おじさんバックパッカーの一人旅   

北京と河西回廊の旅(2)  西安と銀川 

長安と興慶府、二つの古都を訪ねて

2008年9月16日

    〜9月20日

 
第三章 西安

 第1節 痛みをこらえて西安へ

 9月16日。思わぬトラブルのため、いきなり北京で5泊もする事態となってしまった。未だ痛みが取れず、先行き多いに不安だが、行けるところまで行ってみよう。今日は差し当たり、シルクロードの出発点・西安を目指す。西安までの航空券は昨日取得しておいた。

 朝7時に起きると、空は真っ黒な雲に覆われ、今にも降りだしそうな天気である。7時30分出発。ザックを背負うと肩が非常に痛い。オーナーの奥さんが心配そうに門まで見送ってくれた。雷鳴が轟きだしている。せめて地下鉄の駅に着くまで天気がもってくれればよいが。足早に駅に向かう。しかし途中でついに降りだしてしまった。だいぶ濡れたが、何とかずぶ濡れになる前に駅に逃げ込む。地下鉄2号線は予想に反してガラガラであった。ラッシュアワーの時間帯と思うのだがーーー。東直門駅で機場線に乗り換え、9時30分に空港に到着した。

 中国では国内線でもイミグレーションがある。係官が何と、流暢な日本語で対応してきた。「日本語が上手ですねぇ」というと、実に嬉しそうな顔をした。10時45分、西安行きMU2124は定刻通り北京国際空港を離陸した。通路を挟んで横3列づつの中型機、意外にも満席である。中高年の欧米人団体が何組か乗りあわせている。日本人の姿は見られない。下界は靄が深くよく見えない。約1時間30分の飛行で西安咸陽空港に着陸した。空はどんよりと曇り、靄が非常に濃い。

 市内へ行くエアポートバスはすぐにわかったが、満席になるまで出発しない。いらいらしながら20分ほど待たされ、13時30分ようやく出発した。料金は25元(約375円)である。すぐに高速道路に乗る。周りは一面のトウモロコシ畑で、その中を高速道路が縦横に走っている。いたって近代的な景色である。大きな川を渡った。黄河最大の支流・渭河であろう。王維の詩「送元二使安西」の舞台はこの辺りであったのだろか。「渭城の朝雨軽塵を潤すーーー」。安西とは現在のトルファンである。当時、西安から遠く西域に旅立つ者との最後の別れをこの渭河の辺でするのが習わしであった。何しろ命懸けの旅であったのだから。西門を潜りバスは西安市内に入った。

 空港から50分で、バスは終点の美倫酒店前に着いたのだが、現在位置と方向がさっぱりわからない。目の前に大きな楼閣が立っている(後で鼓楼と知る)。幸い、バスを降りたところに数人の案内係の若い女性がおり、丁寧に教えてくれた。宿は別に決めていなかったが、西安の中心となる鐘楼に面したユースホステルに行く。中央郵便局の大きな建物の一角で、「西安鐘楼国際青年旅舎」と「都市春天商務酒店」の二つの看板がかかっている。おそらく、ビジネスホテルがユースホステルを兼業しているのだろう。1泊180元(約2,700円)と少々高めであるが、テレビとエアコン付きのツインベッドの部屋は広く、歯ブラシ、石鹸、シャンプー、タオルと備品もすべて揃い、ホテル並である。しかも、窓を開ければ目の前に鐘楼がそそり立っている。ただし、郵便局と共通の階段はタバコの吸い殻が散乱し、従業員が屯していて異様な雰囲気である。また、小さな食堂があるだけでユースホステルとしての機能は貧弱である。受付で英語は通じる。何はともあれ、ようやくシルクロードの出発点にやって来た。ただし、この身体で果たしてどこまで行けることやらーーー。

 
 第2節 西安探索(その1)

 一般的に「現在の西安は唐の都・長安の継続都市である」と言われる。ただし、厳密に言うなら、二つの都市は場所がほぼ同じというだけであって、都市としての継続性はない。現在の西安の街は明代に新たに造られた街であり、長安の時代から引き継がれた建造物は、大雁塔と小雁塔ぐらいだと言われる。長安の都は東西9.7キロ、南北8.2キロに及ぶ広大な大都城であった。しかし、現在の西安(城壁で囲まれた範囲)は東西4キロ、南北3キロに過ぎない。唐を滅ぼし後梁を建国した朱全忠が長安の都を徹底的に破壊してしまったのである。

 西安は洛陽、南京、北京とともに中国4大古都の一つに数えられている。古来、現在の西安及びその近郊に歴代13の王朝が都を置いた。すなわち、西周、秦、前漢、新、後漢(最末期)、西晋(最末期)、前趙、前秦、後秦、西魏、北周、随、唐である。その他、王朝にまで到らなかったが、一定期間支配権を確立した、赤眉、緑林、黄巣、李自成の各反乱政権も西安に本拠地を置いた。ただし、天下の王都として、それなりの機能を果たしたのは、西周の鎬京、秦の咸陽、前漢、随、唐の長安のみであるが。中でも、唐の都・長安はシルクロードを介した西方との交易により、当時の世界最大の国際都市として繁栄を極めた。しかし、東西貿易の交通路が陸から海に移るに従い、内陸都市・長安は次第にその重要性が薄れ、唐滅亡後は二度と天下の中心となることはなかった。

 荷物を部屋に放り込むと、すぐに街に出た。先ずしなければならないのは、列車のチケットの取得である。明後日、夜行列車で銀川に向かうつもりである。中国では列車チケットの購入は駅まで行く必要がない。市内のあちこちに、チケット売り場が設けられている。窓口で英語は通じなかったが、我々日本人は漢字を知っている。必要事項を紙に書いて差し出し、首尾よくチケットを入手した。これで明後日の日程が確定した。

 いよいよ西安の探索である。夕方近いが、まだ2〜3時間は動けそうである。先ず向かったのは街の中心に建つ鐘楼である。東大街、西大街、北大街、南大街の四つの大通りが交差するロータリーの中心に建つ。まさに西安の臍である。大きな石の基壇の上に三層の屋根をもつ二階建ての楼閣が高々と聳え立っている。高さは36メートルあり、明代の1384年の建造である。ロータリーは4方向が立派な地下道で繋がっている。鐘楼と鼓楼の共通入場券が40元(約600円)、何と高額なことか。

 鐘楼に登る。大きく展望が開け、空が広々と広がっている。なぜなら、この建物が市内で最も高いのだから。市内において、鐘楼よりも高い建物の建設は禁止されている。もちろん、古都の景観を護るための処置である。北京もそうであった、そしてこの後訪ねた街もそうであった。この春に尋ねた雲南の街もそうであった。中国の街は、街造りのコンセプトが実に確りしている。南を眺めれば、南大街の彼方に永寧門(南門)が深い靄の中に霞んでいる。西を眺めれば、すぐ目の先に鼓楼の楼閣が大きくそそり立っている。古都の心休まる風景である。

 続いて、鼓楼に行ってみる。こちらも高い石の基壇の上に立つ高さ33メートルの大きな楼閣である。鐘楼に先立つこと4年、1380年の創建である。周りの広場では幾つもの連凧が灰色の空に上がっている。鼓楼に登る。西面と東面に二個づつ、計四個の大太鼓が設置されている。往時はこの大太鼓を叩いて夕刻を知らせ、城門が閉じられた。南面と北面には12個づつ、計24個の小太鼓が据えられている。それぞれの小太鼓に24節句が当てはめられており、その日が来るとその小太鼓が叩かれ、季節の到来が告げられたという。

 鼓楼から北に延びる小さな路地は「西安回民街」と呼ばれる回教徒の街である。回教徒独特の白い小さな帽子をかぶった男やネッカチーフで髮を覆った女が行き交い、「清真」の看板を掲げたイスラム食堂や小吃の屋台が軒を並べている。往時の長安の都を彷彿させる光景である。ぶらりぶらりと歩いていると、ついに雨が降ってきた。あわてて宿に戻る。夜の8時頃、雨も止んだので再び街をぶらついてみる。鐘楼と鼓楼がライトアップされ、暗闇の中に浮き上がっている。西安回民街は大勢の人で賑わっていた。

 
 第3節 西安探索(その2)

 9月17日 朝目を覚ますと、空は厚く雲に覆われている。何となく気力が湧かない。今日は1日西安市内を探索するつもりである。宿で自転車を借りようとしたが、「市内の自転車通行は危険なので、貸自転車はない」との答え。確かに、通りを眺めるかぎり、車の通行が激しく、自転車はかなり危険である。諦めて、徒歩とバスで回ることにする。

 南大街を10分も進むと巨大な城門に行き当たった。永寧門(南門)である。その左右には、街を取り囲む高さ12メートルの堅固な城壁が延びている。西安は今なお城壁都市である。街を囲む周囲14キロの城壁と東西南北の4ッつの城門が完璧に残されている。中国の都市としては珍しい。ただし、この城壁、城門は唐の長安の時代のものではない。明の洪武帝の時代(1370年〜1378年)に築かれたものである。40元(約600円)もの入場料を払って、城門及び城壁に登ってみる。城壁の上は幅12〜14メートルもあり、大通り並の広さである。貸自転車や遊覧車が城壁の上を走っているのには驚いた。城壁上をしばし散策して長安の昔を思う。

 城壁に沿って10分ほど歩き、碑林博物館に行く。漢代から清代までの有名な石碑が約3,000点も集められている博物館である。西安に来たからには絶対に見逃せない。この博物館は、もともと孔子廟であったとのことで、博物館らしからぬ風情ある造りである。歴史陳列室、石刻芸術陳列室、碑林の三つの展示室があるが、お目当ての碑林に直行する。

 書聖・王羲之の文字が刻まれた碑がある。食い入るように見つめる。彼の真筆はこの世に一筆も残っていない。王羲之の書を深く愛した唐の皇帝・太宗(李世民)は、世にある王羲之のすべての書を収集し、死んだときに一緒に陵墓に埋めさせてしまった。今や彼の筆跡は碑に刻まれた文字によってのみ知ることが出来る。何と美しい筆跡だろう。柔和な女性的とも言える筆跡である。隣には、同じく唐代の名書家・顔真卿の筆跡の刻まれた碑がある。こちらは力強い筆跡である。満足して碑林を去る。

 次ぎに目指すのは小雁塔である。少々遠いが歩いて行くことにする。永寧門から城外に出て、並木の続く広い通りを南に向かう。家並みは続くが、もはや市街地の賑やかさはない。小1時間歩き、家々が少し建て込んで来て、ようやく小雁塔に着いた。標示された入場料が何と50元(約750円)とある。無茶苦茶な高額である。頭に来て、入場料の標示板を眺めていてハット気がついた。中国語と英語の二ヶ国語で書かれているのだが、中国語の方に(漢字なので読める)「65歳以上の老人は半額」とあるではないか。ただし、英語の方にはこの様な記載はない。モノは試しと、申し出るとパスポートを確認して半額となった。これは儲かった。どうやら、北京も含め、今までの見学場所も同様の標示があったと思われるが、英語表示のみ見ていたためか、気がつかなかった。

 小雁塔は薦福寺境内に建つ13層43メートルの仏塔である。慈恩寺境内に建つ大雁塔とともに、唐の長安の姿を今に伝える貴重な建物である。この塔は唐の第三代皇帝・高宗を供養して、皇后であった則天武后によって684年に建てられた。また、薦福寺は義浄縁の寺として知られている。義浄(635年〜713年)は671年、法を求めて単身海路でインドに渡る。そして、25年後の695年に膨大な経典を携えて帰国する。その経典の翻訳作業を行ったのがこの寺である。彼の著した「大唐西域求法高僧伝」は当時のインドや東南アジアを知る貴重な史料となっている。

 小雁塔は頂上まで登ることが出来る。内部の狭く急で薄暗い階段を登る。何しろ、13階もあるので重労働である。頂上からは、北に西安の街が、南には幾つかの高層ビルが望まれた。

 再び地図を睨みながらテクテクと南に向かって歩く。もはや家並みも途切れ途切れで、学校や軍の基地が見られる。薄日が差し出していささか暑い。小1時間も歩くと、高層マンションやショッピングセンターが現れ、新興の街に入った。14時過ぎ、ようやく目指す大興禅寺に到着した。田舎寺の風情で、観光客の姿は見えない。それでも入場料20元(約300円)との標示がある。ただし、ここでも、中国語にのみ「65歳以上の老人は半額」と記されている。受付のおっさんと、「20元だ。否、10元だ」と通じない言葉でしばしトンチンカンなやり取りの結果、10元で押しきった。

 大興禅寺は3世紀後半(西晋の時代)の創建と言われ、西安で最も古い寺院の一つである。ただし、現存の伽藍の多くは明代、清代の建造である。随代から唐代初期(6世紀後半〜7世紀前半)にかけ、インドから伝えられた多くの経典がこの寺で翻訳され、当時の仏教布教の中心的拠点であった。境内は奥行きがあり、思いのほか広大であった。

 時刻は既に3時過ぎ。いい加減歩き疲れたが、駐車しているタクシーへの誘惑を払いのけ、最後の目的地・慈恩寺の大雁塔を目指して歩き始める。すぐに陝西省歴史博物館に達する。中国有数の巨大博物館であり、見学するとなると半日がかりになる。見学を諦め、更に20分も歩くと、ようやく目指す大雁塔の北に広がる大きな広場に達した。池と噴水を配した巨大な広場の向こうに、大雁塔が悠然と建っている。ただし、入り口は南側のため、更に10分ほど歩く羽目になった。

 3時半過ぎ、ようやく慈恩寺の山門に辿り着いた。観光バスやタクシーがぎっしり駐車し、大勢の観光客で賑わっている。山門前の広場中央には慈恩寺縁の玄奘三蔵の大きな像が建ち、格好の記念撮影の場所となっている。入場料は30元(約450円)だが、ここも65歳以上の老人は半額との中国語の標示がある。窓口で言葉が通じず、もたもたしていたら欧米人の団体を引き連れてきたガイドが通訳してくれた。

 慈恩寺は、寺名が示す通り、唐の第三代皇帝・高宗が母の供養のため648年に建立した仏教寺院である。当時は、現在の10倍もの境内を持つ巨大寺院であった。652年には、玄奘三蔵がインドから持ち帰った大量の経典を保存するために大雁塔が建てられた。その後、唐滅亡時の長安城破壊により伽藍は消失、以降、破壊と再建を繰り返し現在に至った。しかし、大雁塔だけは破壊を免れ今に残った。小雁塔とともに、長安の香りを今に伝える数少ない建物である。ただし、その大雁塔も度々の修復で姿は建造当時と大分変わってしまったようである。創建時は5層であったが、その後10層に改造され、更に現在の7層に改修された。現在、高さは64メートルあり、最上階まで登ることが出来る。

 慈恩寺及び大雁塔を語るとき、玄奘三蔵を語らざるを得ない。三蔵法師として西遊記で有名なお坊さんである。求法の情止み難く、629年、国禁を犯し単身天竺(インド)へ向け旅立つ。玄奘27歳の時である。玉門関を越えて密出国し、灼熱のタクラマカン沙漠、厳寒の天山山脈を越え、ついにインドに達する。インド各地を回って法を学び仏跡を尋ねること10数年、645年、仏経原典657部を携えて長安に帰り着く。玄奘44歳の時である。時の皇帝大宗は国境まで使者を出して迎え入れた。玄奘は帰国後西域やインドの様相を記した「大唐西域記」を上程するとともに、ここ慈恩寺に籠り、持ち帰った仏経原典の翻訳に生涯を捧げた。彼の翻訳した経典はやがて日本にまで伝えられることになる。

 山門を潜り、境内に入る。創建時の1/10の広さと言えども境内は32,314平米と広大である。大雁塔を中心に伽藍が並ぶ。大遍覚堂には玄奘の座像が祀られ、玄奘三蔵院には、玄奘にまつわる品々が展示されている。掲げられた説明文の中の「捨身求法」の四文字が妙に心に残った。

 
 第4節 財布をすられた!

 さすがに歩き疲れたのでバスで帰ることにした。609路のバスに乗る。中国の路線バスはいたって利用しやすい。各バス停に停まるバスの路番とその経路がしっかり記載されている。市内は1元均一である。バス停は混雑しており、また、やってきたバスも満員であった。押しあうようにしてバスに乗り込む。鐘楼でバスを降りた。5時頃である。夕暮れまでまだしばしの時間がありそうである。西安回民街にある清真大寺に行ってみることにする。西安における最大のモスクである。土産物屋や食堂などの小さな商店が並ぶ参道を抜け、門前に達した。入場料を払おうと、財布を入れたズボンの後ろポケットを探ると、ない。財布がないのである。瞬間、「やられたぁ」と思った。しかし、もはやどうしようもない。

 おそらく、バスに乗り降りする際にやられたのだろう。スボンの後ろポケットは一番危険な場所であることは重々承知していた。しかし、日本でも海外でも常にここに収納していて、大丈夫であったのだがーーー。混乱する頭で被害を思い浮かべる。入っていた現金は400元(約6,000円)程でたいしたことはない。問題はシティーバンクのキャッシュカードとクレジットカードである。旅行中の路賃は主としてキャッシュカードで中国銀行等のATMから現金を引き出すことで賄っている。クレジットカードは何かあった際の最後の砦である。この2枚のカードを失ったことが余りに大きい。それから、明日の銀川までの列車チケットも入っていた。果たしてこの先、旅行が続けられるのか。現金が無くなったら日本に帰れなくなる。恐怖心が湧いてくる。

 落ち着くために、ひとまず宿に帰る。非常用に保持していたUS$と日本円の有り金をベッドの上に並べ、その額を確認する。「節約すればぎりぎりなんとかなるかーーー。行けるところまで行ってみよう」と決心する。先ずは、早急に事後処理をしなければならない。受付に行って事情を話して相談する。「公安(警察)に届けるべきだが、届けても100%戻ってくることはない。しかも、公安へ行っても中国語以外通じない」と言われ、届けることは諦める。家にe-mailを打って、2枚のカードの無効手続をとる。さらに、人民元をすべて失ったので、差し当たり今晩の夕食代がない。頼み込んで、ツケにしてもらう。

 9月18日。寝苦しい夜であった。いろいろな心配が頭に浮かんでまんじりともせず夜が明けた。外は雨が降っている。何はともあれ、銀行に行って両替をしなくてはならない。9時に近くの中国銀行へ行く。定刻9時にシャッターは開いたが、窓口は業務開始の準備中。10分程して漸く業務が開始された。中国の近代化もいまだしである。続いて、列車のチケット売り場に行って銀川までの今日のチケットを買い直す。宿へ帰って昨日の夕食のツケを払い、チェックアウトの手続きをして荷物を預ける。
 あてもなく雨の街を歩き回る。城壁の中に無理やり押し込められたような街で、華やかであったであろう長安の昔を思い起こすような雰囲気はない。また、私自身街歩きを楽しむような気分にない。

 
第四章 西夏王国の古都・銀川
 
 第1節 銀川への列車の旅

 今日はこれから夜行列車で銀川に向かう。西安の北約680キロに位置する都市で、寧夏回族自治区の首府である。河西回廊に位置する都市ではないが、今回、どうしてもここへ行ってみたい。なぜなら、この銀川は11世紀半ばから13世紀前半まで中国西北部に栄えた西夏王国の都が置かれた都市である。現在、郊外には西夏の王たちの陵墓が残されている。西夏は河西回廊一帯を支配し、その痕跡は今でも河西回廊に色濃く残されている。

 15時30分、ザックを担いで宿を出る。街の北東にある西安鉄道駅までバスで行くことにし、近くのバス停に行く。宿の受付で66路のバスに乗れと教えられたが、そんなバスはなかった。「火車站西」行きのバスが来たのでかまわず乗り込む。バスは駅を通り越し、300メートルほど先の城壁を抜けたところで停まった。歩いて駅に向かう。

 駅付近は雑踏の極である。無数の小さな店がひしめき、道は人の波である。大きな広場の背後に巨大な駅舎があった。広場も人で溢れている。荷物検査が行われていることもあり、駅舎への入場は長蛇の列、押し合いへし合いである。漸く入った駅舎の中はラッシュアワー並の凄まじい混雑、到るところ人々がうごめき、座り込み、身動きがつかないほどである。中国で列車に乗るのは初めてなので、いまひとつ勝手がわからない。中国の列車の乗り方は日本とだいぶ異なる。列車に自由席はなく、チケットは事前に指定席を購入しなければならない。座席は硬座、軟座、硬臥、軟臥の四種類である。まず、指定された待合室に入り、その後指示に従いホームー向かうことになる。

 私の乗る列車は「17時40分発銀川行き2585次」である。標示に従い、人波を押し分けて指定の待合室に行ってみると、プラスチック椅子の並んだ巨大な待合室は既に溢れんばかりの人人人。踏み込むことすらままならない。困ったなぁ。これでは動きが取れない。ザックを背負ったまま立ち往生である。ふと、「軟座待合室」の標示が目に飛び込んだ。どうやら、上級クラスである軟座の乗客には別の待合室があるようである。手持ちの乗車券は軟臥、私にも利用資格がありそうである。入り口でのチケットチェックを経て無事に「軟座待合室」に入ることが出来た。こちらは一般待合室とは雲泥の差であった。ふかふかの椅子が並び、未だ空席が幾つもある。安心してひと息つく。待合室に外国人の姿は見られない。

 アナウスは中国語のみなのでさっばり分からないが、電光掲示板が順時各列車の改札開始を知らせている。こちらは漢字なので理解できる。17時を過ぎたころ、突然、「銀川行き2585次列車は改札中」の文字が眼に飛び込んだ。どうやら「改札開始」の標示を見落としたらしい。慌ててホームに急ぐ。列車は既に入線しており、乗客の多くも乗り込みずみであった。チケットに記された座席に行く。軟臥、すなわち寝台車である。2段ベットが2組、計4ベットの個室で、既に同室の3人は乗車ずみであった。30歳代の男が2人、50歳代のおばさんが1人。「ニーハオ、ウォーシーリーベンレン(尓好、我是日本人)」と中国語で挨拶すると、驚いた様子。男がわずかに英語を話せた。内蒙古まで行くという。

 列車は定刻に発車した。郊外に出ると、トウモロコシ畑がどこまでも続いている。車輌の前後に洋式トイレが一つづつ、デッキは喫煙が許され、灰皿が設置されている。隣は食堂車であったが、売りに来た弁当を食べる。おばさんが男に「日本人も箸を使うんだぁ」と物珍しそうに話し掛けている。暗くなると皆おとなしくベッドに入り電気を消した。

 9月19日。目を覚ますと既に外は明るくなっていた。窓の外を覗いて驚いた。景色が一変している。荒涼たる砂礫の大地が地平線の彼方へ続いている。ゴビ沙漠である。砂礫の中に草はまばらに生えているが、樹木は1本もない。そして人家も見当たらない。ただただ砂礫の広がりである。空は真っ青に晴れ上がり、一片の雲も見られない。時折羊の群れが見られる。しばらく走ると、小さなオアシスなのだろう、トウモロコシ畑が現れ、続いて林が現れ、そして小さな街が現れる。しかし、街を過ぎると、また荒涼たる砂礫の広がりである。

 変化のない景色に飽き、再び布団に潜り込んだら寝込んでしまったら車掌に起された。銀川が近いと見え、乗客は荷物をまとめて既に通路に出ている。私も慌てて荷物をまとめる。8時55分、列車は大きな駅のプラットホームに滑り込んだ。銀川である。人波に従い駅舎を出る。大きな駅だ。駅前広場には「○○招待所」とのプラカードを持った客引きが何人も待ちかまえている。広場の一角にひとまず腰を下ろす。何人かのおばちゃん客引きが寄って来たが、外国人と知ると勧誘はしなかった。中国では認可を得たホテルのみが外国人を泊めることが出来る。ほとんどの招待所は認可を持っていない。

 銀川の街は鉄道駅から約7キロも東に位置する。多くのホテルはこの街中にある。しかし、私は「吉祥西夏青年旅舎」というユースホステルに泊まるつもりである。手持ち資金が切迫しているので、費用を切り詰めなければならない。案内によると、このユースホステルは街とは反対に駅からバスで西に向い、「寧夏大学南門」で降りろとある。寄って来た客引きのおばさんに聞いて、小型バスに乗り込む。車掌が乗車していたので助かった。料金は1元、数分で「寧夏大学南門」バス停に着いた。付近は新興の街で、ショッピングセンターや銀行もある。

 「吉祥西夏青年旅舎」は小さなユースホステルであった。部屋は3人部屋のドミトリー、料金は1泊45元(約675円)と安い。英語が通じるので助かる。ただし、ユースホステルとしての施設は何もない。庭に椅子とテーブルがあるだけである。他に宿泊者は誰もいないようである。ともかく、今日のねぐらを確保でき、ほっとする。

  
 第2節 銀川探索

 先ずは腹ごしらえと、教えられた食堂街に行く。小さな横丁に数10店の食堂が並んでいる。その内の1軒に入る。二人の若い女店員が私に興味津々、他に客がいなかったこともあり、そばを離れない。筆談開始である。歳を聞くと18歳と22歳、中国語が話せないのに漢字が書けるのが不思議らしい。お陰で楽しいひとときを過ごした。

 午後からは銀川の街に行ってみることにする。銀川は西夏王国の古都・興慶府である。1947年、これまでの興慶にかわり、銀川と改称された。バスは超満員であった。しかし、乗るとすぐに若者が席を譲ってくれた。身動きできない車掌が遠くで「どこまでだぁ」と切符をかざして叫んでいる。ちょっと困った。旧市街の「西門」付近で降りたいのだが、「西門」は中国語で何と発音するんだ。隣に座っていた爺さんを突っついて、ガイドブックの「西門」を指さすと、「シーメン」と爺さんが車掌に怒鳴ってくれた。車掌が指2本を立てて2元であることを示している。バスは鉄道駅前を通過して、旧市街に向う。

 街の西端に位置する「西門」で降りる。ただし「西門」はない。正確には「西門跡」であろう。この街はかつて城壁と城門を持っていたようであるが、現在城壁はない。城門も「南門」を残すのみである。街の真ん中を東西に貫く開放路を東に向ってぶらりぶらりと歩き出す。並木の美しい広々とした道である。真昼の太陽が頭上から照りつけ相当に暑い。街は高層ビルなどもあり、思いのほか大きい。もちろん、現在の銀川は西夏時代の街ではない。西夏は1227年、成吉思汗の蒙古により滅ぼされるのであるが、この闘いの最中に、成吉思汗は「西夏を徹底的に破壊せよ」との遺言を残して死ぬ。遺言に従い、蒙古軍は西夏の人民を老若男女を問わず皆殺しにし、王都・興慶府を3ヶ月にわたって徹底的に破壊して地上から消滅させた。現在の銀川の街は明代に再建されたものである。

 しばらく歩いた後、少し南に下がって、承天寺へ行く。寺の境内に承天寺塔と寧夏回族自治区博物館がある。塔は八角11層で高さ64,5メートルあり、周辺からよく見える。創建は西夏時代の1050年、ただし地震で倒れ、清代の1820年に再建された。西夏の王都・興慶府の面影を現在に残す数少ない建物である。同一敷地内に寧夏回族自治区博物館がある。ところが、行ってみると改装中とのことで閉鎖されていた。残念。門前から塔を眺めただけで去る。

 再び開放路を東に向う。デバートや大型ホテルが並び賑やかである。すぐにロータリーの真ん中に建つ鐘楼に達した。清代の1821年建造で、高々とした基壇の上に派手な形の楼閣が聳える。四面には扁額が掲げられており、東は「迎恩」南は「来薫」西は「邑爽」北は「拱極」の文字が刻まれている。更に数分歩くと「玉皇閣」に達した。明代に創建された楼閣で、1954年に再建された。高さ19メートルの基壇の上に主楼と角亭が建ち並んでいる。15元(約225円)の拝観料を払って登楼する。高層ビルの建ち並ぶ市街地が一望である。

 道を南に向う。程なく行く手に楼閣が見えてきた。「南門楼」である。高さ6.9メートルの基壇の上に高さ20.5メートルの二層の楼閣が建つ。北京の天安門に似ており、「小天安門」とも呼ばれる。現在の建物は1917年に再建されたものだが、創建は、西夏時代と言われている。 背後にバスターミナルあり、付近は大勢の人で混雑していた。

 以上で銀川の探索は終了である。ユースホステルに帰ることにして、近くのバス停から鉄道駅行きのバスに乗る。ところがバスは真っすぐ駅に向わず、市内をぐるぐる回って北の郊外に出た。大きな湖水があり、その向こうに高くそそり立つ仏塔が見えた。北塔とも呼ばれる海宝塔のはずである。五胡十六国時代の5世紀初頭に建てられたと伝えられている。8角13層で高さは64.5メートルある。清代に地震によって何回か倒壊したが、そのたびに再建された。この塔も西夏の時代を知っている。

 宿に帰ると、隣のベッドにザックが置かれていた。どうやら同室者が来たようである。夕飯を食べ終わると、もはややることもない。ベッドに寝転がっていたら同室者が現れた。30歳ぐらいの中国人である。中国人のバックパッカーとは珍しい。幸い英語が話せる。聞けば、上海在住で、今日は延安からやって来たとのこと。ところが、この後、大変なことになった。二人してすぐに寝たのだが、ものすごいイビキをかき出したのである。地響きのするほどの、いまだかつて聞いたことのない大音響のイビキである。これは参った。寝られたものではない。いったん、布団と枕をもって、部屋の外のソファーに逃げ出してみたがーーー。まんじりともせず夜が明けだした。

 
 第3節 西夏王陵

 9月20日。明け方うとうとして、目が覚めたら8時であった。隣の男は既に出かけたようである。今日は銀川最大の見所・西夏王陵に行くつもりである。西夏はチベット系のタングート族が1038年、中国北西部(現在の寧夏回族自治区、内蒙古自治区、甘粛省、青海省)に建てた王国である。前半は遼、北宋と、後半は金、南宋と天下を三分した。仏教を国教とし、西夏文字を制定するなど独自の文化を育んだ。その仏教文化のいったんは敦煌・莫高窟の壁画に見ることが出来る。しかし、北方に蒙古が起ると次第に圧迫され、1227年、王都・興慶府が陥落して10代190年をもって滅んだ。歴代王の陵墓が銀川の西約35キロの半沙漠地帯に残されている。

 行き方をオーナーに相談すると、意外にも、寧夏大学南門から1日1往復バスがあるという。どの案内にも「公共交通機関はないのでタクシーをチャーターするべし」とあるのだがーーー。しばし迷ったが、やはりタクシーで行くことにする。バスは行きが10時50分発、帰りが14時発とのことなので、帰りが少々遅くなる。今日は街まで明日のチケットを買いに行く仕事が残っている。宿の前でタクシーを捕まえ値段交渉する。筆談で交渉するのもなかなか大変である。待ち時間も含め、往復150元(約2,250円)で合意した。

 8時30分出発。すぐに街並みは絶え、車もほとんど通らない荒野の中の広々とした道を疾走する。運転手は途中、道端の屋台に車を停め、「朝食だ」といってロウジャーモー(この地方独特のハンバーグのような食べ物)を購入し、「持ってけ」と私にも一つ買ってくれた。30分も走ると目指す西夏王陵のゲートに着いた。駐車場には既に多くの観光バスや車が駐車している。ゲートには複雑な西夏文字が大きく書かれている。

 40元(約600円)の入場料を払いゲートを潜る。電動カートに乗せられ、先ず、西夏王陵博物館に連れていかれる。西夏王国の概要を知るのに実に有益な博物館である。その隣が芸術館、人形を使って西夏の人々の生活や戦いの様子をリアルに示している。博物館、芸術館の展示をもっとゆっくり見ればよいのだろうが、心はどうしても王陵に向ってしまう。林の中の小道を王陵に向う。途中、西夏文字の石碑を集め展示してあった。漢字を母体に作られたのだろうが実に複雑な書体である。約6,000種の文字があるとのことである。西夏の滅亡とともに滅んだ文字であるが、日本人の西田龍雄により解読された。

 林を抜けると、目の前に荒涼たる原野が広がった。その中に崩れかけた巨大な土饅頭が見える。西夏王陵墓である。嬉しくなって、あちらこちらと歩き回る。解説盤によると、目の前の陵墓は3号陵。初代皇帝・李元昊の陵と推定されており、王陵群の中で最大規模のものとのことである。ひときわ目立つ巨大な土饅頭は陵台と呼ばれる施設である。ただし、日本の前方後円墳やエジプトのピラミッドのように墓本体の墳丘ではなく、墓のシンボルとして建てられた塔状の施設の基礎であるらしい。墓本体は陵台の前の地下にある。この西夏陵も、モンゴル軍によって徹底的に破壊されたため、原形を留めていない。陵台の周囲には崩れかけた土塀や付属の土饅頭型の施設が幾つか見られる。周りは砂礫の広がりで、低い草が一面に生えた荒れ地である。

 ひと通り見終わってから少々がっかりした。案内書には「南北10キロ、東西4キロの範囲に9個の皇帝陵と70余りの陪葬墓存在する」とあるので、これら全てを見ることが出来ると思っていたが、公開されているのはこの3号墓だけであった。再び電動カートに乗ってゲートに戻る。ゲストハウスには12時に帰り着いた。

 明日、蘭州に行くつもりである。バスにしようか列車にしようか悩んでいる。宿のオーナーは列車の方がよいと言っているがーーー。いずれにせよ、事前にチケットを取得しておく必要がある。バスに乗って先ず鉄道駅に行ってみる。いつもごった返している切符売り場だが、意外にも10人程度が並んでいるだけであった。掲示された時刻表を調べると、蘭州行きは夜行列車のみである。ふと、「それなら今晩の夜行列車で行ってしまおうか」と思った。窓口に「今天 或 明天」と書いたメモを差し出すと、今晩の夜行に空き席があるとの回答。22時27分発のK915次列車の軟臥が取れた。宿に帰り、今晩チェックアウトすることを告げる。

 夕食に二人の娘のいる食堂に行く。何回か来たので顔見知りである。今晩帰ることを告げると、「尓去蘭州還過来馬?」と別れを惜しんでくれた。
 
          (北京、河西回廊3に続く)

 

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