おじさんバックパッカーの一人旅
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2008年10月5日~10月11日 |
第10章 再び北京へ
第1節 敦煌から北京へ 10月5日。今日はいよいよ北京に戻る。既に11時40分発CA1288便のチケットを取得ずみである。9時過ぎチェックアウト。と言っても、まともなフロントもない。責任者らしい女性が「貴方はキーカードを紛失したからデポジットの50元(約750円)は没収です。よろしいですね」と言うようなことを書き示す。覚悟の上だが、悔しいので泣くまねをしたら、しばらく考えて、50元を返してくれた。感謝感激である。中国にもたまには融通の利く人間がいる。天気は快晴である。 タクシーを捕まえ、空港を指示する。所が運転手はメーターを倒さない。催促すると、「40元」と言う。冗談ではない、とんだ悪徳タクシーである。走り出したにもかかわらず、ドアを開けて強引に降りる。新たに捕まえたタクシーの運転手は気の弱そうな若い男であった。「飛機場」と書き示すが、どうやら字が読めないらしく、通りかかった人に読んでもらっている。今度はメーターを倒していざ出発。20分程で、メーター料金21元、高速道路代5元で到着。30元渡すと「謝々」と喜んだ。
11時40分定刻に離陸した。満席である。数人の欧米人が乗りあわせている。CAすなわち、中国国際航空は相変わらず接客はなっていない。共産主義の悪癖がこんな所に残っている。窓の外に、雪をいただいた祁連山脈が見えた。約2時間半の飛行で無事北京国際空港着。何と、外は雨が降っている。荷物が出てこず、1時間近く待たされる。地下鉄で市内に向うつもりなのだが、案内板もなくさっぱり分からず、うろうろする。ここ第三ターミナルは初めてである。なんと、地下鉄は3階から出ていた。 地下鉄を乗り継ぎ、前回同様「北京の家」へ行く。昨日。敦煌から電話を入れておいた。途中、お土産に市場で大きな西瓜を買っていく。20元と安い。あとで、皆で食べたが実に甘かった。若夫婦が暖かく向えてくれた。昨日、「あのおじさん、敦煌まで行くと言って出ていったが、果たして今ごろどこにいるのかねぇ」と噂話をしているところに私からの電話があったとのこと、大笑いとなった。私以外に30歳の日本人の女性が一人泊まっているとのことであったが、女性は部屋から一歩も出て来ない。
第2節 頤和園 10月6日。日本への帰国便は11日、まだ5日間の余裕がある。北京とその周辺を心置きなく見学しまくるつもりである。北京市内には世界遺産が3カ所ある。故宮(紫禁城)、天壇、そして頤和園である。前2カ所は既に訪れた。今日は頤和園に行く。 頤和園と言うと反射的に西太后の名前が出てくる。彼女はここを隠居所と定め、莫大な資金を注ぎ込んで再建整備した。その資金は海軍の予算数年分を横流したもので、故に日清戦争で軍備不足のため日本に負けたとの説が信じられている。真偽のほどは知らないが、西太后によって清朝の滅亡が速められたことだけは事実である。中国には時折桁違いの悪女が現れるが、西太后もその一人であることは確かである。 頤和園は万寿山と呼ばれる小高い丘とその前面に広がる昆明湖からなる広大な宮廷庭園である。周囲8キロ、総面積は290万平米にも及ぶ。1998年には世界遺産に登録された。この庭園を造成したのは清の乾隆帝である。元々この地は好山園と呼ばれる風光明媚な地であったが、乾隆帝は清キ園と改称し、1750年頃より自分好みの江南風宮廷庭園に仕上げていった。また、甕山と呼ばれていた山を万寿山、西湖と呼ばれていた湖水を昆明湖と改称した。 1860年、第二次阿片戦争の際に英仏連合軍がこの清キ園に乱入し、焼き払った。清朝末期における英仏の悪行は日中戦争における旧日本軍のそれに比べ、勝るとも劣らないと思うが、中国の非難は日本にばかり向けられる。多分に政治的なのであろう。この荒廃した清キ園を西太后が自分の隠居所と定め、名称も頤和園と改め、1888年以降莫大な資金をつぎ込んで再建整備した。 朝起きたら9時近かった。抜けるような青空が広がっている。「北京秋天」とはこの様な天気を言うのであろう。9時30分スタート、地下鉄2号線、13号線と乗り継いで「五道口」駅で降りる。案内書には、ここから331路または732支路バスに乗れと記載されている。駅近くのバス停に行ってみたが指定のバスはない。バス停が違うようだ。ただし、やってきたバスに聞くと頤和園に行くというので乗り込む。バスは精華大学、北京大学の前を通り西へ進むが意外に遠い。15分ほどで、車掌が「ここで降りろ。入り口は向こうだ」と教えてくれた。
これで頤和園の見学は終わりである。正門である東宮門を出る。門前には、何と、大きなバスターミナルがあり、各方面に向けバスが頻発している。ここから入場すればスムーズに見学できたのだが。609路のバスで地下鉄の五道口駅に戻る。バスを降りると、「カレーライス、トンカツ」という文字が突然目に飛び込んできた。駅前の大衆食堂である。我慢出来ずに飛び込んで20元(約300円)のカレーライスを腹いっぱい食べた。日本を出て以来初めて食べる日本食である。4時過ぎ宿に戻る。オーナーの若夫婦が庭のたわわになったザクロの実をもぎ、果実酒造りをしている。新年早々には美味しいお酒が出きる由。「その頃またいらっしゃい」と誘われたがーーー。
10月7日。今日は「明の十三陵」に行く。明王朝の皇帝墓群である。2003年には世界遺産に登録されている。明の皇帝は初代の太祖洪武帝朱元璋から第17代皇帝の毅宗崇禎帝まで17代を数えるが、うち13人の皇帝墓がこの墓域に置かれている。初代洪武帝は南京に王都を定めたため、墓も南京にある。2代建文帝は3代成祖永楽帝に帝位を簒奪され、その戦いの中で敗死し、死体も発見されなかったため墓はない。6代英宗正徳帝と8代天順帝は同一人物であり、墓は一つである。7代景泰帝は返り咲いた8代天順帝によって、皇帝ではなかったとされ、皇帝墓は造られなかった。以上の経緯により北京郊外の明皇帝墓は13墓である。 13墓のうち、現在公開されているのは3墓である。すなわち、1つ目は第3代成祖永楽帝の長陵、13墓のうち最大の陵墓である。2つ目は第14代神宗万暦帝の定陵、唯一発掘されて地下宮殿を見学することができる。3つ目は第13代皇帝穆宗隆慶帝の昭陵である。また、「神路」と呼ばれる陵墓群への参道も是非見学してみたい。 明の十三陵は北京中心部から北西に約50キロ、天寿山の南麓に広がっている。かなり郊外ではあるが、一応、北京市昌平区である。行き方は、案内書によると「徳勝門から345支路のバスで昌平東関まで行き、314路のバスに乗り換える」とある。うまく行き着けるかどうかーーー。 7時40分宿を出る。晴れてはいるが、空気がどんよりと濁り、すっきりしない天気である。地下鉄2号線を「積水潭」駅で降りる。地上に上がると、数100メートル先に、そそり立つ徳勝門が見えた。付近の道路端は大規模なバスの発着場になっている。345路及び345快路のバスはすぐに見つかったが、345支路のバスは見当たらない。ただし、掲げられた路線表を確認すると、いずれのバスも「昌平東関」を経由するので問題なさそうである。一応、車掌に「昌平東関」へ行くことを確認して乗り込む。料金は4元(約60円)であった。 バスはすぐに八達嶺に続く高速道路に乗る。沙河の街でいったん高速道路を降りるが、再び乗って徳勝門から50分程で昌平の街に入った。大きく賑やかな街である。しばらく街中を走り、街東端の「昌平東関」に着いた。ここで、314路のバスに乗り換えることになる。広い道路の十字路で、道端に多くのバス停がある。どこで314路のバスに乗ったらよいのかさっぱり分からない。そもそも、バスがどっちの方向に走るのかさえも分からない。30分程もうろうろした揚げ句、漸くバス停を特定したが、バスはさっぱり来ない。40~50分に1本のようである。散々待った揚げ句、漸くバスに乗り込んだ。 困ったことがある。見学対象である「神路」「長陵」「定陵」「昭陵」の四カ所全てを回るつもりでいるが、いずれもかなり離れており、歩いて回れる距離ではない。神路だけでも7キロの長さがある。バスを乗り継ぐつもりでいたが、バスの運行間隔がこれほどあると無理なのではないか。ともかく、先ずは一番手前の「神路」に行こう。ただし、バスの運行経路表を見ると、「神路」というバス停はない。どこで降りたらよいやらーーー。車掌に「神路」と書き示すと「分かった」と言う素振りで、2元(約30円)の運賃を請求された。 バスは街中を複雑に走った後、郊外に出る。暫く走ると右手に石牌坊(石造の門形伝統建築)が見えた。神路の入り口のはずである。本当はここで降りたいのだがーーー。バスは停まることなく奥へ進んでいく。更に暫く走ると、今度は右手に大紅門が見えた。しかしバスは停まらない。。少々焦る。車掌に眼で合図するが、「まだだ」という素振りである。どうも勝手がわからない。神路はここでバス道路と別れ、左手を平行に続く。
近くのバス停らしき所でバスを待つ。民営のバスと思われる202路と203路のバスは頻繁に来るのだが、314路のバスはまったく来ない。既に時刻は12時過ぎだが、いまだ陵墓にさえ行き着いていない。少々いらいらする。30~40分も待つと、漸く314路バスがやって来た。所が、何と、何と、停まってくれないのである。どうやら、このバス停は民営バス専用らしい。そういえば、バス停に必ず標示されている路線表もない。なんてことだ! 再びテクテク歩いて大紅門前のバス停に行く。こちらは314路バスの路線表が確り標示されており、バス停に間違いない。またもや30分も待つ。漸く長陵行きの314路のバスがやって来た。 バスは山懐に向って進み、途中定陵に寄って、15分ほどで終点・長陵に着いた。やれやれである。観光客で賑わう大きな広場の背後に巨大な殿閣が建ち並んでいる。長陵は第三代永楽帝とその皇后・徐氏の陵墓である。明の陵墓は夫婦合葬である。従って十三陵には13人の皇帝と23人の皇后が葬られいている。一方、清の陵墓は夫婦別葬である。こんな所にも、漢族と満州族の民族の違いが現れている。 永楽帝は、二代皇帝・建文帝を攻め滅ぼし、帝位を簒奪して王都を南京から北京に遷都した皇帝である。いわば、明朝の再創設者とも言える人物である。そもそも、この十三陵は永楽帝の陵墓として造設されたのであり、以降の皇帝が、永楽帝にあやかってその近くに自らの陵墓を定めたことにより成り立った。この際、以降の皇帝は永楽帝を憚り、永楽帝陵(長陵)を越える陵墓を建設しなかったので、長陵は十三陵最大の陵墓である。また、十三陵は明を滅ぼした李自成により焼き打ちに遭ったが、長陵は奇跡的に破壊を免れた。従って、長陵は明の陵墓を知るうえで貴重な存在である。 45元(約675円)の入場料を払い、瑠璃瓦と真っ赤な壁の陵門を潜る。通路は三つあるが、おそらく真ん中が皇帝専用なのだろう。
再び長い待ち時間を経てバスで定陵に行く。地下宮殿の見学できるこの陵墓は一番人気があると見えて、陵墓前広場は見学者で溢れている。もちろん、ほぼ全てが、旗を持ったガイドに率いられたツアー客である。入場料も65元(約975円)と高い。定陵は第14代神宗万暦帝の陵墓である。明朝の皇帝墓はいずれも寿陵である。従って、在位期間が長いほど立派な陵墓が造られる傾向にある。造営に投入される時間と費用が増大するからである。万暦帝の在位期間は48年に及び、明朝歴代皇帝の中で一番長い。しかも、この皇帝は政治には不熱心であったが、墓造りには異常な熱意を示した。従って、陵墓も永楽帝陵(長陵)に次ぐ大きさを誇る。 しかし、熱心に造った墓も、稷恩殿は1914年に火災で失われ、稷恩門も日中戦争で破壊されてしまった。1956年からこの陵墓の発掘作業が始められ、1958年にはその豪華な地下宮殿が姿を現した。現在、地下宮殿は一般公開されており、埋葬されていた豪華な副葬品は境内の博物館に納められている。
既に時刻は15時であるが、まだ、昭陵が残っている。せっかくここまでやって来たのだから、全てを見学しないと気が済まない。案内書によると「定陵から徒歩約10分」とある。人通りもない道をとぼとぼと歩く。所が、歩けども歩けども昭陵が現れない。道は間違っていないはずだがーーー。30分も歩き続けると小さな集落に入り、漸く人に出会った。聞くと、もうすぐだという。
16時、定陵を出発、昌平の街を目指す。所が、乗っていたバスが何と、街中で接触事故を起した。事故処理でバスは当分動きそうもない。乗客は、諦めて皆バスを降りてしまった。私も、降りてみたものの、ここは一体どこで、北京行きのバスはどこから乗ったらよいのかさっぱり分からない。ちょっと困った。しばし呆然としていたら、何と、この道を345路のバスが走っているではないか。これは大助かり、近くのバス停から乗り込む。宿に帰り着いたら18時を回っていた。無事に返れてホットする。宿のオーナーに今日一日の行動を話したら、「4カ所すべて回る人などいない。2カ所程度回るのが普通ですよ」と言われてしまった。
10月8日。今日は北京の北西約60キロに位置する居庸関に行く。北京の北方を遮る山並みにぽっかり開いた通路で、古来、北方からの脅威に対する北京防衛の最大の要衝の地である。ここを抜かれたら、もはや北京の防衛は不可能になる。故に、戦国時代の頃よりこの地に要塞が築かれ、その前後左右には長城が張り巡らされた。特に、漢や唐に比べ国力で劣った明は北方からの脅威に著しく神経をとがらせ、長城を補強整備するとともに、この地に難攻不落の要塞を築き上げた。現在、観光客で溢れ返っている八達嶺長城も明代に居庸関の前線防衛ラインとして築かれたものである。 歴史は、時に大いなる皮肉をもたらす。1644年、李自成率いる農民反乱軍が、こともあろうに、この居庸関を抜いて北京に攻め上るのである。皇帝は自害し、明は滅亡する。もちろん、居庸関は戦わずして落ちたのである。人心は遠に明朝を離れていた。いかなる難攻不落の要塞と言えども、所詮、守るのは人間である。「人は石垣、人は城」なのである。 朝7時前に起きたのだが、誰も起きてこないので布団の上に寝転がっていたら、不覚にもまた寝てしまった。起きたら9時を過ぎていた。慌てて出発する。抜けるような青空が広がっているが、風が少々強い。居庸関への行き方は、案内書によると、「徳勝門で919路のバス(延慶行き)に乗り居庸関で下車」とある。徳勝門なら昨日行ったところ、勝手がわかっている。地下鉄2号線に乗って、徳勝門のバス発着場に行くと、919路のバスはすぐにわかった。4~5分おきに頻発している。所が、行き先標示は「南口」、路線表を見ても「居庸関」はない。車掌に聞いても居庸間には行かないという。 仕方がないので、案内書に載っているもう一つの行き方、「地下鉄13号線で龍澤まで行き、20路バスで居庸関に行く」を採ることにする。ただし、宿の出発が遅かったため、焦りを感じる。地下鉄2号線を西直門で13号線に乗り換え、龍澤で降りる。もうここは市内の北の外れ、駅前には高層住宅が並んでいる。20路のバスはすぐにわかったが、小型の相当なおんぼろバス。しかも、行き先標示は居庸関ではない。本当に、居庸関に行くのだろうか。車掌に確認すると「行く」というので乗り込む。料金はわずか3元(約45円)である。 居庸関は脇を八達嶺に通じる高速道路が走っており、これを利用すれば北京から1時間もあれば到達できる。しかし、バスは西へ行ったり東に行ったり。小さな集落を結びながら田舎道をのろのろ走る。メイン道路など見向きもしない。窓外に陽坊村、温泉、北京吉利大学などの標示を見るが、一体どこを走っているやらさっぱり分からない。途中、不安になって車掌に確認するも、「座っていろ」とのジェスチャー。それでも、走るほどに北方に山並みが見えてきた。 初めて大きな街に入った。「南口」との標示が確認できる。919路のバスの行き先標示になっていた「南口」とはここだったのだ。ならば、919路バスでこの街までやって来て、20路バスに乗り換えるのがベストだったのだろう。後で知るのだが、この「南口」は居庸関の南の入り口に発達した古くからの街だとのことである。この街で乗客は皆降りてしまい、私一人が残された。バスは街を抜け、細い道をクネクネと山懐に入って行く。13時30分、何と1時間45分もかかって漸く居庸関に着いた。
城郭の北側に「雲台」と呼ばれる大きな台座が残っている。元代に建てられた仏塔の跡で、塔は既にない。アーチ型のトンネルの壁に6種類の文字、すなわち、サンスクリット文字、チベット文字、パスパ文字、ウイグル文字、西夏文字、漢字によって経文が書かれているとのことだが、確と確認することは出来なかった。 15時、再び、20路のバスに乗って北京市内に戻る。帰りがけ、地下鉄を五道口駅で降りて、一昨日見つけたトンカツ屋でトンカツ定食を腹いっぱい食べた。今日初めての食事である。
10月9日。さて、今日はどこへ行こうか。「周口店猿人遺跡」へでも行こうかと思っていたら、オーナーが盧溝橋を推薦した。盧溝橋が何たるかはもちろん知っている。歴史教科書に必ず載っている地名である。1937年7月7日にこの地に響いた一発の銃声が、以降8年余も続く日中戦争の嚆矢となった。日中両国にとって忘れることの出来ない不幸な歴史的な場所である。歴史の現場を見ておくのもよさそうである。 盧溝橋は市内の西南約20キロにある。問題は行き方である。宿のオーナーは「地下鉄1号線の八宝山駅からタクシーで行ったら」というが、公共交通機関と自らの足で行くのが私の流儀である。案内書には「六里橋長距離バスターミナルから309路または339路バスに乗り盧溝新橋下車後徒歩10分」とある。ただし、六里橋長距離バスターミナルまでどうやって行くかが問題である。地図を見ると、バスターミナルは地下鉄1号線公主墳駅から南へ2キロほどに位置する。おそらく、公主墳駅まで行けば六里橋長距離バスターミナルへ行くバスがあるだろう。 8時30分、宿を出る。地下鉄2号線から1号線に乗り換え、公主墳駅で降りる。ここまでは何も問題ない。地上に上がると大きな交差点があり、各方面に向うバスがウジャウジャ通っている。バス停で各々のバスの経路を確認するが、不思議なことに、六里橋バスターミナルへ行くバスがない。道路標示が「六里橋まで1,7キロ」と標示している。「えい、面倒くさい、歩いちまえ」。大通りをすたこら歩きだす。 30分程で六里橋に着いた。京石高速公路を跨ぐ高架橋である。そこから7~8分でバスターミナルに到着した。巨大な、かつ近代的な、素晴らしいターミナルであった。所が、このバスターミナルは他州に向う超長距離バス専用のターミナルで、近距離バスは1系統とて出入りしていない。「ここから309路または339路のバスに乗れ」などという案内書の記載はうそっぱちであった。さて困った。仕方がないので、ターミナルの案内所に行く。幸運なことに、係りの女性は英語が話せた。「六里橋北バス停から661路または662路のバスに乗れ」とのアドバイスをもらってやれやれである。 先程通り過ぎた六里橋北のバス停まで戻る。661路のバスはすぐにやってきた。高速道路を走り、わずか数分で盧溝橋のバス停に着いた。ここまで来るのに何と苦労したことよ。それでも何とか辿り着いた。バスを降りると、目の前に「抗日戦争記念彫塑園」という大きな公園が広がっていた。「中国人民抗日記念碑」と記された大きな石碑と紅軍の英雄的戦いの様子を現した多数の彫塑が建ち並んでいる。赤いネッカチーフを首に巻いた小学生の団体が幾つも見学に訪れていた。反日教育の一環だろう。公園を抜けると待望の盧溝橋に達した。
10月10日。今日はいよいよ残された最後の一日である。遠出はせず、土産物でも買いながら北京の街を散歩することにする。朝7時半頃目覚めるも、例によって誰も起きてこない。ぶらりぶらりと朝の散歩に出る。道路は通勤ラッシュで混雑している。北京の道路交通の状況は東京とほとんど変わりがない。数10年前のような自転車の群れはもはやないし、東南アジアのようなオートバイの群れもない。乗用車を主体としたごくごく普通の景色である。強いて言えば、バスの姿が多いことぐらいであろう。車の運転も概しておとなしい。信号もよく守られている。トゥクトゥク、サムロー、ソンテウ、サイカー、バイタクなどという東南アジア、南アジアで一般的な乗り物もない。公共交通機関はバスと地下鉄とタクシーである。タクシーはメーター制で、数も多く信頼性は高い。 街の景色は東京よりも遥かに優れている。何よりも高層建築がないのがよい。空が大きく広がり気持ちがよい。道は並木道となって、どこも広々とした歩道が備わっている。道の清浄度も高い。タバコの吸い殻などほとんど落ちていない。そもそも、喫煙者の数が非常に少ない。この点、中国の田舎の都市とは多いに異なる。街には清掃人の姿が非常に多く、たとえ吸い殻をぽい捨てしても、あっという間に拾われてしまう。
夕方、近くの「官園市場」に行ってみる。ペットの市場である。一帯の胡同(路地)に小さなペット屋が軒を並べている。犬、猫、兎、金魚、鳥、コオロギなどとともに豚まで売られているのには驚いた。道端に人だかりがしている。覗いてみると闘蟋(コオロギの闘争)が行われている。大声が飛び交い賑やかである。ぶらぶらと胡同を歩く。胡同歩きは北京の楽しみ方の一つである。まぁ、東京の下町歩きのようなものである。ここは庶民の生活が色濃く息づいている。道端では、あちこちで野菜が売られている。地べたに並べただけの超簡易露店である。リヤカーや自転車で物売りが鐘を鳴らしたりラッパを吹いたり、大声で叫んだりして通り過ぎていく。子供たちが缶からを蹴って遊んでいる。おばさん達は井戸端会議に余念がない。老人たちは、中国将棋に熱中している。歩き回るほどに私も「北京酔い」に罹ってきた。「北京酔い」、いい言葉である。明日はいよいよ日本に帰る。
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