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藤沢駅(815)→遊行寺(837)→江ノ電藤沢駅→江ノ電江ノ島駅→本蓮寺(951)→常立寺(958)→龍口寺(1007)→法源寺(1036)→江ノ電江ノ島駅→腰越駅→浄泉寺(1105)→小動神社(1107)→満福寺(1120)→本成寺(1130)→勧行寺(1132)→妙典寺(1134)→東漸寺(1136)→本龍寺(1141)→腰越駅→七里ケ浜駅→霊光寺(1217)→七里ケ浜駅→稲村ケ崎駅→十一人塚(1250)→日蓮袈裟掛松(1252)→稲村ケ崎(1301)→稲村ケ崎駅→極楽寺駅→針磨橋(1330)→阿仏尼邸跡(1332)→導地蔵堂(1339)→熊野新宮(1342)→月影地蔵(1352)→極楽寺駅(1400)→鎌倉駅(1430) |
この春から鎌倉を五度訪ねた。市内の大方の名所旧跡は廻り終えたが、案内図を眺めてみると、片瀬、腰越、七里ヶ浜、稲村ケ崎方面が白紙のまま残っている。一部は藤沢市に属する地域ではあるが、鎌倉の歴史に深く関わる地域である。訪ね残しておく分けには行かない。
これらの地域を繋いで、人気のローカル鉄道・江ノ電が走っている。始発の藤沢駅から、江ノ電を乗り継ぎながら鎌倉に向うのがよさそうである。藤沢には、前々から行ってみたいと思っている時宗総本山・遊行寺(ゆぎょうじ)がある。 いつもの通り北鴻巣駅発6時11分の列車に乗り、上野、東京で乗り換えて藤沢駅着8時15分。朝の明るい日差しが溢れている。今日も一日好天が続きそうである。銀行やオフィスビルの建ち並ぶ駅前から地図を頼りに遊行寺に向う。現在では湘南地区有数の都市である藤沢市は、遊行寺の門前町として生まれ、東海道の宿場町として発展した。 約15分歩き、コンクリートで固められた境川を赤い欄干の遊行寺橋で渡る。現在、国道は隣りの藤沢橋で境川を渡っているが、江戸時代の東海道はこの遊行寺橋であった。「かながわの橋100選」の一つである。すぐに遊行寺門前に達した。冠木門といわれる黒塗りの総門を潜る。大寺院にしては質素な門である。この寺の正式名称は「清浄光寺」であるが通称の「遊行寺」の方が知られている。一遍上人の開いた時宗の総本山である。一遍上人は鎌倉新仏教の祖師の一人であり、寺院に依存しない一所不在の所国遊行を貫いた。1282年(弘安5年)には鎌倉に入ろうとするが、八代執権北条時宗に阻止された。時宗は何を恐れたのであろうか。 総門を潜ってすぐ左手の墓地の一角に、板割朝太郎の墓がある。朝太郎は国定忠治の子分であったが、赤城山で忠治と別れた後、仏門に入り、遊行寺の塔頭・貞松院の住職にまで登り詰めた。従って墓の主は朝太郎ではなく「貞松院住職列成和尚」である。 緩やかな坂道となった参道を登って行く。遊行寺は高台にある。ゆえにその横を通る旧東海道も上り下りの坂道となる。正月の箱根駅伝2区の遊行寺坂は難所の一つである。参道は48段の石段があるので「いろは坂」と呼ばれている。休日の早朝のためか人影はない。 参道を登り詰めると、目の前に凄まじく巨大な本堂が現れた。本堂は、江戸時代初期以降何度も焼失し、また関東大震災でも倒壊したとのことで、現在の建物は昭和に入って再建されたものである。その巨大さは東海道随一の木造建築といわれている。本堂の前は広場となっており、寺院に付き物のごちゃごちゃした建物は何もない。代わりに一本の銀杏の大木が聳えている。樹齢650〜700年と推定される古木で、遊行寺のシンボルとなっている。遊行寺の創建は1325年であるので、ひょっとすると、この銀杏は遊行寺の全歴史を眺めてきたのかも知れない。本堂に詣でる。 本堂前広場の左奧に、遊行寺の見所として多くに紹介される鐘楼と中雀門がある。梵鐘は延文元年(1356年)鋳造、鋳物師は物部光連である。神奈川県の重要文化財に指定されている。中雀門は安政6年(1859年)に建造された現存する遊行寺最古の建物である。紀伊の徳川家から寄進されたなかなか立派な門なのだが、不思議に思うのは、この門は何のために、何に対する門なのかということである。本堂はこの門の表側にあるのだから山門でないことは確かである。 当然のことだが、この門はその奧にある建物のために設けられているはずである。奧の建物は社務所と標示されているが、本坊でもあると思われる。遊行寺は歴史的に何度か行在所(天皇御幸の際の仮の住まい)となり、明治天皇は六度も宿泊している。おそらく、その行在所となった本坊に対する門なのだろう。ということは、寺院本来の施設ではない。 民衆の中に入り、寺を建てることもせず民衆のために生きた一遍上人だが、その後継者達は、巨大な寺院を建て、天皇家や徳川家などの最上層階層と交わり、いつしか特権階級へと登り詰めたのであろう。その象徴がこの中雀門なのかも知れない。寺には相応しからぬ施設である。少々がっかりして遊行寺を去る。 藤沢駅まで戻り、今度は江ノ電に乗る。正式名称は「江ノ島電鉄」だが「江ノ電」の愛称で親しまれている人気のローカル鉄道である。藤沢ー鎌倉間10.0キロメートル、15の駅を34分で結んでいる。時には路上を走り、民家の軒先をかすめ、路面電車のような、普通の鉄道のような不思議な鉄道である。 藤沢駅を出発した四両編成のかわいらしい電車は石上、柳小路、鵠告、湘南海岸公園と進み、約10分で江ノ島駅に到着した。湘南有数の観光地・江ノ島を目の前にした駅であるが、私は江ノ島へ行くつもりはない。江ノ島の対岸、藤沢市片瀬地区に鎌倉の歴史に関わる幾つかの見所がある。国道467号線を横切り、湘南モノレール江ノ島駅の横を抜けて、人家の間の細道を10分も歩くと、目指す本蓮寺に達した。 思いのほか立派な山門が出迎えてくれた。その奥に広がる境内はさして広くはないが、手入れがよく行き届き、凛とした空気が流れている。一瞬、入るのを躊躇するほどである。この寺は6世紀末に真言宗の寺院として建立され、その後、1184年に頼朝により再建された。1271年の龍ノ口法難を逃れた日蓮がこの寺で休憩したともいわれる。そして、嘉元年間(1303〜1306年)に日秀により日蓮宗の寺に改宗され、「龍口寺輪番八ヶ寺」の一つとなった。龍ノ口法難跡に建つ龍口寺は明治19年に到るまで住職を置かず、片瀬腰越地区の八ヶ寺が輪番で維持管理した。この八ヶ寺を「龍口寺輪番八ヶ寺」と呼ぶ。 この本蓮寺の歴史の中で最も興味をいだく出来事は、頼朝がこの寺で、後白河法皇から送り届けられた父・源義朝の遺骨を受け取ったと伝えられていることである。頼朝は鎌倉政権を樹立すると早々に、父・源義朝の菩提を弔うために勝長寿院を建立し、葬るべく義朝の遺骨捜索を後白河法皇に依頼する。義朝は1159年の平治の乱で平清盛に破れ、東国に逃れる途中尾張の国で討たれ、その子頼朝は伊豆に流された。依頼を受けた後白河法皇は義朝とその忠臣・鎌田政長の髑髏を探し出し、1185年8月、鎌倉の頼朝の元に届けた。頼朝はここ本蓮寺まで出迎えその遺骨を受け取ったといわれる。義朝を葬った勝長寿院はその後度重なる火災に遭い、16世紀前期頃に廃寺となった。 本蓮寺から江ノ島駅方向に少し戻ると、常立寺がある。この寺も「龍口寺輪番八ヶ寺」の一つである。常立寺は龍ノ口処刑場で処刑された人々を弔うために建てられた寺である。もとは利生寺という真言宗の寺であったが1532年、日豪により日蓮宗に改宗され寺名も常立寺と改められた。この寺の名を世間に知らしめているのは「元使塚」の存在である。8代執権北条時宗は、1275年、日本に服属を求めて元より遣わされた杜世忠ら5人の使節(元使)を龍ノ口処刑場で斬首した。その結果は1281年の第二次元寇へと繋がる。常立寺にある五つの五輪塔が処刑されここに葬られた元使の墓標であると伝えられている。 参道を進み、小振りの山門を潜る。他に参拝者の姿はないが、本蓮寺に比べると、人の目、人の足に慣らされた感じがする。この寺はそれだけ多くの参拝者を迎えているのだろう。境内は割合に広い。山門のすぐ左手に目指す元使塚はあった。南無妙法蓮華経と日蓮宗のお題目が刻まれた大きな石碑の下に、摩耗した五つの五輪塔が並んでいる。五輪塔には幾重にも青い布が巻き付けられている。 この青い布は、モンゴルでは「英雄」を意味するとのことで、平成17年にこの地に参拝したモンゴル出身力士・朝青龍、白鵬らにより巻かれた。いまや日本の伝統的文化である大相撲を背負って立ち、そのためか、普段はモンゴル人の顔を見せないモンゴル出身の力士達であるが、やはり民族としての熱き心を持ち合わせているようである。 常立寺を出て、車の往来の激しい国道467号線を東に進む。数分で目指す龍口寺門前に到着した。左手一段上に立派な仁王門が構えている。思いのほか大きな寺である。この寺はいわゆる龍ノ口法難跡に建てられた日蓮宗の寺である。1271年、日蓮は幕府や他宗派を批判した罪で捕らえられ、龍ノ口刑場でまさに首を刎ねられようとした。しかし、突如、怪奇現象が起き、処刑は中止され一命をとりとめた。この出来事を龍ノ口法難と呼ぶ。日蓮宗にとっては画期的な出来事である。この龍ノ口刑場の位置は正確には不明のようであるが、龍口寺仁王門脇の小平地がその地と比定され、その旨を告げる石碑が建てられている。 刑場跡に手を合わせ、仁王門から続く石段を上る。寺は背後の山に向って建立されている。彫刻の美しい小さな山門を潜り、境内に入る。鐘楼や庫裡などの建物が並び、その奧の20段程の石段を上った先に重厚な本堂が現れた。さすがに名の知れた寺院だけに境内にはすでに数組の参拝者の姿が見られる。とともに、境内のあちこちで画架が立てられ、何人もの日曜画家が思い思い写生に勤しんでいる。なるほど、そのつもりで境内を見渡せば、時代を感じる本堂、その背後の山腹には、半ば木々に隠れながら形よい五重塔が見える。絵になる光景である。 本堂に詣でた後、五重塔まで登ってみる。やや急な狭い石段にも何人かの画家が画架を立て掛けている。五重塔は明治43年建立の総檜造りでなかなかの建物である。戻って、本堂右前の鐘楼に行く。標示によると、梵鐘を自由に撞いてよさそうである。静かにひと突きすると、重厚な鐘の音が境内に響き渡った。日蓮が幽閉されていたという御霊窟を見学して龍口寺を辞す。 龍口寺の少し奧に、「龍口寺輪番八ヶ寺」の一つである法源寺がある。たいして謂れのある寺でもなさそうだが近くなので行ってみる。坂となった参道を進む。道を掃き清めていた年配の女性とすれ違うと、「御苦労様です」と丁寧な挨拶がなされる。日蓮宗独特の挨拶である。昔、日蓮宗の総本山・身延山に参拝したときにも、行きあう人々は皆この言葉を交わしあっていた。 江ノ島駅に戻り、再び鎌倉行きの江ノ電に乗り、次ぎの駅・腰越で下りる。この駅の周辺にも由緒ある寺社が幾つかある。狭い路地を海岸沿いの国道134号線に抜けると、目の前に湘南の海が大きく広がる。天気は快晴、海も静かなようだ。 先ずは小動(こゆるぎ)岬に鎮座する小動神社に詣でる。国道端の鳥居を潜ると、緩やかな上り坂となった参道が続く。海に面した高台にある神社は思いのほか立派な社殿を有していた。この神社は頼朝の御家人・佐々木盛綱が領国であった近江の国の八王寺宮を勧進したもので、明治に到るまで八王寺社と称していた。新田義貞が鎌倉攻めの際に戦勝を祈願し、勝利の後に社殿を寄進したと伝えられている。旧腰越村の鎮守である。 境内に人影はなかったが、海を見下ろす小さな展望台で、若い女性が美しい笛の音を響かせていた。小動岬の先端まで行ってみようと思ったが、ルートは見当たらなかった。この岬は作家太宰治が心中事件を起した場所として知られている。国道を挟んで小動神社の反対側にある浄泉寺に寄る。小動神社の別当寺であった寺である。 地図を頼りに少々内陸に進むと、「義経の腰越状」で知られる満福寺に達した。1185年、壇の浦の戦いで平家を滅亡に追い込んだ源義経は、捕虜とした平家の大将・平宗盛を護送し、鎌倉に凱旋しようとした。所が、意外なことに、頼朝は義経の鎌倉入りを拒否した。義経が頼朝の許可なく後白河法皇から官位を受けたことがその理由であった。義経はやむを得ず、この満福寺に滞在し、頼朝の許しを請うため、頼朝腹心の大江広元に対し、事態を取りなしてくれるよう依頼の書状を提出した。この書状が「腰越状」である。ただし、結果として頼朝の怒りを解くに到らず、義経は空しく京に引き返すことになる。頼朝と義経の敵対する決定的経緯となった歴史的事件である。 江ノ電の小さな踏切を渡ったところから山門に向っての石段が始まる。小さな山門を潜ると境内である。確りした本堂が建つが、所詮は田舎寺という風情である。この寺は行基によって開かれたといわれる真言宗の寺である。狭い境内には「弁慶の腰掛け石」とか「弁慶の手玉石」とか、怪しげな「見所」がある。宝物殿の拝観料は200円、私は入場しなかったが、見学者を一生懸命集めて集金に励んでいる様子が窺える。 満福寺の北側の山裾にごちゃごちゃと五つの寺が集まっている。いずれも曰く因縁のあるほどの寺ではないが「龍口輪番八ヶ寺」の一つである。行ってみることにする。位置的には満福寺のすぐ北側なのだが、直接行く道はない。腰越駅近くまで戻って、線路を越え、恐ろしく入り組んだ路地をたどる。本成寺、勧行寺、妙典寺、東漸寺と廻る。いずれも小さな田舎寺で、見学者の姿など皆無である。それにしても、各々の寺の間隔はわずか数十メートル。しかも皆日蓮宗の寺である。共存できるのが不思議である。 最後に本龍寺に行く。この寺は比企高家の屋敷跡に立てられ高家の墓もこの寺にあるとのことなので、探してみたが見つけることは出来なかった。境内に人影はなく本堂から読経の声が漏れていた。比企高家は北条時政の謀略によって滅びた比企能員の子と伝えられている。駅まで戻りかけると、二人連れのおばあさんが道端で立ち往生している。「東漸寺はどう行ったらいいんですか」の質問。こう入り組んだ路地では教えるのも大変である。 再び江ノ電に乗って二駅、「七里ヶ浜」で降りる。駅には女子高生の姿が目立つ。駅前に県立七里ヶ浜高校がある。向かうは日蓮の雨乞伝説のある「田辺が池」およびその岸辺に建つ霊光寺である。駅から歩いて20分程の距離である。1271年、大旱魃に襲われたこの歳、8代執権北条時宗は極楽寺の忍性に雨乞祈祷を命じたが雨は降らず、代わって日蓮が田辺が池の辺で雨乞をすると大雨が降ったと伝えられている。 駅からとことこと内陸の山に向って歩く。道はよくわからないが、途中何らかの標示ぐらいあるだろう。すれ違う夫人が丁寧に挨拶する。ちょっと戸惑う。「日蓮上人雨乞霊跡道」と刻まれた古そうな石柱に導かれて急な坂を登って行く。しかしその先は何の標示もなくルート不明となる。地元の人に尋ね、細い砂利道をたどって山門のみぽつんと建つ霊光寺に達した。どうやら本堂は奥の山の上にあるようだ。山門の脇に溜め池のような濁った池が広がっている。この池が田辺が池である。山上の霊光寺本堂まで行ってみたが小さな建物があるだけで人の気配もない。どうやらわざわざ訪ねるところではなかったようである。七里ケ浜駅に戻る。 またまた江ノ電に乗って一駅、稲村ケ崎駅で降りる。もちろん、目指すは稲村ケ崎である。ただし、その前に二ヶ所ほど寄り道をする。先ずは駅から歩いて数分、線路際にある「十一人塚」を訪れる。1333年の新田義貞による鎌倉攻撃の際、極楽寺切り通し攻撃の総大将・大館宗氏以下11人は激戦の中で戦死した。かれらの菩提を弔うために築かれたのがこの塚である。当初は十一面観音が安置されていたとのことだが現在は石碑が建つのみである。さらに線路を越えて少し進むと道脇の高台に「南無妙法蓮華経」と刻まれた石柱が立っている。ここが「日蓮袈裟掛松」跡である。1271年、日蓮は、処刑されるために龍ノ口刑場に連行される途中、袈裟が血で汚れるのは恐れ多いと、この地点に生えていた松に袈裟を掛けたと伝えられている。現在その松はすでにない。 戻って海岸沿いを走る国道134号線(湘南道路)に出る。目の前に湘南の海がどこまでも広がっている。右手の七里ヶ浜から左手に見える稲村ケ崎にかけて、緩やかに湾曲した海岸線が続いている。沖合にはサーフィンに興じる若者の姿も見える。海に突きだした稲村ケ崎に向って国道を歩く。岬の根本が小公園となっており、芝生の広場の中に各種の石碑や石像が立つ。海に向っては展望台となっており、江ノ島の背後に山頂を白く染めた富士山が真青な空に浮かんでいる。その左手の沖合には、伊豆大島がその大きな島影を黒々と水平線から突きだしている。まさに絵葉書の光景である。石段を岬の高台に登ってみる。見渡す景色はさらに美しさを増す。 「1333年5月22日、鎌倉幕府を攻め滅ぼさんとする新田義貞は海に黄金の太刀を投げ入れ、龍神に祈願する。すると潮が引き、鎌倉へ攻め入る道筋が現れた」。この地に残る有名な伝説である。 『♪ 七里ヶ浜の 磯伝い 稲村ケ崎 名将の 剣投ぜし 古戦場 ♪』 小学校時代に習った唱歌を思い出す。 稲村ケ崎駅に戻る。さらに江ノ電に乗って一駅、極楽寺駅で降りる。この駅は今年の4月15日、最初の鎌倉散歩を始めた地点である。その後も鎌倉散歩を続け、今回の第六回鎌倉散歩にしてこの地点に戻ってきた。この極楽寺周辺には前回訪問し残した場所が幾つかある。 極楽寺の駅から駅前の道を500メートルほど南に辿ると極楽寺川に架かる小さな橋がある。現在は何の変哲もないコンクリート製の橋だが、鎌倉十橋の一つに数えられている「針磨橋」である。昔この辺りに、針金を磨いて針を作る老婆が棲んでいたとか。道端に針磨橋の碑が建てられている。 線路際に進んで、小さな踏切を越えたところに阿仏尼邸跡の石碑が建っている。阿仏尼は「一六夜日記」の作者として知られている。扇ヶ谷の英勝寺の近くに阿仏尼の墓地といわれるやぐらがある。今年の5月12日、第三回鎌倉散歩の際に訪れた。 極楽寺駅まで戻り、今度は北へ進んですぐに陸橋で江ノ電の線路を越える。越えたところに少々大きめのお堂がある。導地蔵堂(みちびきじぞうどう)である。前回このお堂の前を通ったはずなのだが、何も気づかずに通り過ぎている。この地蔵堂は1267年、極楽寺を開山した忍性が運慶作の地蔵像を安置したのが始まりといわれている。当時の地蔵像は存在せず、現在の地蔵像は室町時代の作である。子育ての霊験あらたなことから導地蔵と呼ばれる。 導地蔵堂のすぐ先の小さな谷を北東に少し遡ったところに熊野新宮がある。思いのほか立派な社殿を持つ神社に驚く。極楽寺に押しかけている観光客もここまではやってこないと見え、境内は静かである。この神社は1269年、極楽寺開山の忍性が寺の鎮守として熊野本宮を勧進したのが始まりといわれている。昔、極楽寺は七堂伽藍と49の塔頭を持つ大寺院であった。ゆえにこの熊野新宮も当時は極楽寺境内に鎮座していたことになる。 導地蔵前まで戻り、西ヶ谷沿いの小道を北東に進む。稲村ケ崎小学校を過ぎ、狭まり、幾つも分岐する道を奥へ進むと、確りしたお堂が現れた。月影地蔵堂である。先に訪れた月影ヶ谷の阿仏尼邸にあったお地蔵様をこの地に移したのでこの名がある。なかなか趣のある地蔵堂である。ここから更に谷をさかのぼれば鎌倉山に抜ける山道となる。 これで今日の予定は全て終了である。満足して観光客で少々混雑する極楽寺駅に戻る。江ノ電に乗り、長谷、由比ヶ浜、和田塚と過ぎれば終点鎌倉駅である。 以上 |