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板井沢集落(815)→樽峠(940〜955)→平治ノ段(1030〜1040)→晴海展望台(1100)→貫ヶ岳(1130〜1150)→大城集落(1250)→万沢集落→十島駅(1405) |
静岡市近郊の残り少ない私の未登峰の一つに貫ヶ岳がある。高ドッキョーを主峰とする甲駿国境稜線上の平治ノ段から北へ派生する支稜上の一峰である。二万五千図に破線の記入はなく、案内書によると登山道は平治ノ段から山頂を往復する一本のみである。今春、高ドッキョ山稜を縦走したとき、平治ノ段から確りした踏み跡が貫ヶ岳へ続いていることを確認している。この山は地理的には山梨県に属するが、登山ルートとしては興津川流域から樽峠を経て登ることになるので、静岡県の山ともいえる。
前々から気になる山であったが、平治ノ段から山頂往復では如何にも物足りない。登るからには、この貫ヶ岳山稜を完全に縦走して富士川流域に下山したいと思っていた。調べてみると、小林経雄氏は「富士の見える山」で、万沢川流域の大城集落から登っているし、また、山村正光氏も「甲斐の山々 甲州百山」で、福士川流域の石合集落から登っている。両書ともいわゆる案内書ではないため詳細なルートは不明であるが、藪を漕げば何とか富士川流域へ下れそうである。また、下山後の交通の便がなく、身延線の井手駅もしくは十島駅までかなりの距離を歩くことになる点も気掛かりであるが、里道であり陽が暮れても何とかなるであろう。意を決して行ってみることにした。 昨年最後の連休である12月23〜25日に行くつもりでいたが、あいにく何年ぶりかで大風邪を引いて寝込んでしまった。山というものはチャンスを逃がす度に思い入れは強くなる。満を持して正月早々の7日、出発する。興津駅発7時25分の但沼車庫乗り換え板井沢行きのバスに乗る。私一人を乗せたバスは興津川に沿って奥へ向かう。行く手に高ドッキョーの奇怪な山容が見えてきた。
一服して谷川に添った登山道を辿る。踏み跡は確りしており、「両河内子供会」の標示が点々とある。「第一水場」続いて「中間点」の標示を見る。「第二水場」を過ぎると沢から離れて杉林の中を斜登する。所々に椿の赤い花が見られる。真冬のこの時期に花が見られるとは意外であった。「小峠」との標示のある小尾根を乗っ越し、少し下ると「第三水場」に出る。水を口に含むと猛烈に歯に染みる。再び沢から離れて、杉檜の樹林の中をジグザグに登ると上方に空が広がってきて樽峠に達した。9時40分である。今年の4月に高ドッキョ−から縦走してきたときは気が付かなかったが、峠から一段下がったところに岩で囲んだ簡単な地蔵堂があり、赤いよだれ掛けを掛けた二体のお地蔵さんが安置されていた。峠の頂には、前回も確認したすっかり摩耗しきった一体の石仏が安置されている。年銘は確認できなかったが、小林経雄氏の「甲斐の山山」によると天保10年の銘とある。西暦1840年であり、この石仏も信玄を見なかったことになる。 人の気配のまったくしない峠は静かではあるが休むと寒くて仕方がない。小休止の後、平治ノ段に向かって縦走を開始する。この稜線は防火帯となっていると見えて大きく切り開かれている。リョウブの木が多い。緩やかに登って下ると、いよいよ平治ノ段への急登が始まる。記憶に生々しいものすごい急登である。ふと振り返ると、木々の合間に青笹から十枚山へ掛けての安倍川東山稜の山々が見える。その背後に雪を被った双耳峰が頭を覗かせている。笊ヶ岳である。久し振りにこの我が愛する山の姿を仰ぎうれしくなった。さらに登っててまた振り返る。北方遙に雪を被ったなだらかな裾を引く山が見える。どこの山だろう。考えながら急登にあえぐ。方向と形からすると八ヶ岳であるが、八ヶ岳があんなにはっきり見えるとは考えにくい。木々に見え隠れする山を再び仰ぐ。なんと、真っ白に雪を被った北岳から間ノ岳に続く稜線がくっきりと浮かんでいる。北岳の姿を安倍奥の山から微かに眺めたことはあるが、これほどはっきりと眺めたのは初めてである。となると、先ほどの山はやはり八ヶ岳に間違いない。今日はなんと視界のよいことか。ただし残念なことに、どこまで登っても木々がじゃまして、すっきりした展望が得られない。「甲斐方面展望台」の標示があるが、ここも名前に反しすっきりした展望は得られない。目の前には奇怪な山容の篠井山が大きくそびえ立っている。この福士川奥の山もいつか登ってみたいものである。傾斜が緩やかになると背より高い笹が両側を覆い、視界をすっかり隠してしまった。どこが山頂か分からない平坦な平治ノ段山頂部を進むとようやく貫ヶ岳分岐に達した。 ここは樹林の中の寒々とした場所だ。前回はなかったプラスティックの真新しい立派な道標が設置されている。寒さに震えながら稲荷寿司を頬張る。10時40分、いよいよ貫ヶ岳に向け未知のルートに踏み込む。ところがほんの2〜3分進むと、「十国展望台」との標示のある小ピークに達した。北西側が切り開かれ大きく展望が開けている。目の前に5合目以上を雪に染めた富士山が余すことなくその姿をさらしている。その右には愛鷹山、さらに右には浜石岳山稜が見える。駿河湾には船の姿も見える。典型的な駿河の山の展望である。ところが残念なことに西側は展望がなく、私のお目当ての南アルプスの展望は得られない。がっかりである。ベンチが設置されていて日が燦々と当たっている。知っていればここで昼食を取ったのに。 小さな上下を繰り返す稜線を貫ヶ岳目指して北上する。リョウブの木に混じってアセビの木が多くなる。稜線上の道は確りしており、まったく不安はない。前方に北岳と間ノ岳が常に見えているのだが、相変わらず木々の枝越しである。どこか一か所でいいからすっきりした展望を得たいものである。辺りは静寂そのもので人の気配はおろか小鳥のさえずりとて聞こえない。20分も歩くと「晴海展望台」との標示のある小ピークに達した。案内書にワラビノ岳とある929メートル峰である。真正面に雄大な富士山の姿が望まれる。富士山もこれだけスッポンポンで望むと情緒もない。しかしながら、展望は東側だけで、西側はまたもや切り開きはない。展望台を整備した人は富士山にきり関心がなかったと見える。私は安倍奥の山々とその背後の南アルプスの白き山々を望みたいのだ。腹が立ってきた。 さらに稜線をたどる。ここまでちらちら見えていた北岳も、前方間近に迫ってきた貫ヶ岳の背後に姿を消してしまった。ついに、北岳のすっきりした姿は一度も仰ぐことができなかった。まったく残念である。突然立派な道標が現われて、左に中沢集落への確りした道が分かれる。案内書にまったく記載のない道である。二段に分かれた急登を経ると、11時30分、ついに貫ヶ岳山頂に達した。西側は薄暗い檜の植林、東側は自然林で展望が得られる。眼下に富士川から富士山に掛けての展望が広がっている。なんとゴルフ場が多いことか。数えてみたら、見えるだけで5か所もある。まさに自然破壊である。日向に腰を下ろして昼食とする。 ここまではよく整備されたコースであったが、問題はこの先である。案内書には「山頂から石合川及び大城集落へ微かな踏み跡があるが相当荒れているので平治ノ段に引き返すように」とある。ところが山頂には平治ノ段で見たと同じプラスティック製の真新しい立派な道標があり、意外なことに、山頂からなお北へ続く稜線を「大城」と示している。西へ下るはずの石合川方向へは何の標示もなく、また踏み跡も確認できない。予定通り大城集落へ下山することにする。公的機関が建てたと思われるこれだけ立派な道標があるからにはそれ相当のコースとなっていなければおかしいのであるが、踏み跡も微かですごい藪道である。コースサインとてない。とても一般のハイカーが辿れる道ではない。道標は余りにも無責任である。スズタケの生い茂る藪尾根を稜線を踏み外さないように慎重に進む。踏み跡薄い藪尾根を辿るならお手のものである。スズタケをかきわけかきわけ緩やかな上下を繰り返す尾根を進む。地図上の799メートル峰付近は特にひどい。踏み跡は確認できるが、両側から背よりも高いスズタケが覆い被さる。 平治ノ段から貫ヶ岳を経て続くこの尾根も、この799メートルピークで終わりである。ここから大城集落に向けて北東に張り出す支尾根を下ることになる。スズタケの藪は薄くなるが尾根筋が不明確でルートに気を使う。小林経雄氏の「富士の見える山」にある通り、小さな石の祠が続けて二つ現われ、ルートに間違いのないことを確認する。祠の一つには文化8年未年の銘があった。西暦1812年である。やがて檜の植林の中にはいる。藪はなくなるが踏み跡は薄い。もう大城集落は近そうである。いくつかの踏み跡が左右に分かれる。どの踏み跡を採ってもいいのだろうが忠実に尾根を下る。竹藪が現われ踏み跡は消えた。構わず進むとここにも小さな石の祠があった。すぐに農家の裏庭に突き当たってしまった。下に道路が見えるのだが、犬がたち塞がって激しく吠えつく。畔道を抜けて道路に降り立つ。時刻は12時50分、ついに貫ヶ岳山稜縦走完了である。思ったよりも早く下山することができ一安心である。 しかしここからが長い。身延線の十島駅まで7〜8キロの道を歩かなければならない。万沢集落を抜け、国道52号線を横切り、万栄橋で富士川を渡って、14時5分、ようやく十島駅に辿り着いた。ところが、電車は15時15分までなし。長い長い待ち時間となってしまった。 貫ヶ岳までは道もよく整備されており、よきハイキングコースであった。しかし二つの展望台ではぜひとも西側も切り開きをしてもらいたいものである。また、貫ヶ岳山頂の大城を指す道標は問題である。 今日一日、誰にも逢わなかった。小鳥も虫の姿さえも見なかった。静かな静かな山であった。 |