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鎌倉駅(820〜825)→飯島バス停→正覚寺(847)→住吉城址(851)→光明寺(926)→補陀洛寺(1037)→九品寺(1050)→実相寺(1107)→五所神社(1113)→来迎寺(1119)→妙長寺(1132)→向福寺(1138)→音松稲荷(1149)→啓運寺(1153)→元鶴岡八幡宮(1159)→本興寺(1219)→大寳寺(1236)→妙法寺(1252)→安国論寺(1327)→長勝寺(1406)→銚子の井(1423)→名越切通し石仏群(1433)→まんだら堂やぐら群(1444)→名越切通し最上部(1457)→石廟(1509)→法性寺奥の院(1517)→法性寺山門(1525)→久木五丁目バス停(1535)→逗子駅(1543) |
今年の春、四度にわたって古都・鎌倉を歩いた。しかし、鎌倉の名所旧跡は思いのほか多く、未だ材木座周辺は回りきれていない。また、鎌倉と三浦半島を結ぶ古道・名越切通しも歩いてみたい。
秋晴れの予報に誘われ、いつもの通り北鴻巣駅発6時11分の上り電車に乗る。上野、東京、戸塚で乗り換え、鎌倉駅着8時20分。駅はそれなりに混雑しているが、まだ観光客の押し寄せる時刻ではない。すぐに駅前より逗子駅行きのバスに乗る。今日は鎌倉の南東の端、逗子市との境となる飯島地区から歩き始めるつもりである。 10分ほど乗車し、海岸に面した飯島バス停で降りる。よき海水浴場となっている鎌倉の砂浜もここで終わり、眼前には逗子との市境となる岩山が海岸にまで押し寄せている。海沿いを走ってきた国道134号線もそれと平行に走る旧道もともに行く手を山に阻まれ、トンネルの中に消えている。ただし、その旧道からトンネル入り口で分かれる一本の細道が、海と山とのわずかな隙間を危なっかしげに回り込んでいく。おそらく、この道が古来「海沿いの小坪路」と呼ばれ、鎌倉と山の向こう側の小坪集落とを結ぶ古街道なのだろう。 古街道を進む。車も通れぬ細道である。海岸まで押し寄せた岩山の急斜面にしがみつく集落の中に入る。飯島集落である。押し寄せた山並みの先端は小さく海に突きだし飯島崎と呼ばれる岬となっている。その近くから海を眺めると、100メートルほど沖合に、ひときわ白波の立つ場所が確認できる。この場所こそ「和賀江嶋」、すなわち日本最古の築港遺跡である。 1180年、頼朝が鎌倉に入り、鎌倉が日本政治の中心となる。このことにより、寒村であった鎌倉は急激に発展し、極めて多くの物流を確保する必要が生じた。しかし、鎌倉は三方を山に囲まれ、陸の物流ルートは細く、前方に開けた海も遠浅で、良港とは言い難かった。このため、1232年、往阿弥陀仏という勧進僧が三代執権北条泰時の許しを得て、海中に200メートルほど石積みをして防波堤とし、港湾施設を建設した。この石積み島が「和賀江嶋」である。現在でも引き潮の際には海中から姿を現すという。 集落内の道端に小屋掛けされた小さな井戸があった。鎌倉十井の一つ「六角ノ井」である。源為朝(鎮西八郎為朝)が配流先の伊豆大島から光明寺の裏山・天照山めがけて放った矢がこの井戸に落ちたという。集落内から一段上の住吉谷と呼ばれる小平地に上ると、正覚寺という小さな寺があった。 狭い境内を掃き清めている老人と朝の挨拶を交わし、寺の脇から上部に続く石段を登る。登り上げた山腹の少々草深い小平地に小さな祠が建っている。ここが住吉城址、そしてこの祠が住吉城の鎮守であった住吉神社である。住吉城は1510年、北条早雲によって築かれた山城である。その後、早雲と三浦道寸、道香兄弟との間で城を巡る闘いが何度かあった。この場所は山腹だけに視界が海に向って大きく開けている。江ノ島と稲村ケ崎が見え、その背後に山頂を白く染めた富士山がうっすらと見えている。もときた道を飯島バス停まで戻る。 第一中学校を示す道標に従い、背後の山に向って坂道を登る。「光明寺坂」との標示がある。登るに従い足下に寺院の大屋根が見えてくる。光明寺のはずである。まもなく道は中学校の校門前で、学校の敷地にそって登ってくる別の道と行き合う。この道が古道「山越えの小坪路」である。古来、鎌倉と小坪を結ぶルートは二つあった。先に辿った「海沿いの小坪路」とこの「山越えの小坪路」である。学校の敷地に沿って左にカーブしながらなおも登って行く小坪路をたどってみる。「小坪坂」との標示がある。校庭からは元気のよい掛け声が聞こえ、すでに野球の練習が始まっている。 1180年(治承4年)8月24日、この坂で後に「小坪坂合戦」と呼ばれる戦いがあった。決起した源頼朝を支援すべく出動した三浦軍と頼朝を鎮圧すべく出動した畠山重忠軍が偶然この地点で遭遇し戦いとなった。この戦いはその後、衣笠合戦へと発展し、鎌倉幕府成立の大きな経緯となる。 まもなく坂道の頂点に達した。ここが鎌倉と逗子との市境、向こう側は逗子の小坪地区である。この小坪坂を頼朝は何度も何度も越えたはずである。実は、頼朝は妻・政子に隠れて、亀の前という愛妾をこの小坪に囲っていた。後に政子にばれて大騒ぎとなるのだがーーー。小坪坂道を引き返す。 中学校を過ぎ、なおも下ると、光明寺に下り着いた。鎌倉四大寺にも数えられる浄土宗の巨大寺院である(他は建長寺、円覚寺、遊行寺)。1243年(寛元元年)、四代執権北条経時が然阿良忠を招いて創建した。広々とした境内は、未だ観光客も訪れず閑散としている。 まず、度肝を抜かれるのは聳え建つ巨大な三門(山門)である。間口16m、奥行き7m、高さ20m。鎌倉最大の山門である。現在の山門は1847年(弘文4年)に再建されたもので、1495年(明応4年)に建立され当初の山門はさらに大きかったとのこと、驚きである。また、山門に掲げられた「天照山」の扁額は後花園天皇のご真筆とのことである。 山門を潜り本堂に向う。本堂もまた巨大である。14間四面で、鎌倉では最大の木造古建築であるという。1698年に建立され、国の重要文化財に指定されている。嬉しいことに、「ご自由にお上がり下さい」との標示があり、広大な本堂の座敷に自由に上がることができる。その気になれば、ご本尊の真ん前に座り込むこともできる。タイなどの東南アジア諸国の寺では当たり前のことだが、日本の寺では珍しい処置である。本堂内はがらんとして、監視役らしき人の姿さえない。少々物騒な気もするが、これぞ本来の宗教施設の姿、何やらとてつもなく嬉しくなってしまった。 本堂右側には「三尊五祖の石庭」と呼ばれる枯山水庭園が広がっている。サツキの緑と白砂のコントラストが美しい。この庭園を本堂の廊下から眺めることができる。また、本堂左には江戸時代の有名な作庭家・小堀遠州作の「記主庭園」が造られており、池には二千年前の古代ハスが広がっている。この庭園も本堂から続く渡り廊下から眺めることができる。もちろん無料であり、拝観料などとらない心遣いが嬉しい。 この寺にはさらに見所がある。日向延岡藩主内藤家歴代の墓である。本堂右手の幼稚園のさらに奧にある様子なのだが、案内もなくよくわからない。事務所に聞きに行くと、記帳を求められた上、鍵が三つ付いたキーホルダーを貸してくれた。幼稚園の入り口、出口、墓地入り口の三ヶ所の鍵を開ける必要があるとのことである。 鍵を操作し、ようやく辿り着いた墓地は異常な雰囲気の場所であった。広い墓地は踏み込むのを躊躇するほど夏草が生い茂り、その中に巨大な宝篋印塔、笠塔婆、五輪塔、灯籠などが黒々と建ち並んでいる。辺りに人影はなく、まるで、魔界にでも迷い込んだような雰囲気で、恐怖感さえ湧いてくる。早々に逃げ出す。この墓地は鎌倉市の文化財に指定されている。 光明寺の支院である蓮乗院と千手院に寄り、次の目的地・補陀洛寺を目指す。地図を見い見い辿り着いた寺は平凡な小さな寺で、法事でもあるのだろうか、狭い境内は数台の車で埋り、写真の撮りようもない。それでも本堂前に、この寺のシンボル・樹齢150年とも言われるサルスベリの古木が確認できる。補陀洛寺は1181年(養和元年)、頼朝の祈願所として建立された寺である。開山はかの有名な怪僧・文覚である。文覚は配流時代から頼朝に影のごとく付きまとった人物である。 補陀洛寺の東奧の谷は弁ヶ谷(ベンガヤツ)と呼ばれる。頼朝の有力な御家人・千葉常胤の屋敷があった所と言われ、また1195年(建久6年)に頼朝の建立した最宝寺や1321年(元亨元年)に北条高時の建立した崇寿寺もこの谷にあったとも言われている。今や住宅が立ちこめ、昔の雰囲気はないが、いにしえを偲び入り組んだ道を歩いてみる。道端に「弁谷の碑」のみがぽつんと建っていた。 小町大路に出て、九品寺へ向う。この寺もまた鎌倉の、しいては日本の歴史に深く関わる寺である。1333年(元弘3年)5月22日、4日に及ぶ激戦の末、ついに稲村ケ崎を突破した新田義貞の軍勢は北条氏の死守する鎌倉へとなだれ込んだ。北条高時以下北条一族は氏寺・東勝寺で自刃し、鎌倉幕府は滅亡する。その三年後の1336年(建武3年)、新田義貞は北条方の戦死者を弔うために、鎌倉攻めの際に本陣を敷いたこの地に一宇を建立した。この九品寺は鎌倉に残る新田義貞縁の唯一の寺である。山門と本堂に掲げられている扁額「内裏山」「九品寺」の文字は義貞の真筆の写しである。真筆は本堂内にあるという。誰もいない本堂の前に座り込み、鎌倉の歴史に思いをはせる。 小町大路の一本東の細道を北へ向うと、実相寺の門前に出た。何の変哲もない日蓮宗の寺である。富士の巻き狩りで曽我兄弟に討たれた工藤祐経の孫である日昭が開いた寺である。この地に工藤祐経の屋敷があっと言われている。日昭は日蓮の直弟子六人の筆頭で、日蓮亡きあとは一門の長老と仰がれた人物である。 小道をなお北上すると五所神社入り口に出た。コンクリート製の大きな鳥居の先に細い参道が山裾に向って長々と伸びている。100メートル以上あると思われる長大な参道を進むと、ようやく社殿に到着した。その前で一人の老女が何やら大声を発しながら、手を上げたり下げたり、いつ終わりるとも知れない長い祈りを捧げている。この神社は材木座の鎮守である。 さらに細道を北上すると、来迎寺の門前に達した。今日是非とも訪れてみたかった寺院の一つである。来迎寺は頼朝が鎌倉幕府成立の基礎石となった三浦大介義明の霊を弔うために、1194年(建久5年)に建立した真言宗能蔵寺が始まりである。その後、1335年(建武2年)、時宗に改修し来迎寺となった。 三浦大介義明という武将は何とも魅力的な人物である。冷酷無慈悲の印象の強い頼朝だが、この頼朝でさえ三浦大介義明に対しては感謝と尊敬の念を余すことなく示している。もしも彼がいなければ鎌倉幕府は間違いなく成立しなかったであろう。頼朝が彼のためにわざわざ一宇を創建したのも当然と言えば当然である。 三浦大介義明は三浦半島の衣笠城を居城とする三浦一族の当主である。頼朝の挙兵が行われた1180年(治承4年)当時、すでに齢89と、当時としては極めて高齢であった。三浦一族は代々源氏に仕えてきた家系である。頼朝挙兵の報に接し、一族は支援のため急遽戦場となる石橋山に向う。しかし、石橋山の戦いに間に合わず、頼朝敗戦の報を受け、空しく帰城する。その途中、鎌倉由比ヶ浜で、平家方援軍として出撃してきた畠山重忠軍と偶然に遭遇し戦いとなる(小坪坂の合戦)。この戦いで三浦軍は大介義明の孫である多々良重春が討ち死にするという痛手を負う。 三浦軍はいったんは居城・衣笠城に帰還するも、追撃してきた畠山軍に城は包囲され、落城の色が濃くなる(衣笠合戦)。大介義明は息子・義澄等一族郎党に対し、衣笠城を逃れ頼朝に従うことを命じ、自らは城に残り、一族の脱出を見届けて自刃した。水軍を保持する三浦軍は海上に脱出し、石橋山の戦いに敗れ海上に逃れたものの落ち行くあてもない頼朝一行に合流する。そして、頼朝を安房に導き、鎌倉幕府成立の流れを造りだすのである。 来迎寺の山門を潜る。小さな寺である。未だ真新しい本堂では法事が行われている様子である。本堂の右側、墓地の一角に目指す墓はあった。二つの大きめの五輪塔が並んでいる。左側は「多々良三郎重春公之墓」、右側は「三浦大介義明公之墓」と標示さけている。墓前に手を合わせる。本堂裏には百を越えると思える小さな五輪塔がぎっしり並んでいた。「三浦大介公家来之墓」との標示がある。三浦一族の墓なのだろう。それにしても、三浦半島の小さな勢力に過ぎなかった三浦一族が、日本の歴史の表舞台に何とも大きな足跡を残したものである。来迎寺を去る。 小町大路に戻り北上する。「丹下左膳」の作者林不忘が新婚生活を送った寺とのみ案内書に記されている小さな寺・向福寺を過ぎ、人がやっと一人通れるような入り組んだ路地裏にある音松稲荷を意地になって探しだし、標示がなければそれとは分からない小さな橋「乱橋」に達した。鎌倉十橋の一つだが、今では細いドブ川にかかる極めて小さな橋に過ぎない。新田義貞の鎌倉攻めの際に、北条軍がこの辺りで乱れ始めた為「乱橋」の名がついたと言われる。 乱橋の斜め向いが妙長寺である。門前には大きな日蓮の銅像が建つ。ところが、山門は木製のフェンス(車止め)でブロックされており、「無用のものの入山を禁ず」の標示、何とも感じが悪い。「どなたでもどうぞ」と言うのが宗教本来の姿だと思うのだがーーー。かまわず山門を突破する。人の気配はない。本堂はピカピカで何となくありがたみも感じられない。 この寺は1299年(正安元年)、日実によって開かれた日蓮宗の寺である。日実は伊豆法難の際に日蓮の命を救った漁師・弥三郎の子(一説には本人)である。庭先には石造りの「法難御用船」六分の一模型が飾られていた。作家・泉鏡花は明治24年の夏をここ妙長寺で過ごした。その時のことを書いたのが小説「みだれ橋(後に「星あかり」と改題)」である。 無住で廃寺の匂いさえする啓運寺を覗き、今日の目的地の一つ・由比若宮(元鶴岡八幡宮)へ向う。地図を頼りに進むと、小町大路を離れ、何やら路地のような小道に入って行く。何か変だ。この先に然るべき神社のある雰囲気ではない。目指す由比若宮は鎌倉の象徴であり、また日本有数の大社である鶴岡八幡宮のもとになった神社、当然然るべき規模と風格を持っているはずとの思いがある。程なく赤い鳥居の建つ小さな神社に到着した。ここが由比若宮であった。予想外の小さな神社に驚く。先程訪れた村社である五所神社の方が遥かに立派である。 由比若宮は、1063年(康平6年)、源頼義が前九年の役(奥州の豪族安倍氏の反乱)の勝利を感謝するため、この地に京都の石清水八幡宮を勧進したことに始まる。八幡宮は源氏の氏神であり、以降、鎌倉と源氏の深いかかわりが生じていく。頼朝が鎌倉に幕府を開いたのもこのような歴史上の因縁が秘められていたのである。 境内に人影はない。時刻はちょうど正午、腹も減った。備え付けのベンチに座り、コンビニの握り飯をほお張る。頼朝は10月6日に鎌倉入りをすると、翌日7日には由比若宮に参拝し、12日には小林郷北山(現在鶴岡八幡宮が鎮座する場所)へ遷座し、以降壮大な社殿の建築に取りかかるのである。このことを見ても、この小さな社が如何に頼朝にとって大きな存在であったかが分かる。 小道をたどって小町大路に戻る。途中「石清水ノ井」と標示された井戸があった。京都の石清水八幡宮にあやかった井戸なのだろう。JR横須賀線の踏切を渡ると、左側に「辻の薬師堂」と標示された小さなお堂があった。もと名越にあり、幕末に焼失して廃寺となった長善寺の薬師堂である。 道路を挟んだその斜向かいが日蓮宗の本興寺である。1336年(延元元年)、日蓮の弟子・天目が建立した。赤い山門の奧に大きめの本堂が見え、その前に植えられたしだれ桜が目立つ。ただし、境内に人の姿はない。この寺は「辻の本興寺」とも呼ばれる。この辺りは鎌倉期、商業地帯として賑わった地域で、近くには町屋跡碑も建てられている。日蓮が毎日のごとく辻説法を行った場所である。 逆川を朱塗りの魚町橋(いおまちばし)で渡ると、大町大路と小町大路の交差する大町四ツ角である。前回、すなわち今年の5月27日の四度目の鎌倉散歩の際に、北側からこの地点までやって来た。今日は南側からやって来た。ようやく行動が重なったことになる。 大町大路を東に進み、安養院の先を北へ入る。住宅地の中をしばらく歩くと大寶寺に達した。門前には「佐竹屋敷跡」の碑が建っている。碑が示す通り、この場所は幕府の御家人佐竹氏の屋敷跡である。佐竹氏の祖は源頼義の三男・新羅三郎義光(源義光)である。すなわち八幡太郎義家(源義家)の弟である。義光の二代後の源昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に住みつき佐竹氏を名乗った。佐竹氏は当初頼朝に刃向かうも、後に従属しこの地に館を構えた。佐竹氏は鎌倉時代、室町時代を生き延び、戦国時代には常陸国の有力戦国大名となり、江戸時代にも秋田藩20万石として存在し続けた。 1399年(応永6年)、佐竹氏当主佐竹義盛が出家し、屋敷を寺として多福寺を建立した。後に多福寺は廃寺となるが、1444年(文安元年)、日出が日蓮宗の寺・大寳寺として再建した。芝生の敷き占められた明るい境内に真新しい本堂が建っている。ただし人影はない。境内にあるという新羅三郎義光の墓を本堂裏の墓地に探してみたが見つけることは出来なかった。 いよいよ松葉ヶ谷に向う。頼朝とともに鎌倉の歴史を綾取るもう一人の主役・日蓮上人縁の地である。地図を頼りに住宅地の中の細道を進む。ここは鎌倉の東の端である。今でこそ家々が建ち並んでいるが、鎌倉時代はさぞ寂しいところであったのだろう。10分も歩くと、妙法寺門前に達した。総門前に「松葉谷御小庵霊跡」と記した石柱が建つ。ここは背後に山を背負った松葉ヶ谷と呼ばれる地である。1254年(建長6年)、日蓮は安房から名越坂を越えて鎌倉に入り、この松葉ヶ谷の地に最初の草庵を結んだ。ただし、その正確な地点は不明なようで、この妙法寺、これから向う安国論寺、長勝寺の三説があるらしい。しかし、いずれも歩いて数分の距離である。妙法寺は1354年(延文2年)、護良親王の子・日叡が日蓮の遺跡を守り、親王の菩提を弔うために建立した寺である。 総門は潜らず、その左脇より境内に入ると受付があり、300円の拝観料を取られる。ということは、この寺はもはや信仰の対象ではなく、観光の対象ということだ。腹立たしいかぎりである。観光の対象だけあって、境内には何人かの見学者の姿がある。そのまま進むと、すぐに本堂に行き当たる。大きな重厚な建物である。文政年間に肥後細川家が建立した。本堂の右側を奥に進む。右側には加藤清正を祀る大覚堂がある。清正は熱心な日蓮宗の信者であった。 石段を登ると朱塗りの仁王門に行き着く。その背後から、苔むした急な石段が一直線に山腹を登り上げている。妙法寺名物の「苔の石段」である。何人かが大型カメラを構え、撮影に余念がない。この石段は苔の保護のためか通行禁止、脇の狭い石段を登る。急な百段にもおよぶと思える石段の登りはかなりのアルバイトである。このためか、「多くの人がここで引き返してしまう」と受付の女性は話していた。私はもちろん足早に登って行く。 上から20人もの団体が下ってくる。すれ違うのも大変である。登りきった小平地に水戸徳川家から寄進された法華堂が建つ。余りパッとしない建物である。その左が釈迦堂跡と鐘楼である。ここからさらに石段を登る。さすがに足ががくがくする。登りきった尾根直下の小平地が「御小庵跡」である。もちろん小庵跡と明確に確認されているわけではないがーーー。それにしても「何でこんな山の上に小庵跡があるんだよーーー」が感想である。生活するにしても、毎日出かける説法にしても不便で仕方がないだろうにーーー。ここに小庵があったとすると、その小庵は1260年(文応元年)8月27日、日蓮に反感を持つ他宗派の人々に襲われ焼き打ちされたはずである(松葉ヶ谷法難)。日蓮はどこからともなく現れた白猿に導かれて「お猿畠」に難を逃れた。 ここで道は尾根筋にそって左右に分かれる。ただしここからは山道である。先ずは、右、「護良親王の墓」に向う。息咳切って尾根に登り上げる。と、「大塔宮護良親王御墓」と刻まれた石碑と小さな五輪塔が建つ石垣に囲まれた一角に到着した。南東方向に大きく視界が開け、鎌倉の街並みと背後の稲村ケ崎がよく見える。護良親王の墓は二階堂地区の鎌倉宮近くにもある。そちらは宮内庁管理のより立派な施設だがーーー。御小庵跡まで戻り、今度は左の山道をたどる。しばらく進むと尾根上に、日蓮の墓、日叡の墓、南の方(日叡の母)の墓を示す三つの小さな五輪塔が並んでいた。 次の目標・安国論寺に向う。妙法寺から額田記念病院を挟んだすぐ南側である。この寺も松葉ヶ谷草庵跡に建てられた寺と言われる。門前に達すると、何やら野太い名調子の声が響き、人だかりがしている。何と、和服に袴姿の講談師が滔々と講談を語っているではないか。明調子に乗せて日蓮の苦難に満ちた活動の様が語られて行く。立ち止まって耳を澄ますと、思わず引き込まれてしまう。妙法寺と異なり、こちらは拝観料をとるどころか、講談をもって積極的に布教活動をしている。隣りあい、同じ謂れを持つ日蓮宗の寺どうしではあるが、その活動は大違いである。 この寺は1260年(文応元年)に日蓮の弟子・日朗が、日蓮が立正安国論を執筆した岩穴の側に安国論窟寺を建立したのが始まりといわれる。山門を潜り、本堂に向う。その道筋の右側に、切り立つ崖を背に「御小庵」と呼ばれるお堂が建つ。このお堂の背後に隠されている洞窟が、立正安国論を書いた場所と言われる「御法窟」である。今は洞窟そのものを見ることは出来ない。 本堂に詣で、その右手に広がる墓地に廻る。この墓地のどこかに経団連会長を務めた土光敏夫氏の墓があるはずだが、見つけるには到らなかった。墓地の前には「日朗上人御荼毘所」と記した石柱の立つ小さなお堂が建つ。日朗は日蓮六老僧の一人である。そして、最も日蓮に帰依した弟子といえよう。佐渡に流された日蓮を何度も尋ね、日蓮が流罪を許されたときに出向いに赴いたのも日朗であった。二人の関係はブッダとその弟子アーナンダとの関係を彷彿させる。日朗は「自分が最初に出家した懐かしい松葉ヶ谷で荼毘に付して欲しい」と遺言した。 「日朗上人御荼毘所」を抜け、背後の山に登って行く。と、山の中腹に洞窟がある。「南面窟」である。松葉ヶ谷法難の際に日蓮は白猿に導かれて最初にこの洞窟に逃れ、その後、お猿畠へと逃れたと言われている。満足し、山門に戻ると、今度は女性の講談師が20人ほどの観客を前に滔々と日蓮の物語を語っていた。何とも印象深い、いい感じの寺であった。 逗子へと続く国道311号線に出て、横須賀線の踏切を越えると長勝寺である。広大な境内を持つ大寺であった。この長勝寺も、妙法寺、安国論寺とともに日蓮が最初に草庵を結んだ場所といわれている。1263年(弘長3年)、日蓮に帰依したこの地の領主・石井長勝(日際)がその邸内に寺を建てたのが始まりといわれている。 山門を潜り、広々とした境内に進むと、目の前に本堂である帝釈天大堂の大きな建物が現れる。しかし、目に飛び込んでくるのはその前に建つ巨大な日蓮の銅像とそれを囲むように建つ四天王像である。この日蓮の銅像は高村光雲の作とのことである。境内南側の高台には法華三昧堂が建つ。室町時代の建物とされ、県の指定文化財になっている。広い境内はがらんとして2〜3人の参拝者を見るだけである。 いよいよこれから今日最後の大仕事、「名越切通し越え」を敢行する。鎌倉と逗子の間に立ちふさがる山越えである。時刻はすでに2時過ぎだが、あと2時間ぐらいは行動できるだろう。車の通行の激しい国道311号線を東に向う。 先ずは道端に「銚子の井」を見つけた。鎌倉十井の一つで、井戸の形が長柄の銚子に似ているのでこの名が付いたとのことである。大きな石の蓋で塞がれていた。その先に鎌倉五名水の一つ「日蓮乞水」があるはずなのだが、見つからなかった。日蓮が名越切通しを越えて鎌倉に入ったときに水を求め杖で地面を突いたところ、水が湧きだしたといわれる泉である。帰ってから調べてみると、持参の案内書の地図が間違っていたようである。 国道を離れて旧道を進み、名越踏切で線路の北側に移る。要所要所に道標があり迷うことはない。線路に沿った細道を行く。左側は人家が続き、右側は線路と隔てる柵である。道は次第に傾斜が増し、やがて凄まじい急坂となった。そしてついに人家も途切れ、山道となった。名越切通しの始まりである。右眼下の線路はトンネルの中に消えていく。 名越切通しは鎌倉七口、鎌倉七切通しの一つで、鎌倉の大町と逗子の間の山を切り開いた古街道である。名越坂、名越路とも呼ばれた。三浦方面に通じる交通の要所であるとともに鎌倉防衛の要所でもあった。鎌倉幕府の実権を握った北条氏にとって、最大の脅威は三浦に拠点を置く三浦氏の存在であったため、特にこの切通しは軍事的色合いが強かった。切り通しの途中には平場、土塁、曲輪、空堀、置き石、大切岸などの軍事的防衛施設が設けられている。 すぐに、道端に摩耗した五輪塔、首のない地蔵像、青面金剛の刻まれた庚申塔が現れた。地蔵像には亨保8年(1723年)、庚申塔には寛政12年(1800年)の銘が刻まれている。道は樹林の中の登りとなった。前方を三人連れが進んでいく。反対側からも幾つかのパーティが下ってくる。いずれもハイキングスタイルである。道の真ん中に巨石が転がっている。「置き石」といわれる防衛施設である。騎馬の通交を故意に妨害している。 道標があり、道が分かれる。右の道は「まんだら堂やぐら群」へ、左の道は「法性寺、衣張山ハイキングコース」と示されている。右の道を進むとすぐに「まんだら堂やぐら群 現在臨時公開中」の標示があり踏跡が左に分かれる。しめたとばかりに踏跡を少し登ると、大きく開けた平坦地に出た。昔、この場所には死者を供養する曼荼羅堂があったらしい。この平坦地を取り囲む岩肌に無数の岩窟が穿たれている。「まんだら堂やぐら群」である。この遺跡は逗子市教育委員会の管理下にあり、普段は閉鎖されているが、10月6日から12月9日までの土日のみ臨時公開されているとのこと、好運であった。係員が詰めており、説明書まで配布してくれる。 「やぐら」とは山々の岩肌に穿たれた中世の岩窟である。多くは墓地として利用されている。鎌倉を取り囲む山々の至る所に見られるが、ここまんだら堂跡には150穴ほどが群生し、国の史跡に指定されている。早速やぐら群の見学に移る。目の前の岩壁に三層にも渡って岩窟が掘削されている。多くの岩窟には小さな五輪塔が幾つも納められている。独特の景観である。何人もの見学者が撮影に励んでいる。見学を終え、ハイキングコースに戻る。 道はすぐに下りに転じた。分岐があり、右の道を「緑ヶ丘入り口バス停」左の道は「亀が岡団地」の標示。左の道を進むと、両側からオーバーハングした岩壁が張りだし、城門のように迫った場所が現れた。この辺りが「大空洞(おおほうとう)」と呼ばれる名越切通し最大の見所らしい。すぐに山道が終わり、車の通行可能な道に出た。どうやら名越切通し越えの核心部は終わったようである。詳細な地図を持っていないので、各々のルートの関係がよくわからない。法性寺に下りたいので「まんだら堂やぐら群」先の分岐まで戻ることにする。 分岐を法性寺、ハイランド方面に向う。道は確りしているが人影はばったり絶えた。尾根道を進むと二基の小さな石廟があった。初めて見る珍しいものだ。鎌倉時代後期から南北朝時代のものといわれ、内部に骨壷が納められていたらしい。この地点より道標に従い法性寺へ下る。 山道を下っていくと、山中には不似合いなほど立派なお堂が現れた。法性寺奥の院である。松葉ヶ谷法難の際、日蓮はどこからともなく現れた三匹の白猿に導かれて、「お猿畠」の岩窟に避難したといわれる。そのお猿畠がここであり、奥の院の左側にその岩窟が見られる。後に、この地に建立された寺が法性寺である。急な坂道を下っていくと法性寺本堂が現れ、車道がここまで登ってきていた。通る車とてない車道を下っていくと、国道205号線に突き当たる。ここに法性寺の立派な山門が建つ。「猿畠山」と記された大きな扁額は二匹の白猿が支えていた。 久木五丁目のバス停よりバスに乗って逗子駅に向う。満足な一日であった。
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