おじさんバックパッカーの一人旅   

北京と河西回廊の旅(4)  酒泉と敦煌 

 河西回廊核心部の旅

2008年9月27日

    〜10月5日

 
第八章 酒泉

 第1節 酒泉へのバスの旅

 9月27日。いまだ首肩の痛みは治癒せず、路銀も心細い。しかし、ここまで来たからにはもはや敦煌まで突き進むしかない。差し当たり、今日は張掖の北西約230キロの酒泉を目指す。バスで約4時間の旅である。

 8時チェックアウト。歩いて西バスターミナルへ向う。雨は降っていないが、どんよりした空模様である。ザックを背負うと、相変わらず肩が猛烈に痛い。約20分でバスターミナルに着いた。何事もなく、8時40分発のバスチケットが得られた。

 22人乗りの小型バスはガラガラのまま定刻に発車。例によって、市内は客を求めてゆっくりゆっくり。更に、数ヶ所で客待ちのショートストップ。いつしか満席となって、漸くスピードを上げた。昨日、黒水国城堡遺址 へ行った道である。そうと知っていれば、昨日もバスで行けばよかった。

 ポブラ並木の道が続く。周囲はどこまでもトウモロコシ畑である。小さな集落を幾つか過ぎる。乗客が乗ったり降りたり。ゴビは現れない。出発してから50分程で、賑やかな街並みに入った。臨沢である。バスターミナルで5分ほどのトイレ休憩となった。

 変化のない道をさらに30分程走ると、漸く小規模ながらゴビが現れた。その中に大きな人造湖があった。「小海子水庫」との標示がある。臨沢から約1時間で高台の小さな街に入り、バスターミナルで10分程のトイレ休憩となった。

 ここからバスは高速道路に乗った。そして景色は一変した。壮大なゴビのただ中を走り続ける。草がまばらに生える赤茶けた砂礫の大地が地平線まで続いている。見える人工物は、高圧線の鉄塔と高速道路だけである。河床の定まらないワジ(流水のない枯れ川)を幾つか越える。何日ぶりかで天気が回復してきて、左手に祁連山脈がうっすら見えてきた。進むに従い山並みは次第に色濃くなり、雪をかぶった高嶺が見えてきた。祁連山を主峰とする6,500メートル級の山々である。「祁連山」とは匈奴の言葉で「天山」を意味する。漢と匈奴が何度も激戦をまじえた地である。李白の次ぎの詩が思い起こされる。
 
  明月出天山  明月、天山より出づ
  蒼茫雲海間  蒼茫たる雲海の間
  長風幾萬里  長風、いく萬里
  吹度玉門關  吹きわたる玉門の關
  漢下白登道  漢は下だる白登の道
  胡窺青海灣  胡は窺がう青海の灣
  由來征戰地  由來、征戰の地
  不見有人還  人の還る有るを見ず
  戍客望邊色  戍客、邊色を望み
  思歸多苦顏  歸るを思いて苦顏 多し
  高樓當此夜  高樓、此の夜に當り
  歎息未應間*   歎息すること未だまさに間ならざるべし
   注)  「間」は原典では門構えに月

 古来、この祁連山を舞台に幾度の戦いが行われたことか。
 やがて行く手に、緑の点が見えてきた。点はぐんぐん大きくなり、緑のオアシスが現れた。酒泉である。バスは高速を降り、建ち並ぶ高層住宅の間を縫って街中に入っていく。ちょうど12時、バスは酒泉の南バスターミナルに到着した。

 さて、毎度のことながら宿探しである。何としても200元(約3,000円)以下の宿を確保したい。地図とガイドブックを睨んで、先ずは15分ほど歩いて、街の東南端にある龍騰賓館に行く。三つ星のホテルである。しかし、280元以下にはならず諦める。次ぎに街の東端にある漢唐賓館に行く。受付嬢と筆談による交渉の結果、280元の言い値が140元まで下がった。しめしめ。所が、部屋を確認させてもらって、受付に戻ると態度が急変している。「貴方を泊めることはできない。酒泉賓館か酒泉飯店へ行け」との趣旨を書き示す。いったいどういうことなのか。さっぱり分からない。

 仕方がないので、街の中心部の酒泉飯店に行ってみる。見るからに立派なホテルで望みはなさそうである。案の定、280元以下には下がらない。酒泉賓館は4つ星ホテルであり、行くだけ無駄だろう。困った。最後の望みをかけて、金泉賓館に行く。酒泉で最も安いと思われる星のない渉外ホテルである。所が、何と、何と、建物は壊され、看板だけが残っている。重荷を背負って街中歩き回り、もうへとへとである。どうしたらいいんだ。

 道の奥に酒泉航天飯店との看板が見えた。どんなところか知らないが、ともかく行ってみる。立派なホテルであった。しかし、交渉しても280元以下にはならない。諦めて、ロビーの隅で改めてガイドブックを開いていたら、受付嬢がやって来て「北楼でよければ198元(約2,970円)でよい」というではないか。万万歳である。部屋を見せてもらうと、建物は古いながらも設備は完璧である。しかも、朝食付きである。喜んでチェックインする。受付嬢は、英語は通じないものの、実に感じがよい。やれやれ、粘ってみるものである。

 
 第2節 鐘鼓楼

 酒泉は漢の武帝が設置した河西4郡の一つである。唐代以降は粛州と呼ばれてきた。ひと昔前まで、酒泉は立派な城壁を持っていた。周囲4キロ半、高さ11メートルあったという。更にその外側に幅25メートルの環濠まであった。しかし、現在、城壁は欠片も残っていない。革命後、すべて取り壊された。

 遅い昼食を済ますと、すぐ街に出た。真っ先に向うのは、街のど真ん中のロータリーに建つ鐘鼓楼である。この鐘鼓楼を見たくてこの街にやって来た。酒泉のシンボルである。高さ7.5メートルの基壇の上に高さ27メートルの三層の楼閣がすっくと建っている。実に美しい楼閣である。創建は五胡十六国時代の346年であるが、現存のものは清代の1905年の再建である。

 基壇には4方向に向って通路が穿たれており、その入り口に有名な門額が架かっている。

  東の門には「東迎華嶽」(東に華嶽を迎え)
  西の門には「西達伊吾」(西は伊吾に達し)
  南の門には「南望祁連」(南は祁連を望み)
  北の門には「北通砂漠」(北は砂漠に通ず)

と記されている。なお、華嶽は長安の東にある山であり、伊吾とは哈密(ハミ)のことである。この門額を見つめると、自分が今、まさにシルクロードのただ中にいることに思い至る。古来、幾多の旅人が、この門額を見つめ、この門を潜ったことだろう。東西、南北の二つの通路の交わる地点、すなわち鐘鼓楼の真下にたたずんでみた。何とも言えない思いが胸をよぎる。よくぞここまでやってきたものだ。

 
 第3節 酒泉公園

 鐘鼓楼の東の門を出で、賑やかな大通りを東に向う。目指すは2キロほど先の酒泉公園である。この公園に「酒泉」と言う地名の由来となった泉があるはずである。柳並木が続く。時折、垂れ下がる枝が顔に触れる。道脇には一定の間隔で、西域に関わった人物の石像が立つ。武帝、張騫、衛青、霍去病、李広利、玄奘、法顯、ーーー。この街も美しい。

 入園料は30元と高い。「70歳以上は無料」との標示はあるが、65歳以上の割引はない。園内を進む。径100メートルほどの池を中心とし、楼閣や庭園を配した総合公園である。動物園や遊園地まである。池の手前に、目指す泉はあった。1辺2メートルほどの正方形の石組みの中に泉がこんこんと湧きだしている。トレビの泉を真似たのであろう、多くのコインが投げ込まれている。この泉には次ぎの様な言い伝えが残っている。

  「前漢の時代、将軍・霍去病は匈奴を討ち大勝利を収めた。皇帝・武帝はその功を讃え酒を贈った。霍去病は全軍の将士とその栄誉を分かち合おうとしたが、それには量が少ない。そこで、泉に酒を注いだところ、不思議にも泉は酒に変わり尽きることがなかった」

 酒好きの諸氏が聞いたら飛び上がって喜びそうな話しである。試しに泉の水を舐めてみたが、酒の味はまったくしなかった。

 歩いて街の中心部に戻る。途中広場で人だかりがしている。覗いてみると、京劇が演じられていた。

 
 第4節 嘉峪関の街へOne Day Trip

 9月28日。真夜中の2時に、ドアを激しくノックされた。何事かと開けてみると、見知らぬ男が立っていた。男は「部屋を間違えました」との態度で去ったが、今度は庭に出て、大声で誰かを呼んでいる。どうやら、夜遊びから帰ったが、自分の部屋がわからなくなった様子。まったくの人迷惑である。

 今日は、酒泉の北西21キロに位置する嘉峪関の街にOne Day Tripする。嘉峪関の街そのものは1958年以降に新しく作られた工業都市で、何ら見るところはないが、街の郊外には見過ごすこのできない見所がある。8時、ホテルを出発。街の西端にある西バスターミナルへ向う。青空が広がり、いい天気である。20分程でバスターミナルへ着いた。嘉峪関行きのミニバスはバスはターミナルからではなく、その前の広場から出ていた。9時出発、料金は3元(約45円)均一である。例によって、市内は客を求めてのろのろ運転、おまけにガソリンスタンドにまで寄る。郊外に出てやっとまともに走り出した。嘉峪関まで40分程の行程である。

 有料道路となった柳並木の素晴らしい道が続く。道の両側はゴビの荒野であるが、あちこちで植林したり、水路を掘ったり、建物を建てたりして、荒野の開拓が進められている。所が、15分も走ると、何と、トイレに行きたくなってしまった。仕方がないので、途中で下車する。次ぎのバスはすぐ来るだろう。道路の外に出ると、遮るもののないゴビの向こうに雪をかぶった祁連山脈が見える。10分も山に見とれていたら、次ぎのバスがやって来た。

 やがて、工場群が現れ、バスは嘉峪関の街に入った。広々とした道路と近代的なビルからなる何の情緒もない街である。ただし街はかなり大きい。しばし街中を走った後、バスターミナルに着いた。郊外の見所を巡るには、公共交通機関はないためタクシーをチャーターしなければならない。ちょうどやってきたタクシーを捕まえる。中年の女性の運転手であった。交渉の結果120元(約1,800円)で合意した。実に陽気な女性で、ひっきりなしに運転しながら筆談を挑んでくる。危なかしくって仕方がないがーーー。40歳だという。私のことをお父さんだと言ってけらけら笑っている。

 
 第5節 嘉峪関

 現在の嘉峪関の街のある地点は「河西回廊第一隘路」といわれ、両側から山の迫った幅15キロの狭隘の地である。従って河西回廊防衛のための要衝の地であった。国力が強大であった漢の時代には、長城は遥か西のタクラマカン砂漠の彼方まで延びていたが、西からの脅威の増した明代には、この地点に最終防衛ラインを築いた。特に、中央アジアに興った超大国・チムール帝国に対する防衛に神経を使った。この防衛ラインの拠点として1372年に築城されたのが嘉峪関である。長城の最東端にある山海関が「天下第一関」と称されるのに対し、嘉峪関は「天下第一雄関」といわれた。環濠、外城、内城の三段構えで、城壁の高さは11mある。城内には400人ほどの兵士が常駐していたという。まさに鉄壁の守りである。東西にそれぞれ楼閣(門楼)と甕城を持つ城門を備える。東を光化門、西を柔遠門といい、西門には「嘉峪関」の扁額がかかっている。

 車が市街地を抜けると、行く手ゴビの中に、巨大な要塞が見えてきた。100元の入場料は老人割引で50元(約750円)となった。しめしめ。緩やかに坂を登って行くと、環濠の跡に出る。だいぶ砂に埋っているが、いまだ水を湛えている。「天下雄関」の扁額の掛かった外城の門を潜る。文昌閣、関帝廟などの殿閣の建つ広場に出る。行く手に内城の城壁が立ち塞がり、その上に「天下第一雄関」の扁額を掲げた巨大な三層の楼閣が聳え建つ。光化門である。

 石段を登って内城に入る。建ち並ぶ楼閣や城壁の向こうに雄大な景色が開ける。南を望めば、彼方に雪をかぶった祁連山がかすみ、目の前に広がるゴビの荒野の中へ足下から続く一筋の壁が延々と延びている。嘉峪関から更に西に続く長城である。東を望めば、緑のオアシスの中に高層ビルが見える。嘉峪関の街である。西と北は、荒れ果てた岩山が間近に迫っている。西の城門から外に出てみる。荒涼たるゴビと草木の1本もない岩山が広がっているだけである。そこはもう明の防衛線の外なのだ。旅人はどんな思いでこの城門を出ていったのであろう。東の城外には立派な博物館があった。

 
 第6節 万里長城第一トン(トンは土篇に敦)

 「河西回廊第一隘路」の防衛線として、嘉峪関の要塞の左右には長城が配された。北に向う長城はその後延々と東に続き、6,000キロ彼方の渤海湾に臨む山海関に達する。一方、嘉峪関から南に延びた長城は7キロ先の北大河の絶壁の上で絶える。従って、この地点こそ、長城の終点であり起点でもある。その起点にはトン(物見台のこと)が築かれている。このトンこそ万里長城第一トンである。

 嘉峪関から南に向い、敦煌に向う国道、鉄道線路を越え、ゴビの中の細道を進むと、延々と続く土壁が現れる。長城である。道端の料金所で21元の入場料を老人割引で11元にまけさせ、長城に沿ってしばらく進むと、川に落ち込む絶壁の上で長城は絶え、道も絶えた。絶えた長城の先端には崩れて原形を留めない土の塊が見られる。この塊こそ長城第一トンである。そこから北へ続く長城は、北京郊外の八達嶺で見られるような煉瓦造りの立派なものとは大きく異なる。高さ3メートルほどの単なる土壁である。しかし、この壁が渤海湾まで続いていると思うと、言い知れぬ感慨を覚える。と同時に、「ついに長城の終着点にまでやって来た」との思いが強い。

 休憩所を兼ねた建物があり、北大河の絶壁の上に張り出したガラスの床が張られている。上に乗ると、数10メートル下の河床が覗けて、かなりのスリルが味わえる。砂礫の大地を深くえぐり、グランドキャニオンのごとき川である。祁連連峰の雪解け水を集めているのだろう。遥か底にはかなりの水量が見られる。この川もまた、防衛線であるのだろう。少し離れた場所に階段が設けられ、川底に降りられるようになっている。下には、当時の戦陣を模した施設が設けられていた。私以外見学者の姿は見られず、砂漠の太陽が強い光を降り注いでいる。

 
 第7節 懸璧長城

 嘉峪関から北へ向った長城は8キロ先で岩山にぶつかる。長城はそのまま昇竜のごとく岩山を駆け登る。その姿から懸璧長城と呼ばれる。1987年に整備され、長城の上を歩いて山頂まで行けるようになっている。

 万里長城第一トンを離れ、嘉峪関を右に見ながらゴビの中を北上する。行く手の岩山に、鋭い稜線をよじ登る長城が見えてきた。実に惚れ惚れする景色である。15分ほど走り、岩山の麓に着く。ここは老人割引がなく25元(約375円)取られた。見上げる視界の先に、急角度で岩山を駆け登る長城が見える。頂上まではかなりの高度差がある。果たして、あの頂上まで行けるだろうか。ゆっくりゆっくり登りだす。この長城は土壁ではなく、幅1メートルほどの通路の両側に煉瓦の壁を積み上げた構造である。何人かの観光客があえぎあえぎ登っている。最大斜度は45度もあるという。

 約30分で山頂の物見櫓に登り上げた。長城はここで終わっている。山頂だけに展望が素晴らしい。南を望めば、茫々と広がるゴミの彼方に、雪をいいだいた祁連山脈が青空の中に溶け込むように浮かんでいる。西と北は真っ黒な岩山である。東は緑濃いオアシスがゴミの荒野の中に島のごとく横たわっている。山を下るとおばちゃん運転手が笑顔で迎えてくれた。13時30分、バスターミナルに戻る。

 14時過ぎには酒泉に帰り着いた。ふと思いついて中国銀行に両替に行く。明日29日は日曜日、そして、10月1日〜3日までは国慶節の祝日である。銀行が営業しているかどうかわからない。ホテルに帰り着き、門を潜ったら守衛にえらい剣幕で訊問された。不審者と見られたようである。そろそろ無精髭を剃らなければならないか。

 
 第8節 丁家閘墓

 9月29日。今日は特別予定もない。のんびり起きるとよい天気である。明日、敦煌に行くつもりである。列車にしようかバスにしようか迷っている。列車の切符売り場がホテルのすぐ近くにあるので行ってみる。しかし、時刻表を調べると敦煌行き列車はいずれも酒泉を未明に通過している。バスで行かざるを得ないようだ。ならば、丁家閘墓に行ってみようか。その帰りにバスターミナルに寄ってチケットを得ればよい。丁家閘墓は酒泉の街の北西5キロのゴビの中に散らばる魏晋南北朝期(220年〜589年)の墳墓群である。ガイドブックによると、墓室に壁画が描かれており、5壕墓は見学できるようになっているとのこと。2007年夏には酒泉市博物館がこの地に移転するとも記されている。

 タクシーを捕まえる。郊外に出てゴビの荒野の中を進むと、前方に瓦屋根の大きな建物が見えてきた。移転したという博物館に違いない。所が、周囲に人の気配がない。運転手とともに建物内部に入ってみると、内部は未だ工事中であった。運転手が、作業者に何か聞いて、再びタクシーを建物の裏手に走らす。道もなく、ゴビの上に怪しげな轍の跡があるだけである。すると小さな塚があり、丁家閘墓群との石碑が建っている。どうやらここが目指す場所らしい。しかし、人っ子一人いない。そばに掘っ立て小屋があり、よく見るとガイドブックに載っている建物である。しかし入り口にはカギがかかっている。ちょうど農夫の荷馬車が通りかかっので、運転手が尋ねる。どうやら閉鎖されているらしい。

 運転手と顔を見合わせて笑ってしまった。しかし、ここはゴビのど真ん中、南方に祁連連峰がきれいに見えている。この景色に満足して街に戻り、西バスターミナルで降りる。敦煌行きのバスは、午前中に3本と夜行バスであった。明日の9時40分の切符を得る。窓口では、例によって並ぼうとせず、争って窓口に金を握りしめた手を差し込んでくる。困ったものだ。

 午後からはやることもなく、酒泉の街をブラブラ。

 
第9章 河西回廊最西端の街・敦煌

 第1節 敦煌へのバスの旅

 9月30日。今日はいよいよ敦煌に向う。今回の旅の最終目的地である。9時チェックアウト、歩いて西バスターミナルへ向う。途中通りかかった列車の切符売り場は100メートルもの行列、びっくりした。明日から国慶節の連休が始まるためだろう。ただし、数人の係員が人々を並ばせるのに苦労している。放っておけば、行列はあっという間に崩れて大混乱となるだろう。

 バスターミナルに少し早く着いたので、外で一服していたら、足が悪いと思われる老人が杖にすがってよたよたと歩いてきた。それを脇から支える老婆も心もとない。ターミナルへ入るには数段の石段を登らなければならない。石段の手前で二人の歩みは止まった。これを登るのは至難の業と思える。日本男児、知らん顔もできまい。よいしょと背負って上まで担ぎ上げた。中国ではいつもバスや電車で席を譲ってもらっているので、せめてもの恩返しである。

 バスは定刻の9時40分に発車した。中型バスで満席である。昨日切符を買っておいて正解であった。すぐに高速道路に乗り、果てしないゴビの荒野に乗りだす。右手に昨日行った嘉峪関の街のオアシスを見る。嘉峪関の要塞も見える。左手には山頂を白く染めた祁連連峰が望まれる。今日もいい天気である。

 走っても走ってもゴビは尽きない。茫洋たる荒野が続く。人影はおろか、鳥一羽の姿も見られない。この先に、本当に街があるのだろうかとさえ思えてくる。突然車が止められ、検問があった。「国境近くでもないのに」と思うが、おそらく、新疆ウイグル自治区への入域チェックなのだろう。この地域では中国植民地支配からの独立を目指すグループのテロが頻発している。

 1時間半ほど走ると、両側から山が迫ってきた。そこを抜けると、幾つかの小オアシスが現れ始め、煉瓦造りの粗末な家々が見られる。突然左手に大きな湖が現れた。ただし、湖上に船一隻も、湖畔に家一軒も見られない。バスは再び果てしない荒野の中を走り続ける。2時間も走ると、にわかに大地の色が黒くなった。黒い砂礫に変わったのだろうが、何か不気味な感じである。バスは一向に休憩する気配も見せず砂漠の中を走り続ける。

 3時間走り続けると、漸く高速道路を離れ、左に続く道に入る。前方に大きな街が見えてきた。安西の街だろう。13時、バスは街中のバスターミナルに入った。昼食休憩だという。多くの乗客は先に発車していく敦煌行きのバスに乗り換えている。私は急ぐ旅でもない、ターミナルの回りをぶらついてみる。不思議なことに、バスの行き先標示も含め、「安西」の文字はひとつも見当たらず、すべて「瓜州」となっている。「瓜州」は安西の唐代の古名のはずだがーーー。

 安西は、河西4郡には名を連ねていないが、河西回廊の重要な都市である。河西回廊から西域へ向う場合、漢の時代には敦煌の西に位置する玉門関や陽関を出て、ロブ・ノールの辺のオアシス都市・楼蘭に向うのが一般的であった。しかし、唐代になると、ロブ・ノールが干上がり楼蘭も消失した。このため、敦煌を経ず、安西から哈密(伊吾)へ向うルートが一般的になった。このルート変更にともない玉門関の位置も敦煌の西から安西の手前に移動している。

 13時40分、バスは敦煌に向け発車した。乗車率は70%程に減っている。市街地を抜けると、白い小さな塊を抱いた作物畑が続く。何だろう。しばらくして漸く分かった。綿畑である。綿はシルクロード沿いで広く栽培されている作物である。畑が尽きると、再びゴビの荒野となった。ただし、ゴビの雰囲気が今までとは異なる。なにやら荒々しさが増したようである。草はほとんど見られず、砂礫の粒子も細かくなった感じである。左側からは祁連山脈から押し寄せた低い岩山がまじかに迫る。まるで焼かれたような赤銅色で、一辺の優しさも感じられない岩の塊だ。右手は地平線まで続く捕らえ所のない砂礫の広がりである。目を凝らしても、オアシスの影も見えない。その中を1本の線が走っている。敦煌へ続く鉄道線路である。20輛もの客車を連結した列車が砂漠の中を行く。まるで西部劇の一場面のようである。

 今から2千年以上も昔、こんな所を人々はどうやって辿ったのだろう。西域へどころか敦煌へさえ行けそうもない。1時間半走り続けて漸く前方に大きなオアシスが見えてきた。綿畑が現れ、ポブラの林が現れ、そしてバスは街並みに入った。15時30分、バスターミナルへ到着した。ついにやって来た。敦煌へ。トラブルを乗り越え、よくぞやって来たものだ。

 バスを降りると、珍しく招待所の客引きのおばさんが2〜3人寄って来た。しかし、私にはあてがある。ガイドブックに「バックパッカーご用達のホテル。ツイン160元」とある飛天賓館に泊まるつもりである。幸運なことにバスターミナルの目の前にある。フロントに行くと英語が通じた。実に、銀川のユースホステルを出て以来10日ぶりに聞く英語である。所が、値段を聞くと340元(約5,100円)だという。値引きを要求するも260元(約3,900円)までしか下がらない。冗談ではない。何がバックパッカーご用達だ。今まで三つ星ホテルを150元前後で泊まってきた。このホテルは二つ星のはずである。

 頭に来て、憤然とホテルを出る。モノは試しと、先程のおばちゃん客引きのところに行ってみた。もちろん、英語はまったく通じない。場所を聞くと、「ここだ」という。何と、バスターミナルの切符売り場や事務所のある建物の上階が招待所になっている。ただし、招待所の看板もかかっていない。後で聞いたら、「汽車站招待所」というらしい。「一番いい部屋を見せろ」と言うと、「豪華間」の標示のある部屋に案内した。狭いがツーベッド、温水シャワー、洋式トイレ、テレビ、エアコンが付いている。きれいとは言い難いが不満はない。値段を聞くと70元(約1050円)とのこと。洗濯も1個2元で引き受けるとのことなので、ここに決めた。しかし、外国人を泊めて大丈夫なのだろうか。パスポートチェックも宿帳への記入もなし、前金を払うも領収書もよこさない。まぁいいか。外国人が泊まっている様子はない。

 
 第2節 敦煌の街を探索

 今日はまだやらねばならないことが多々残っている。先ずは、街の東端にある民航航空券売り場に向う。1日(火)〜3日(木)が連休ゆえ、4日(金)〜6日(日)もその余韻で混雑するだろう。帰路の北京までの足を確保しておかなければ安心できない。2年前、昆明からバンコクへ帰ろうとしたら1週間先まで飛行機が満席であったという苦い経験がある。

 街に飛びだしてすぐに、この街の雰囲気が、これまで辿ってきた銀川、蘭州、武威、張掖、酒泉とは多いに異なることに気がついた。明らかに、外に開かれた観光都市である。西安を出発して以来一人も見かけなかった外国人の姿が見られる。土産物屋がある。食堂や土産物屋には英語の標示がある。「カツ丼」「カレーライス」などと日本語の標示まである。街は外国人を扱い慣れているようである。いままで、外国人として奇異な目で見られ続けてきたが、この街は居心地がよさそうである。

 街の中心のロータリーには、他の街のように鐘鼓楼ではなく、大きな飛天の像が立っていた。敦煌は飛天の故郷である。飛天とは天界の妖精であり、莫高窟の壁画に多く描かれている。15分ほどで民航航空券売り場に着いた。当然英語が通じる。10月5日の北京までのチケットが無事に得られた。これで、大きな出費はお終い、何とか路銀の目処も立った。ぶらりぶらりと街の中心部に戻る。小さな街だ。もはや完璧に街の土地勘は得られた。

 商業一条街はにぎやかな繁華街である。歩行者天国となっていて、道の真ん中には夜行杯などのお土産物を売る露店が連なり、シシカカブ(羊肉串)の青空食堂が道一杯に店を広げている。喫茶店を見つけてひと休みする。中国で初めて見つけた喫茶店である。ここで馬莎さんに出会った。この喫茶店でアルバイト(打工と言うらしい)をしているという21歳の女性である。日本語学校に通っているとかで、ほんのわずかに日本語を話す。日本語を使ってみたくて仕方がないとみえ、私の側を離れない。ただし、会話の9割は筆談となってしまうがーーー。朝の10時半から夜中の12までの勤務で、休日もないと話していた。

 明日、この旅の最大の目的地・陽関と玉門関に行くつもりである。タクシーをチャーターする程の大金は持ち合わせていないので、ツアーを見つけなければならない。招待所の前の旅行代理店に行く。陽関、玉門関、ヤルダン地質公園を回るツアーがあり、130元(約1,950円)で予約できた。ただし、中国語のツアーである。夕食をと外出する。沙州市場の一角に食堂街があった。一軒の店に入ると、おばさんが日本語ぺらぺらである。神戸に出稼ぎに行っていたとか。

 
 第3節 玉門関

 10月1日。今日は敦煌郊外のツアーに参加する。集合時間が早朝6時半である。昨夜、持参した目覚まし時計をセットしようとしたら、電池が切れている。あわてて、夜の10時頃、電池を求めて街に出たのだが、ボタン型電池は売っていなかった。寝坊しまいと、ほとんど一睡もしなかった。6時15分、宿を出る。外はまだ真っ暗である。中国は広大な国土にもかかわらず、標準時間は北京時間1本である。このため、北京の遥か西方のこの地では、夜明けも遅く、日暮れも遅い。

 集合場所の旅行代理店に行くと既に店は開いており、昨日の若い女性従業員が忙しく立ち働いている。昨日店が閉まったのは夜8時頃、一体何時間勤務なのだろう。10分遅れでバスがやって来た。20数人乗りの小型バスである。運転手と可愛い女性アテンダントが乗っている。ホテル数ヶ所を回り満席となった。全員中国人で、英語は一切通じそうもない。今日一日孤独感を味わいそうである。

 街を出るとすぐに砂漠の中の道となった。バスは西に向ってひた走る。ここはもうゴビ砂漠ではなくタクラマカン砂漠の一角のはずである。薄明かりの中に無限の荒野が広がっている。どこまでもどこまでもモノクロームの世界が続く。1時間近く走り続けるが景色に変化はない。8時、地平線から朝日が昇ってきた。壮大な砂漠の日の出である。空は真っ青に晴れ渡り、雲一つ見られない。

 1時間半も走り続けると、奇妙な光景が現れた。直径数10センチから1メートルほどのお椀を臥せたような半円形のた小さな高まりが砂漠の中に無数に現れた。その半円形の上には背の低い草が必ず乗っている。この現象については文献に出ている。砂嵐が草に当たって小さな吹きだまりができる。草は吹き溜まりの上に這い上がり、砂が崩れないように根を張る。その吹き溜まりに砂嵐が当たって、吹き溜まりは更に成長する。この繰り返しで、草のある場所に小さな小山が無数に出来る。草は吹き溜まりを造ることによって、風の中に含まれているわずかな水分を集めるのである。乾燥しきった砂漠ならではの風景である。

 突然、前方に人だかりがあり、バスは急停車した。見ると1台の乗用車が砂漠の中に突っ込んで仰向けにひっくり返り、そばに投げ出されたと見える男性がぴくりともせず横たわっている。「医者か看護婦は乗っていないか」。一人がバスの中に向って叫ぶ。一人の女性が手を挙げて下車した。彼方から1台のタクシーが猛スピードでやって来た。車が停まるか停まらないうちに若い女性が飛び降り、倒れている男性に大声をあげながら抱きついた。急を聞いて駆けつけた家族なのだろう。救急車が来る気配はない。先程降りて行った看護婦が首を横に振りながら戻ってきた。既に死んでしまっているのだろう。バスは再び砂漠の中を走りだした。

 街を出てから2時間、前方に何やら土の大きな塊が見えてきた。近づくにつれ、それが写真で見慣れた玉門関とわかる。バスは料金徴収所で一時停止、掲げられた料金表を確認してみると、老人割引は70歳以上であった。残念!

 玉門関は敦煌の街から北西に約100キロに位置する関所である。玉門関の原形が何時建造されたのかははっきりしない。漢の武帝の時代には既に存在したらしい。しかし、この玉門関を増強し、強固な関所としたのは漢の武帝である。西域のホータン(和田)で産する玉がこの門を潜って漢にもたらされたことから玉門関と呼ばれた。当時、この門から外が西域とみなされていた。この関所にまつわる幾つかの話が残されている。

 武帝は将軍・李広利に命じ、大宛を撃って汗血馬を奪おうとする。しかし、李広利は戦いに敗れ、玉門関に逃げ帰って来る。怒った武帝は玉門関の城門を締め、李広利を中にいれなかった。
 後漢時代の将軍・班超は西域に駐在すること31年、多いに西戎を討ち西域を安定せしめた。晩年、帰国の嘆願書を皇帝に提出する。「臣、敢えて酒泉に到るを望まず、但だ生きて玉門関に入らん ことを願うのみ」。心を打つ文章である。

 また唐の詩人李白は次ぎの詩を残している。

  長安一片月   長安一片の月
  萬戸擣衣聲   萬戸衣をうつの声
  秋風吹不盡   秋風吹き尽くさず
  總是玉關情   総べてこれ玉関の情
  何日平胡虜   いずれの日か胡虜を平らげて
  良人罷遠征   良人遠征を罷めん 

 漢の時代に西域への重要な出入り口であり戦略的軍事拠点であった玉門関も、唐の時代になると、楼蘭に通じるルートが廃道化したため忘れ去られ、いつしか砂漠の砂に埋もれていった。そして、20世紀初頭、英国の探検家オーレル・スタインにより発見されるのを待つのである。

 バスを降りて遺跡に近づく。遺跡は柵で囲まれ保護されているので中に入ることは出来ない。約25メートル四方、高さ約10メートルの巨大な土の塊である。東西に城門の通路であったと思われる大きな入り口が口を開けている。もはや、往時の原形を想像するのは不可能であるが、この無限の砂漠の中に忽然と立つ巨大な土塊に2千年の歴史を思い、感慨にふける。

 意外なことに遺跡の北側は小さな湿地帯となっていて、水溜まりもあり、樹木はないものの草が濃い。おそらく、昔のカラ・ノール(カラは黒、ノールは湖、黒海子とも呼ぶ)の跡だろう。当時、この辺りに細長い塩湖があったと文献にはある。それにしてもカラカラの砂漠の中の水溜まり、不思議な光景である。

 
 第4節 雅丹地質公園

 バスは砂漠の中を更に西へ向う。目指しているのは玉門関の更に西85キロに位置する雅丹地質公園である。砂嵐により侵食を受けた奇岩が立ち並ぶ風景が見られるはずである。古代、この大砂漠の中を旅した人々は、この風景に接し、「魔鬼城」と呼んで恐れたという。

 それにしても、この果てしない砂漠の風景を何と表現したらよいのだろう。2千年もの昔、こんな場所を人間が旅したなどとは想像すら出来ない。敦煌のオアシスを出発して以来、1本の樹木も見かけない。所々に見かける草は駱駝草と呼ばれる刺の密生した背の低い草1種類である。その草さえも、もはや姿を消している。ここはまさに死の匂いで満ちている。

 行く手に赤茶けた岩の連なりが見えてきた。玉門関から2時間走り、漸く雅丹地質公園に着いた。ここはもう新疆ウイグル自治区との省境のはずである。休憩舎と展示館を兼ねた大きな建物が、砂漠の中に場違いのように建っている。

 専用の小型バスに乗り換え、園内を巡る。途中三ヶ所ほど下車して周囲の奇岩を見学する。岩には駱駝岩とか孔雀岩とか俗っぽい名前が付けられている。ただし、「まぁ、こんなもんか」と言う程度で、それほどの感激もない。

 
 第5節 漢の長城

 バスはもと来た道を戻る。昼時だが昼食休憩はないようである。最も、一軒の人家とてない砂漠のど真ん中、食堂があるわけがないが。細い横道に入り、すぐに「漢の長城」に着いた。漢代に築かれた長城である。敦煌の西、タリム盆地に広がるタクラマカン砂漠の中にも長城があるのだ。長城は戦国時代に各国に作られたが、秦の始皇帝がこれらを修復して東は遼東から西は臨トウ(蘭州の南約100キロ)まで繋ぎあわせた。前漢の武帝は衛青、霍去病をして河西回廊を征服し、更に李広利をしてタリム盆地一帯のオアシス都市を服従させた。それにともない、長城を西へ西へと延長増設した。その西端は、河西回廊の西端・敦煌を越え、タクラマカン砂漠の中を西に進み、ロブ・ノーブル湖畔の楼蘭まで達したと考えられている。漢の長城は、防衛的な施設というよりは、自国の勢力圏を誇示するモーニュメント的色彩が強かった。

 唐代に入ると、敦煌から楼蘭へ向うルートは荒廃し、シルクロードのメインルートは酒泉から安西を経て哈密に向う道となった。このため、敦煌から西に延びる長城は存在意義を失い、かえりみられなくなった。明代に入ると、長城は再び積極的に整備された。現在残っている長城の多くはこの時代に構築されたものである。この時代の長城は北狄、西戎の侵略に備えた防衛施設である。その西端は嘉峪関近くの「長城第一トン」である。

 不思議な光景であった。何もない砂漠の中に崩れた土塀が、或いはその痕跡が延々と続いている。盛り上がった土の塊もある。烽火台か物見台の跡だろう。近寄って壁を観察する。高さは2〜3メートル、黄土や草を入れ、水を加え固めた版築工法で作られたものだ。ただただ、砂漠の風雪に身を委ね、砂に返る日を待っている。

 
 第6節 陽関

 いよいよ陽関に向う。今回の旅の最大の目的地である。「陽関を出ずれば故人なからん」の詩に誘われてこの旅は始まった。車は来た道を東に戻る。玉門関を過ぎ、事故地点を過ぎる。車は既に片づけられ、警察官が事故検証をしていた。やがてバスは朝来た道を離れ、南に続く支線に入る。景色は一向に変わらない。太陽の位置により、かろうじて方向感覚が保たれている。1時間も走ると小さなオアシスに入った。広大な砂漠の中で、そこだけが緑に染まり、数軒の煉瓦造りの民家が見られる。バスは再び砂漠の中へと入っていく。更に30分も走ると、やや大きなオアシスに入った。この辺りで遅い昼食休憩があるのかと思ったが、バスはそのままオアシスを出て行く。前方に大きな施設が現れ、漸くバスは停まった。陽関着である。

 陽関は玉門関と同様、漢の時代の関所である。しかし、陽関の位置は未だはっきりしていない。敦煌の西南76キロに、砂丘の上に立つ崩れかけた烽火台の跡がある。陽関はおそらくこの辺りにあったのだろうと考えられている。現在、この烽火台の立つ砂丘の麓に、昔の陽関を再現した博物館が建てられている。城壁を巡らし、本格的に再現された施設である。従って、陽関の見学は、この博物館を見学することになる。

 城門を潜る。大きな銅像が建っている。馬に乗り、武器を携え、マントをひるがえした武将の像、張騫である。漢の武帝の命を受け、悪戦苦闘しながら見事、大月氏への使いを果たしたシルクロードのパイオニアである。思いを込めてやってきた陽関、出迎えてくれたのは張騫。何やら嬉しくなってしまった。施設の内部はグループごとに係員が丁寧に案内、説明してくれるが、もとより中国語、さっぱり分からない。ただ一人疎外感を味わう。

 見学を終え、西の門より城外に出ると、目の前の砂丘の上に写真で見慣れた烽火台が見えた。砂丘の上まで、馬または遊覧車で行けるようになっている。何人かは馬に跨がったが、私は遊覧車。烽火台の下に達する。回りは柵で囲われ、直近まではいけない。この遺跡が、現在に残る唯一の陽関の跡なのだ。ついにここまでやってきたとの思いが強い。これで、この旅の最大の課題を果たしたことになる。設置されたベンチに座り、砂漠の太陽を受けて輝く烽火台を見つめる。

 丘の上より、西を望む。ただただ、何もない無限の砂漠が広がっている。そこは「陽関を出ずれば故人なからん」などと感傷に浸る程度を遥かに越えた、まさに死と隣り合わせの世界だ。

 敦煌に向けバスは砂漠の中をひた走る。どうやらこのツアーは昼食抜きらしい。私は朝から何も食べていない。無限に続く砂漠を眺めていたら、地平線に蜃気楼が現れた。湖が見えるのである。旅人を迷わし、時には死に追いやったという砂漠の蜃気楼である。近づくと、すうっと消える。

 敦煌に帰り着いたのは18時であった。飲まず食わずの1日である。
 

 第7節 鳴沙山と月牙泉

 10月2日。敦煌へ来る観光客の99%は中国人である。そして、彼らが最も行きたい場所はおそらく鳴沙山だろう。しかし、世界に敦煌の名を知らしめている最大の名所は世界遺産でもある莫高窟である。今日は、この鳴沙山と莫高窟の二つを見学する予定である。二つとも郊外ではあるが市内からは近い。ただし、公的交通機関がないので、昨日、旅行代理店にツアーを申し込んでおいた。こちらは30元(約450円)と安い。

 8時、集合場所の旅行社へ行く。やって来たのは8人乗りのボロボロのワゴン車。乗客は2人の子供を連れた若夫婦、若いアベック、若者一人、私を含め8名である。先ずは鳴沙山に行くという。天気は今日も晴天である。

 鳴沙山は敦煌の街の南約5キロにある。日本人は、砂漠と聞くと、大小の砂丘が折り重なる砂の世界、すなわち「月の砂漠」の歌をイメージする。しかし、ゴビ砂漠は真っ平らな砂礫の荒野であり、砂丘などない。所が、一箇所だけ「月の砂漠」のイメージ通りの場所がある。それが鳴沙山である。南北50キロ、東西40キロにわたり、砂丘が幾重にも連なる砂の世界を造りだしている。

 南に向って数分走ると、行く手に朝日に輝く砂丘が見えてきた。すぐに駐車場に着く。11時30分に車に戻れとのこと。若者が片言の英語で通訳してくれたので助かった。ツアーと言っても往復の車を提供するだけである。門前は大勢の入場者で大賑わいである。国慶節の連休中で、一年で一番賑わうときらしい。入場料は120元(約1,800円)と異常に高い。老人半額の標示を見つけ、しめしめ。所が、切符売り場のおばさんは「中国人のみ。外国人には適用されない」と言い張る。頭に来る。そんなことはどこにも書いてないし、そもそも人種差別である。北京オリンピックの標語である「同一個世界、同一個夢想」の文字を書き示してみたが、首を振るばかり。英語は通ぜず、これ以上筆談でやり取りするのは難しそうである。

 門を潜ると、大量の駱駝が控えており、その背後に大小の砂丘が連なっている。早朝の斜光を受け、砂丘の影と陽のコントラストが絵のように美しい。ここを訪れたものは、ほぼ100%駱駝に乗るらしい。砂丘の稜線を歩く幾つもの駱駝の列が見える。一生に一度のこと、私も駱駝に乗ってみることにする。60元(約900円)である。4〜5頭が1列になり砂丘を登って行く。乗り心地は余りよくない。二瘤駱駝であり、鐙もあるので落ちる心配はないが、揺れが大きく、尻も痛くなる。それでも気分は爽快である。「月の砂漠をーーー」と唄いたくなる心境である。砂丘の一つに登り上げたところで、駱駝から降りて小休止。眼下に敦煌のオアシスが広がっている。再び駱駝に乗って砂丘を下る。駱駝曳きのおばさんが親切で、何枚も写真を撮ってくれた。

 このただ一面の砂丘の連なりの中に不思議な光景がある。水を満々と湛えた小さな池がある。月牙泉である。長さ200メートル、幅は最大50メートル。三日月型である。「月牙」とは中国語で三日月を意味する。漢代からその存在が知られ、水が涸れたことはないといわれる。岸辺を歩いてみる。池には小魚がいる。この魚にとって、この小さな池が宇宙そのものなのだろう。

 砂山には幾つかの遊び道具が揃っている。バギーカー、砂山を滑り降りるソリ、空には軽飛行機が飛んでいる。まだ時間がある、最も高い砂山に登ってみよう。高さ100メートル程度である。ゆっくり登りだすが、足下はさらさらの砂、いたって登りにくい。靴の中は既に砂で満杯である。周りの人々は皆、オーバーシューズを付けている。入り口で貸してくれるようだ。山頂からの展望は素晴らしかった。敦煌の街が砂漠に囲まれたオアシスであることがよくわかる。

 車はいったん街に戻って解散となった。13時30分に再集合して莫高窟に向うとのことである。

 
 第8節 莫高窟

 莫高窟については今更つべこべと記す必要はないであろう。世界にその名を知られた存在であり、敦煌の、いや、シルクロードの至宝的存在である。もちろん、1987年に世界遺産に登録されている。鳴沙山東端の絶壁に開削された大規模な石窟群で、合計492窟にものぼる石窟の内部に描かれた壁画や安置された仏像は、仏教美術の精華であり至宝である。石窟は5世紀前半の北涼期から14世紀の元代まで途切れることなく開削されており、歴史的価値は大きい。また、1900年には封印されていた第17窟の中から大量の古文書が発見され、世界的な注目を集めた。ただし、これらの古文書、仏像の大部分、壁画の一部は英国のスタイン、フランスのぺリオ、日本の大谷探検隊によって持ち去られ、貴重な遺跡は大きな傷を負った。

 莫高窟は敦煌の街の南東約25キロに位置する。車は敦煌のオアシスを出て、河床が定まらず大きく広がった大泉河の右岸沿いを進む。川に水流はなく、荒涼とした風景である。市内から30分程で莫高窟についた。大きな駐車場は既に満車に近く、大混雑の様相である。17時に再集合ということで車を降りる。入場料は何と180元(約2,700円)と飛び上がるほどの高額である。大泉河を渡り、ゲートを潜る。貴重品以外は、カメラも含め、すべて持ち込み禁止となっているので荷物を預ける。目の前に高さ50メートルほどの大絶壁が立ち塞がり、その絶壁に3〜4段にわたって無数の石窟が口を開けている。

 入場口に行くと、「外国人はここではない。向こうの入り口だ」と言われ、100メートルほど離れた入場口に回された。外国人には案内者がつくらしい。ちょうど出発しようとしていた日本語案内者のグループに入れられた。同行者は蘇州在住だという二人の子供を連れた中年の夫婦、及び北京在住という若い夫婦。案内者は50代の女性、張先生と言って有名な案内人らしい。久しぶりに日本語が話せる。ともかく8人で出発するが、各窟とも見学者で大混乱、順番待ちである。こんな混雑は例がないと案内者は言っている。

 最初に案内されたのは第96窟、莫高窟のシンボルとなっている9層楼の建つ石窟である。中に、高さ34.5メートルの大仏(通称、北大仏)が鎮座する。至近距離から見上げることになるので、顔を真上に向けなければならず首が痛い。初唐に開削された窟である。続いて、第130窟、こちらも高さ29メートルの大仏(通称、南大仏)が鎮座する。飛天の壁画が素晴らしい。更に第148窟、第61窟、第55窟、第29窟、第25窟、第16窟と回る。いずれも壁画の美しい由緒ある窟であるが、何しろ人波をかき分けての見学であり、落ち着いて見ていられない。最後が第17窟、あの大量の古文書が隠されていた窟である。第16窟に付属した小さな窟を興味深く眺める。

 以上で石窟の案内は終わりだという。後は勝手に自由に見学できるのかと思ったら、案内者は「こちらにどうぞ」と先頭に立って歩き始めた。連れていかれたところは敦煌文物研究所の売店、壁画の模写や写真集が並んでいる。欲しいが、高価だし、荷物になる。皆と別れる。土産物屋で、記念にTシャツを買おうとしたら1枚100元(約1,500円)とのたまう。あきれ返って去ろうとしたら、どんどん値が下がって40元(約600円)となった。これでも、通常の2倍の価格であろう。車に戻る。

 街で夕食を食べ、宿に帰ったら部屋のキーを開閉するカードがない。ズボンのポケットに入れておいたのだが、どこかで落としてしまったようだ。預けてあるデポジット(押金)50元が没収だという。しかたないか。

 
 第9節 敦煌の歴史

 敦煌は河西回廊最西端のオアシスの街である。古来、西域への窓口となる街として重要視された。この地方の歴史上確認できる最古の住民は月氏である。紀元前2世紀前半、冒頓単于率いる匈奴が月氏を討ってこの地を占領する。破れた月氏は西に敗走し、アム・ダリヤ河の北に大月氏国を建てた。この地が漢族の版図に入るのは前1世紀、漢の武帝の時代である。衛青、霍去病の活躍により河西回廊を匈奴から奪い、武威、張掖、酒泉、敦煌の河西4郡を置いた。

 以降約400年間は後漢→魏→晋の中国中央政権の版図の中にあった。しかし、4世紀初めに始まる五胡十六国時代になると敦煌の支配権は目まぐるしく変わる。前涼→前秦→後涼→西涼→北涼→北魏と推移する。439年の北魏による中国北部統一により五胡十六時代は終わりひとまずの安定を見るが、その安定もわずか100年に過ぎなかった。以降、支配者は北魏→西魏→北周→随→唐と変わる。618年の唐による中国統一により河西回廊にも平和が訪れる。長安は世界最大の国際都市となり、シルクロードはその絶頂期を向える。ただし、敦煌←→楼蘭ルートの荒廃により、敦煌はシルクロードのメインルートから外れていく。

 しかし、唐の力が衰えだすと、辺境の地はいち早く変化が現れる。吐蕃が764年には武威を、781年には敦煌を占領する。70年後に漢族の豪族・張氏が吐蕃を追いだし、続いて曹氏が支配権を握るが、1036年、北に起こったタングート族の西夏が、河西回廊一体を征服する。その西夏王国も1227年に蒙古族の元により滅ぼされ、ユーラシア大陸の大半が蒙古の支配下に入る。この頃、マルコ・ポーロが敦煌を通り元の都・上都に到った。

 1368年、明が元を北方に追放して中国を統一する。しかし、明は敦煌を見捨てて住民を酒泉に移し、酒泉の西に嘉峪関を築城して西の境と定めた。このため、敦煌はトルファンを本拠地とするイスラム勢力の支配する場所となった。再び中国の中央政権が敦煌の支配権を取り戻すのは1715年、清の康煕帝の時代である。以降その支配権は、中華民国、中華人民共和国と引き継がれた。
 

 第10節  敦煌市内散歩

 10月3日。今日は1日敦煌市内を歩き回るつもりでいる。先ずは中心部から2キロほど西に位置する白馬塔に行ってみることにする。現在の敦煌の街は清代の1725年に新たに造られた街である。唐の時代の街は明の時代に見捨てられ、廃虚と化したと思われる。この白馬塔はその廃虚と化した昔の敦煌の街の唯一と言ってよい生き残りである。タクシーを拾う。ところがメーターを倒さない。危ない。慌ててメーターを倒させる。料金は8元であった。早朝のためか、料金所には誰もいない。大声を上げると、男が慌てて飛びだしてきて、門のカギを開けた。入場料は15元(約225円)、こんな所でも入場料を取る。境内に入る。高さ12メートルの白い小型の仏塔がひっそりと建っている。ただそれだけである。この仏塔は鳩摩羅什がこの地で死んだ愛馬の供養のために建てたものである。次ぎの様な伝説が残っている。

  「鳩摩羅什は長安に仏教を伝えるために、一匹の白馬に乗って、タクラマカン砂漠を横切り、はるばる敦煌までやって来た。所が、ここで愛馬が病に倒れた。鳩摩羅什は一生懸命看病したが、ある夜。白馬が夢枕に現れた。『実は私は西海の白竜です。仏教を伝えようとする貴方を助け、道なき道を案内してここまでお供しました。既に陽関を越え、この先は宿場もあり、道も確りしています。ここでお別れします』そう言い残すと、白馬は光に包まれて西の空に消えていった。鳩摩羅什は驚き、馬屋に飛んで行くと、白馬は既に息絶えていた」。仏教の聖地・敦煌らしい説話である。

 街の中心まで歩いて戻ることにする。付近は綿畑が広がっている。収穫した綿の小型トラックへの積込み作業も見られる。いかにもシルクロード的風景である。15分も歩くと、沙州故城遺跡が現れた。わずかに残る、唐代の敦煌城の痕跡である。数メートルの土塀と、高さ5メートルほどの土の塊が、何ら保護されることなく、道端に放置されている。土の塊の上によじ登ってみると、鳴沙山の砂丘が見えた。

 更に、党河を渡る。敦煌の街の西を流れる大きな川だが、地図を見ると、その末端は内モンゴルのゴビ砂漠の中に消え去っている。小さな商店が軒を並べる商業歩行街を抜け、街の中心部を通り過ぎて、西端にある敦煌市博物館に行く。入場は無料であった。小さな博物館だが見ごたえがあった。玉門関遺跡から出土したという草鞋があったのにはびっくりした。乾燥地帯ゆえ、こんなものも残っているらしい。

 博物館の前に「敦煌市夜光杯廠」がある。夜光杯の製造と直売を行っている。いよいよこの旅最後の課題を果たさなければならない。「夜光杯を買って帰ること」である。唐の詩人・王翰が涼州詞の中で歌った「葡萄美酒夜光杯ーーー」の夜光杯である。祁連山で取れる特殊な岩石を磨いて作るらしい。微かに緑色を帯びた黒色で、薄く磨き出して光に当てると透けて見えることから夜光杯と呼ばれた。二個で350元の言い値を1個150元に値切って購入した。この杯で飲む葡萄酒の味はいかなるものであろう。これで、この旅のすべての課題を全うした。沙州市場で昼食を食べて帰る。

 10月4日。今日は何もやることがない。昨夜、強風が吹き、一時的には雨も降った。今日は風が少々強いながらも晴れ渡っている。しかし、外にでてみると、街全体が霞み、まるで靄がかかったようである。舞い上がった砂塵が視界を妨げているのだろう。やはり砂漠の中の街である。馬莎のいる喫茶店に行く。相変わらず、寄って来て離れない。日本に留学したいが10万元(約150万円)かかるという。反日感情の強い中国だが、日本に憧れる若者もいる。名残惜しいがこれでお別れである。あてもなく敦煌の街を歩き回る。明日は北京に戻る。
 
  

          (北京、河西回廊5に続く)

 

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