おじさんバックパッカーの一人旅   

カンペーン・ペッ紀行

交通事故で重症を負って

2008年12月11日

       〜24日

 
第一章 危険な国
 
 妻がアンコール・ワットに連れていけという。たまには女房孝行をしなければならないか。タイがバンコク国際空港閉鎖などという信じられない愚行を行っているため、12月2日、ベトナムのホーチミンに入った。ホーチミン、シュムリアップで予定通り10日ほど過ごした後、12月10日、妻をホーチミン・タンソンニャット空港から日本に送還した。私はこれから2週間ほど東南アジアを一人放浪するつもりである。

 バンコク・スワンナプーム国際空港閉鎖騒動は12月2日に終わったので、タイへ行くことにする。どうせ、空々だろう。12月11日朝、ホーチミン・ドンコイ通りのホテルからタクシーでタンソンニャット空港に向う。若い運転手がいやに愛そうがいい。流暢な英語でひっきりなしに話しかけてくる。経験上ピーンときた。「こいつなんか怪しいぞ」。案の定、しばらく走ったところでメーターを見ると6万ドンを越えている。ドンコイ通りから空港までは7〜8万ドン程度のはずであり、まだ1/3も走っていない。「こいつ、メーターに細工していやがる」。ベトナムではよくある事態である。すぐに怒鳴りつける。最初はつべこべ言っていたが、運転席に標示されている登録ナンバーを指摘して、「警察に行け」と怒鳴ると、おとなしくなって、黙ってメーターを切った。昨夜、妻を送った帰りのタクシーも、メーター以上の料金を請求してすごんできた。まったく、ベトナムという国は油断も隙もあったものではない。
 

第二章 破滅的愚行
 
 空席の目立つVN851便はわずか1時間の飛行でバンコク・スワンナプーム国際空港に着陸した。つい10日前まで暴徒に占拠されていた空港はあちこちで修理作業が行われている。夜、飲みに行った居酒屋では客が9割り減だと嘆いている。国際空港を閉鎖し、数万の外国人観光客を実質人質とするという信じがたい蛮行が行われたのだから、当たり前の結果である。ひと昔前なら、自国民の保護を名目に外国軍隊が来襲してもおかしくない事態である。微笑みの国として好感度世界一を誇り、観光立国を図ってきたこの国で、この行為がどれほど破滅的であるのか想像出来ないのだろうか。タイ国民がこれほど愚かだとは思わなかった。救いは、空港を占拠した数千の群衆の大多数が、自らの意志で占拠に参加したのではなく、1日2,000バーツの日当を目当てに集まった貧しい人々であったことである。しかし、救いがたいのは、この破滅的な愚行を軍も警察も、そして国王さえも止めようとはしなかったことである。国の破滅よりも「タクシン元首相憎し」の感情を優先させるとは驚きである。

 
第三章 カンペーン・ペッに向けて

 12月13日。カンペーン・ペッからメーソートに行ってみることにした。カンペーン・ペッはスコータイ時代の重要都市で、当時の遺跡が数多く残っている。また、メーソートはミャンマーとの国境の街であり、ビザなしでミャンマーへの一日入国が可能なはずである。ホアランポーン駅から8時30分発チェンマイ行き特急9号に乗る。今日は列車でピッサヌロークまで行って、そこからバスでカンペーン・ペッまで行くつもりである。

 2等席のみ3輛編成の列車は定刻に発車した。隣は若い女性、本来、私が窓側の席なのだが彼女が占領してしまっている。ただし、悪気はなさそうで何くれと気を使ってくれる。市内の2〜3の駅に停車するごとに乗客は増え、満席となった。

 郊外に出た頃、車内では軽食の無料配布が始まった。飲み物と菓子パンである。ただし、飛行機と異なりアルコール類はない。女性従業員がワゴン車を押しながら手際よく配っていく。昼時には弁当が配られた。日本の鉄道にはないサービスである。列車はアユタヤ、ロッブリーと懐かしい街に停車しながら一路北上する。ナコン・サワンを過ぎると見覚えのある大きな湖が現れた。広大な田んぼがどこまでも続く。

 時刻表によると列車のピッサヌローク到着は13時9分。タイの列車は車内放送がないので、目的駅で降りるのに気を使う。車掌に「ピッサヌロークに着いたら教えてくれ」と頼んでいたら、通路を挟んだ隣の席のおじさんが、「自分もピッサヌロークで降りるから安心しろ」と言ってくれた。

 13時50分、列車は40分遅れでピッサヌロークに到着した。大勢の人が降りる。この街は4年前スコータイに行った際に寄っているので勝手は知っている。駅舎を出るとすぐに人力サムロー(人力車)の運転手が声を掛けてきた。50歳絡みのおばちゃんである。バスターミナルは鉄道駅から数キロ離れているので利用せざるを得ない。値段を聞くと50バーツ(約140円)とのこと、少々高い気もするがおばちゃんでは値切る気も起きない。年に似合わぬ力強いペタル漕ぎで、サイカーは15分ほどでバスターミナルに到着した。

 バスターミナルへ入っていくと、いつもの通り、「どこへ行く」と声がかかる。「カンペーン・ペッ」と答えると、「15番プラットホーム、次ぎのバスは15時、運賃はバスの中で」と親切である。タイのバスターミナルはどこへ行ってもこの様な展開になる。困ったことは一度もない。バスの待ち時間は50分、ベンチに座り込んで行き交う人々を見つめ続ける。

 14時50分、バスが漸く入線した。横2座席+3座席のタイで一般的なローカルバスである。ガラガラのまま定刻に発車したのだが、一路カンペーン・ペッへとは向わず、市内を30分も掛けてぐるぐる回り。満席となって漸く郊外に出た。どこまでもどこまでも田んぼが続く。稲の生育状態が田によって異なるのは2期作、3期作が行われているためだろう。道は例によって素晴らしくよい。小さな街を二つほど過ぎる。案内書によるとピッサヌロークからカンペーン・ペッまでバスで2時間とあるが、午後5時を過ぎても一向に到着する気配はない。漸く三つ目の街に入った。ここだろうと思っていたら、バスは街を抜けていってしまった。

 夕日が行く手、西の空に沈んでいく。何となく侘びしい気持ちになる。突然バスの左手に遺跡が現れた。「ワット・プラケオ」との標示が読み取れる。カンペーン・ペッ遺跡公園だ!。バスはすぐに時計台のあるロータリーで停車した。大部分の人がここで降りる。ここが街の入り口のはずであり、私もここで降りるべきなのだろうが、明後日タークまで行くつもりなので偵察を兼ねて終点のバスターミナルまで行ってみることにする。バスは街並みには入らず、すぐにピン川にかかる立派な橋を渡り、人家もまばらな田園の中を進んでいく。バスターミナルは大分郊外にあるようだ。2〜3キロ進んで、漸く、人影もまばらな小さなバスターミナルに着いた。時計の針は18時を示している。なんと、ピッサヌロークから3時間も掛かった。

 さて街まで行かなければならない。交通手段は何かないか。ソンテウ(乗合いの小型トラック)が数台停まっているだけである。運転手が寄って来て、街の中心まで100バーツ(約280円)と宣う。冗談ではない、ボルにもほどがある。別のソンテウに行くと、同じく100バーツという。「ペーン(高い)」と一蹴すると50バーツと言い直した。まぁ、そんなものだろう。ピン川を渡り返し、時計台ロータリーから街中に入って行く。街の中心までは意外に距離がある。やがて賑やかな街並が現れ、目指す「ホテル・ペッ」に着いた。

 案内書に街一番のホテルとあるだけになかなか立派なたたずまいである。ただし、料金は650バーツ(約1820円)と安い。バスタブまである立派な部屋で満足したのだが、夜に入ると、庭にあるオープンスペースの食堂で、大音響の生バンドが始まった。何と、演奏は真夜中の12時まで続き、うるさくて寝られたものではない。

 
第四章 カンペーン・ペッ史跡公園

 12月14日。今日は一日カンペーン・ペッ史跡公園を見学する予定である。カンペーン・ペッはスコータイ王朝時代にシー・サッチャナーライ、ソン・ケーウ(現ビッサヌローク)、サ・ルアン(現ピチット)と共に、王の直轄地とされた重要都市であった。特に、ビルマ(現ミャンマー)国境付近に位置するため、ビルマに対する軍事要塞都市として重きをなしていた。そして現在、街の郊外には当時の栄華の跡が多くの寺院遺跡として残されている。遺跡群は「カンペーン・ペッ史跡公園」としてよく整備されているが、場所は二つに分かれている。一つは城壁で囲まれたスコータイ時代の都城跡で、現在の街の中心から2キロ強ほど西に位置する。もう一つは、更に西1キロほどの森の中に点在する40余りの寺院遺跡群である。

 問題はどうやってこの二つの遺跡群を見学するかである。歩いて回るにはいささか距離がありすぎる。自転車があればちょうどよいのだがーーー。前日フロントに相談したのだが、貸自転車屋はないという。オートバイをチャーターすることを勧められたが、1時間150バーツだという。覚悟を決めて歩くことにする。

 8時15分、ホテルを出る。今日もいい天気である。街はピン川の左岸に沿って細長く延びている。高層ビルもなく、典型的なタイの田舎町である。川沿いには大きな公園が幾つもあり、街の雰囲気はよい。ただし、犬が到るところに寝そべっていて怖い。途中バイタクでもいれば史跡公園入り口まで乗るつもりでいたが、それらしき姿はない。

 托鉢に歩いている僧侶に出会った。タイの托鉢は、ラオスと異なり、僧が一人で歩き回っており、余り荘厳さはない。40年配の感じのよい僧で、しばしタイ語での立ち話となった。托鉢中は無言の行を貫くものと思っていたが、そうでもないようだ。礼儀上、若干のお布施を喜捨した。

 30分歩いて街の入り口となる時計台に、更に15分ほど歩いて一つ目の史跡公園の東の入り口に着いた。ここは城壁に囲まれた昔のカンベーン・ペッ都城跡である。150バーツ(約420円)の入場料を払い遺跡に入る。辺りは静寂で人影もない。入場券の通し番号が2番であったことから、今日二人目の入場者なのだろう。チークの森の中に、二つの大きな寺院遺跡が残されている。

 先ず目の前に現れたのはワット・プラ・タートである。大型のベル型のチェディと礼拝堂跡が残されている。チェディは、漆喰は失われているものの、ほぼ完全な形で残されているが、礼拝堂は根本近くから折れた柱の列が並んでいるだけである。木漏れ日が数百年の時を経た遺跡を斑模様に照らす。

 ワット・プラ・タートの奥に壮大な寺院跡が広がっている。ワット・プラケオ、すなわち、エメラルド寺院である。タイ、並びにラオにおいて、「ワット・プラケオ」と名乗る寺院は私の知るかぎり5寺ある。すなわち、チェンライ、ランパーン、ラオのビエンチャン、バンコク、そしてここカンペーン・ペッである。「ワット・プラケオ」の寺名は特別な意味を持つ。すなわち、現在、国家守護仏としてバンコクのワット・プラケオに祀られているエメラルド仏がかつて安置されていたことを示すからである。

 エメラルド仏は1434年北部タイ地方・ランナー王国統治下のチェンラ イで、落雷で破壊された仏塔のなかから漆喰でおおわれた姿で発見され て以来、タイ、ラオの歴史にほんろうされながら不思議な運命を辿った。その旅路はチェンライ→ランパーン→チェンマイ→ルアンプラバン→ビエンチャン→トンブリ→バンコクと続いた。しかし、ここカンペーン・ペッにエメラルド仏が祀られたという歴史的事実は確認できない。それなのになぜこの地にワット・プラケオがあるのだろうか。この地にかつてエメラルド仏が祀られていたとの伝説があるとのことだがーーー。何か隠された歴史があるのだろうか。

 いずれにせよ、このワット・プラケオはスコータイ時代のカンペーン・ペッ都城において最も重要かつ格式の高い寺院であったことは、その壮大な遺跡を目にすれば、十分に納得できる。先ず目に付くのは涅槃仏とその背後に鎮座する二体の仏像である。お堂は既になく、野ざらしであるが、漆喰は未だしっかり残っており、その端正な四角い顔を仰ぐことができる。ただし、その前面に座す仏像も、周囲を取り囲む仏像も、漆喰は完全に剥げ落ち、人形をした石の塊と化している。メインのチェディは基礎部分だけが残されているが、嬉しいことに、周囲を飾る象の彫像はしっかりと残されていた。大きな礼拝堂の跡も基礎部分だけであり、わずかに残った柱の跡が古の栄華の跡を物語っている。

 しばし感傷に浸った後、西の出口から史跡公園を出る。ここにラク・ムアン(市の柱)があった。こちらは遺跡と異なり早朝にもかかわらず、参拝の人々で賑わっていた。スコータイに続く国道を横切り、城壁を抜け、二つ目の「森の中の史跡公園」を目指す。人通りもない田舎道をとぼとぼと歩く。左手にワット・ドンホイ、続いてワット・サケオの寺院遺跡が現れる。川を渡り、しばらく歩くと二つ目の史跡公園入り口に達した。ここは広大な森の中に40余りの寺院遺跡が点在している。幸運なことに、史跡公園入り口に貸自転車があった。歩いて回るのは大変だと思っていたので大助かりである。

 何とも気持ちよい空間である。チークを主体とした鬱蒼とした森の中に朽ちた寺院遺跡が点在する。遺跡はいずれもよく整備されているが、無駄な修復はされていない。あるがままの姿で静かに森の中に横たわっている。木漏れ日が遺跡を斑模様に染め、足下でチークの落ち葉がかさかさと音を立てる。森の中は人影もない。

 ワット・パ・ムエ・ノック、ワット・プラ・ノン、ワット・コン・チャイ、ワット・プラ・シー・イリヤボット、ワット・シン、ワット・カンペーン・ンガム、ワット・シンハー、ワット・チャン・ローム、ワット・リム・タン、ワット・アバサ・ヤイ、ーーーー。幾つもの大小の遺跡が現れる。各遺跡には確りと、タイ語と英語で解説が標示されている。

 印象的なのはワット・プラ・シー・イリヤボットとワット・チャン・ロームである。前者はスコータイ遺跡のワット・チェトゥポンと同じ構図である。本堂の四方の壁に座像、立像、臥像、遊行像の4体の仏像が祀られている。現在まともに残っているのは南側の立像のみであるが、北側の壁には遊行仏が上半身を欠きながらも、優雅な下半身によりそれと確認できる。遊行仏はスコータイ仏教文化の華である。この仏像を見たとき思わず嬉しくなってしまった。

 ワット・チャン・ロームは、緩やかな丘の上に立つ大きな遺跡である。同名の遺跡はスコータイ史跡公園とシー・サッチャナーライ史跡公園にもある。チャン(象)の名前の示す通り、巨大なチェディの下部を象の彫像がぐるりと囲んでいる。いかにもスコータイ時代の寺院らしい遺跡である。

 森の中の細道を気の向くままに自転車を駆っていたら、立派な文化センターに行き当たった。せっかくだから寄って見ようと、自転車を停めると、係員があわせて飛びだしてきて展示場の電灯を点けてくれた。私が今日初めての見学者らしい。立派な展示場であるが、これでは宝の持ち腐れである。

 遺跡の見学を終え、交通手段もないので、再び歩いて街の中心に向う。途中、カンペーン・ペッ国立博物館があるので寄って見た。入場料が100バーツ(約280円)と高い。その割には小さな展示場が二部屋あるだけで見るぺき物はなかった。入場券の番号が1番であったところを見ると今日の入場者は私一人なのだろう。さらに、案内書にあるサーン・プラ・イスワンに寄って見る。ヒンズー教の神・シバ神の祀られている祠である。スコータイ時代のものだが、ここは現在も生きた寺院となっている。

 ピン川の辺に座り込んで流れ行く水を眺める。大きな川だ。下はチャオプラヤ川に合流してタイ湾に流れ下る。カンペーン・ペッの繁栄はこの川の水運に拠っていたのだろう。今日はずいぶん歩いた。燦々と降り注ぐ太陽が暖かい。
 

第五章 交通事故

 12月15日。今日はカンペーン・ぺッの北西約60キロのタークに向う。アユタヤ王朝を滅ぼしたビルマ軍を駆逐し、タイの独立を取り戻した救国の英雄・タクシン王の本拠地であり、街の名前はタクシン王に由来する。朝8時過ぎチェックアウトしてホテルで呼んでくれたオート・サムロー(オートバイの前にリヤカーを取り付けたような乗り物、この街のタクシー代わりである)に乗ってバスターミナルへ向う。運転手は50歳ぐらいの男である。街並みを抜け、ビン川を渡り、バスターミナルの前まで来た。3車線ある反対車線を横切りにかかる。数台の車をやり過ごす。その後ろから更に数台のオートバイの集団がかなりの速度で進んでくる。所が、何を思ったのか、サムローの運転手は車線を横切り始めた。「危ない!」。ここで私の記憶は途切れる。

 気がついたときは、病院のベッドの上であった。後で知るのだが、「カンペーン・ペッ病院」という病院である。事故に遭ったことはすぐに自覚できたが、記憶は事故の直前で途切れている。既に、パンツまで脱がされて、病院の服を着せられていたが、腹に巻いていた貴重品袋はそのままであった。腕には点滴の管が繋がれている。左目の上に裂傷を負っており、既に縫合手術は終わっていた。この傷も含め、身体には特に痛みは感じないが、立ち上がると激しく目まいがする。手足は不自由なく動き、後遺症は感じられない。ただし、後から考えると、意識はかなり朦朧としていたようで、記憶にかなりの欠落がある。聞いたところでは、サムローの運転手は逃亡し、衝突したバイクの運転手は怪我をして同じ病院に入院しているとのことである。警察の事情聴取があると聞いたが、警察は現れなかった。

 問題は、タイ語以外通じないことである。病院側は盛んに「金はあるのか。タイに知り合いはいないか」の2点を聞きただす。海外旅行障害保険に加入していることを告げるが、この様な保険の機能を理解できないようである。バンコク在住の友人・Kさんの名刺を示すと、病院はすぐに連絡をとったようである。やがて一人の日本人が現れた。この街に住む唯一の日本人とのことで、病院から呼びだされたとのことである。60歳代の男性である。彼の通訳のお陰で漸く意思疎通がスムーズになった。
 

第六章 バンコクへの搬送

 ヤレヤレと思ったら、夕刻事態が一変した。脳内撮影の結果、脳内出血の恐れがあると言うのである。病院、友人のKさん、日本人の男性の三者で相談したらしく、「バンコクのしかるべき病院に移送することにした。これから迎えに来る」と言い出した。「これほどの遠路を本当に迎えに来るのか」と半信半疑でいると、真夜中の12時頃本当にやって来た。さすが医療先進国のタイである。急病となっても受け入れ病院がなく、死者まででる日本とは大違いである。

 医者と看護婦が同乗したベッド付きの搬送車で、5時間かかってバンコクの病院に搬送された。バムルンラード・インターナショナル病院というタイ最大の病院である。立派な個室に落ち着いた。再検査の結果、脳内出血はないと聞いてひと安心する。ただし、翌日になると身体のあちこちが激しく痛む。特に胸が寝返りも打てないほど痛む。改めてレントゲン撮影してもらうと第8肋骨が骨折しているという。身体のあちこちにも擦り傷。打撲傷がある。また、立ったり座ったりすると天井がぐるぐる回る。

 入院生活は快適である。英語も通じるし、日本語通訳もいる。Kさんも時々見舞いに来てくれる。不安は一切ない。3度の食事は幾つかのメニューの中から選択できる。10時と15時にはおやつもでる。身体は若い看護婦さんが二人がかりで洗ってくれる。もっとも、恥ずかしいので3日目以降は一人でシャワーを浴びたが。不便なことは、メガネが事故で割れてしまって、眼がよく見えないことぐらいである。入院費用はかなり高額と思われるが、海外旅行障害保険に加入してるので心配もない。

 三日ほどすると、歩き回れるようになった。病院内を探検する。実に巨大な病院である。売店や食堂、喫茶店も揃っている。入院患者は圧倒的にアラブ人が多い。喫煙コーナーでタバコを吸っていたら、バングラデシュから治療にやって来たという男に出会った。ここはまさに、中近東、南アジア、東南アジアの金持ちどもの治療センターとなっているようである。タイの医療は世界一との記事を読んだことがある。ただし、タイの庶民にとっては高嶺の花なのだろうが。

 正月には日本に帰りたい。病院と相談の結果、日本での治療継続を条件に、抜糸の終わる12月24日に退院できることになった。保険会社と交渉し、帰路の航空チケットも保険で賄うことが出来た。これで生きて日本に帰れる。万歳である。退院に際しては、大きなレントゲン写真を含め治療の引き継ぎ書が用意された。さすが確りした世界的病院だと感心した。

 12月25日早朝、寒さ厳しい日本に帰り着いた。よくぞ無事に帰国できたものである。異国での人々の親切が身にしみた旅であった。それにしても、逃亡したサムローの運転手は今ごろどうしているのだろう。
   

 

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