おじさんバックパッカーの一人旅
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2008年9月16日~9月20日 |
第三章 西安
第1節 痛みをこらえて西安へ 9月16日。思わぬトラブルのため、いきなり北京で5泊もする事態となってしまった。未だ痛みが取れず、先行き多いに不安だが、行けるところまで行ってみよう。今日は差し当たり、シルクロードの出発点・西安を目指す。西安までの航空券は昨日取得しておいた。 朝7時に起きると、空は真っ黒な雲に覆われ、今にも降りだしそうな天気である。7時30分出発。ザックを背負うと肩が非常に痛い。オーナーの奥さんが心配そうに門まで見送ってくれた。雷鳴が轟きだしている。せめて地下鉄の駅に着くまで天気がもってくれればよいが。足早に駅に向かう。しかし途中でついに降りだしてしまった。だいぶ濡れたが、何とかずぶ濡れになる前に駅に逃げ込む。地下鉄2号線は予想に反してガラガラであった。ラッシュアワーの時間帯と思うのだがーーー。東直門駅で機場線に乗り換え、9時30分に空港に到着した。 中国では国内線でもイミグレーションがある。係官が何と、流暢な日本語で対応してきた。「日本語が上手ですねぇ」というと、実に嬉しそうな顔をした。10時45分、西安行きMU2124は定刻通り北京国際空港を離陸した。通路を挟んで横3列づつの中型機、意外にも満席である。中高年の欧米人団体が何組か乗りあわせている。日本人の姿は見られない。下界は靄が深くよく見えない。約1時間30分の飛行で西安咸陽空港に着陸した。空はどんよりと曇り、靄が非常に濃い。 市内へ行くエアポートバスはすぐにわかったが、満席になるまで出発しない。いらいらしながら20分ほど待たされ、13時30分ようやく出発した。料金は25元(約375円)である。すぐに高速道路に乗る。周りは一面のトウモロコシ畑で、その中を高速道路が縦横に走っている。いたって近代的な景色である。大きな川を渡った。黄河最大の支流・渭河であろう。王維の詩「送元二使安西」の舞台はこの辺りであったのだろか。「渭城の朝雨軽塵を潤すーーー」。安西とは現在のトルファンである。当時、西安から遠く西域に旅立つ者との最後の別れをこの渭河の辺でするのが習わしであった。何しろ命懸けの旅であったのだから。西門を潜りバスは西安市内に入った。 空港から50分で、バスは終点の美倫酒店前に着いたのだが、現在位置と方向がさっぱりわからない。目の前に大きな楼閣が立っている(後で鼓楼と知る)。幸い、バスを降りたところに数人の案内係の若い女性がおり、丁寧に教えてくれた。宿は別に決めていなかったが、西安の中心となる鐘楼に面したユースホステルに行く。中央郵便局の大きな建物の一角で、「西安鐘楼国際青年旅舎」と「都市春天商務酒店」の二つの看板がかかっている。おそらく、ビジネスホテルがユースホステルを兼業しているのだろう。1泊180元(約2,700円)と少々高めであるが、テレビとエアコン付きのツインベッドの部屋は広く、歯ブラシ、石鹸、シャンプー、タオルと備品もすべて揃い、ホテル並である。しかも、窓を開ければ目の前に鐘楼がそそり立っている。ただし、郵便局と共通の階段はタバコの吸い殻が散乱し、従業員が屯していて異様な雰囲気である。また、小さな食堂があるだけでユースホステルとしての機能は貧弱である。受付で英語は通じる。何はともあれ、ようやくシルクロードの出発点にやって来た。ただし、この身体で果たしてどこまで行けることやらーーー。
一般的に「現在の西安は唐の都・長安の継続都市である」と言われる。ただし、厳密に言うなら、二つの都市は場所がほぼ同じというだけであって、都市としての継続性はない。現在の西安の街は明代に新たに造られた街であり、長安の時代から引き継がれた建造物は、大雁塔と小雁塔ぐらいだと言われる。長安の都は東西9.7キロ、南北8.2キロに及ぶ広大な大都城であった。しかし、現在の西安(城壁で囲まれた範囲)は東西4キロ、南北3キロに過ぎない。唐を滅ぼし後梁を建国した朱全忠が長安の都を徹底的に破壊してしまったのである。 西安は洛陽、南京、北京とともに中国4大古都の一つに数えられている。古来、現在の西安及びその近郊に歴代13の王朝が都を置いた。すなわち、西周、秦、前漢、新、後漢(最末期)、西晋(最末期)、前趙、前秦、後秦、西魏、北周、随、唐である。その他、王朝にまで到らなかったが、一定期間支配権を確立した、赤眉、緑林、黄巣、李自成の各反乱政権も西安に本拠地を置いた。ただし、天下の王都として、それなりの機能を果たしたのは、西周の鎬京、秦の咸陽、前漢、随、唐の長安のみであるが。中でも、唐の都・長安はシルクロードを介した西方との交易により、当時の世界最大の国際都市として繁栄を極めた。しかし、東西貿易の交通路が陸から海に移るに従い、内陸都市・長安は次第にその重要性が薄れ、唐滅亡後は二度と天下の中心となることはなかった。 荷物を部屋に放り込むと、すぐに街に出た。先ずしなければならないのは、列車のチケットの取得である。明後日、夜行列車で銀川に向かうつもりである。中国では列車チケットの購入は駅まで行く必要がない。市内のあちこちに、チケット売り場が設けられている。窓口で英語は通じなかったが、我々日本人は漢字を知っている。必要事項を紙に書いて差し出し、首尾よくチケットを入手した。これで明後日の日程が確定した。
鐘楼に登る。大きく展望が開け、空が広々と広がっている。なぜなら、この建物が市内で最も高いのだから。市内において、鐘楼よりも高い建物の建設は禁止されている。もちろん、古都の景観を護るための処置である。北京もそうであった、そしてこの後訪ねた街もそうであった。この春に尋ねた雲南の街もそうであった。中国の街は、街造りのコンセプトが実に確りしている。南を眺めれば、南大街の彼方に永寧門(南門)が深い靄の中に霞んでいる。西を眺めれば、すぐ目の先に鼓楼の楼閣が大きくそそり立っている。古都の心休まる風景である。
鼓楼から北に延びる小さな路地は「西安回民街」と呼ばれる回教徒の街である。回教徒独特の白い小さな帽子をかぶった男やネッカチーフで髮を覆った女が行き交い、「清真」の看板を掲げたイスラム食堂や小吃の屋台が軒を並べている。往時の長安の都を彷彿させる光景である。ぶらりぶらりと歩いていると、ついに雨が降ってきた。あわてて宿に戻る。夜の8時頃、雨も止んだので再び街をぶらついてみる。鐘楼と鼓楼がライトアップされ、暗闇の中に浮き上がっている。西安回民街は大勢の人で賑わっていた。
9月17日 朝目を覚ますと、空は厚く雲に覆われている。何となく気力が湧かない。今日は1日西安市内を探索するつもりである。宿で自転車を借りようとしたが、「市内の自転車通行は危険なので、貸自転車はない」との答え。確かに、通りを眺めるかぎり、車の通行が激しく、自転車はかなり危険である。諦めて、徒歩とバスで回ることにする。
次ぎに目指すのは小雁塔である。少々遠いが歩いて行くことにする。永寧門から城外に出て、並木の続く広い通りを南に向かう。家並みは続くが、もはや市街地の賑やかさはない。小1時間歩き、家々が少し建て込んで来て、ようやく小雁塔に着いた。標示された入場料が何と50元(約750円)とある。無茶苦茶な高額である。頭に来て、入場料の標示板を眺めていてハット気がついた。中国語と英語の二ヶ国語で書かれているのだが、中国語の方に(漢字なので読める)「65歳以上の老人は半額」とあるではないか。ただし、英語の方にはこの様な記載はない。モノは試しと、申し出るとパスポートを確認して半額となった。これは儲かった。どうやら、北京も含め、今までの見学場所も同様の標示があったと思われるが、英語表示のみ見ていたためか、気がつかなかった。
小雁塔は頂上まで登ることが出来る。内部の狭く急で薄暗い階段を登る。何しろ、13階もあるので重労働である。頂上からは、北に西安の街が、南には幾つかの高層ビルが望まれた。 再び地図を睨みながらテクテクと南に向かって歩く。もはや家並みも途切れ途切れで、学校や軍の基地が見られる。薄日が差し出していささか暑い。小1時間も歩くと、高層マンションやショッピングセンターが現れ、新興の街に入った。14時過ぎ、ようやく目指す大興禅寺に到着した。田舎寺の風情で、観光客の姿は見えない。それでも入場料20元(約300円)との標示がある。ただし、ここでも、中国語にのみ「65歳以上の老人は半額」と記されている。受付のおっさんと、「20元だ。否、10元だ」と通じない言葉でしばしトンチンカンなやり取りの結果、10元で押しきった。
時刻は既に3時過ぎ。いい加減歩き疲れたが、駐車しているタクシーへの誘惑を払いのけ、最後の目的地・慈恩寺の大雁塔を目指して歩き始める。すぐに陝西省歴史博物館に達する。中国有数の巨大博物館であり、見学するとなると半日がかりになる。見学を諦め、更に20分も歩くと、ようやく目指す大雁塔の北に広がる大きな広場に達した。池と噴水を配した巨大な広場の向こうに、大雁塔が悠然と建っている。ただし、入り口は南側のため、更に10分ほど歩く羽目になった。
慈恩寺は、寺名が示す通り、唐の第三代皇帝・高宗が母の供養のため648年に建立した仏教寺院である。当時は、現在の10倍もの境内を持つ巨大寺院であった。652年には、玄奘三蔵がインドから持ち帰った大量の経典を保存するために大雁塔が建てられた。その後、唐滅亡時の長安城破壊により伽藍は消失、以降、破壊と再建を繰り返し現在に至った。しかし、大雁塔だけは破壊を免れ今に残った。小雁塔とともに、長安の香りを今に伝える数少ない建物である。ただし、その大雁塔も度々の修復で姿は建造当時と大分変わってしまったようである。創建時は5層であったが、その後10層に改造され、更に現在の7層に改修された。現在、高さは64メートルあり、最上階まで登ることが出来る。
山門を潜り、境内に入る。創建時の1/10の広さと言えども境内は32,314平米と広大である。大雁塔を中心に伽藍が並ぶ。大遍覚堂には玄奘の座像が祀られ、玄奘三蔵院には、玄奘にまつわる品々が展示されている。掲げられた説明文の中の「捨身求法」の四文字が妙に心に残った。
さすがに歩き疲れたのでバスで帰ることにした。609路のバスに乗る。中国の路線バスはいたって利用しやすい。各バス停に停まるバスの路番とその経路がしっかり記載されている。市内は1元均一である。バス停は混雑しており、また、やってきたバスも満員であった。押しあうようにしてバスに乗り込む。鐘楼でバスを降りた。5時頃である。夕暮れまでまだしばしの時間がありそうである。西安回民街にある清真大寺に行ってみることにする。西安における最大のモスクである。土産物屋や食堂などの小さな商店が並ぶ参道を抜け、門前に達した。入場料を払おうと、財布を入れたズボンの後ろポケットを探ると、ない。財布がないのである。瞬間、「やられたぁ」と思った。しかし、もはやどうしようもない。 おそらく、バスに乗り降りする際にやられたのだろう。スボンの後ろポケットは一番危険な場所であることは重々承知していた。しかし、日本でも海外でも常にここに収納していて、大丈夫であったのだがーーー。混乱する頭で被害を思い浮かべる。入っていた現金は400元(約6,000円)程でたいしたことはない。問題はシティーバンクのキャッシュカードとクレジットカードである。旅行中の路賃は主としてキャッシュカードで中国銀行等のATMから現金を引き出すことで賄っている。クレジットカードは何かあった際の最後の砦である。この2枚のカードを失ったことが余りに大きい。それから、明日の銀川までの列車チケットも入っていた。果たしてこの先、旅行が続けられるのか。現金が無くなったら日本に帰れなくなる。恐怖心が湧いてくる。 落ち着くために、ひとまず宿に帰る。非常用に保持していたUS$と日本円の有り金をベッドの上に並べ、その額を確認する。「節約すればぎりぎりなんとかなるかーーー。行けるところまで行ってみよう」と決心する。先ずは、早急に事後処理をしなければならない。受付に行って事情を話して相談する。「公安(警察)に届けるべきだが、届けても100%戻ってくることはない。しかも、公安へ行っても中国語以外通じない」と言われ、届けることは諦める。家にe-mailを打って、2枚のカードの無効手続をとる。さらに、人民元をすべて失ったので、差し当たり今晩の夕食代がない。頼み込んで、ツケにしてもらう。 9月18日。寝苦しい夜であった。いろいろな心配が頭に浮かんでまんじりともせず夜が明けた。外は雨が降っている。何はともあれ、銀行に行って両替をしなくてはならない。9時に近くの中国銀行へ行く。定刻9時にシャッターは開いたが、窓口は業務開始の準備中。10分程して漸く業務が開始された。中国の近代化もいまだしである。続いて、列車のチケット売り場に行って銀川までの今日のチケットを買い直す。宿へ帰って昨日の夕食のツケを払い、チェックアウトの手続きをして荷物を預ける。
今日はこれから夜行列車で銀川に向かう。西安の北約680キロに位置する都市で、寧夏回族自治区の首府である。河西回廊に位置する都市ではないが、今回、どうしてもここへ行ってみたい。なぜなら、この銀川は11世紀半ばから13世紀前半まで中国西北部に栄えた西夏王国の都が置かれた都市である。現在、郊外には西夏の王たちの陵墓が残されている。西夏は河西回廊一帯を支配し、その痕跡は今でも河西回廊に色濃く残されている。 15時30分、ザックを担いで宿を出る。街の北東にある西安鉄道駅までバスで行くことにし、近くのバス停に行く。宿の受付で66路のバスに乗れと教えられたが、そんなバスはなかった。「火車站西」行きのバスが来たのでかまわず乗り込む。バスは駅を通り越し、300メートルほど先の城壁を抜けたところで停まった。歩いて駅に向かう。
私の乗る列車は「17時40分発銀川行き2585次」である。標示に従い、人波を押し分けて指定の待合室に行ってみると、プラスチック椅子の並んだ巨大な待合室は既に溢れんばかりの人人人。踏み込むことすらままならない。困ったなぁ。これでは動きが取れない。ザックを背負ったまま立ち往生である。ふと、「軟座待合室」の標示が目に飛び込んだ。どうやら、上級クラスである軟座の乗客には別の待合室があるようである。手持ちの乗車券は軟臥、私にも利用資格がありそうである。入り口でのチケットチェックを経て無事に「軟座待合室」に入ることが出来た。こちらは一般待合室とは雲泥の差であった。ふかふかの椅子が並び、未だ空席が幾つもある。安心してひと息つく。待合室に外国人の姿は見られない。 アナウスは中国語のみなのでさっばり分からないが、電光掲示板が順時各列車の改札開始を知らせている。こちらは漢字なので理解できる。17時を過ぎたころ、突然、「銀川行き2585次列車は改札中」の文字が眼に飛び込んだ。どうやら「改札開始」の標示を見落としたらしい。慌ててホームに急ぐ。列車は既に入線しており、乗客の多くも乗り込みずみであった。チケットに記された座席に行く。軟臥、すなわち寝台車である。2段ベットが2組、計4ベットの個室で、既に同室の3人は乗車ずみであった。30歳代の男が2人、50歳代のおばさんが1人。「ニーハオ、ウォーシーリーベンレン(尓好、我是日本人)」と中国語で挨拶すると、驚いた様子。男がわずかに英語を話せた。内蒙古まで行くという。
9月19日。目を覚ますと既に外は明るくなっていた。窓の外を覗いて驚いた。景色が一変している。荒涼たる砂礫の大地が地平線の彼方へ続いている。ゴビ沙漠である。砂礫の中に草はまばらに生えているが、樹木は1本もない。そして人家も見当たらない。ただただ砂礫の広がりである。空は真っ青に晴れ上がり、一片の雲も見られない。時折羊の群れが見られる。しばらく走ると、小さなオアシスなのだろう、トウモロコシ畑が現れ、続いて林が現れ、そして小さな街が現れる。しかし、街を過ぎると、また荒涼たる砂礫の広がりである。
銀川の街は鉄道駅から約7キロも東に位置する。多くのホテルはこの街中にある。しかし、私は「吉祥西夏青年旅舎」というユースホステルに泊まるつもりである。手持ち資金が切迫しているので、費用を切り詰めなければならない。案内によると、このユースホステルは街とは反対に駅からバスで西に向い、「寧夏大学南門」で降りろとある。寄って来た客引きのおばさんに聞いて、小型バスに乗り込む。車掌が乗車していたので助かった。料金は1元、数分で「寧夏大学南門」バス停に着いた。付近は新興の街で、ショッピングセンターや銀行もある。 「吉祥西夏青年旅舎」は小さなユースホステルであった。部屋は3人部屋のドミトリー、料金は1泊45元(約675円)と安い。英語が通じるので助かる。ただし、ユースホステルとしての施設は何もない。庭に椅子とテーブルがあるだけである。他に宿泊者は誰もいないようである。ともかく、今日のねぐらを確保でき、ほっとする。
先ずは腹ごしらえと、教えられた食堂街に行く。小さな横丁に数10店の食堂が並んでいる。その内の1軒に入る。二人の若い女店員が私に興味津々、他に客がいなかったこともあり、そばを離れない。筆談開始である。歳を聞くと18歳と22歳、中国語が話せないのに漢字が書けるのが不思議らしい。お陰で楽しいひとときを過ごした。 午後からは銀川の街に行ってみることにする。銀川は西夏王国の古都・興慶府である。1947年、これまでの興慶にかわり、銀川と改称された。バスは超満員であった。しかし、乗るとすぐに若者が席を譲ってくれた。身動きできない車掌が遠くで「どこまでだぁ」と切符をかざして叫んでいる。ちょっと困った。旧市街の「西門」付近で降りたいのだが、「西門」は中国語で何と発音するんだ。隣に座っていた爺さんを突っついて、ガイドブックの「西門」を指さすと、「シーメン」と爺さんが車掌に怒鳴ってくれた。車掌が指2本を立てて2元であることを示している。バスは鉄道駅前を通過して、旧市街に向う。
以上で銀川の探索は終了である。ユースホステルに帰ることにして、近くのバス停から鉄道駅行きのバスに乗る。ところがバスは真っすぐ駅に向わず、市内をぐるぐる回って北の郊外に出た。大きな湖水があり、その向こうに高くそそり立つ仏塔が見えた。北塔とも呼ばれる海宝塔のはずである。五胡十六国時代の5世紀初頭に建てられたと伝えられている。8角13層で高さは64.5メートルある。清代に地震によって何回か倒壊したが、そのたびに再建された。この塔も西夏の時代を知っている。 宿に帰ると、隣のベッドにザックが置かれていた。どうやら同室者が来たようである。夕飯を食べ終わると、もはややることもない。ベッドに寝転がっていたら同室者が現れた。30歳ぐらいの中国人である。中国人のバックパッカーとは珍しい。幸い英語が話せる。聞けば、上海在住で、今日は延安からやって来たとのこと。ところが、この後、大変なことになった。二人してすぐに寝たのだが、ものすごいイビキをかき出したのである。地響きのするほどの、いまだかつて聞いたことのない大音響のイビキである。これは参った。寝られたものではない。いったん、布団と枕をもって、部屋の外のソファーに逃げ出してみたがーーー。まんじりともせず夜が明けだした。
9月20日。明け方うとうとして、目が覚めたら8時であった。隣の男は既に出かけたようである。今日は銀川最大の見所・西夏王陵に行くつもりである。西夏はチベット系のタングート族が1038年、中国北西部(現在の寧夏回族自治区、内蒙古自治区、甘粛省、青海省)に建てた王国である。前半は遼、北宋と、後半は金、南宋と天下を三分した。仏教を国教とし、西夏文字を制定するなど独自の文化を育んだ。その仏教文化のいったんは敦煌・莫高窟の壁画に見ることが出来る。しかし、北方に蒙古が起ると次第に圧迫され、1227年、王都・興慶府が陥落して10代190年をもって滅んだ。歴代王の陵墓が銀川の西約35キロの半沙漠地帯に残されている。 行き方をオーナーに相談すると、意外にも、寧夏大学南門から1日1往復バスがあるという。どの案内にも「公共交通機関はないのでタクシーをチャーターするべし」とあるのだがーーー。しばし迷ったが、やはりタクシーで行くことにする。バスは行きが10時50分発、帰りが14時発とのことなので、帰りが少々遅くなる。今日は街まで明日のチケットを買いに行く仕事が残っている。宿の前でタクシーを捕まえ値段交渉する。筆談で交渉するのもなかなか大変である。待ち時間も含め、往復150元(約2,250円)で合意した。
40元(約600円)の入場料を払いゲートを潜る。電動カートに乗せられ、先ず、西夏王陵博物館に連れていかれる。西夏王国の概要を知るのに実に有益な博物館である。その隣が芸術館、人形を使って西夏の人々の生活や戦いの様子をリアルに示している。博物館、芸術館の展示をもっとゆっくり見ればよいのだろうが、心はどうしても王陵に向ってしまう。林の中の小道を王陵に向う。途中、西夏文字の石碑を集め展示してあった。漢字を母体に作られたのだろうが実に複雑な書体である。約6,000種の文字があるとのことである。西夏の滅亡とともに滅んだ文字であるが、日本人の西田龍雄により解読された。
ひと通り見終わってから少々がっかりした。案内書には「南北10キロ、東西4キロの範囲に9個の皇帝陵と70余りの陪葬墓存在する」とあるので、これら全てを見ることが出来ると思っていたが、公開されているのはこの3号墓だけであった。再び電動カートに乗ってゲートに戻る。ゲストハウスには12時に帰り着いた。 明日、蘭州に行くつもりである。バスにしようか列車にしようか悩んでいる。宿のオーナーは列車の方がよいと言っているがーーー。いずれにせよ、事前にチケットを取得しておく必要がある。バスに乗って先ず鉄道駅に行ってみる。いつもごった返している切符売り場だが、意外にも10人程度が並んでいるだけであった。掲示された時刻表を調べると、蘭州行きは夜行列車のみである。ふと、「それなら今晩の夜行列車で行ってしまおうか」と思った。窓口に「今天 或 明天」と書いたメモを差し出すと、今晩の夜行に空き席があるとの回答。22時27分発のK915次列車の軟臥が取れた。宿に帰り、今晩チェックアウトすることを告げる。 夕食に二人の娘のいる食堂に行く。何回か来たので顔見知りである。今晩帰ることを告げると、「尓去蘭州還過来馬?」と別れを惜しんでくれた。
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