おじさんバックパッカーの一人旅   

北京と河西回廊の旅(5)  北京(その二) 

 中国千年の都を堪能

2008年10月5日

    〜10月11日

 
第10章 再び北京へ

 第1節 敦煌から北京へ

 10月5日。今日はいよいよ北京に戻る。既に11時40分発CA1288便のチケットを取得ずみである。9時過ぎチェックアウト。と言っても、まともなフロントもない。責任者らしい女性が「貴方はキーカードを紛失したからデポジットの50元(約750円)は没収です。よろしいですね」と言うようなことを書き示す。覚悟の上だが、悔しいので泣くまねをしたら、しばらく考えて、50元を返してくれた。感謝感激である。中国にもたまには融通の利く人間がいる。天気は快晴である。

 タクシーを捕まえ、空港を指示する。所が運転手はメーターを倒さない。催促すると、「40元」と言う。冗談ではない、とんだ悪徳タクシーである。走り出したにもかかわらず、ドアを開けて強引に降りる。新たに捕まえたタクシーの運転手は気の弱そうな若い男であった。「飛機場」と書き示すが、どうやら字が読めないらしく、通りかかった人に読んでもらっている。今度はメーターを倒していざ出発。20分程で、メーター料金21元、高速道路代5元で到着。30元渡すと「謝々」と喜んだ。

 空港は真新しく、地方空港としてはなかなか立派である。場内放送に日本語が入るのには驚いた。ただし、私以外には日本人はいそうもない。コーヒーを飲もうを思ったら一杯50元(約750円)、凄まじいぼったくりだ。馬莎の喫茶店では10元(約150円)であった。飛行場は広々としていて、滑走路の向こうにはゴビ、更にその奥には鳴沙山から続く砂山が見える。ただし、飛行機の姿は1機も見られない。11時頃飛行機が到着して多くの乗客が降りてきた。折り返し便になる様子である。

 11時40分定刻に離陸した。満席である。数人の欧米人が乗りあわせている。CAすなわち、中国国際航空は相変わらず接客はなっていない。共産主義の悪癖がこんな所に残っている。窓の外に、雪をいただいた祁連山脈が見えた。約2時間半の飛行で無事北京国際空港着。何と、外は雨が降っている。荷物が出てこず、1時間近く待たされる。地下鉄で市内に向うつもりなのだが、案内板もなくさっぱり分からず、うろうろする。ここ第三ターミナルは初めてである。なんと、地下鉄は3階から出ていた。

 地下鉄を乗り継ぎ、前回同様「北京の家」へ行く。昨日。敦煌から電話を入れておいた。途中、お土産に市場で大きな西瓜を買っていく。20元と安い。あとで、皆で食べたが実に甘かった。若夫婦が暖かく向えてくれた。昨日、「あのおじさん、敦煌まで行くと言って出ていったが、果たして今ごろどこにいるのかねぇ」と噂話をしているところに私からの電話があったとのこと、大笑いとなった。私以外に30歳の日本人の女性が一人泊まっているとのことであったが、女性は部屋から一歩も出て来ない。
 

 第2節 頤和園

 10月6日。日本への帰国便は11日、まだ5日間の余裕がある。北京とその周辺を心置きなく見学しまくるつもりである。北京市内には世界遺産が3カ所ある。故宮(紫禁城)、天壇、そして頤和園である。前2カ所は既に訪れた。今日は頤和園に行く。

 頤和園と言うと反射的に西太后の名前が出てくる。彼女はここを隠居所と定め、莫大な資金を注ぎ込んで再建整備した。その資金は海軍の予算数年分を横流したもので、故に日清戦争で軍備不足のため日本に負けたとの説が信じられている。真偽のほどは知らないが、西太后によって清朝の滅亡が速められたことだけは事実である。中国には時折桁違いの悪女が現れるが、西太后もその一人であることは確かである。

 頤和園は万寿山と呼ばれる小高い丘とその前面に広がる昆明湖からなる広大な宮廷庭園である。周囲8キロ、総面積は290万平米にも及ぶ。1998年には世界遺産に登録された。この庭園を造成したのは清の乾隆帝である。元々この地は好山園と呼ばれる風光明媚な地であったが、乾隆帝は清キ園と改称し、1750年頃より自分好みの江南風宮廷庭園に仕上げていった。また、甕山と呼ばれていた山を万寿山、西湖と呼ばれていた湖水を昆明湖と改称した。

 1860年、第二次阿片戦争の際に英仏連合軍がこの清キ園に乱入し、焼き払った。清朝末期における英仏の悪行は日中戦争における旧日本軍のそれに比べ、勝るとも劣らないと思うが、中国の非難は日本にばかり向けられる。多分に政治的なのであろう。この荒廃した清キ園を西太后が自分の隠居所と定め、名称も頤和園と改め、1888年以降莫大な資金をつぎ込んで再建整備した。

 朝起きたら9時近かった。抜けるような青空が広がっている。「北京秋天」とはこの様な天気を言うのであろう。9時30分スタート、地下鉄2号線、13号線と乗り継いで「五道口」駅で降りる。案内書には、ここから331路または732支路バスに乗れと記載されている。駅近くのバス停に行ってみたが指定のバスはない。バス停が違うようだ。ただし、やってきたバスに聞くと頤和園に行くというので乗り込む。バスは精華大学、北京大学の前を通り西へ進むが意外に遠い。15分ほどで、車掌が「ここで降りろ。入り口は向こうだ」と教えてくれた。

 大通りを横切り、指された方へ行ってみると、そこは頤和園の北宮門であった。いわば裏口である。どうせなら表門の東宮門から入場したかったのだがーーー。入場料は60元(約900円)、老人割引はなかった。北から南に進むため、ちょうど逆光となって写真が撮りにくい。すぐに川のように細長い後湖に行き当たる。その両岸には蘇州の街並みを模した「蘇州街」がある。小さなお店が川岸に並ぶ。蘇州に憧れた乾隆帝はこんなミニ商店街を作り、自ら買い物遊びを楽しんだという。幼児趣味丸出しであるがーーー。

 万寿山へ向っての急な登りとなる。斜面に沿って各種殿閣が折り重なるように建ち並び、案内図と見比べてもどれがどれだかさっぱり分からない。石段を上に上にと辿ると、知恵海の建つ山頂に達した。目の前に、頤和園の象徴・仏香閣が現れた。八角三層、高さ36.5メートルの仏塔である。乾隆帝が杭州の六和塔を模して建てたものだが、1860年に消失し、西太后が再建したものである。この塔の地下には元の初代皇帝フビライの皇后の墓があると伝えられている。北京はさすが中国千年の都、フビライから西太后まで物語が綿々と続く。

 目の前に展望が大きく開け、眼下に昆明湖の広がりが現れた。絵になる光景である。同時に、観光客が群衆となって現れた。大多数が中国人のツアー客である。旗を持ったガイドのもと、大小のグループが続く。下りきると排雲殿に達する。ここが、頤和園発祥の地である。乾隆帝がここに大報恩延寿寺を建立したのが清キ園の始まりである。その荒廃した寺の跡地に西太后が現在の排雲殿を建てたのである。回廊を配した瑠璃瓦の宮殿は頤和園建築群の白眉と言われている。

 拝雲門を出ると湖畔に沿って長々と続く長廊に達する。長さが728メートルもある。天井や梁欄に極彩色の絵が描かれている。この廊下をのんびり歩きながら、描かれた絵や目の前に広がる昆明湖の景色を眺めるのが、この離宮の楽しみ方らしい。しかし、長廊は人の渦で、楽しむ余裕などない。長廊を西端まで歩くと湖水に西晏舫と呼ばれる石の船が浮かんでいる。1755年製造で、英仏連合軍に破壊されたが西太后が修復した。時刻は昼時、園内に小さな食堂は幾つかあるのだが、どこも満員。売店でスナック菓子を買って我慢することにする。

 昆明湖を一周しようと、西岸から歩き始める。急に人声が絶え、柳並木の気持ちのよい遊歩道となった。湖の向こうには万寿山を背にした仏香閣が望まれ、絵葉書のような景色である。湖の真ん中を横切る西堤を進む。この昆明湖は杭州の西湖を模しており、西湖の蘇堤を模してこの西堤が造られた。進むに従い万寿山と仏香閣の織りなす景色が微妙に変化していく。西堤も半ばを過ぎたころ、小さな波止場から南湖島に向う小船が出ていた。6元(約90円)とのことで乗ってみる。前後二つの櫓を備えた10人乗りほどの小舟は鏡のような水面を進む。

 南湖島は「十七孔橋」という美しい橋で湖の東岸と繋がっている。長さ150メートルの石橋で欄干には544体の獅子像が据えられている。橋の下に17のアーチがあることからその名がある。橋を渡り、東岸に赴くと、再び雑踏のごとき人波となった。その一角に幾つもの殿閣が建ち並んでいる。仁寿殿は西太后が外国公使や廷臣たちを謁見した場所である。隠居などと言って生活の場を頤和園に移した西太后であるが、実権を手放すことなどあり得なかった。仁寿殿の北にある玉瀾堂は西太后が光緒帝を幽閉した場所、更にその北隣は徳和園である。大舞台があり、お気に入りの俳優を集めては西太后はここで京劇を楽しんだといわれる。折りから舞台では民族楽器による優雅な調べが奏でられていた。

 これで頤和園の見学は終わりである。正門である東宮門を出る。門前には、何と、大きなバスターミナルがあり、各方面に向けバスが頻発している。ここから入場すればスムーズに見学できたのだが。609路のバスで地下鉄の五道口駅に戻る。バスを降りると、「カレーライス、トンカツ」という文字が突然目に飛び込んできた。駅前の大衆食堂である。我慢出来ずに飛び込んで20元(約300円)のカレーライスを腹いっぱい食べた。日本を出て以来初めて食べる日本食である。4時過ぎ宿に戻る。オーナーの若夫婦が庭のたわわになったザクロの実をもぎ、果実酒造りをしている。新年早々には美味しいお酒が出きる由。「その頃またいらっしゃい」と誘われたがーーー。

 
 第3節 明の十三陵

 10月7日。今日は「明の十三陵」に行く。明王朝の皇帝墓群である。2003年には世界遺産に登録されている。明の皇帝は初代の太祖洪武帝朱元璋から第17代皇帝の毅宗崇禎帝まで17代を数えるが、うち13人の皇帝墓がこの墓域に置かれている。初代洪武帝は南京に王都を定めたため、墓も南京にある。2代建文帝は3代成祖永楽帝に帝位を簒奪され、その戦いの中で敗死し、死体も発見されなかったため墓はない。6代英宗正徳帝と8代天順帝は同一人物であり、墓は一つである。7代景泰帝は返り咲いた8代天順帝によって、皇帝ではなかったとされ、皇帝墓は造られなかった。以上の経緯により北京郊外の明皇帝墓は13墓である。

 13墓のうち、現在公開されているのは3墓である。すなわち、1つ目は第3代成祖永楽帝の長陵、13墓のうち最大の陵墓である。2つ目は第14代神宗万暦帝の定陵、唯一発掘されて地下宮殿を見学することができる。3つ目は第13代皇帝穆宗隆慶帝の昭陵である。また、「神路」と呼ばれる陵墓群への参道も是非見学してみたい。

 明の十三陵は北京中心部から北西に約50キロ、天寿山の南麓に広がっている。かなり郊外ではあるが、一応、北京市昌平区である。行き方は、案内書によると「徳勝門から345支路のバスで昌平東関まで行き、314路のバスに乗り換える」とある。うまく行き着けるかどうかーーー。

 7時40分宿を出る。晴れてはいるが、空気がどんよりと濁り、すっきりしない天気である。地下鉄2号線を「積水潭」駅で降りる。地上に上がると、数100メートル先に、そそり立つ徳勝門が見えた。付近の道路端は大規模なバスの発着場になっている。345路及び345快路のバスはすぐに見つかったが、345支路のバスは見当たらない。ただし、掲げられた路線表を確認すると、いずれのバスも「昌平東関」を経由するので問題なさそうである。一応、車掌に「昌平東関」へ行くことを確認して乗り込む。料金は4元(約60円)であった。

 バスはすぐに八達嶺に続く高速道路に乗る。沙河の街でいったん高速道路を降りるが、再び乗って徳勝門から50分程で昌平の街に入った。大きく賑やかな街である。しばらく街中を走り、街東端の「昌平東関」に着いた。ここで、314路のバスに乗り換えることになる。広い道路の十字路で、道端に多くのバス停がある。どこで314路のバスに乗ったらよいのかさっぱり分からない。そもそも、バスがどっちの方向に走るのかさえも分からない。30分程もうろうろした揚げ句、漸くバス停を特定したが、バスはさっぱり来ない。40〜50分に1本のようである。散々待った揚げ句、漸くバスに乗り込んだ。

 困ったことがある。見学対象である「神路」「長陵」「定陵」「昭陵」の四カ所全てを回るつもりでいるが、いずれもかなり離れており、歩いて回れる距離ではない。神路だけでも7キロの長さがある。バスを乗り継ぐつもりでいたが、バスの運行間隔がこれほどあると無理なのではないか。ともかく、先ずは一番手前の「神路」に行こう。ただし、バスの運行経路表を見ると、「神路」というバス停はない。どこで降りたらよいやらーーー。車掌に「神路」と書き示すと「分かった」と言う素振りで、2元(約30円)の運賃を請求された。

 バスは街中を複雑に走った後、郊外に出る。暫く走ると右手に石牌坊(石造の門形伝統建築)が見えた。神路の入り口のはずである。本当はここで降りたいのだがーーー。バスは停まることなく奥へ進んでいく。更に暫く走ると、今度は右手に大紅門が見えた。しかしバスは停まらない。。少々焦る。車掌に眼で合図するが、「まだだ」という素振りである。どうも勝手がわからない。神路はここでバス道路と別れ、左手を平行に続く。

 暫くしてバスは停まり、車掌が「ここで降りろ」という。平行している神路に行くと、碑楼があった。ちょうど神路の真ん中辺りである。料金所があり、30元の入場料を徴収された。どうやらここから先が見学の対象域らしい。碑楼の中には高さ8メートルもある巨大な石碑がある。第4代康煕帝が父三代永楽帝の徳を讚えて建てたもので、文字数は3千字に及ぶとのことである。

 碑楼から奥に向って素晴らしく整備された参道が続く。ここが神路の核心部なのだろう。道の両側に続く柳並木の合間に、点々と石像が並ぶ。獅子、カイチ(想像上の動物)、駱駝、象、麒麟、馬の座像と立像、及び武官、文官、功臣の像が2体づつ。石像を眺めながらのんびりと歩く。人影は薄いが、ツアーでやって来たらしい欧米人の姿が目立つ。1,5キロほど進むと龍鳳門に行き当たり神路はバス道と合流する。

 ここから再びバスに乗って、長陵なり定陵に行くのが本筋なのだろうが、バスで通り過ぎてしまった神路の前半が気になる。無謀にも、歩いて戻ることにする。碑楼まで戻り、更に人影もない神路を1キロも戻ると、先程車窓にちらりと見えた大紅門に達した。真っ赤に塗られた門には3個のアーチ型通路がある。真ん中の通路は皇帝専用であった。かつては、この門の両翼に屏が延び、陵域を囲い込んでいたとのことである。すなわち、この門が陵域の正門である。

 バス道路と合流した神路を更に1キロほどテクテクと歩くと、漸く石牌坊に戻り着いた。幅29メートル、高さ14メートルの漢白玉石製の門形建築物で、現存する石牌坊としては中国最大級である。この石牌坊が神路の正門である。ただし、現在ではまったく見学対象外のようで、バス道路の端に放置されている。しかも、危険とかで周囲を金網で囲われ近づくことも出来ない。いずれにせよ、これで神路に関するすべての遺跡を見終わったことになる。バスで長陵に向うことにする。

 近くのバス停らしき所でバスを待つ。民営のバスと思われる202路と203路のバスは頻繁に来るのだが、314路のバスはまったく来ない。既に時刻は12時過ぎだが、いまだ陵墓にさえ行き着いていない。少々いらいらする。30〜40分も待つと、漸く314路バスがやって来た。所が、何と、何と、停まってくれないのである。どうやら、このバス停は民営バス専用らしい。そういえば、バス停に必ず標示されている路線表もない。なんてことだ! 再びテクテク歩いて大紅門前のバス停に行く。こちらは314路バスの路線表が確り標示されており、バス停に間違いない。またもや30分も待つ。漸く長陵行きの314路のバスがやって来た。

 バスは山懐に向って進み、途中定陵に寄って、15分ほどで終点・長陵に着いた。やれやれである。観光客で賑わう大きな広場の背後に巨大な殿閣が建ち並んでいる。長陵は第三代永楽帝とその皇后・徐氏の陵墓である。明の陵墓は夫婦合葬である。従って十三陵には13人の皇帝と23人の皇后が葬られいている。一方、清の陵墓は夫婦別葬である。こんな所にも、漢族と満州族の民族の違いが現れている。

 永楽帝は、二代皇帝・建文帝を攻め滅ぼし、帝位を簒奪して王都を南京から北京に遷都した皇帝である。いわば、明朝の再創設者とも言える人物である。そもそも、この十三陵は永楽帝の陵墓として造設されたのであり、以降の皇帝が、永楽帝にあやかってその近くに自らの陵墓を定めたことにより成り立った。この際、以降の皇帝は永楽帝を憚り、永楽帝陵(長陵)を越える陵墓を建設しなかったので、長陵は十三陵最大の陵墓である。また、十三陵は明を滅ぼした李自成により焼き打ちに遭ったが、長陵は奇跡的に破壊を免れた。従って、長陵は明の陵墓を知るうえで貴重な存在である。

 45元(約675円)の入場料を払い、瑠璃瓦と真っ赤な壁の陵門を潜る。通路は三つあるが、おそらく真ん中が皇帝専用なのだろう。続いて同じく瑠璃瓦の稷恩門を潜ると、目の前に大きな稷恩殿が立ちはだかる。ここが主殿で祭祀を行った場所である。幅70メートル、奥行き30メートルある。現在、中はミニ博物館になっていて、縁の金銀財宝が展示されている。真ん中には、この陵墓の主・永楽帝のでっぷりとした座像が据えられている。

 稷恩殿のさらに奥に立つ楼閣が明楼である。高さ10メートルほどの石造りの基壇の上に2層の楼閣が立ち、中に石碑が納められている。この楼上に立つと、陵墓全体が見渡せる。明楼の奥にあるこんもりした小山が、奥津城である。松を主とした鬱蒼とした森となっていて、入ることは出来ない。この小山の地下に、壮大な地下宮殿が存在するはずであるが、未だ発掘はされていない。いかなる金銀財宝が眠っているやら。これで長陵の見学は終わりである。

 再び長い待ち時間を経てバスで定陵に行く。地下宮殿の見学できるこの陵墓は一番人気があると見えて、陵墓前広場は見学者で溢れている。もちろん、ほぼ全てが、旗を持ったガイドに率いられたツアー客である。入場料も65元(約975円)と高い。定陵は第14代神宗万暦帝の陵墓である。明朝の皇帝墓はいずれも寿陵である。従って、在位期間が長いほど立派な陵墓が造られる傾向にある。造営に投入される時間と費用が増大するからである。万暦帝の在位期間は48年に及び、明朝歴代皇帝の中で一番長い。しかも、この皇帝は政治には不熱心であったが、墓造りには異常な熱意を示した。従って、陵墓も永楽帝陵(長陵)に次ぐ大きさを誇る。

 しかし、熱心に造った墓も、稷恩殿は1914年に火災で失われ、稷恩門も日中戦争で破壊されてしまった。1956年からこの陵墓の発掘作業が始められ、1958年にはその豪華な地下宮殿が姿を現した。現在、地下宮殿は一般公開されており、埋葬されていた豪華な副葬品は境内の博物館に納められている。

 長陵とまったく同じ造りの陵門を潜ると、石畳の参道の向こうにいきなり明楼が現れる。稷恩門も稷恩殿も既に失われている。明陵の背後に盛り上がった小山・奥津城の地下が地下宮殿である。入り口より階段を下る。意外と深い。深さは27メートルもある。地下5〜6階に相当するだろう。下りきるとアーチ型天井を持つ石造りの大きな部屋が現れる。前殿、中殿、後殿、左殿、右殿の五室である。総面積は1195平米と言うから、我が家の10倍近くある。真っ赤に塗られた棺の納められている後殿は高さ9.5メートル、広さは9メートル×30メートルである。16世紀〜17世紀にかけての時代に、これほどの土木工事が行われたことは驚きである。永楽帝陵(長陵)の地下宮殿はもっと大きいと考えられている。皇帝の権力の巨大さを改めて知る。

 既に時刻は15時であるが、まだ、昭陵が残っている。せっかくここまでやって来たのだから、全てを見学しないと気が済まない。案内書によると「定陵から徒歩約10分」とある。人通りもない道をとぼとぼと歩く。所が、歩けども歩けども昭陵が現れない。道は間違っていないはずだがーーー。30分も歩き続けると小さな集落に入り、漸く人に出会った。聞くと、もうすぐだという。

 集落の外れで、漸く昭陵に行き着いた。何が「徒歩10分だ!」。昭陵は定陵の主・第14代万暦帝の父親である第13代穆宗隆慶帝の陵墓である。この穆宗隆慶帝も息子と同様、余り評判のよい皇帝ではない。30元(約450円)の入場料を払って陵墓に入る。がらんとして見学者の姿はない。見学者のあふれていた定陵とは大違いである。奥に向って陵門、稷恩門、稷恩殿、明楼、奥津城と続く。長陵とまったく同じ造りである。ただし、その規模は明らかに小さい。明の十三陵は皆まったく同じ造りになっており、その規模が違うだけらしい。困難を押してここまでやって来たことに満足して早々に引き上げる。定陵のバス停まで、再び歩く以外はない。

 16時、定陵を出発、昌平の街を目指す。所が、乗っていたバスが何と、街中で接触事故を起した。事故処理でバスは当分動きそうもない。乗客は、諦めて皆バスを降りてしまった。私も、降りてみたものの、ここは一体どこで、北京行きのバスはどこから乗ったらよいのかさっぱり分からない。ちょっと困った。しばし呆然としていたら、何と、この道を345路のバスが走っているではないか。これは大助かり、近くのバス停から乗り込む。宿に帰り着いたら18時を回っていた。無事に返れてホットする。宿のオーナーに今日一日の行動を話したら、「4カ所すべて回る人などいない。2カ所程度回るのが普通ですよ」と言われてしまった。

 
 第4節 居庸関

 10月8日。今日は北京の北西約60キロに位置する居庸関に行く。北京の北方を遮る山並みにぽっかり開いた通路で、古来、北方からの脅威に対する北京防衛の最大の要衝の地である。ここを抜かれたら、もはや北京の防衛は不可能になる。故に、戦国時代の頃よりこの地に要塞が築かれ、その前後左右には長城が張り巡らされた。特に、漢や唐に比べ国力で劣った明は北方からの脅威に著しく神経をとがらせ、長城を補強整備するとともに、この地に難攻不落の要塞を築き上げた。現在、観光客で溢れ返っている八達嶺長城も明代に居庸関の前線防衛ラインとして築かれたものである。

 歴史は、時に大いなる皮肉をもたらす。1644年、李自成率いる農民反乱軍が、こともあろうに、この居庸関を抜いて北京に攻め上るのである。皇帝は自害し、明は滅亡する。もちろん、居庸関は戦わずして落ちたのである。人心は遠に明朝を離れていた。いかなる難攻不落の要塞と言えども、所詮、守るのは人間である。「人は石垣、人は城」なのである。

 朝7時前に起きたのだが、誰も起きてこないので布団の上に寝転がっていたら、不覚にもまた寝てしまった。起きたら9時を過ぎていた。慌てて出発する。抜けるような青空が広がっているが、風が少々強い。居庸関への行き方は、案内書によると、「徳勝門で919路のバス(延慶行き)に乗り居庸関で下車」とある。徳勝門なら昨日行ったところ、勝手がわかっている。地下鉄2号線に乗って、徳勝門のバス発着場に行くと、919路のバスはすぐにわかった。4〜5分おきに頻発している。所が、行き先標示は「南口」、路線表を見ても「居庸関」はない。車掌に聞いても居庸間には行かないという。

 仕方がないので、案内書に載っているもう一つの行き方、「地下鉄13号線で龍澤まで行き、20路バスで居庸関に行く」を採ることにする。ただし、宿の出発が遅かったため、焦りを感じる。地下鉄2号線を西直門で13号線に乗り換え、龍澤で降りる。もうここは市内の北の外れ、駅前には高層住宅が並んでいる。20路のバスはすぐにわかったが、小型の相当なおんぼろバス。しかも、行き先標示は居庸関ではない。本当に、居庸関に行くのだろうか。車掌に確認すると「行く」というので乗り込む。料金はわずか3元(約45円)である。

 居庸関は脇を八達嶺に通じる高速道路が走っており、これを利用すれば北京から1時間もあれば到達できる。しかし、バスは西へ行ったり東に行ったり。小さな集落を結びながら田舎道をのろのろ走る。メイン道路など見向きもしない。窓外に陽坊村、温泉、北京吉利大学などの標示を見るが、一体どこを走っているやらさっぱり分からない。途中、不安になって車掌に確認するも、「座っていろ」とのジェスチャー。それでも、走るほどに北方に山並みが見えてきた。

 初めて大きな街に入った。「南口」との標示が確認できる。919路のバスの行き先標示になっていた「南口」とはここだったのだ。ならば、919路バスでこの街までやって来て、20路バスに乗り換えるのがベストだったのだろう。後で知るのだが、この「南口」は居庸関の南の入り口に発達した古くからの街だとのことである。この街で乗客は皆降りてしまい、私一人が残された。バスは街を抜け、細い道をクネクネと山懐に入って行く。13時30分、何と1時間45分もかかって漸く居庸関に着いた。

 しかし、辿り着いた居庸関は思いのほか素晴らしいところである。狭い谷間のど真ん中に、巨大な城郭が聳え立ち、その両翼から天を駆る飛龍のごとく、長城が左右の山に駆け登っている。観光客の姿は多いが、八達嶺長城のように「列をなして」と言うほどではない。何よりも、土産物屋などの余分な商業施設がないのがいい。50元の入場料は老人割引で25元となった。2元の障害保険料と併せ払って城郭に登る。どっしりとした、さすが難攻不落の要塞である。城郭から眺める景色も素晴らしい。左右の急峻な山に駆け登る長城がまるで絵のように美しい。ここは燕京八景の1つに選ばれた絶景の地でもある。

 長城を歩いて山頂まで行ってみることにする。ただし、今日は未だ朝飯も昼飯も食べていない。体力が持つかどうかーーー。長城内は急な石段になっている。しかも。1段1段の段差が大きい。ゆっくりゆっくり登る。所々にある物見台でひと息つく。老若男女、各々がこの急峻な石段に挑んでいるが、皆ヒーヒー言っている。ただし、この要塞に詰めた兵士は、それこそ毎日、この急な石段を上り下りしたのだろうが。漸く登り上げた山頂からの眺めは絶景である。満足して下る。

 城郭の北側に「雲台」と呼ばれる大きな台座が残っている。元代に建てられた仏塔の跡で、塔は既にない。アーチ型のトンネルの壁に6種類の文字、すなわち、サンスクリット文字、チベット文字、パスパ文字、ウイグル文字、西夏文字、漢字によって経文が書かれているとのことだが、確と確認することは出来なかった。

 15時、再び、20路のバスに乗って北京市内に戻る。帰りがけ、地下鉄を五道口駅で降りて、一昨日見つけたトンカツ屋でトンカツ定食を腹いっぱい食べた。今日初めての食事である。

 
 第5節 盧溝橋と中国人民抗日戦争記念館

 10月9日。さて、今日はどこへ行こうか。「周口店猿人遺跡」へでも行こうかと思っていたら、オーナーが盧溝橋を推薦した。盧溝橋が何たるかはもちろん知っている。歴史教科書に必ず載っている地名である。1937年7月7日にこの地に響いた一発の銃声が、以降8年余も続く日中戦争の嚆矢となった。日中両国にとって忘れることの出来ない不幸な歴史的な場所である。歴史の現場を見ておくのもよさそうである。

 盧溝橋は市内の西南約20キロにある。問題は行き方である。宿のオーナーは「地下鉄1号線の八宝山駅からタクシーで行ったら」というが、公共交通機関と自らの足で行くのが私の流儀である。案内書には「六里橋長距離バスターミナルから309路または339路バスに乗り盧溝新橋下車後徒歩10分」とある。ただし、六里橋長距離バスターミナルまでどうやって行くかが問題である。地図を見ると、バスターミナルは地下鉄1号線公主墳駅から南へ2キロほどに位置する。おそらく、公主墳駅まで行けば六里橋長距離バスターミナルへ行くバスがあるだろう。

 8時30分、宿を出る。地下鉄2号線から1号線に乗り換え、公主墳駅で降りる。ここまでは何も問題ない。地上に上がると大きな交差点があり、各方面に向うバスがウジャウジャ通っている。バス停で各々のバスの経路を確認するが、不思議なことに、六里橋バスターミナルへ行くバスがない。道路標示が「六里橋まで1,7キロ」と標示している。「えい、面倒くさい、歩いちまえ」。大通りをすたこら歩きだす。

 30分程で六里橋に着いた。京石高速公路を跨ぐ高架橋である。そこから7〜8分でバスターミナルに到着した。巨大な、かつ近代的な、素晴らしいターミナルであった。所が、このバスターミナルは他州に向う超長距離バス専用のターミナルで、近距離バスは1系統とて出入りしていない。「ここから309路または339路のバスに乗れ」などという案内書の記載はうそっぱちであった。さて困った。仕方がないので、ターミナルの案内所に行く。幸運なことに、係りの女性は英語が話せた。「六里橋北バス停から661路または662路のバスに乗れ」とのアドバイスをもらってやれやれである。

 先程通り過ぎた六里橋北のバス停まで戻る。661路のバスはすぐにやってきた。高速道路を走り、わずか数分で盧溝橋のバス停に着いた。ここまで来るのに何と苦労したことよ。それでも何とか辿り着いた。バスを降りると、目の前に「抗日戦争記念彫塑園」という大きな公園が広がっていた。「中国人民抗日記念碑」と記された大きな石碑と紅軍の英雄的戦いの様子を現した多数の彫塑が建ち並んでいる。赤いネッカチーフを首に巻いた小学生の団体が幾つも見学に訪れていた。反日教育の一環だろう。公園を抜けると待望の盧溝橋に達した。

 20元の入場料は老人割引で半額になった。目の前に現れた橋は何とも美しい。元代にこの地を訪れたマルコ・ポーロは、東方見聞録の中で、「これほど美しい橋は世界中探しても他にはない」とまで褒め称えている。このため、この橋は「マルコ・ポーロ橋」とも呼ばれる。橋は1192年に造られた。全長260メートル、幅7.5メートルの石橋で、11個のアーチで構成されている。下を流れるのは永定河である。何より素晴らしいのはその欄干である。左右の欄干の頭に無数の獅子の石像が設置されている。その数は501体に及ぶという。しかも、各々の獅子の表情が皆違うのである。獅子を眺めながら橋を往復する。橋は歩行者専用である。

 この地は燕京八景の一つに選ばれた景観の地であり、また月見の名所でもあった。橋の袂には清の乾隆帝の筆による「盧溝暁月」の碑が建てられている。更に、この地は交通の要衝でもあった。すなわち、江南方面に向う北京の唯一の出口であった。旅立つ人はここで見送りを受け、やって来た旅人はここで衣服を改めたという。交通の要衝は軍事の要衝でもある。このため、橋の東側には明代末に建設された宛平城と呼ばれる城壁で囲まれた小さな都城ある。盧溝橋事件の際に日本軍は真っ先にこの都城を占領した。

 城門を潜り、宛平城内に入る。楼閣となって聳える東城門から一本の道が西城門に向け貫き、道の両側には小さな商店が並んでいる。その一角に「中国人民抗日戦争記念館」があった。辺りを威圧するがごときの巨大なたたずまいである。入館を試みる。入場は無料だが、受付からして威圧的である。どうやら、この記念館は人民解放軍の管轄下にあるようだ。軍服の立哨がおり、受付も軍人である。「どこから来た」。英語ではあるが、まるで訊問である。「リーベン(日本)」。中国語で平然と答える。まさに敵地に単独で乗り込む心境である。荷物検査を経て、ともかく入場は許された。

 部屋ごとに豪華な展示がなされている。もちろん、展示の内容は、日本軍が如何に残虐であってか、紅軍が如何に勇敢に戦ったかである。写真や遺品も多いが、絵画や人形を使った再現の多さが目立つ。これらの展示は客観性が薄い。展示者の意図によりどのようにでも描きかつ造りえる。展示場は巨大であるにもかかわらず、他に見学者の姿はない。歴代の共産党幹部や紅軍幹部を褒め讚えた展示が多い。ただし、注意して見ると、林彪等失脚した幹部の名前は出てこない。展示には歴史的客観性よりも政治的意図が強く打ちだされている。一通り見終わり、次ぎのことを強く感じた。「抗日戦争こそ、人民解放軍の正当性を担保する存在なのだ。自らの正当性を必死にこの歴史的過去に求めている。そして、この記念館はその証を訴えるためのプロパガンダーの場所なのだ」。

 抗日戦争記念彫塑園前からバスに乗って帰路に着く。バスの行き先が北京西駅(北京火車西站)であったので終点まで行ってみた。駅のその凄まじいまでの巨大さに度肝を抜かれた。中国の鉄道駅はどこも巨大である。そして、常に人波で溢れ返っている。15時過ぎには宿に帰り着いた。

 
 第6節 北京散歩

 10月10日。今日はいよいよ残された最後の一日である。遠出はせず、土産物でも買いながら北京の街を散歩することにする。朝7時半頃目覚めるも、例によって誰も起きてこない。ぶらりぶらりと朝の散歩に出る。道路は通勤ラッシュで混雑している。北京の道路交通の状況は東京とほとんど変わりがない。数10年前のような自転車の群れはもはやないし、東南アジアのようなオートバイの群れもない。乗用車を主体としたごくごく普通の景色である。強いて言えば、バスの姿が多いことぐらいであろう。車の運転も概しておとなしい。信号もよく守られている。トゥクトゥク、サムロー、ソンテウ、サイカー、バイタクなどという東南アジア、南アジアで一般的な乗り物もない。公共交通機関はバスと地下鉄とタクシーである。タクシーはメーター制で、数も多く信頼性は高い。

 街の景色は東京よりも遥かに優れている。何よりも高層建築がないのがよい。空が大きく広がり気持ちがよい。道は並木道となって、どこも広々とした歩道が備わっている。道の清浄度も高い。タバコの吸い殻などほとんど落ちていない。そもそも、喫煙者の数が非常に少ない。この点、中国の田舎の都市とは多いに異なる。街には清掃人の姿が非常に多く、たとえ吸い殻をぽい捨てしても、あっという間に拾われてしまう。

 ぶらりぶらりと40〜50分も歩くと、北海公園まで来てしまった。北海と呼ばれる湖水を中心とした現存する世界最古の皇室庭園で、北京市民の憩いの地である。市民には無料で開放されているようなので、知らん顔をして入ろうとしたら、呼び止められてしまった。外国人は入場料が必要である。諦めて、トロリーバスに乗って宿に帰る。若者がすぐに席を譲ってくれた。

 9時過ぎ、地下鉄に乗って改めて街に出る。地下鉄1号線を王府井駅で降り、北京の銀座・王府井の街をぶらつく。早朝にもかかわらず、街は多いに賑わっている。広々とした通りは歩行者天国なので気持ちがよい。お土産を少々買込み、民族街の露店で飾りを買おうとしたら65元(約975円)と宣う。ふざけるなと思い、去ろうとしたら10元(約150円)になった。ずいぶん吹っかけてきたものである。

 午後からはやることもないので、宿の近くの「歴代帝王廟」に行ってみる。境内も広く、殿閣もなかなか立派である。1530年、明の嘉靖帝により建造された。伝説の帝王・三皇五帝から始まり、歴代王朝の皇帝188名の位牌が祀られている。ただし、金や元の皇帝は列せられているが、西夏や南詔国、大理国などは無視されている。どういう基準で「中国の歴代皇帝」を定義づけたのかーーー。面白いのは、皇帝でもない関羽が独立した廟で祀られていることである。

 夕方、近くの「官園市場」に行ってみる。ペットの市場である。一帯の胡同(路地)に小さなペット屋が軒を並べている。犬、猫、兎、金魚、鳥、コオロギなどとともに豚まで売られているのには驚いた。道端に人だかりがしている。覗いてみると闘蟋(コオロギの闘争)が行われている。大声が飛び交い賑やかである。ぶらぶらと胡同を歩く。胡同歩きは北京の楽しみ方の一つである。まぁ、東京の下町歩きのようなものである。ここは庶民の生活が色濃く息づいている。道端では、あちこちで野菜が売られている。地べたに並べただけの超簡易露店である。リヤカーや自転車で物売りが鐘を鳴らしたりラッパを吹いたり、大声で叫んだりして通り過ぎていく。子供たちが缶からを蹴って遊んでいる。おばさん達は井戸端会議に余念がない。老人たちは、中国将棋に熱中している。歩き回るほどに私も「北京酔い」に罹ってきた。「北京酔い」、いい言葉である。明日はいよいよ日本に帰る。
                                                       (完)

 

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