の邸宅があった場所で、以来、代々の足利氏が住み続けた場所である。青砥藤綱は五代執権北条時頼、および八代執権北条時宗に仕えた財務官僚である。

 浄妙寺に到着した。この辺りには金沢街道沿いの名所旧跡が集まっている。そのため、金沢街道の狭い歩道は探索の人々で大賑わいである。10人、20人の団体も見られる。いかにも禅宗の寺らしいこじんまりした山門を潜り、拝観料100円を払い境内に入る。大きな寺院である。ただし、建長寺や円覚寺のような巨大寺院ではない。広い境内は草木の緑で溢れている。それに半ば隠れるように、境内奧に1756年(宝暦6年)再建の本堂が見える。屋根は銅板の緑青なのだろか、緑色をしている。なかなか美しい寺院である。

 浄妙寺は、1188年(文治4年)、鎌倉幕府の有力な御家人・足利義兼によって創建された臨済宗の寺院である。足利貞氏(尊氏の父)が中興し、鎌倉五山第五位に列する大寺院となった。最盛期には七堂伽藍を備え、23の塔頭を数えたという。しかし度重なる戦火に焼かれて次第に衰え、現在は総門、本堂、客殿、庫裡だけとなっている。

 本堂裏手の墓地の一角に、足利貞氏の墓と伝えられる宝篋印塔がある。また、本堂奧には美しい枯山水庭園を持つ喜泉庵が建つ。天正年間(16世紀末)に僧が会して茶を喫したとされる建物で、平成3年に再建された。有料(500円)ではあるが、ここで茶を嗜むことができる。ただし、私にはその様な優雅な趣味はない。

 再び金沢街道を歩いて次の目的地、杉本寺に向う。街道に沿うている滑川に架かる犬懸橋の上に20人ほどの団体が屯している。一緒にならないことを祈る。すぐに杉本寺の門前に達した。この寺は大蔵山の中腹に建つ。長大な石段が一気に山の斜面を登り上げている。石段の両側には無数の白い幟が立ち並びいかにも霊場といった雰囲気を醸し出している。

 石段途中の受付で拝観料(山門復興奉納金)200円を払い、さらに石段を登る。仁王門をくぐると、さらに続く石段の上に茅葺き屋根の本堂が見えてくる。本堂に至る最後の石段は危険のためか、通行止めになっている。数百年にわたり人々の足に踏まれた石段は激しく摩耗し、苔に包まれ緑色に染まっている。迂回路から登り上げた本堂もまた美しい。茅葺き屋根の高床式の建物で、「十一面杉本観音」と大書きされた白色の幟で囲まれている。この本堂は1678年(延宝6年)の建造で神奈川県の重要文化財に指定されている。

 杉本寺は鎌倉最古の寺院である。創建は734年(天平6年)と伝えられている。平安時代初期、鎌倉幕府が開かれるはるか昔である。731年、行基がこの地に自ら刻んだ観音像を安置したのが始まりで、その後、光明皇后(聖武天皇の妃)が本堂を建立し開山した。本尊は三体の十一面観音で、それぞれ、行基作、慈覚大師作、恵心僧都作といわれている。

 本堂脇に並ぶ六地蔵の右隣りに、摩耗した一体の石仏が並んでいる。この石仏が「身代わり地蔵」で杉本義宗に向けられた矢をかわりに受けたとの言い伝えが残る。その地蔵の背後に並ぶ無数の五輪塔は杉本城落城の際に戦死した者の供養塔といわれている。

 この杉本寺の拠る大蔵山の頂にはかつて杉本城が築かれていた。この地は六浦道を抑える要衝の地であった。城を築いたのは三浦大介義明の長男・杉本義宗である。しかし、城は1337年(建武4年)、北畠顕家に攻められ落城した。城跡まで行ってみようと、寺から上部に続く小道を登ってみたが、途中、柵で通行止めの処置が取られていた。

 杉本寺の拠る大蔵山の南に滑川を挟んで対峙する山が衣張山である。鎌倉と逗子を隔てる山稜である。衣張山にはハイキングコースが設けられているので歩いてみることにする。滑川を犬懸橋で渡ってそのまま南下し、「田楽辻子の道」と呼ばれる滑川左岸沿いの道を横切る。ここに「上杉朝宗及氏憲邸跡」の碑が立てられている。上杉朝宗とその子・氏憲(禅秀)はいずれも関東管領として鎌倉公方の足利氏に仕えた。しかし、1416年(応永2年)、氏憲は鎌倉公方・足利持氏に対し反乱を起こし、破れた(上杉禅秀の乱)。これにより、犬懸上杉家は没落した。

 そのまま犬懸谷と呼ばれる谷筋の小道を奥に進む。衣張山の西側に食い込んでいる谷である。この道は現在、「平成巡礼路」と呼ばれ、衣張山への登山道となっている。おそらく、衣張山の東側を通っている「巡礼古道」に対応して命名されたのだろうが。やがて人家が尽き、樹林の中のジグザグを切った急登に変わる。踏跡は確りしているが、辺りに人の気配はない。途中珍しいものを見つけた。双体道祖神である。かわいい男女が抱き合うようにして微笑んでいる。大分摩耗しているが、いつの時代のものだろうか。グイグイ登って行くと稜線に達した。反対側から登ってきた踏跡と合わさり、稜線を南に進む。

 一峰を左から巻くと、あっさり山頂に達した。意外なことに、二組のハイカーが休んでいた。南西方向に大きく視界が開けている。眼下に三方を山に囲まれた鎌倉の街が広がり、海に突き出た稲村ケ崎が見える。空気が澄んでいる季節なら富士山も見えるとのことだが、春霞のかかるこの季節では望むらくもない。座り込み、コンビニで買ったお握りを頬張りながら、天下の絶景を眺める。山々の新緑が目に染み入るようだ。山頂は小広く開けており、隅の方には地蔵像と五輪塔が並んでいる。

 早々に出発する。稜線を南にたどる。いったん下って登り返すと、そこは120.1メートルの三角点峰、案内書に浅間山と記されているピークである。ここも広場となっていて、視界が大きく開けてはいるが、潅木が少々うるさい。20人ほどの団体が休んでいたのでそのまま通過する。ここからハイキングコースは山稜の東側へ一気に下って行く。

 大きな広場に下り着いた。ベンチなどもあり、10人ほどの団体が休んでいた。南側及び東側は鎌倉逗子ハイランドという新興住宅となっている。この地点から金沢街道方面へ、すなわち北に向って戻ることになる。目標は報国寺である。案内書の記載もなく、よくわからないのだが、ルートは二つあるようだ。一つは、衣張山のすぐ東の宅間ヶ谷沿いの細い車道を行くコース。もう一つは、「巡礼古道」と呼ばれる坂東33ヶ所巡礼の第一番杉本寺から第二番岩殿寺への昔の巡礼路を利用するコースである。後者は案内もなくよく分からないのだが、衣張山山稜の宅間ヶ谷を挟んだ東側の山稜上にあるらしい。できることなら後者のルートをたどってみたいが、案内も地図もなく詳細が皆目分からない。

 報国寺を示す道標に従い、住宅地の端をかすめるように北へ向う。道はすぐに住宅地から離れて山中に入る。途端に人の気配は一切消えた。道型は確りしているが完全な山道である。ということは、どうやらこの道は目指した「巡礼古道」と思える。期せずしてこの道に入り込んだようである。しめしめ。緩やかな登り下りを繰り返しながら山道を足早に進む。道脇に「庚申」の文字が刻まれた小さな石板が頻繁に現れ、この道が巡礼古道であることを印象づける。さらに進むと、岩窟の中に等身大の仏像が彫り込まれ、「金剛窟地蔵尊」との標示がある。

 道は一気に下りだした。最後は人がやっと通れるほどの道幅となって集落内の舗装道路に下り立った。この地点には道標もなく、反対側からこの巡礼古道を辿ろうとする場合、入り口を見つけることは難しそうである。ところで、下り着いたここは一体どこなんだろう。道の左右を眺めると、100メートルほど向こうに何かありそうである。行ってみると、「旧華頂宮邸」であった。昭和4年に華頂宮博信侯爵邸として建てられた洋館で、国の有形文化財となっている建物である。建物内には入ることは出来ないが、庭までは自由に入ることができる。

 現在位置判明である。旧華頂宮邸前の緩やかな坂道を下っていくと、報国寺の門前に達した。この寺は1334年(建武元年)、足利家時(尊氏の祖父)または上杉重兼によって創設されたといわれている。以降、足利、上杉両氏の菩提寺として栄えた。現在は「竹の寺」として知られている。

 「報国建忠禅寺」と刻まれた石柱の立つ立派な山門ををくぐり、緑豊かな境内に入る。境内は多くの参拝者で賑わっていた。草木に囲まれた参道を進み、右手に石段を登ると、本堂の前に出る。左手には茅葺き屋根の鐘楼が建っている。それほど広くはないが、美しい境内である。期待する竹林は本堂の裏手に広がっている。ただしその前に、ここで200円の拝観料を取られる。孟宗竹の竹林はそれほど広くもないし、期待していたほどのこともなかった。三脚を抱えたカメラマンが右往左往している。

 報国寺を出て、「田楽辻子のみち」と呼ばれる滑川左岸沿いの小道を辿り、西に向う。この道沿いに田楽師が住んでいたことからこの名が付けられた。衣張山の登りに辿った犬懸谷を横切り、次の谷が釈迦堂谷である。この谷の奧には大町地区へ通じる釈迦堂切通しがある。鎌倉域外とを結ぶ切通しではないため、鎌倉七切通し(七口)には含まれていない。しかし、洞門(トンネル)を穿った切通しで、写真で見ると凄まじい迫力である。現在崩壊の危険があるため、通行止めとなっているようであるが、是非近くで眺めてみたいと思っている。

 緩やかな登り坂となった小道を谷奧へと辿る。この谷に三代執権北条泰時が父義時の慰霊のために釈迦堂を建立したことにより、釈迦堂谷の名が残っている。ただしその釈迦堂の詳細な位置は不明らしい。人家が尽き、山中に入るとすぐに、柵が設けられて「落石の危険があるため通行禁止」の標示。ただし横に迂回路がある。柵を無視してさらに数十メートル進むと、今度は強固なバリケードが設けられていた。柵の背後には、洞門となった切り通しが見える。洞門の長さはわずか10メートルほどで向こう側が大きく見えているが、上から覆いかぶさる岩盤が今にも崩れ落ちそうで、迫力満点である。満足して引き返す。

 「田楽辻子のみち」に戻り、さらに西へ歩く。次の谷は大御堂ヶ谷である。かつて、この谷に勝長寿院という壮大な寺院があった。1885年(文治元年)源頼朝が父源義朝の菩提を弔うために建立した寺院である。頼朝は、この勝長寿院と鶴岡八幡宮、永福寺の三大寺社を建立したが、勝長寿院は特に壮大で「大御堂」と呼ばれ、今でもこの付近にはその名が地名として残っている。頼朝は平治の乱で殺害された父義朝の髑髏を後白河法皇に頼んで探しだし、その忠臣・鎌田長政の髑髏とともにこの勝長寿院に葬った。北条政子、源実朝もこ寺に葬られたといわれるが不詳である。度々火災に遭い、16世紀前半に廃寺となったと思われる。

 「田楽辻子のみち」を離れ、小流に沿った住宅地の中の舗装道路を谷奧へと緩やかに登って行く。200〜300メートルも進むと、道路左側に勝長寿院跡を示す石碑があった。その横には二基の五輪塔が並んでおり「源義朝公之墓」「鎌田政家之墓」との標示がなされている。かつての壮大な寺院を偲ぶものはただこれだけであった。

 「田楽辻子のみち」に戻り、さらに西に少し進むと、滑川に架かる大御堂橋の袂に出る。ここに「文覚上人屋敷跡」の碑がある。文覚は、頼朝と同時期に同じ伊豆に流されていて、頼朝と出会い、決起を促す。鎌倉幕府成立後も頼朝の周辺に出入りした怪僧である。御堂橋を渡り金沢街道に出た。これで、朝夷奈切通しに始まった金沢街道沿いの名所旧跡巡りはひとまず終了である。ただし、時刻はまだ午後1時、さらに鎌倉中心部の名所旧跡を廻ってみよう。

 金沢街道を東に少し戻ると、二階堂川を「歌の橋」で渡る。鎌倉十橋の一つで、また、「かながわの橋100選」にも選ばれている。鎌倉時代、渋川刑部六郎兼守という武士が謀反の疑いで捕まり、彼は辞世の和歌を荏柄天神に奉納した。この歌を見た将軍源実朝が感動し、兼守は許された。感謝した兼守はそのお礼として二階堂川に橋を架けた。これが「歌の橋」と言い伝えられている。

 人通りも車の往来も激しい金沢街道を西に歩く。二階堂大路との分岐に「関取場跡」の碑を見る。後北条氏の時代、荏柄天神の修復費用を得るために通行人から通行税をとった場所である。さらに西に歩く。東から続いてきた金沢街道も鶴ヶ岡八幡宮にぶつかる寸前で大きく南に向きを変え、小町大路と名前を変えて材木座海岸に向う。この屈曲点に「筋替橋」の碑がある。鎌倉十橋の一つで、橋が「くの字」に架かっていたのでこの名があるという。

 左に曲がる金沢街道には従わず、横浜国大付属小学校の南側を真っ直ぐ進むと、鶴岡八幡宮の東鳥居に行き着く。この地点に、「畠山重忠邸跡」の石碑が建っている。畠山重忠は我が故郷・埼玉県の英雄である。武蔵国男衾郡畠山郷(現 埼玉県深谷市畠山)で生まれ、長じては武蔵国男衾郡菅谷(現 埼玉県比企郡嵐山町菅谷)の館に居住した。その武勇は数々の伝説を生み、清廉潔白な人柄は坂東武士の鑑と称された人物である。しかし、頼朝の死後の1205年(元久2年)、かの悪魔のごとき陰険卑劣な人物、北条時政に騙され、殺害された。

 ついに鶴岡八幡宮にやって来た。思い返してみると、小学校の遠足以来、すなわち50数年ぶりである。この地こそ、過去も、現在も、そして未来においても、鎌倉の中心である。大銀杏が倒れたと言って、日本中が大騒ぎするほど存在感のある場所である。

 鶴岡八幡宮は1063年(康平6年)、源頼義が源氏の氏神である京都の石清水八幡宮を鎌倉由比ヶ浜郷に勧請したのが始まりである(由比若宮)。1180年(治承4年)、鎌倉に入った頼朝は由比若宮を小林郷北山(現在の地)に遷した。1191年(建久2年)、火災により焼失するが、頼朝は若宮を再建するとともに大臣山の中腹に上宮(本宮)を新たに建造し、現在の形とした。鎌倉幕府滅亡後も、「武門の神」として、足利氏、豊臣氏、徳川氏に崇敬された。

 三ノ鳥居を潜る。参道は参拝者が列をなしている。さすが鶴岡八幡宮である。太鼓橋の前では結婚式の記念撮影が行われていた。もちろん、花嫁は白無垢に綿帽子である。久しぶりに純日本式の花嫁衣装を見た。ウエディングドレスよりよほど美しいと思うのだがーーー。長い参道を本殿に向う前に、太鼓橋の左右に展開する「源氏池・平家池」を見学しよう。右側の源氏池の島に、無数の白い幟に囲まれて、旗上げ弁財天が鎮座している。この社は北条政子が建立したと伝えられ、明治の排仏毀釈で破壊されたが、昭和55年に再建された。思いのほか小さな祠である。

 長く太い参道を本殿に向う。はるか彼方の山の中腹に、山々の緑をバックに真っ赤な大きな社殿がデンと鎮座している。まるで絵のような雄大にして神々しい風景である。さすが鶴岡八幡宮、訪れるものの宗教心を強く刺激する。参道は参拝者の列が切れ目なく続き、両側には金魚すくいや、たこ焼きなどの露店が並んでいる。

 次第に近づく本殿を眺めながら、人込みに従い進むと、本殿に上る長い石段前の広場に到達する。ここに入り母屋造りの四方オープンスペースとなった立派な社殿が建っている。舞殿である。捕らえられ、鎌倉に連行された義経の愛妾・静御前が、頼朝の前で舞った舞台である。「しづやしづ賎のをだまきくりかえし昔を今になすよしもがな」と義経を慕う舞を舞い、多いに頼朝を怒らせたとか。この舞殿でも結婚式が行われていた。四方に壁のない社殿であるから、多くの参拝者が見学している。数百人注視の中の結婚式である。

 舞殿の右奧には若宮の社殿が建つ。この社が創建当初の本殿である。現在の社殿は江戸幕府二代将軍徳川秀忠が造営したものである。本殿や舞殿と比較すると大分粗末な感じのする社殿である。舞殿の左奧には2010年3月10日未明、春の嵐によって倒れたあの大銀杏の悲しい姿を見ることができる。上部を切り取られ、高さ3.4メートルの太い幹下部だけとなっている。それでも新芽が吹きだしているので、数百年後にはもとの立派な姿に戻ることを期待しよう。

 少々長い石段を上り、本殿に向う。「八幡宮」の扁額の掲げられた楼門をくぐると本殿である。人波をかき分け最前列に進み出て我が武運長久を祈る。現在の社殿は江戸幕府11代将軍徳川家斉によって造営されたものである。鶴岡八幡宮を去る。

 三ノ鳥居を潜って境内を出、若宮大路を南に向う。この道も八幡宮の長大な参道の一部である。二ノ鳥居手前左側(東側)の妙隆寺という寺に向う。1427年(応永34年)創建の日蓮宗の寺だが、歴史的な曰く因縁はあまりなさそうである。正門は小町大路側にあり、若宮大路からだと裏口から入る形となってしまった。一人の若い女性が本堂前に立ち尽くし、長い長い祈りを捧げていた。

 鎌倉駅は目の前であり、このまま帰ってもいいのだが、時刻はまだ14時、もう少し鎌倉散策を続けられそうである。若宮大路を横切り、下町のような雰囲気の小町通りを横切り、横須賀線の踏み切りを渡り、線路西側の今小路にやってきた。やっと車がすれ違えるほどの狭い道だが、意外に混雑している。

 この道沿いに巽神社があった。雑草の目立つ境内と平凡な社殿があるだけの何の変哲もない神社である。門前を多くの人が通るが、立ち止まる人もいない。しかし、この神社は少々由来がある。801年(延暦20年)、蝦夷征伐に向う坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に勧請したのが始まりで、1049年(永承4年)には、源頼義が改修したという。後に現在の地に遷され、寿福寺の鎮守として崇敬されてきた。

 今小路を北へ少し戻り、細い路地を左(西)に入る。入り口に「北条政子の墓、源実朝の墓、源氏山、近道」との標示がある。少し進むと右側に、石灯籠の立つ道端の一角に小さな石の祠が鎮座している。標示は特にない。ここが「刃稲荷(やいばいなり)」である。この神社は、もともと、かの有名な鎌倉時代の刀匠・正宗の屋敷に祀られていたと伝えられている。正宗の子孫は代々鎌倉に住み続け、「綱廣」名乗ったという。その後も「綱廣」の名は受け継がれ、現在は24代目が「正宗工芸」という工房を鎌倉駅近くに開いている。

 住宅地の中の細道を道標に導かれながら何度か曲がりながら進むと、寿福寺に達した。残念ながら寿福寺は中門までしか入ることが出来ない。今小路に向って禅寺らしい小振りの山門が開いており、そこから木々に覆われた石畳の参道が中門へと続いている。中門の隙間から中を覗くと、よく手入れされた庭と宝暦年間(1781年〜64年)に建立された仏殿が見える。

 寿福寺は鎌倉五山第三位に列する大寺である。1200年(正治2年)、北条政子が夫・頼朝の菩提を弔うために建立したと言われる。寿福寺の建つ亀ヶ谷は頼朝の父・義朝の屋敷のあった場所であり、また、八幡太郎義家が勝利を祈願して白旗を掲げたという源氏山を背後に控えた、源氏先祖伝来の地である。

 参拝者は皆、硬く閉ざされた中門から中を覗き込んで引き返しているが、この寺の背後にある墓地には北条政子と源実朝の墓があるはずである。行ってみることにする。寺の横の小路を山に向って登って行くと、山の斜面を切り開いた割合大きな墓地が現れた。岩壁に掘られた「やぐら」と未だ墓石の新しい墓が入り混じっている。目指す北条政子と源実朝の墓は、墓地の一番奧の「やぐら」であった。各々別々の何の変哲もない「やぐら」の中に五輪塔が建っている。ただそれだけである。

 山門前の今小路に戻る。ここに「勝の橋」と刻まれた石柱が立っている。かつてここに「勝の橋」と呼ばれる橋があった。鎌倉十橋の一つである。英勝寺を建てた「お勝の方」が架けたため、このように呼ばれた。「お勝の方」は太田道灌の子孫で、徳川家康の側室であった。

 今小路を横須賀線の線路に沿ってしばらく北へ歩くと、英勝寺の総門前に出た。門前には「太田道灌邸旧跡」の石碑が建っていた。この英勝寺の建つ地は、江戸城を築いた太田道灌の屋敷跡なのである。ところが、英勝寺の門は堅く閉ざされている。見学できないのかなぁと、訝りながら屏沿いに数十メートル進むと、通用門があり、ここから入場できるようになっていた。

 この寺は「勝の橋」を架けた「お勝の方」が創建した尼寺である。家康の側室であったお勝の方は、家康の死後出家して英勝院と号した。そして、自らの4代前の先祖・太田道灌の屋敷跡であるこの地を将軍家光から賜り英勝寺を建立した。英勝院尼没後は水戸家の姫君が代々住職を務めたので、「水戸御殿」とも呼ばれ、格式の高い寺であった。

 拝観料300円を払い境内に入る。境内はさして広くないが、竹林や庭園が広がり、いかにも尼寺という風情である。1636年(寛永13年)建立と伝えられる仏殿は、残念ながら、改築工事中でシートで覆われていてみることが出来なかった。しかし、その前に建つ巨大な山門がひときわ威光を放っている。1643年(寛永20年)、讃岐高松城主・松平頼重が建立したもので、正面が3間ある二層の門である。関東大震災で倒壊し、いったん他所に遷されたが、2011年に、改めてもとの位置に復元されたとのことである。

 英勝寺を出て、今小路をさらに北へ向って歩く。目指すは「阿仏尼のやぐら」、すなわち墓である。今日は、一日中晴天の予報であったが、朝から雲が多かった。しかも、午後から急速に天気悪化の気配を強めている。ついに、ぽつりぽつりと雨が降りだした。まだ雨具を付けるほどではないが、何という天気予報なんだ! 。道路端の崖に目指すやぐらはあった。何の変哲もないやぐらの中に石造りの多重塔が置かれている。「阿仏尼を偲ぶ会」との小さな標示があるので目指すやぐらと知る。このやぐらが阿仏尼の墓と言われているが、さしたる証拠があるわけではないらしい。

 阿仏尼は「十六夜日記」著者として知られる鎌倉時代中期の女性である。藤原為家(藤原定家の息子)の側室となり冷泉為相(冷泉家の祖)を生む。相続を巡る争いを幕府に訴えるため、京都から鎌倉に下った際の紀行記が「十六夜日記」である。鎌倉滞在中に死んだと言われている。

 時刻もすでに15時過ぎ、雨も降ってきたので今日はここまでとする。少々遠いが鎌倉駅まで歩かなければならない。さすがに足が痛い。途中、英勝寺前の横須賀線踏切近くにある「扇ヶ谷上杉管領屋敷跡碑」に寄る。室町時代、関東管領の地位を世襲した扇谷上杉家の屋敷がこの辺りにあったということである。

 痛む足を引きずり、15時30分、観光客でごった返す鎌倉駅にたどり着いた。今日もよく歩いたものだ。

登りついた頂 
   衣張山  120 メートル
  

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