上河内岳から聖岳へ

15年ぶりの南アルプス南部の縦走路

1994年8月12日〜15日


茶臼岳より聖岳を望む
 
12日 静岡→(車)→畑薙第一ダム
13日 畑薙大吊橋(555)→ヤレヤレ峠(625)→ウソッコ沢小屋(750)→横窪沢小屋(950〜1010)→茶臼小屋(1315)
14日 茶臼小屋(555)→茶臼岳(620〜635)→上河内岳(825〜840)→聖平小屋(1025〜1115)→聖岳(1345)→奥聖岳(1405〜1425)→聖平小屋(1610)
15日 聖平小屋(555)→滝見台(645)→聖沢橋(915〜930)→聖岳登山口(1030)→中ノ宿(1230)→(車)→静岡

 
 上河内岳は日本200名山にも選ばれた南アルプス南部の雄峰である。周辺の山々から眺めると、その鋭角的な姿はひときわ目を引く。残念ながら、私は未だこの鋭峰の頂を知らない。決して登るチャンスがなかったわけではない。否、過去三度もその頂を間近に仰ぐ地点までは達したのだ。昭和49年には遠山川から北の鞍部である聖平に。昭和50年には光岳、茶臼岳を越えて南の鞍部である茶臼小屋に。昭和54年には赤石岳、聖岳を越えて再び聖平に。だが、そこからもうひと踏ん張りが利かなかった。

 こんなわけで上河内岳だけが南アルプス南部の山々の中で未踏峰として残ってしまった。その後は、もうこの奥深い山には縁がないものと、半ば諦めていた。しかし、幸運が訪れた。平成4年静岡に転勤となり、南アルプス南部の山々が身近となった。安倍奥の山々からは谷一つ隔てた南アルプス南部の山々が眺められた。その中に荒川岳、赤石岳、聖岳のビッグスリ−とともに上河内岳の雄姿があった。それは「早くやってこいよ」と呼んでいるようでもあった。

 上河内岳の行こうと決めた。しかし、この山はなぜか私を拒む。昨年の9月、準備万端整えて車で登山口の畑薙第一ダムへ向かったのだが、途中道路崩壊で通行止め。空しく引き返した。この道路崩壊による通行止めは今なお続いている。本来畑薙第一ダムまで行くバスも、今はその16キロも手前の八木尾又までしか行かない。しかし、物事には表があれば必ず裏がある。崩壊箇所には工事用の迂回路があり、関係者のみ内緒で通すという絡繰りを知った。私は勇んで上河内岳に向かった。


12日
 台風14号の接近で、今日明日は悪天の予報である。早朝の出発を延期し、自宅で待機していたら天の声が聞こえてきた。「天気が悪そうだからと出発を延期するような軟弱な気持ちでどうする。雨が降ろうが、風が吹こうがそれを乗り越えていくのが山登りではないか」。いわれてみればもっともである。心を入れ替え、午後2時過ぎに自宅を出る。

 畑薙第一ダムへ向かう道路には到る所「この先通行止」の看板が立つが、すでに絡繰りを知ってしまった者には通用しない。通行止めのバリケ−ドの手前に、「作業道、関係者以外立入禁止」の看板の立つ道を見つける。これこそ秘密のバイパスである。作業道そのものの河原の道を車の底を擦りながらもなんとか抜け、5時過ぎ、畑薙第一ダムに着く。例年なら登山者で賑わうはずのダムサイドもバス不通の現在、人影はなかった。林道はさらに奥の二軒小屋まで続いているのであるが、ダムの少し先のゲ−トで一般車は通行止である。ゲ−ト手前の道端に車を止めテントを張る。うまい具合に無人の作業小屋の水道が使える。しばらくすると、大きにザックを背負った単独行者がダムサイドから歩いてきて、私の隣にテントを張った。二人だけなのだが、変わった人で、目を合せようともしない。予報通り今日は昼過ぎから雨が降ったり止んだりしている。明日は天気が悪くても茶臼小屋まで登ろうと思った。どうせ展望の利かない樹林地帯の登りなのだから。


 

13日

 朝起きると、どんよりしているものの幸い雨は降っていない。昨夕からゲ−トは開けっぱにしであり、閉じる気配はない。「一般車通行止」の看板はあるものの、その下に「もし一般車が通行して事故にあっても責任は負えません 静岡市」との注意書きもある。逆読みすれば、自己責任の下なら通っても構わないとも解釈できる。これも表と裏であろう。そもそも、この林道を椹島ロッジと二軒小屋ロッジの宿泊者のみを送迎する東海フォレストのリムジンバスが走っている。路線バスもタクシ−も一般車までも締め出したこの林道をなぜ一会社のリムジンバスだけ運行が許されるのか。この道は静岡市の市道である。どんな絡繰りか知らないが、腹立たしい限りである。

 登り口の畑薙大吊橋まで車を乗り入れることにする。約40分節約できる。余りにも気まずいので、隣の単独行者に「乗っていきますか」と声を掛ける。私と同年輩のこの人は、聞けば、登山ではなく釣りだという。道理でそ知らぬふりをしたはずである。我々登山者も渓流釣りの人には近親感を覚えない。どちらも同じ山岳を活動舞台とするのに不思議な感情である。バス終点の八木尾又からここまで歩いてきたという彼は、畑薙山を越えて仁田沢に入るという。登山者よりも余程凄い。

 5時55分、畑薙大吊橋を渡っていよいよ登山を開始する。懐かしい吊橋だ。昭和50年夏、Y君と私は寸又峡から入山して、信濃俣、光岳を越えて茶臼岳に至るという大縦走を行なった。この時、大縦走成功の喜びに満ちて渡ったのがこの大吊橋であった。早いものである。あれからもう19年の月日が流れている。

 ここから茶臼小屋まで、約1400メ−トルの登りに耐えなければならない。周りに人影はない。バス不通の現在、このル−トからの入山者はいないのであろう。すぐに、ヤレヤレ峠の登りに掛かる。4人パ−ティとする違う。彼らは八木尾又のバス停まで歩くつもりなのだろうか。峠で一休みして上河内沢の河原に下る。19年前、この辺で縦走最後のテントを張った。当時の記憶を思い起こそうとするが、それらしい場所は見当たらなかった。ついに雨が降りだす。次第に雨足が強まるので雨具をつける。右岸、左岸と何度か渡り返すと、ウソッコ沢小屋に達した。雨の中を登る私を小屋番のおばさんが気の毒そうに見送ってくれた。

 鉄梯子をまじえた急な登りが始まった。雨具を着けているため、吹きでる汗と結露でTシャツもズボンもびしょびしょである。これでは雨具を着ける意味がない。やはりゴアテックスの雨具を買わねば駄目か。ようやく横窪沢峠に到着する。遭難碑がある。ちょっと下ると横窪沢小屋である。真新しい立派な小屋が建っている。いい具合に雨が上がって薄日さえ差してきた。一人休んでいた若者が妙に馴れ馴れしく話しかけてくる。聞けば昨夜はウソッコ沢小屋に泊まったという。ずいぶんのんびりした歩みである。

 ここまではほぼ標準時間通り快調に来た。いよいよ茶臼小屋まで、標高差800メ−トルの本格的登りである。雨具を脱ぎ、覚悟を決めて歩きだす。すぐに雨が再び降りだした。どうやら今度は本降りのようだ。もう、雨具は着けない。この方が涼しいだけ助かる。着けても濡れることには変わりないのだから。

 樹林の中の急登がどこまでも、どこまでも続く。もはや人の気配はまったくない。この苦しさが南アルプスなのだ。重荷を背負い、この死ぬほど苦しい樹林地帯の急登に耐える者だけが南アルプスに登る資格がある。苦しさに耐えかねても誰も助けてはくれない。いわんや、励ましてくれる仲間とてない孤独な単独行、頼るものは自分以外にない。変化のない急登も、一歩、また一歩と進むごとに高度は確実に上がる。もう全身濡れ鼠である。休むと寒いが、原生林の中ゆえ風がないので助かる。本来ならこんな行動は危険である。真夏と言えども、疲労凍死の危険はある。雨の中、いろいろな小動物が這い出して来る。大きな蛭、みみず、がま蛙。色とりどりの茸も豊富である。

 高度計が2200メ−トルを越えた。もう小屋は近いはずだ。さしもの急登も心持ち緩んできた。原生林も薄れ、お花畑が現われる。ミヤマシシウドの白い花、トリカブトやマツムシ草の紫の花が雨に濡れている。同時に寒風が吹きつける。山角を曲がると立ち込めるガスの中にうっすらと山小屋が現われた。ついにこの急登に耐え切ったのだ。小屋の周りには数張りのテントが張られているが人影はない。露営申し込みのため小屋に直行する。小屋は混雑していた。ほとんどの登山者が今日は停滞しただろう。テントを張るのを諦めて小屋泊まりとした人も多いだろう。小屋の玄関に濡れ鼠で現われ、しかもこの雨の中でテントを張るという中年の単独行者に、小屋の従業員も呆れた様子であった。私の全身からは湯気が立ち登っていた。

 風雨の中でテントを張る。これも試練である。テントの中に逃げ込んでようやく緊張がとける。小さいながらも風雨を避けてくれる我が家である。着替えは持っているが、びしょ濡れの衣服は体温で乾かすことにする。我ながら無茶なことをする。夕暮れになると風雨はますます強まった。衣服は乾いたが、気温が低い。Tシャツ、長袖のポロシャツ、セ−タ−、ダブルヤッケを着込んでシュラフに潜り込んでもまだ寒い。下界は35度を越す猛暑だというのに。雨は夜半に至っても降り続いていた。


 

14日

 4時30分、周りの動きだす物音にテントから顔をだしてみると、日の出前の濃紺の空が広がっている。快晴である。もう何組ものパ−ティが稜線をさして登っていく。どうやらすばらしい一日が約束されたようだ。この晴天を期待して、昨日無理をして風雨の中をここまで登ってきた。苦労は報われた。ずぶ濡れのテントを撤収し、私も稜線を目指す。稜線への道はお花畑の道だ。どこから湧いてきたのかと思えるほど、幾組ものパ−ティが続々と登っていく。みな足取りが軽い。15分も登ると稜線に飛び出した。

 見よ! 朝の弱々しい光の中に南アルプスの山々が大きく波打ちながら続いている。このすばらしさはなんと表現したらよいのだろう。上河内岳へ向かう前に茶臼岳を往復することにする。カメラだけを持って稜線を南にたどる。約15分で巨石の積み重なる山頂に達した。19年ぶりの茶臼岳山頂である。360度の大展望が広がっている。足元から続くうねった稜線が上河内岳のピラミダルな山頂に突上げ、その背後にはあまりにも大きな聖岳が立ちはだかっている。その左には兎岳、右には赤石岳、悪沢岳も顔をだしている。振り返れば、うねうねと続く稜線の彼方に光岳がまだ山頂を雲に隠し、その左に続く山稜は信濃俣、大無間連峰だ。目を東に転ずれば、つい2週間前にたどった笊ヶ岳をはじめとする白峰南嶺が朝日に染まり、その背後には雲海の中に富士山が孤高を誇っている。西に目を転ずれば、中央アルプスがこれも雲海の上にわずかに顔を出してる。あれは何だ! 兎岳の左の肩の遙か遙か彼方に、まるで空の染みのごとく微かに微かに山並みが見える。北アルプスだ! 槍穂高連峰に違いない。飽くことなき大展望に我を忘れる。それにしてもこの展望の迫力は凄まじい。ついこの間、笊ヶ岳の頂から南アルプス主稜線の大展望を楽しんだが、今、目の前に広がるこの展望は迫力がまったく違う。笊ヶ岳の展望はきれいではあったが平面的であった。今、目にしているこの展望は立体的である。私はまさに南アルプス南部のど真中にいるのだ。

 茶臼小屋分岐まで戻り、荷物を背にいよいよ上河内岳に向かう。巻道をいったん樹林地帯に下ると「お花畑」にでた。二重山稜の間の低地で、名前に反して花は少ないが、庭園のような明るい草原である。三人組の若者と前後する。「どこまでですか」と問いかけてきた。見ればまだあどけない顔の高校生のようだ。「聖平まで行って、聖岳往復。この歳では聖岳を越す元気はないよ」と答えると笑っていた。この若さで仲間だけで縦走とは羨ましい。一歩一歩上河内岳の鋭峰が眼前に迫る。竹内の門の巨岩を過ぎる。ここから山頂まで一直線の登りである。見上げれば何組ものパ−ティが喘ぎながら山頂を目指している。すでに山頂には蟻のごとく小さな人影も見える。

 上河内岳への急登を一歩一歩進みながら、私は感動していた。どの登山者の肩にも、大きなザックが深く食い込んでいた。南アルプス南部は小屋泊まりといえども寝具持参の自炊である。必然的に背負う荷物は重くなる。さらに、昔に比べてアプロ−チが楽になったといえども、稜線に達するには深い森林の中の苦しい登りに耐えなければならない。生半可の気持ちでやってこれるようなところではない。今この稜線上で行動している者は、みなこの苦しさに耐えてやってきたのだ。自らの意志で。重荷を背負い、黙々と歩くこの者たちの姿こそが、まさに南アルプス南部の象徴なのだ。この山域にこそ、最も健全な山登りの原点がある。喘ぎ喘ぎ登る女性の単独行者に追いつく。見れば40歳は越えているようだ。何を求めて、彼女は重荷を背負い、一人でこの苦しさに挑んでいるのだろう。そういう私も似たようなものである。

 水分をたっぷり含んだ背中の荷物は昨日よりも重いはずであるが、上河内岳の頂が一歩一歩近づくと思うと私の足取りは軽い。高校生の若者を引き離し、ついに上河内岳の肩に達した。すぐに荷物を置いて、石のザクザクした急斜面を山頂に向かう。走るように歩を進めながら、私は上河内岳につぶやいた。「上河内岳よ、長い間待たせたなぁ。それでも私はやってきたよ。一人で。重荷を背負って。お前に会うために」。 数分で山頂に達した。遮るものとてない360度の大展望が待っていた。それは、「よくぞやってきた。俺もお前を待っていたよ」と、山が私にささやいているように思えた。高校生の三人組もやってきた。中年の女性単独行者もやってきた。みな、神々しいまでの大展望を前に、ただただ黙って見とれている。

 再び踏むこともなかろう山頂を辞して肩に戻る。肩には信州大学ワンゲル部と書かれた超特大のキスリングが置かれてあった。今時キスリングとは珍しい。高校生が「どのくらい重いかな」と、いたずらっぽく持ち上げていた。私もかつて、このぐらいの重荷を担いで大縦走をしたこともあったのだ。這松とお花畑の中を進む。左側は大崩壊地である。南岳を越すと樹林の中に下る。聖平までは意外と長い。反対側からも何組ものパ−ティがやってくる。いくつもの瘤を越え、飽き飽きする頃聖平に達した。実に15年ぶりの聖平である。前回は聖岳を越えて北からやってきた。今回は上河内岳を越えて南からやってきた。小屋前のテント場に直行してテントを張る。聖岳に登る前に、まず濡れものを乾かしたい。隣にテントを張った高校生は、どうやらこれから半日、濡れものを乾かしながらトカゲを決め込むようだ。

 小1時間ほど後、サブザックを背負って聖岳に向かう。ここまでやってきて聖岳に登らない手はない。見上げる聖岳は高々とそびえ立っているが、空身と思うと気が楽だ。夕方までには十分戻れるであろう。お花畑の中を進む。あたり一面トリカブトの紫の花が咲き誇っている。アザミも多いが、もう盛りは過ぎたようである。ピンクのハクサンフロウの可憐な花も見られる。茶臼小屋周辺に多かったマツムシ草は見られない。やがて西沢度分岐に達した。大勢の登山者が休み、また多くのザックがデポされている。便ヶ島小屋が新設されたことにより、聖岳へのメイン登山道は遠山川側に移ったようである。今から20年前に我々が登ったときには、延々と20キロにわたる林道を歩きが必要であったが、今は便ヶ島小屋まで車が入る。便利になったものである。急に登山道は人影が濃くなった。いずれも空身であり、この西沢度分岐に荷物を置いてのピストンと思われる。小さな子供を連れた家族パ−ティもいる。空身なら駆け上がれると思ったが、意外に登りはきつい。フゥフゥいいながら、樹林の中をたどる。森林限界を抜け、前聖に達した。ものすごい急斜面が一気に山頂へと突き上げている。覚悟を決めて岩屑の急斜面に挑む。足元だけを見つめて黙々と登る。登るに従い調子も出てくる。見上げる山頂は時々ガスが掛かりだした。急がなければならない。

 さしもの急登も終わり、1時45分、ついに聖岳山頂に達した。昭和54年夏以来実に15年ぶり、三度目の山頂である。と同時に、昭和63年夏の白峰北岳以来の三千メ−トルの頂である。山頂には4〜5人の登山者がいるだけであった。再び大展望が開けた。目の前の赤石岳は余りにも大きい。やはりこの山が南アルプスの王者である。一人の登山者が地図とコンパスを片手に一生懸命山座同定を行なっている。すぐに奥聖岳に行ってみることにする。15分ほど稜線をのんびりたどると山頂に達した。だれもいない静かな山頂である。岩の上に腰掛け、ただぼんやりと山々を眺め続ける。湧き上がっていたガスも収まり、目の前には無限の展望が開けている。燦々と降り注ぐ午後の日は暖かい。次第に心をセンチメンタリズムが支配する。 「もう思い残すことはない。死んだって本望だ」。本気でそう思った。四人連れの中年女性パ−ティがやってきた。「いいわねぇ、ああやってぼんやり座っているのは」とささやきながら、遠慮がちに離れたところに陣取った。彼女らが去り、再び山頂は静かになった。私はまだ座り続けていた。

 2時25分、ようやく重い腰を挙げる。待っていたかのようにガスが湧き上がって周囲の展望を消した。人影もなくなった夕暮れの道をひたすら我が家を目指す。下り着いたテント場にはいつの間にか百近いテントが溢れ、大いに賑わっていた。今日の晴天を待って下から続々と登ってきたのだろう。各パ−ティとも一日の激しい行動を終え、楽しい夕餉の真っ最中であった。休む間もなく私も夕食の支度に掛かる。

 まだ薄明りの残る夕方7時、あれ程賑わっていた百余のテントから一切の人声が消えた。耳に届く物音は小屋の発電機の音のみである。普通どこのテント場でも、ボソボソぐらいの話し声は聞こえるものであるが。まるで魔法が掛かったようである。これが南アルプス南部の真髄なのだろう。


 

15日

 何やら人の動き出す物音に時計をみれば、何と2時半である。幾つものテントがすでに出発の準備を始めている気配。3時を過ぎると、漆黒の闇の中を続々と懐電の列が稜線に向かっていく。向かうは光岳か、赤石岳か。まさに昨夜の裏返しである。やはりここは南アルプス南部である。私は今日は下山するだけ、急ぐことはない。もう少し寝かしてもらおう。私が出発の準備を始めた頃には、昨夜あれ程あったテントも残るは数えるほどであった。今日も雲一つない快晴。下山するにはもったいない日和である。ようやくテント場に朝日が当たりだし、正面には生木割、偃松尾が山頂を朝日に染めている。

 6時出発。聖沢源頭の緩やかな道を辿る。この聖平から大井川に下るコ−スは今からちょうど20年前、昭和49年夏に辿ったことがある。ヘズリの多い変化に富んだコ−スとの印象がある。左岸から右岸、そして又左岸へと渡り返す。ぬかるみに残る足跡からすると、先行者はいないようだ。昨夜数百人の登山者が聖平に泊まったにもかかわらず下山者はみな遠山川側に下ったということだ。やがてル−トは聖沢から離れ、小さな尾根を乗っ越して小沢の辺に出る。単独行者と二人組が前後する。今日このコ−スを下るのは私も含め四人だけのようだ。

 峡谷となった聖沢の右岸を高巻く道が続く。ル−トはほぼ水平に続き、なかなか高度が下がらない。幾つかの小沢をトラバ−スする度に小さな上下を繰り返す。地図の「滝見台」と思われる地点に達するが、20年前の記憶とは合わない。順調に歩を進めているつもりだが、意外に行程ははかどらない。いらいらする頃、2011メ−トルの尾根乗っ越し地点に達する。ここからは本格的下りに入るはずだ。崩壊した作業小屋を左に見て、ジグザグの急坂を下る。単独行者が、続いて三人パ−ティが喘ぎ喘ぎ登ってきた。今日このコ−スから聖平を目指すのはこの2パ−ティだけのようである。次第に沢音が近づいてきて、ついに聖沢吊橋に達した。

 ここからル−トは聖沢左岸のトラバ−ス道に変わるが、谷底まで深い絶壁で恐怖感がある。道は緩やかな登りとなる。蝉の鳴き声が響き、辺りは次第に下界の雰囲気となる。ススキが道を覆うようになる。嫌なところだ。登山者が少ないためか、下刈りもしていない。大きな廃屋が現われた。出会所小屋である。建物はまだ確りしており十分使えそうである。もう林道まではワンピチの距離だ。再びジクザグの急坂を下る。下に赤石湖が見えてきた。毒々しいほどの緑色をしている。渇水の影響だろうか。工事現場の横を通り更に下ると、10時30分、ついに大井川林道に達した。

 さて、山道はこれで終わったが、さらに畑薙大吊橋までの延々12キロ、3時間半の林道歩きが待っている。南アルプス登山の宿命ではあるが、林道歩きは楽しいものではない。覚悟を決めて歩き出す。稜線の涼しさが嘘のように炎天下の林道は暑い。20年前にもこの林道を歩いた、当時はこの赤石ダムはなかった。すぐに聖沢出合いに達する。赤石沢と聖沢のこの出合いは、かつては両沢の激流がぶつかり合う迫力のあるところであった。今見る合流点はダム湖である。また一つ、南アルプス南部の景色が消えてしまった。

 トンネルを抜けると赤石渡に達した。懐かしい場所だ。私のアルバムには、昭和47年8月、Y君とこの地点で撮った写真がある。当時この赤石渡には吊橋が掛かっていた。吊橋を渡り、大井川右岸ぞいの山道を辿って椹島に向かったものである。しかしそれから2年後、再びこの赤石渡にやってきたときには、吊橋はワイヤ−が切れ渡れない状態であった。今、目の前にする赤石渡は、もはやそれを示す標示さえもなく、あの吊橋の跡だろうか、赤錆た一本のワイヤ−のみが掛かっていた。

 ひたすら林道を辿る。1時間半歩いてちょうど12時、前方に吊橋が見えてきた。中ノ宿の吊り橋であった。渡り口には「所ノ沢越経由笊ヶ岳登山道入口」との標示がある。何時かこの吊橋を渡って所ノ沢越から稲又山、青薙山へ行ってみたいものである。これで半分は来たことになる。さらに15分ほど歩くと、幸運なことに、ライトバンに拾われた。文明の利器は早い。20分程で我が愛車のある畑薙大吊橋に達した。

 吊り橋のたもとに二人の登山者がたたずんでいる。今度は私が彼らを助ける番のようである。大阪から来たというこの二人の若者は、今朝2時半に起きて聖平を発ち、上河内岳を越えここまで下ってきたという。どうやら、今朝、私の眠りを妨げた一員のようだ。彼らを乗せて車を走らす。ダムの先まで来ると、何と、登山者が必死に歩いているではないか。一人、二人、さらに進むと点々と下山パ−ティにであう。子供も必死に歩いている。なんて言うことだ。彼らは自らの足だけを頼りに、15キロ以上の林道を歩いて八木尾又のバス停を目指しているのだ。最初から覚悟の上であったのか。それともバスの不通を知らずに下山してしまったのか。追い越す車を恨めしそうに見送る。それにしても、バスの不通は何と罪作りなことか。その一方で、営利目的のリスジンバスがこの道を走っている。不可解なことである。彼らを追い越しながら、私の心は複雑であった。

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