中央線沿線の山 茅ヶ岳と金ヶ岳

深田信徒で賑わう深田久弥終焉の山

1998年4月29日

              
 
大明神駐車場(720〜730)→女岩(815〜820)→敷島分岐(845)→深田久弥終焉の地(850)→茅ヶ岳山頂(905〜930)→鞍部(940)→金ヶ岳南峰(1000)→金ヶ岳山頂(1010〜1035)→茅ヶ岳山頂(1120〜1130)→敷島分岐(1150〜1155)→女岩(1215)→大明神駐車場(1255)   

 
 今年は凄まじい暖春である。何しろ4月に北海道で30度を超えてしまうのだから。桜の開花も平年より10日以上早い地域が続出した。駿府公園のツツジもとっくに満開で、毎日初夏の気候が続いている。藪山シーズンも終わってしまったので、長い間懸案となっていた茅ヶ岳に行ってみることにした。

 茅ヶ岳と聞くとすぐに深田久弥が頭に浮かぶ。深田久弥が茅ヶ岳登山中に脳溢血で倒れたのは1971年、すでに27年前である。しかし、世は相変わらず日本百名山ブームが続いている。中高年を中心とした現在の登山ブームを作り出したのは間違いなく深田久弥である。戦後最初の登山ブームは1956年の日本隊によるマナスル登頂で火が点いたが、この時のブームは社会人山岳会を中心としたいわば登山のスペシャリスト集団を活性化させたものであった。それに比べ、深田久弥の「日本百名山」は登山の大衆化をもたらした。何しろ、筑波山までもが百名山に含まれているのだから。筑波山は別としても、例えば雲取山だ。この山なら、健康でさえあれば誰でも登れる。しかも、「百名山」と聞けば一端の登山家になったような気持ちの高揚もある。登ってみれば、その展望といい、原生林といい、すばらしい山だ。普通の人が一気に山好きになってしまう。次にどこに登ればよいかは、「百名山」をカタログがわりにすればよい。こうして登山の大衆化が起こった。私は百名山信徒ではないが、それでも深田百名山は気になる。逆に深田久弥の知らない名山を見つけだしては「どうだ!」とばかり心の中で喜んでいる。

 茅ヶ岳は「偽ヤツ」とも呼ばれるように、八ヶ岳に似た火山特有のゆったりとした裾を引く山である。深田久弥終焉の前から、私にとって気になる山であった。ただし、埼玉からだと日帰りは無理だし、泊まり掛けで行くには半端である。静岡からならば日帰りできる。5時10分、車で出発する。勝手知った国道52号線を北へ向かう。今日みどりの日も暑くなりそうで、ラジオは甲府の予想最高気温を31度と告げている。2時間10分走って大明神開拓地の茅ヶ岳登山口に着く。大きな駐車場が設けられていて、最近のこの山の人気度が知れる。驚いたことに既に20台程の車が駐車しており、支度をしている間にも続々と登山者がやってくる。今日一日山は大賑わいになりそうである。

 深田記念公園に向かう地道の車道を5分ほど歩いて登山道に入る。道端には朱色のクサボケと黄色のヤマブキがいちめんに咲き誇っている。すさまじいほどの群生である。周りはミズナラを中心とした落葉広葉樹の森で、吹き出したばかりの新芽が実に美しい。道幅のゆったりした小道がこの気持ちのよい森の中に続く。時折、シェッという鋭い小鳥の声が森に響く。普通に歩いているつもりであるが、次々と先行パーティを追い抜く。30分ほど歩くと小道は終わり、登山道となる。ただし相変わらず傾斜は緩い。道端には白いニリンソウがいちめんに群れている。

 まっすぐ続いてきた道が岩壁に突き当たる。ここが女岩である。岩壁から水がしたたり落ちており、茅ヶ岳唯一の水場でもある。若者3人パーティと中年の夫婦連れが休んでいた。私も初めての小休止をとる。ここから登山道の状況は一変した。山腹をジグザグを切っての急登となる。私の足取りは相変わらず快調である。急斜面をリズミカルにグイグイ登っていく。夫婦連れが懸命に私に付こうとしたが女性が悲鳴を上げた。はるか上方のパティが見る間に近づいてくる。周りは相変わらず雑木林の森で気持ちがよい。25分の急登であっさりと尾根に出た。尾根に沿って敷島方面への登山道が分岐している。

 そのまま急な尾根を2〜3分登ると深田久弥終焉の地に出た。小さな碑がその場所であることを示している。1971年3月21日、この地点で深田久弥は脳溢血で倒れた。その結果、この茅ヶ岳は深田教信徒の聖地となった。信徒の数は今なお増え続けている。写真を一枚撮ってそのまま登り続ける。岩場もまじえた相当な急登である。周りは灌木に変わる。大岩の上で後ろを振り返ると富士山がどんよりした春霞の中にぽっかりと浮かび上がっていた。道端にかわいらしい春リンドウが咲いている。

 9時5分、あっさりと茅ヶ岳山頂に達した。登山口からなんと1時間半で登ってしまった。標準時間は2時間40分だから相当早い。登りに関してはいまだいささかの衰えもない。山頂は灌木に囲まれた小広い広場で、既に4パーティが休んでいた。実に展望がよい。まずは山座同定である。目の前に残雪に彩られた南アルプスの高嶺がそびえているが、この方面から眺めるのは久しくなかったので、一目で同定できない。頭の中で地図を思い浮かべながら山並みを辿る。一番右のごつい山は甲斐駒である。そこから左に続く尾根は早川尾根。アサヨ峰がいやに立派に見える。再び大きく盛り上がった山は、山頂のオベリスクから地蔵岳と同定できる。となると、その左隣は観音岳のはずである。鳳凰三山の背後からわずかに頭を覗かせているのは北岳と間ノ岳だろう。山並みの一番左奥に、半ば霞みながら白くそびえ立っている山はどこだろう。位置からすると塩見岳と思われるが山容がどうも違う。悪沢岳だろうか。二十万図を持ってこなかったのは大失敗である。西を眺めるとこれから向かう金ヶ岳の左奥に八ヶ岳連峰が山頂付近を斑な残雪に染めてそびえ立っている。案内書によれば、その左肩奥に北アルプス連山が見えるとのことだが、今日は見えない。北を望めば、黒い山並みが続いている。奥秩父連山のはずだが、全く同定できない。西側には富士の孤峰がただ一つ浮かんでいる。写真を撮って、帰ってからゆっくり同定しよう。

 30分近くも山頂に留まってしまった。金ヶ岳へ向け出発する。ほとんどの人がこの茅ヶ岳の頂で満足して下山するようであるが、この山塊の最高峰は金ヶ岳である。ピークハンターを自認する私としては、最高峰を踏まずに下山するわけには行かない。灌木の中の急な登山道を鞍部に下る。目の前に金ヶ岳南峰への急斜面がたち塞がる。岩場をまじえたものすごい急登であるが、登山道は確りしている。途中、岩でできた自然のトンネルを潜る。先行するアベックパーティを抜き、金ヶ岳南峰に達する。ここから観音峠への登山道が下っているが、「危険なので熟達者以外は踏み込まないように」との注意書きがある。少し下って緩く登り返すと金ヶ岳山頂に達した。山頂は狭い平らであるが、南アルプスに向け展望が開けていて、茅ヶ岳と同じ景色が眺められる。西側の八ヶ岳はダケカンバをまじえた自然林の間にちらちら見える程度である。山頂には単独行者が一人だけいたが、休んでいる間に反対側の東大宇宙研究所から二人連れが登って来、途中で追い抜いたアベックもやって来て4パーティとなった。

 山頂に別れを告げてもと来た道を戻る。茅ヶ岳との鞍部に向け岩場の急斜面を下る。登りには気がつかなかったが、眼下に太刀岡山、黒富士、曲岳などの山々が広がっている。この一帯は何万年もの昔、黒富士火山の活動があった。茅ヶ岳は黒富士火山の寄生火山であったと言われている。フウフウ言って茅ヶ岳山頂に登り返してびっくりした。山頂は足の踏み場もないほどの人人人である。50人以上はいる。しかもまだ続々と登ってくる。これほどの人並みの山は真夏の富士山ぐらいしか知らない。茅ヶ岳の人気度はどうやら想像を超えていたようである。下山に移るが、切れ目のない人の列に思うように下れない。登り優先など守っていたら一歩も下れない状況である。驚くやら呆れるやら。女岩まで下るとようやく人の列は切れた。のんびりと野草の花咲く緩やかな小道を下る。それにしても暑い。Tシャツ一枚で歩いているのだが、この気温は初夏どころか盛夏なみである。下り着いた駐車場は100台以上の車でびっしり。大型バスまで2台も止まっている。ナンバープレートを見ると、みな首都圏の車である。茅ヶ岳はやはり聖地であり霊場なのだろう。深田教の信仰のすさまじさを思い知らされた一日であった。