鎌倉散歩 (その四)

六国見山コースと亀ヶ谷坂 

2012年5月27日

亀ヶ谷坂
海蔵寺の山門
                                                         
 北鎌倉駅(817)→六国見山山頂(847)→稚児塚(851)→明月院前(913)→長寿寺前(922)→亀ヶ谷坂(927)→薬王寺(931)→岩船地蔵堂(942)→海蔵寺(949)→相馬師常の墓(1013)→浄光明寺(1020)→妙伝寺(1053)→岩窟不動(1106)→鉄ノ井(1111)→若宮大路幕府旧跡(1131)→宇津宮辻子幕府旧跡(1147)→鶴岡八幡宮二ノ鳥居(1152)→夷堂橋(1210)→下馬四ツ角(1226)→延命寺(1228)→教恩寺(1239)→別願寺(1259)→上行寺(1301)→安養院(1305)→名越バス停(1315〜1328)→鎌倉駅(1340)

 
 四度鎌倉に向う。鎌倉の名所旧跡は思いのほか数が多い。4月〜5月と三度巡ったが、とても廻りきれなかった。今日を含め、もう2〜3回必要だろう。いつもの通り、北鴻巣駅発6時11分の上り列車に乗って、北鎌倉駅着8時17分。観光客のやってくる時間には未だ早いためか、駅は通学の高校生で溢れている(今日は日曜日なのだがーーー)。

 今日の予定は、先ず、北鎌倉駅の背後、すなわち巨大寺院・円覚寺の裏山である六国見山(ろっこくけんさん)に登ることである。鎌倉を取り巻く山々は「鎌倉アルプス」と称され、概ね五つのハイキングコースが開かれている。1、葛原岡・大仏ハイキングコース 2、天園ハイキングコース 3、祇園山ハイキングコース 4、衣張山ハイキングコース 5、六国見山ハイキングコースである。すでに四つのコースは踏破した。今日は五つ目の「六国見山ハイキングコース」を踏破するつもりである。

 駅の北側、線路に沿った細道を大船方向に歩く。目指すは登山口の「六国見山森林公園南口広場」である。車も通れない幅2メートルほどの小路は通学の高校生で溢れている。素掘りのトンネルを潜り、しばらく進むと小さな権兵衛踏切が現れた。何の標示もないが、線路と離れ、ここを右に曲がって行くのがルートである。宅地の中の緩やかな登り坂を進む。通学途中と思える何人かの女子高生が前後する。案内書の地図を見ると、行く先には県立大船高校がある。

 しばらく進むと、何と! 道は階段路となった。長い石段が続く。前を行く女子高校生はおしゃべりしながらすいすい登って行く。彼女達は毎日この石段を往復しているのだろう。新興住宅の建ち並ぶ高台に登り上げ、今度は緩やかに下っていく。T字路にぶつかった。さてどっちへ行ったものか。道標の類いはないかと、辺りを見渡すと、物陰に隠れるように立つ小さな道標を見つけた。

 左に曲がる高校生と別れ、私は右に折れる。人通りもない新興住宅地の中を進む。幾つか道は分かれるが、道標の類いは一切ない。何となく不安である。再びT字路にぶつかった。今度は道標もない。正確な地図も持っていないし、困った。勘として右への道をとる。新興住宅地の中の坂道を登って行く。住宅が切れると、右手にベンチの設置された広場が現れた。目指す「六国見山森林公園南口広場」であった。やれやれ、ここまでは無事にやって来た。

 ここからは完全な山路となった。ただし、全て階段である。樹林の中にどこまでも続く階段をひたすら登る。人の気配はまったくしない。時折、鴬の鳴き声が聞こえる。約15分も頑張ると、山頂に達した。南に大きく視界が開けている。ベンチが設置され、小さな展望図も設置されている。

 意外なことに、60年配の男性がベンチに座り込んでいた。どうやら朝の散歩でやって来た地元の人のようである。「今日は生憎視界が余りよくなくてーーー」の言葉を受けて、視線を視界の開けた南方に向ける。三方を山に囲まれた鎌倉の市街地が見え、その先に相模湾が霞んでいる。ただし、展望図に画かれている伊豆大島や富士山はおろか、近くにあるはずの江ノ島も見えない。空はよく晴れ渡っているが、春特有の霞みも深い。振り返って、樹木に視界を狭められた北方を見やると、横浜の高層ビル群が見える。この山頂の展望が「六国見山」の山名の由来である。昔は、安房、上総、下総、武蔵、相模、伊豆の六ヶ国を一望できたはずである。

 稜線を南東に辿る。上下動の少ない樹林の中の尾根道である。左手に「稚児墓」と呼ばれる石塔が現れた。鎌倉時代のものらしい。男性のハイカーとすれ違う。こんな低山に朝から登る人が私以外にもいるのだ。小さな高まりに達すると、道の真ん中に三角点があった。147.3メートルの三等三角点「八州見」である。一応この地点が六国見山の最高地点ではあるが、山頂は先ほどの展望台と見なされているようである。この地点は樹林の中で、展望も一切ない。それにしても、「六国見山」の最高地点の三角点名が「八州見」と言うのは面白い。一体何ヶ国見えたのだろう。

 道は一気に下りとなった。二人連れのハイカーとすれ違う。やがて新興住宅地の上部に下り立った。その先は道が幾つも分かれている。しかるに道標の類いは一切ない。ルートがまったく分からない。一瞬立ち尽くしていると、一本の階段道を二人連れのハイカーが登ってきた。どうやらこの道がルートらしい。恐ろしく急な坂道を下っていくと、明月院通りと思われる細い車道に下り立った。ここにも道標がない。やって来た二人連れのハイカーがオロオロしていた。このハイキングコースは道標の類いがまったく未整備ある。

 すぐに前回「勝上けん」から縦走してきて下り立った地点に達した。ここからは見知った道である。明月院の門前を過ぎ、小川沿いの道を緩く下っていく。反対側から明月院を目指す観光客が続々とやってくる。やがて車の通行の激しい鎌倉街道に行き当たった。六国見山ハイキングの終了である。

 今日はこれから、亀ヶ谷坂を越えて、扇ヶ谷に向うつもりである。鎌倉街道を建長寺方向へ向って歩く。時刻はすでに九時過ぎ、観光客の到着時間を迎えたと見え、街道は人の列が続く。長寿寺の角を右に曲がる。この小道が亀ヶ谷坂道である。ともに列をなして歩いてきた歩行者の9割方はそのまま鎌倉街道を建長寺方向へ直進していくが、何人かが、私と同じくこの小道にルートを変えた。

 緩やかな上り坂となって小道は真っ直ぐ続く。舗装はされているが、車は通れない。幼児を乗せた女性の自転車がすいすい追い越していく。あれっ、と思ってよく見ると、補助モーター付きの自転車であった。坂道だらけの鎌倉では普通の自転車は無理だ。亀ヶ谷坂は山ノ内地区と扇ヶ谷地区とを結ぶ切通しである。「かめがやつさか」と称する。「谷」を「や」または「やつ」と称するのは東国の言葉である。「たに」と称するのは西国の言葉である。亀ヶ谷坂の名前の由来として、この坂は勾配が余りにもきつく、亀が登れずに引き返したとか、ひっくり返ったとか、言われている。昔はそれほどの急勾配であったのだろうが、何度もの補修の結果か、現在はそれほど急坂というわけではない。両側は切通しとなり、その上には住宅が続いている。

 坂の頂上に達し、今度は下り坂となる。その手前右側の崖の中腹に六体のお地蔵様が並んでいる。「亀ヶ谷坂の六地蔵」である。若い女性がその前にしゃがみ込んで熱心に祈っている。幾分急な下り坂を進む。亀がひっくり返るほどの急勾配であったのは、こちら側の坂らしい。

 坂を下ると、右側に薬王寺があった。前後して歩いていた人たちはこの寺を無視して先に進んでいったが、私はちょっと興味があるので立ち寄ってみる。1283年に建立され、寛永年間に中興されたという日蓮宗の寺である。見たところありふれた平凡な寺なのだが、江戸時代には徳川家と縁が深かったとのことである。庭先に徳川幕府三代将軍徳川家光の弟である徳川忠長の供養塔がある。建てたのは忠長の夫人・松孝院(織田信長の孫)である。

 忠長は将軍職争いにおいて家光のライバルであった。一時は忠長が本命であったが、家光の乳母・春日の局の奔走により家光が将軍職を継いだ。忠長を寵愛した父二代将軍秀忠が死ぬと、家光は自分の地位を脅かす存在である忠長に対し毒牙を向ける。あらゆる難癖をつけ、最後は蟄居先である高崎城において自刃させた。凄まじい権力闘争である。忠長の墓は高崎市の大信寺にあることは、以前訪れたので承知していたが、まさか鎌倉に供養塔があるとは知らなかった。

 山門を出て、亀ヶ谷坂道をさらに少し進むと、T字路にぶつかる。亀ヶ谷坂もここまでである。この角に、八角形のお堂がある。岩船地蔵堂である。この地蔵堂にも、凄まじい権力闘争とそれに翻弄された悲しい恋の物語が付随している。

 源頼朝は関東において平家討伐の兵を挙げるが、一方、頼朝の従兄弟・木曽義仲も信濃において兵を挙げる。両者は競合する形となり一発触発の事態を迎える。武力衝突を避けるため、義仲の嫡男・木曽義高を頼朝の長女大姫の婿として(実質人質として)鎌倉に送ることで両者の和議が成立した。しかし、結局は両者は武力衝突するに至り、義仲は頼朝の命を受けた義経に討たれる。この結果を受け、頼朝はさらに義高をも殺す。許嫁を殺された大姫は嘆き悲しみ、ノイローゼとなり、間もなく死ぬ。この岩船地蔵堂には許嫁を父に殺されるという悲劇の姫君・大姫の守り本尊であったお地蔵様が祀られている。

 T字路を右に曲がりJR横須賀線のガードを潜って500メートルほど進むと海蔵寺に達する。門前には鎌倉十井の一つ「底脱ノ井(そこぬけのい)」がある。鎌倉幕府の有力な御家人である安達泰盛の娘・千代能が水を汲んだところ桶の底が抜けた。千代能は咄嗟に「千代能がいだく桶の底抜けて水たまらねば月もやどらじ」と詠んだことから「底脱の井」と呼ばれるようになったという。この歌はどうやら解脱の歌らしい。

 山門を潜り、緑溢れる境内に入る。花の寺としても知られる美しい寺である。1394年、鎌倉公方足利氏満の命を受け上杉氏定が建立した臨済宗の寺院である。盛時には谷いっぱいに塔頭が建ち並ぶ大寺であったとのことだが、今はことごとく廃絶してしまっている。境内には本堂、仏殿、庫裡の三つの建物が見られる。いずれも味わいのある建物である。特に、二階建て藁葺き屋根の庫裡はひときわ目立つ。1785年の建造と言われ、鎌倉を代表する庫裡建築である。また仏殿は1577年の建物と言われている。

 境内を散策した後、仏殿背後のトンネルを抜けて「十六ノ井」へ行く。これは不思議な井戸である。岩窟の中に径70センチ、深さ50センチ程度の丸い井戸が、縦横4個づつ、計16個並んでいる。何のための井戸なのか今もって不明である。

 岩船地蔵堂まで戻り、道なりに先に進む。次に目指すは相馬師常の墓である。さして有名でもない人物の墓を訪ねても余り意味がないのだが、行きがけの駄賃である。場所は事前に調べてきてあるが、この辺りは細い路地が入り組み複雑である。ここと思える袋小路の先端まで行くが、あるはずの墓はない。機転を利かせて、一本先の路地を探ってみる。と、見事、目指す墓を見つけた。山肌に掘られたやぐらで、その前にはその旨を伝える石碑が建てられている。相馬師常は頼朝の有力御家人・千葉常胤の次子である。やぐらは名前がわからないものが多いがこのやぐらは当初から埋葬された人が特定できる貴重なやぐらとのことである。

 次の目的地、浄光明寺に向う。この寺はビッグターゲットであり、角角に立つ道標が確り導いてくれる。1251年(建長3年)、六代執権北条長時により建立され、鎌倉幕府滅亡後には後醍醐天皇の皇子成良親王の祈願所と成った寺である。盛時には10の塔頭を数えたという。また、足利尊氏、直義兄弟の帰依厚く、尊氏はこの寺に籠り、建武の中興からの離脱を決意した。

 住宅地の中の細道をたどり、浄光明寺門前に達した。ここに「藤谷黄門遺跡」碑が建っている。藤谷黄門とは冷泉家の始祖である冷泉為相(れいぜいためすけ)のことである。藤原定家の孫で、母は「十六夜日記」の作者の阿仏尼である。彼の墓は浄光明寺の裏山にあるが、この寺と特に関係があったということではなさそうである。なお、母である阿仏尼の墓は英勝寺近くのやぐらにあり、前回訪れた。

 小さな山門を潜る。少々うらぶれた感じのする寺である。左に客殿、右に不動堂があり、その奧の一段高い場所に由緒あり気な仏殿が建つ。足は自ずと仏殿に向う。と、標示があり、「本日、阿弥陀三尊像公開中」。この阿弥陀三尊像は鎌倉時代後期の秀作として夙に有名である。現在は仏殿横の収蔵庫に安置されている。200円の拝観料を払い阿弥陀三尊像と向きあう。仏像の芸術的価値が理解できるほどの知識を持ちあわせているわけではないが、この仏像は何とも素晴らしかった。しかも、僧が付きっ切りで説明してくれる。何とも感じのよい寺であった。

 怪しげな急な細道を裏山に登る。一段登った平坦地奧のやぐらに「網引地蔵」が祀られている。由比ヶ浜の漁師の網にかかり引き上げられた石仏で、1325年の銘が刻まれているとのことである。さらに山道を一段登ると、冷泉為相の墓と言われる宝篋印塔があった。

 浄光明寺門前の細道をさらに奥へ進むと、鎌倉十井の一つ「泉ノ井」があった。もはやここまでやってくる見学者もいない。さらにその奧にあるはずの妙伝寺を探すのだがなかなか見つからない。路地奥に隠れるようにたたずむ寺をようやく見つけた。この寺は昭和49年に東京から移ってきた寺で特に興味はないのだが、この寺の建つ場所には、鎌倉時代、多宝寺という大寺があった。1262年頃建立されたらしいが、いつまで存続したのか不明である。寺跡に立ち、しばし華やかなりし昔を思う。

 これで、扇ヶ谷地区の見学は終了である。雪の下、小町地区へと移動する。予報通り、空は真青に晴れ渡り、暑くて仕方がない。Tシャツ一枚になる。踏切の向こうに前回訪れた英勝寺を見て、鶴岡八幡宮に向う。途中「窟堂(いわやどう)」に寄るつもりなのだが、見つからない。なんと、不動茶屋というカフェの敷地内にあった。不動明王を祀る小さなお堂で、鎌倉幕府が開かれる前から鎮座している。

 鎌倉市川喜多映画記念館の前を通り、鶴岡八幡宮の南西の角に達する。ここに鎌倉十井の一つ「鉄ノ井(くろがねのい)」がある。井戸を掘ったとき、鉄ノ観音像の頭が出て来てのでこのように名付けられたという。この観音様の頭は、現在、東京人形町の大観音寺の本尊となっている。

 鶴岡八幡宮の三ノ鳥居前に達する。相変わらず、人、人、人、で溢れている。すでに時刻は11時過ぎ、腹が減って仕方がない。朝から何も食べていない。源氏池の辺に座り込んでコンビニの握り飯をほお張る。これから鶴岡八幡宮の門前をしばし探索することになる。

 先ずは土佐坊正俊の屋敷跡に行く。宝戒寺の少し南側、小町大路の西側道路脇に「土佐坊正俊邸跡」の碑が立っている。土佐坊正俊は源頼朝の命を受け、義経を暗殺するため京都に赴いた人物である。1185年10月17日、土佐坊正俊は60数騎の軍勢で義経の掘川館に夜襲を掛けるも失敗。捕らえられて六条河原で梟首された。肉親も巻き込んだ政権内の激しい権力闘争の犠牲者といえるのだろうか。

 若宮大路に向って細い路地を少し入ったところに「若宮大路幕府跡」の碑が建っている。もはや何も残っていないが、この辺りが、若宮大路幕府の置かれた地である。鎌倉の地に政権を樹立した源頼朝は大倉の地に御所を構え政務を執った(大倉幕府)。1225年、北条政子が死ぬと、幕府は大倉から宇津宮辻子に移された。そしてさらに、1236年、この若宮大路に移転し、鎌倉幕府滅亡の1333年までこの地が政治の中心地であった。

 段葛を歩いて若宮大路を南下する。二ノ鳥居の手前、カトリック雪ノ下教会横の路地を左に入ると、「宇都宮稲荷大明神」と染め抜かれた赤い幟が何本も翻る宇都宮稲荷神社がある。その前には宇津宮辻子幕府跡の碑が建っている。この地もまた、かつて日本の政治の中心地であったのだーーー。

 鎌倉駅に寄ってトイレ休憩とする。これほどの観光都市であるにも関わらず、鎌倉市内には公衆トイレが極めて少ない。時刻はまだ十二時、まだまだ歩けそうである。駅の南東側を少し探索してみることにする。由比ヶ浜大通りが、若宮大路と交差する「下馬四ツ角」、および小町大路と交差する「大町四ツ角」周辺に幾つかの見所がある。

 鎌倉十橋の一つである本覚寺前の「夷堂橋」に寄った後、下馬四ツ角に行く。鎌倉時代、鶴岡八幡に参拝する場合、この地点から先は乗馬が許されず、「下馬」した。このことが地名として現在まで残されている。四ツ角には「 下馬」碑が建てられていた。ここから若宮大路を10メートルも南下したところには、鎌倉十橋の一つ「琵琶橋」がある。今やコンクリートの立派な橋である。

 下馬四ツ角から大町四ツ角へ向う。数十メートル行くと右側に延命寺がある。五代執権北条時頼の夫人が建立したとのことだが、いたって平凡な田舎寺である。裏の墓地に「古狸塚」と刻まれた石碑の建つ狸の墓がある。江戸時代の末、酒好きの和尚が狸に毎晩酒を買いに行かせていたという話しが残されているとか。

 さらに線路を越えて東に進むと、左側に教恩寺がある。捕虜となって鎌倉に送られてきた平重衡が帰依した阿弥陀像が本尊であるとのことだが、平凡な寺である。「教恩寺」と記した山門の表札も消えかかっているし、何やら工事中で、境内は工事資材でごった返していた。

 大町四ツ角から南に数十メートル行くと、逆川を朱塗りの魚町橋で渡る。その袂には「町屋跡」の石碑が建てられている。この辺りは鎌倉時代に栄えた商業地域である。付近に鎌倉十橋の一つ「逆川橋」があるはずなのだが、見つけることが出来なかった。

 大町四ツ角に戻り、東に向う。200メートルも進むと左側に別願寺がある。鎌倉公方の足利基氏、氏満、満兼の菩提寺で、境内には足利持氏の供養塔もあるとのことで期待して訪れたのだがーーー。あるべきところに寺がないのである。しばしうろうろした揚げ句、ようやく見つけた。寺とはとうてい思えぬ、普通の(というより少々うらぶれた)民家である。玄関の看板を確認して、ようやくこの家が目指す寺であると確認した。わざわざ目指すような寺ではとうていない。

 その斜め向いが上行寺である。通り道にあるゆえ寄ったが、曰く因縁のある寺ではなさそうである。薬師堂に北条政子が頼朝のおできを治すために参拝したという痩守稲荷が祀られているとかで、おでき治癒祈祷の張り紙がべたべた張られ、何やら異常な雰囲気の寺である。ただし、山門にある左甚五郎作の龍の彫刻が見られたのはもうけものであった。

 さらに数十メートル下り坂を東に進む。坂の途中左側に安養院を見る。門構えからして、探索に訪れる価値の十分にある立派な寺である。この寺は北条政子縁の寺である。そもそも、安養院と言う寺名は政子の法名である。1225年、政子は夫頼朝の冥福を祈って笹目(鎌倉文学館の辺り)に長楽寺を建立したが、1333年の幕府滅亡の際に焼失した。そのためもともと善導寺の跡地であるこの地に移つされた。1680年、寺は再び焼失した。このため、比企ヶ谷にあった田代観音堂を移して再建された。従って、長楽寺、善導寺、田代寺の三寺が合わさったのが現在の安養院である。

 散り残るつつじの花に囲まれた参道を進み山門を潜る。緑多い境内である。目の前に樹齢700年と言われる槙の大木がそそり立ち、その背後に本堂が建つ。本堂の裏には大小二つの宝篋印塔が建っている。大きいほうが善導寺開山の尊観のもので鎌倉最古の石塔(1308,年の銘)である。小さいほうは北条政子のものと言われている。

 本堂前の庭石に腰を下ろして次なる行動を考えた。次に向うとすると、大寳寺であろう。ここからちょっと距離がある。しかし、我が体調は暑さもあり、疲労の色が濃い。足首の痛みもかなり強い。いずれにせよ、材木座付近を中心にまだまだ訪問すべき名所旧跡が多々残っている。今日中に廻りきれる数ではないので、また改めて訪問せざるを得ないだろう。時刻はまだ13時過ぎと早いが、今日はここまでとしよう。安養院門前ののバス停から鎌倉駅行きのバスに乗る。

登りついた頂 
   六国見山  147.3 メートル
  

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