悲劇の地 カンチャナブリへの旅戦火の跡を訪ねる少し重い旅 |
2003年5月15日 |
毎年5月の満月の日はVisaka Bucha Day(仏誕節)として祝日となる。いかにも仏教国・タイらしい休日である。今年は15日がこの日に当たる。この休日を利用して、会社の仲間3人とカンチャナブリへ小旅行した。
カンチャナブリはバンコクから西へ約130キロ、ミャンマーとの国境近くに位置する都市で、その郊外のKwae
Riverにかかる鉄橋は「戦場に架ける橋」「クワイ川マーチ」の舞台として、日本でもよく知られている。
同行した3人を紹介しよう。まずは我が社の専属運転手S君、39歳。毎日私の送迎をしてくれている。つい2週間前に父親を癌で亡くしたばかりである。そのとき、タイの習慣に従い頭をつるつるに剃りあげたため、いまだ坊主頭のままである。パタヤに奥さん子供を残して出稼ぎ生活を続けている。少々運転は荒いが腕は確かである。早朝深夜にも嫌な顔もせずに付き合ってくれる働き者である。感心なことに、酒は絶対に飲まない。時々私と腕の色を比べて「same, same」と喜んでいるが、明らかに彼の方がはるかに黒い。私のタイ語の先生でもあるが、おかげでろくな言葉を覚えない。不思議なことに、彼との意思疎通はまったく不便を感じない。互いに何語でしゃべっているのかわからないのだが。 次はSさんである。36歳。7才と2歳の二児の母であり主婦でもある。会社においてはまさに大黒柱、すべてを切り回してくれる。これほど頼りになる部下を持つと実に助かる。色浅黒く、タイでは少数派の少々太めの体型とあいまって、実に存在感がある。気立ては至ってやさしく、部下の信頼も絶大である。まさに頼れるオバチャンである。財布の中には、子供や夫、あるいは自分の若いころなど、たくさんの写真が入っていて、気が向くと見せてくれる。難点は、タイ訛りのきつい英語をしゃべることである。 最後にJ嬢、27才である。我が社のマスコット的存在であるのだが、4日後に製造会社に移籍することになっており、今日は彼女の送別会も兼ねている。実に明るい子で1日中歌うがごとくしゃべり続けている。これぞタイ女性ともいえる気立てのよさで、毎日私にお茶やコーヒーを運んでくれる。実は、このとき恋愛の真っ最中で、もうすぐ結婚するんだと楽しそうに語っていた。しかし、数日後の夕刻、ワンワン泣きながら、旧職場である我が社にやってきた。新しい職場でいじめられでもしたのかと心配したが、聞けば失恋したとのこと。翌日もまた泣きながらやってきたが、次に会ったときには、元の明るい子に戻っていた。 会社近くのバス停を集合場所としたのだが、6時30分に迎えに来るはずのS君が私の家にやってきたのは7時。30分の遅刻であるが悪びれた様子もない。仕事ではこんなことはないのだが、プライベートとなると途端にタイ時間に戻ったようである。当然集合場所にも30分遅れ。ただし待たされたほうも、いらだっている様子はない。ともかく4人そろって一路カンチャナブリへと出発した。 女性二人は今日はおめかしをしている。Sさんは派手なピンクのブラウス、J嬢はしゃれた帽子をかぶっている。タイの女性は、普段通勤の際も会社の作業服のままなので、初めて見る私服姿である。どっさり菓子や飲み物を買い込んできており、さぁ、食べろ飲めと勧めてくる。その甲斐甲斐しさは女房以上である。タイの道路事情はバンコク市内を除けば実によい。ベトナム戦争中に米軍が整備したおかげとのことである。高速道路でもないのに100キロのスピードでひたすら西に向かう。 前日の宴会の疲れでうとうとしていたら、車はガソリンスタンドに止まった。トイレ休憩だという。タイのガソリンスタンドは、必ずといってよいほど、コンビニと立派なトイレを併設しており、休憩所を兼ねている。彼女たちはまたまたお菓子をたくさん買い込んできた。周囲は300〜500メートルほどの山並みが続き、明らかにバンコク平原と景色は異なってきた。町並みに入った。カンチャナブリ市内だという。途端に道は車で混みだす。 カンチャナブリはバンコク周辺では名の知れた観光地であるが、日本人にとっては複雑な心境となる場所である。何しろ、「悪魔のごとき日本軍の遺跡」として、今に語りつづけられている場所である。数年前までは、日本人と知ると、食堂で飯も食わせてくれなかったとの話も聞いた。敗者である日本はそれに反論することさえ許されていない。このカンチャナブリ行きも、私が言い出したのではなく、彼女たちの希望によるものである。当然同行の3人、特に大卒である女性二人はカンチャナブリがどういうところか知っているはずである。そこへ日本人である私を連れ出したことに何か意図があるのだろうか。その表情からはうかがい知れない。 町並みを抜けると、道路傍で車はとまった。連合軍墓地だという。案内書にあるKanchanaburi Allied War Cemeteryである。複雑な心境ではあるが、ここは平然と胸を張って彼女たちとともに墓地に入る。よく手入れされた広大な芝生の広場に、多くの墓碑が整然と並んでいる。泰緬鉄道建設のためにかり出された連合軍捕虜のうち、約1万6千人が過酷な労働と栄養失調のために死んだと案内書には記載されているが、日本軍の犠牲者数はどこにも記載されていない。この墓地には連合軍兵士6,982人が葬られている。周りは、欧米人のみ目立ち、日本人の姿は見えない。彼女たちは写真を撮りながら墓地内を楽しそうに散策している。その表情には何の意図も感慨も感じられない。 すぐに、カンチャナブリ観光の目玉・Kwae 川鉄橋に到着した。周りはちょっとした観光街となっており、お土産物屋や食堂が並んでいる。不思議なことに中国語の看板が目立つ。川幅100メートルほどの水量豊かな川に真っ黒な一本の鉄橋が掛かっている。歴史となった鉄橋である。勿論、戦時中日本軍の掛けた橋は爆撃で破壊され、戦後掛けなおされた橋ではあるが。鉄橋の上を歩いて渡れるようになっている。所々に避難所もあり列車がきても安全は確保されている。彼女たちと写真を撮りつつ鉄橋を渡る。見下ろすKwae川はなかなかの急流であり、鉄橋を掛けた当時の犠牲の多さが理解できる。 日本軍はビルマ戦線への補給路を確保するために、タイからビルマへ通じる415キロの泰緬鉄道を突貫工事で建設した。この鉄道建設の最大の難所が、このKwae川架橋であった。泰緬鉄道はビルマ戦線の日本軍にとってはまさに命綱であった。どれほどの命綱であったかは、戦争末期、補給路を絶たれたビルマ侵攻部隊が死の放浪の末に壊滅する事実が証明している。このため、この鉄道は連合軍捕虜を使って死に物狂いで建設された。それだけに、捕虜の犠牲も大きかったし、また、その数倍のアジア人労働者も犠牲となった。さらに云うならば、戦争後半、この橋は連合軍の格好の爆撃目標となり、防衛する日本軍も多くの犠牲を強いられた。しかし、ビルマで壊滅した部隊も含め、日本軍の悲劇は、連合軍の悲劇のごとくは語り継がれていないし、何のモニュメントも残されてはいない。歴史は常に勝者のものである。ちょうど鉄橋を渡り終えたとき、列車が時速5キロほどのゆっくりしたスピードで鉄橋を渡りだした。 鉄橋の見学を終える、船に乗ることとなった。小さな高速艇をチャーターして、川沿いに点在する旧所名跡を回ろうというのである。回る場所によって料金が違うらしい。交渉はすべて彼女たちにお任せである。S君は留守番するという。きっと泳げないのだろう。エンジン剥き出しの小型艇は猛烈なスピードで下流に向かう。全身で受ける風がなんとも心地よい。川面には何隻ものフローティング・レストランやフローティング・ディスコ(こういうものの存在をはじめて知った)が小型ボートに引かれながらのんびりと航行している。 高速で数キロも下り、最初に訪れたのは象のトレッキング場であった。広場に10頭ほどの象が無造作に繋がれている。監視人も特にいず、自由に象と接しられる。バンコク周辺にもRose Gardenやワニ園など、間近に象に接することのできる場所はあるが、いずれも柵越しか係員の管理のもとである。巨大な大人の象は傍によると相当な恐怖感が沸く。子供の象はやはりかわいい。Sさんがモンキーバナナをたくさん買ってきたが、あっちこっちから長い鼻が伸びてきて、あっという間になくなってしまった。女性たちはキャキャ言って喜んでいる。依頼すると、象に乗って周辺をトレッキングできるようである。 少し上流に戻り、次に訪れたのは Chungkai War Cemetery連合軍墓地であった。最初に訪れた墓地同様、よく手入れされた芝生の広場に整然と墓石が並んでいる。こちらの墓地は少し小規模で、1,750の墓標が並んでいる。誰もいない。彼女たちは墓石の間を歩き回り、また落花を髪に挿し、屈託ない笑顔で写真を取りまくっている。私のカメラはとっくに彼女たちに取り上げられてしまっている。 再び少し下流に戻り、小さな船着場に上陸する。土産物屋の間の狭い急な階段を登っていくと、高台に布袋様のような腹の大きいユーモアスな仏像が立っている。眼下にはKwae川が流れなかなかの景色である。途中から6、7歳の子供が案内役をかってでて、仏像まで来ると線香まで手渡してくれた。お駄賃といって10バーツ渡すとうれしそうに手を合わせた。ところが、Sさんが登ってこない。どうやらその体重に負けて途中でダウンしたようである。この奥にさらに洞窟があるようであるが戻る。 最後に訪れたのは、どの案内書にも載っているJEATH戦争博物館であった。当時の捕虜収容所を再現したという竹作りの小さな小屋で、中には日本軍の残虐性を示す品々がこれでもかとばかり展示されている。写真や遺物ならまだよいのだが、生き残りの捕虜が後に描いたという多数の地獄絵となると、もはや客観的な展示品とは言えず、憎しみを煽るための悪意に満ちた展示物である。ここまでされると、日本軍の肩を持つつもりは毛頭ないが、日本人として一言いいたくなる心境である。私は早々に小屋を出たが、彼女たち二人は熱心に見て歩いている。しかし、一体何を感じ、何を思ったのか。その表情からは窺い知れない。第二次世界大戦においてタイは、開戦時は日本の同盟国であり、終戦時は連合国側についていた。まさに綱渡りのような微妙な舵取りで、この世界大戦を乗り切った。 Kwae 川 鉄橋に戻る。 川に張り出したレストランで4人そろっての昼食を楽しみながら考えた。今日1日太平洋戦争の悲劇の跡を見て回った。改めて考えてみると、ここはタイである。然るに、悲劇の跡は、日本と欧州諸国との戦いの跡である。地元タイの影が極めて薄い。そもそも自国から遠くはなれたタイの地で、なぜ日本と欧州諸国が戦ったのだ。カンチャナブリ悲劇の最大の原因はこのことにあるのではないだろうか。そして、この戦いの最大の被害者はその戦いの場となったタイであったのかも知れない。祖国から遠く離れたこの地で死んでいった、数万の両軍兵士はいったい何を思い、何を考え、激烈な戦いに臨んだのだろう。 レストランの中は、欧米人のみ目立ち、日本人の姿は見られない。彼らの目に、このカンチャナブリで楽しげに食事をしている日本人とタイ人の不思議なパーティはどのように映ったであろうか。
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