相変わらずコロナの猛威が続いている。いったい何時まで続くことやらーーー。外出禁止が叫ばれている手前、孫の顔を見にさえもいけない。時折近郊の山を歩くことで気を紛らわしているがーーー。
地図を眺めると、栃木県佐野市北部に「唐沢山 249メートル」の表記を見る。そして、その表記と重なるように城跡記号が記され、さらに「唐沢山神社」の表記も重なっている。いかなる謂れがあるのか、インターネットのキーを叩いてみると、藤原秀郷が築いたと言う山城の跡が残されており、そこに唐沢山神社が建立されているらしい・
『一般的には、平安時代の10世紀に武将・藤原秀郷が築いたと言われていた。以降、代々藤原秀郷の子孫である佐野氏の居城として続いた。しかし、1602年、麓に佐野城が築かれ、唐沢山城はその歴史に幕を降ろした。その後明治16年に至り、佐野氏の一族旧臣等が計り、この山城跡に唐沢山神社を建立した。』
と言うことらしい。唐沢山の山頂249メートル地点は本丸跡で現在は唐沢山神社の本殿が鎮座している。その直下まで車道が通じており、唐沢山自体はもはや登山対象とはならない。ただし、唐沢山から北へ続く稜線上にはハイキングコースが開かれているらしい。ならば、軽いハイキングをかねて、関東7名城の一つと言われた唐沢山城跡を見学してこようか。
(注) 関東7名城とは
唐沢山城 栃木県佐野市
金山城 群馬県太田市
太田山城 茨城県常陸太田市
忍城 埼玉県行田市
宇都宮城 栃木県宇都宮市
河越城 埼玉県川越市
厰橋城 群馬県前橋市
早朝5時、車で出発する。まだ日の出前だが、夜は明けかけている。天気予報は今日一日穏やかな晴天が続くと告げている。家から37.6キロ走り、6時03分、予定通り唐沢山麓の唐沢下鳥居前の無料駐車場に到着した。数十台駐車可能の広さだが、早朝のせいか先着は3台だけであった。支度を済ませすぐに足下の車道を山に向かって歩き出す。車道は鳥居の前で右にカーブし、以降カーブを繰り返しながら山頂に向かって行く。車道の最初のカーブの所で小道が右に分れる。入り口に確りした道標があり、小道を「関東ふれあいの道」と標示している。この小道が山頂に向かう登山道である。
小道はしっかり整備されているが、なかなか急登である。人工建材で整備された急な階段が続く。至る所に現れる堀切跡が、地形を複雑にしている。しかし、20分もがんばると、先ほど分れた車道にポンと飛び出した。ここはもう山頂の一角で、大きく開けた平坦地である。駐車場が広がり奥にはレストハウスが建っている。ただし、早朝のため、駐車している車もなく、レストハウスも営業時間外である。
その右手から奥に続く小道を「鏡岩へ」と道標が示しているので踏み込んでみたが、遠そうなので諦める。レストハウスの前を過ぎ、少し進むと、右手に天狗岩が現れる。展望絶佳と聞く小岩峰である。登ってみる。眼下に関東平野が広がり、その先に大小山と思える山並が低く連なっている。
一年中涸れることのないという「大炊の井」を過ぎ、神橋を渡って本丸跡、すなわち唐沢山神社境内に入る。さらに少々急な石段を登り詰めると、神社本殿に達する。すなわち本丸跡にして唐沢山249メートルの山頂である。辺りに人影はない。本殿に今日の無事を祈る。
いよいよここから縦走の開始である。道標に従い、社務所の脇から細い林道に入り、緩やかに下る。キャンプ場の脇を抜け、林道と分れて小道となった尾根道を進む。この辺りを「松風の道」と呼ぶらしい。前方に顕著なピークが見え隠れする。地図上の290.3メートル三角点峰であろう。緩く下ると、この三角点峰に行き当たった。この地点で稜線の右側を巻いて来た林道とも合流する。ただし、林道はさらに三角点峰を右から巻に掛かる。道標があり、巻道となるこの林道の行き先を「京路戸峠」と指し示している。私の目的先である。どうやらハイキングコースはこの林道と合わさり、このピークを巻いてしまうようだ。
一方、目の前に聳え立つピークに向かって、登山道とも言えない微かな踏み跡がまっすぐに登り上げている。ただし、この踏み跡には何の標示もない。私はピークハンターだ。三角点峰を避けて通るわけには行かない。覚悟を決めて細い踏み跡に取り付く。潅木と小石に覆われた想像以上の急斜面だ。足の置き場が確保できない。手掛かりがない。足を滑らしたら下まで転げ落ちそうだ。途中トラロープが張られていた。と言うことは、この踏み跡がこのピークへの登りルートなのだろう。
何とか山頂に這い上がった。山頂は樹木とツツジの潅木に覆われた小平地で木々の間から大小山方面が見通せる。赤やピンクのツツジは今が満開である。山頂には私の登って来た踏み跡とは別に、2本の確りした踏み跡が登り上げていた。稜線の右から登り上げている踏み跡はこれから下りとして私が辿るルートだが、稜線の左から登り上げてくる確りした踏み跡の起点はどこにあったのだろう。細い危険な踏み跡をひーひー言って登って来たのが何となく馬鹿らしくなってしまった。
ところで、登り上げたこの三角点峰の山名である。二万五千図はおろか手許のハイキングガイドをひも解いても、単に「290.3メートル 2等三角点峰」とのみ記されている。目立つ三角点峰であり何らかの山名はありそうなものだ。山頂に標示されていることを期待していたのだが。期待通り、立ち木に括りつけられた私的な登頂記念板に「高鳥屋」と標示されていた。また、帰宅後気がついたのだが、Googleの地図に「高鳥屋山」として記載されていた。なお三角点名は「栃本」である。
稜線右側の林道に下り、少し進むと、左に小道が分れ、道標が「見晴休憩所」と示している。そちらの道を辿ってると、巨大な鉄塔の立つ小ピークに登りあげた。ベンチがあるので座り込んで握り飯を頬張る。朝から何も食べずにここまでやって来た。設置された道標には「唐沢山神社 1,4km、京路戸峠 1,5km」と標示されている。
京路戸峠を目指して先に進む。中年の単独行の男生とすれ違った。今日はじめて山中にて出会う人間である。特徴のない縦走路を進む。幾つかのピークを過ぎる。「南見明岳」との標示のある顕著なピークを過ぎる。地図の292メートル峰と思うが、はっきりしない。「らくだ岩」と標示のある露石を過ぎる。8時57分、ついに京路戸峠に到着した。ベンチがあるだけの愛想のない峠である。誰もいない。
設置された道標は、このまま稜線をさらに北へ向かう尾根道を「村檜神社」、稜線を左(西)へ下る小道を「多田駅」と標示している。今日の計画はここからさらに稜線を北へ辿り、諏訪岳まで行く予定であるが、諏訪岳からの下山路がはっきりしない。まともな登山道はなく、分かりにくい微かな踏み跡があるだけらしい。行ってみて、危険と思われたらこの地点まで戻り、多田駅方面に下るつもりである。
ちょっと立ち止っただけで先に進む。10分ほど稜線を北へ進むと、小道が右(東)に下っている。道標がこの小道の行く先を「村檜神社」と示している。実は、唐沢山から続いて来たハイキングコース(関東ふれあいの道)はこの村檜神社へ下る道が本道なのである。ここからさらに稜線上の道は諏訪岳へと続いているがこの先はハイキングコースではない。従ってハイキングコースとしての整備はされていない。
ここで私は立ち止り、しばし考えた。実は、今回のハイキングを計画した時から、もし可能ならば、村檜神社に寄り道したいと思っていた。村檜神社は大化2年(646年)創建とと伝えられる延期式内社である。現在は下野の国三ノ宮として信仰を集めている。
現在時刻は9時10分、片道30分としても往復1時間。10時半までにはここに戻ってこられる。時間的には十分余裕がある。結論が出た。行ってこよう。立ち止まっている間に、単独行の若者が諏訪岳に向かって行った。
諏訪岳に続く尾根道を離れ、右(東)に下る小道を辿る。女性の単独行者とすれ違う。今日3人目の出会った人である。この道は「関東ふれあいの道」、しっかり整備されている。人工建材で整備された長い階段道が続く。下るに従い田畑の広がる下界が近付いてくる。
下りはじめて約く20分、目指す村檜神社に下りついた。薄い家並みの広がる平地から数十メートル山肌を登った小広い平坦地に境内は広がっていた。木々に囲まれた境内に人影はなく、聖地に相応しい凛とした空気につつまれている。並び建つ拝殿、本殿、神楽殿、等々はいかにも神の座すたたずまいを思わせる。参拝をして、少々長い石段を平地に下り、隣に並び建つ大慈寺に行ってみる。おそらくこの大慈寺が村檜神社の別当寺であったのだろう。なかなか立派な寺であった。
下って来た道を登り返す。たいした登りではないがさすがに苦しい。上から男女2人づづ、計4人パーティが大声でぺちゃくちゃ喋りながら下ってきた。すれ違うのに、挨拶はおろか、道を避けようともしない。困ったものだ。約40分で稜線上の「諏訪岳・村檜神社分岐」に登り上げた。いよいよここから今日最後のアタックである。
諏訪岳への登りのルートは既にハイキングコースではない。潅木と岩の露出した急斜面でかなりの難路である。手足総動員しながら何とか山頂に登り上げた。満開のツツジの花に包まれた山頂は無人であった。何はともあれひと休みである。ただし、これから今日最後の試練が待っている。下山賂の確認である。見ると、西側に下る確りした踏み跡がある。どうやら求める下山路のようである。しめしめ。試しに少し下ってみると、明確な踏み跡は切れ目なく下界まで通じている気配。どうやらこの踏み跡を辿って下山できそうである。
山頂に約15分の滞在の後、いよいよ下山に移る。道型ははっきりしているが、危険を感じる程の急斜面である。潅木岩角に捕まりながら慎重に下る。案内書によると、10分ほど下った所に分岐があり、左に入るらしい。ただし、この分岐はかなり分かりにくく、見落とさないように注意とある。周りを確認しながら注意深く下る。所が10分過ぎ、15分過ぎても一向に分岐らしい地点は現れない。ただし辿っている踏み跡は相変わらず明確なまま続いている。仕方ない、この踏み跡を辿り続けよう。
突然、弱々しい踏み跡の十字路が現れた。私的な道標が立ち木なく繰られている。四方向の行き先が記されているが、左に折れる行き先を「「京路戸公園」と記している。私が目的とする地点である。しかも、この方向への踏み跡も割合確りしている。しめしめ、この道型に踏み込む。この先待ち受けている大きな障害も知らずーーー。
樹林の中の踏み跡を緩やかに下って行くと、突然、樹林が切れ、目の前が大きく開けた。その瞬間、思わず「あっ」と叫んで立ちつくした。目の前に現れた景色はーーー、続いて来た雑木林も、その中に続いて来た踏み跡も、一切が断ち切られ、山肌を大きく削り切り開いだ山体改造とも思える巨大な工事現場であった。すべての立ち木は除去され、遥か下の道路まで裸地の急斜面が一気になだれ落ちている。
どうやら、山肌を大胆に削って平斜面とし、太陽光発電パネルを敷き占める工事らしい。太陽光発電パネルの敷き占め工事は全国的に盛んに行われているが、これほど巨大な工事は見たことがない。
さてどうしよう、とてもではないが、この裸地の急斜面は下れない。とはいえ、戻るとなると、先ほどの十字路までか、はたまた諏訪岳から京路戸峠までか。ただし、おそらく、京路戸峠道もこの大工事に巻き込まれ通行不能となっている気がする。進退極まった。
気を取り直して、この裸地の急斜面を下ることを試みてみる。少し試してみて、ダメなら諦めよう。危険な斜面に踏み込む。立ち木も露石もないので身体の確保が難しい。一旦滑ったら遥か彼方の下界まで転げ落ちること必至である。右へ移動し、左に移動し、積み残してある木の枝を唯一のかつ微かな支点と頼りながら亀のような鈍さで下界へ向かう。超危険な行動には違いないが、慣れるに従い確実に下界が近付いて来た。もがき続けること約30分、ついに下界に降り立った。万歳
工事用に開かれた、ダンプカーが行き来する道路を抜けると京路戸公園に出た。目的とした地点である。後はてくてくと里道を歩いて、車の停めてある唐沢下鳥居前の駐車場まで戻ることになる。秋山川渡り、降り注ぐ春の日を浴びながらのんびりと歩く。振り返ると「中村富士」の別名を持つ諏訪岳がその端正な姿を青空に浮かべていた。
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