おじさんバックパッカーの一人旅
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2007年11月15日~11月21日 |
第5章 古都・アンコール巡礼
第1節 アンコール・トムとその周辺の遺跡 11月16日(金)。いよいよ今日からシュムリアップ周辺のクメール遺跡を巡る。先ずは足を確保しなければならない。距離的に徒歩や自転車では無理なので、ゲストハウス出入りのバイタクの若者S君と交渉し、1日8ドルでチャーターすることにした。彼は片言の英語と日本語を話す。8時30分スタート、先ず目指すのはアンコール・トムである。並木道となった素晴らしい道路を北上するとチケットチェックポイントがある。遺跡見学にはチケットが必要であり、1日券20ドル、3日券40ドル、7日券60ドルと安からぬ入場料である。おそらくカンボジア最大の国家収入なのだろうし、遺跡の補修等を考えれば致し方ないだろう。7日券を購入する。 道はすぐにアンコール・ワットに突き当たった。環濠の向こうに懐かしい巨大寺院が横たわっている。周囲は既に多くの観光客で賑わっている。しかし、アンコール・ワットは素通りし、先ずはアンコール・トムに向かう。プノン・パケンの麓を抜けるとアンコール・トムの南大門に達した。ナーガの胴体を抱えた神々と阿修羅の像が並ぶ欄干の先に、大きな四面仏の刻まれた楼門が聳える。 アンコール・トムはアンコール王朝中興の英雄ジャヤヴァルマン7世(1181年~1220年頃)が建設した王城である。1辺3キロの方形で城壁と幅113mの環濠で囲まれ、その中心にバイヨン寺院が建つ。1177年、アンコール王朝はベトナム中部の強国・チャンパ王国の奇襲攻撃を受け王城ヤショダラプラは陥落し、王は殺された。新たに王位に就いたジャヤバルマン7世は再度のチャンパ王国の攻撃に備え、かくも堅固な王城を築いたのである。 楼門を潜り、アンコール・トムの城内に入る。目の前にバイヨン寺院が現れた。4年前にも、このバイヨン寺院を訪れたのだが、不思議なことに、帰ってから思い起こしてみると、バイヨン寺院についてのみ記憶がすっぽりと抜け落ちている。どんな建物であったのか、何を見学したのか、思い出せない。決して印象が薄かったからではない。むしろ逆だ。原因はあの四面仏である。196個の薄笑いを浮かべた不気味な面相から降り注ぐ視線が強烈に脳裏に焼き付き、他のすべての記憶を奪い去った。
第一回廊を巡る。半ば崩壊しているがここには見ごたえのある浮き彫りが連なっている。中でもチャンパとの戦いの様子を刻んだ浮き彫りが素晴らしい。「トンレサップ湖での水上戦の図」「クメール軍奮戦の図」は異様な迫力をもって見るものに迫る。ジャヤヴァルマン7世はアンコール・トムを建設して防衛を固め、1190年のチャンパの再度の侵略を退けると反攻に転じる。そして1199年にはチャンパ王国のに攻め込み、王都ビジャヤ(現ベトナム中部のクイニョン付近)を占領し、王を捕虜にするという大勝利を得る。こうして、ジャヤヴァルマン7世の下でアンコール王朝はその繁栄の絶頂期を迎えるのである。しかし、王の死後、王国への脅威は今度は西から急速にやって来た。チャオプラヤ川流域に居住するタイ族がアンコール王朝の支配を脱し、1238年にはタイ族最初の国家スコータイを建国する。さらに、1350年にはアユタヤ王朝が建国される。アンコール王朝は数度にわたるアユタヤ王朝との闘いで次第に領土を蝕まれ、1431年についにとどめを刺されて滅亡するのである。
象のテラスより王宮の塔門をくぐり王宮跡に入る。王宮は東西約600m、南北約300mの周璧に囲まれている。ただし、宮殿は残っていない。「神の家は石造り、人の家は木造り」であったため、アユタヤ朝との闘いで焼失してしまったのである。
さらに200メートルも東に進むとシュムリアップ川に突き当たる。橋が壊れていて通行止めになっていたが、オートバイを押して何とか渡る。この橋はスピアン・トモー(石橋)と呼ばれ、ジャヤヴァルマン7世時代に建造された橋である。すぐにタ・ケウ寺院遺跡に行き当たる。巨大なピラミッド型のヒンズー教寺院である。3層の基壇の上に5基の祠堂がそそり立っている。基礎基壇は122m×106m、建設当時の祠堂の高さは50mを越えていたと言われる巨大寺院である。また、初めて回廊を巡らせたピラミッド型寺院でもある。
タ・ケウの3層の基壇の上に登るのは少々危険を伴う。崩れかけ恐ろしく急な石段をルートファインディングしながら登頂を試みる。小学生中学年ぐらいの絵葉書売りの男の子が手助けしてくれた。基壇の上に座り込み、そそり立つ神殿を見上げながら、この寺院の辿った奇数な運命に思いをはせた。 タ・ケウから南に1キロも進むとタ・プローム寺院遺跡がある。1186年にジャヤヴァルマン7世が母のために建立した仏教寺院である。巨大なスポアン(榕樹)に飲み込まれた遺跡として有名である。この遺跡は4年前に充分観賞したのでパス。さらに東に進むとバンテアイ・クディ寺院遺跡に到着した。12世紀末、ジャヤヴァルマン7世により建立された平地式の巨大仏教寺院である。周璧と環濠で囲まれた寺域は東西700m、南北500mと広大である。元々ヒンズー教寺院であったものを仏教寺院に改修したと考えられている。
2001年、この寺院で発掘調査をしていた石澤良昭教授を団長とする上智大学アンコール国際遺跡調査団は深さ2メートルの地中から計274体もの廃棄された仏像を発見した。仏像はいずれも人為的に首を刎ねられていた。アンコール王朝史を塗り替える大発見であった。教授はこの時の様子を次のように感動的に語っている。 「考古班のカンボジア人研修生達の様子がおかしいので声をかけたら、仏像が出てきたというのです。彼らは1体ずつ合掌して丁寧に竹ベラとハケを使って土を落としていたのです。普段は陽気に作業している彼らですが、このときは言葉も出ない状態でした。私にとっては世の中にこんな偶然があるのかと、ぞくぞくと寒気がするくらいの衝撃でした。さらに、研修生達は畏敬の念を持って丁寧に仏像を取り扱い、彼らの生きた信仰を目の当たりにして私はさらに感動しました。すべての廃仏が出土してから、カンボジア人研修生の発案で、すべての仏さまと発掘にかかわった人々の手を紐で結び、その一端を私の手首に結びました。そして僧侶を呼んで"お迎えの儀式"というのをしました」
「アンコール遺跡はカンボジア民族の誇りと伝統の象徴である。その保存修復はあくまでも現地の人たちの手でなされることが原則である。民族の固有の文化を世界に向かって説明できる人々は誰よりも現地に暮らす人々である。アンコール遺跡の保存修復に関する国際協力とは何と言っても、そこに暮らすカンボジアの人々の自立を助ける人材養成などがその基本でならなければならないと考える」 何とも頼もしい活動である。橋を架けたり、道路を造ったりするばかりが国際貢献ではない。
付近に寺院遺跡はまだまだあるが、余り急いで巡ると、どこがどこだか分からなくなってしまう。今日はこれで終了。15時30分、ゲストハウスに戻る。夕方、ぶらりぶらりと旧マーケットまで行ってみたが、周囲は旅行者相手の飲食店や土産物店、ホテルなどが軒を並べ、この地が東南アジア有数の観光都市であるかとを思い知らされた。
11月17日(土)。今日も一日S君のオートバイをチャーターした。目指すは東バライ周辺の遺跡である。8時30分スタート、昨日見学したバンテアイ・クディの前を通り、スラ・スランの北岸を抜けてしばらく走ると、プレ・ループ寺院遺跡に到着した。巨大なピラミッド型のヒンズー教寺院である。二重の周璧に囲まれ、三層の基壇の上に5基の祠堂が高々と立ち並んでいる。基壇の前にも6基の祠堂が配され、初層基壇の正面のテラスに石組みの槽がある。この槽で死体を荼毘に付したとのことである。
道を西に戻り、東メボン寺院遺跡へ向かう。今進んでいる道はかつての東バライの湖底である。雑然とした薮が広がり、所々に小さな林と貧相な畑が見られる。農耕社会においては王の最大の責務は治水である。米作を社会基盤とするアンコール王国においてもこのことは同じであった。雨期の集中的豪雨は国土を水浸しにし、乾期は飲み水にも窮した。 877年にはインドラヴァルマン1世により巨大貯水池インドラタターカ(3800 m×800m)が建設された。続いて9世紀末にヤショヴァルマン1世(889年~910年頃)が東バライを建設した。このバライ(貯水池)は7,000m×2,000mとさらに巨大であった。11世紀には何人もの王が事業を引き継ぎながら西バライを完成させた。このバライはさらに大きく8,000m×2,000mもある。そしてまた、11世紀末、ジャヤヴァルマン7世もジャヤタターカ(3,500m×900m)を建設した。これらの貯水池により11世紀のアンコール平原は豊かな穀倉地帯となった。米の2期作が可能となり、余剰農産物は王国に限りない冨をもたらした。現在、インドラタターカ、東バライ、及びジャヤタターカは干上がってしまったが、西バライは健在である。
街道を西に進み、小道を少し南に入ると、ニャック・ポアンに到着した。不思議な遺構である。1辺70mの正方形の池があり、その四方に1辺27mの正方形の小池が配されている。大池から小池に水が流れるようになっていて、その吹き出し口には象、獅子、牛、人間の頭部が彫刻されている。水はその口から流れ出るようになっている。大池の中央には円形の基壇を持つ祠堂があり、基壇には2匹のナーガが絡みついている。ニャッ・クポアンとは「絡み合うナーガ」を意味する。基壇の東側には神馬ヴィラーハの彫像がある。
ニャック・ポアンと道を挟んだ反対側の林の中にクオル・コーの小さな寺院遺跡があった。近くなので1人でのこのこ行ってみた。周璧に囲まれた境内に祠堂が一つだけ建つ小さな寺だが、崩壊が激しい。12世紀末にジャヤヴァルマン7世が建立した仏教寺院である。削り取られた仏像が痛々しい。周りに人っの気配もなく、荒れた遺跡に1人いると怖い。早々に立ち去る。 アンコールトムの北側に位置するプリア・カン寺院遺跡を訪れる。1191年、ジャヤヴァルマン7世によって建立された広大な平地式仏教寺院である。1177年、現ベトナム中部にあった強国チャンパ王国はアンコール王国の王都を奇襲攻撃し、王トリブヴァナーディティヤヴァルマン(1165年~1177年)を殺害し王都を占領する。1181年、ジャヤヴァルマン7世が王都奪還の動きを見せると、チャンパ国王ジャヤ・インドラヴァルマン4世は自ら精鋭軍を率いて再び陸路水路から襲来した。迎え撃つジャヤヴァルマン7世軍とトンレサップ湖上及び陸上で激戦が展開された。王宮が最後の決戦の場となった。王宮は焼失し付近は血の海と化した。この闘いにジャヤヴァルマン7世は勝利し、ジャヤ・インドラヴァルマン4世は戦死した。ジャヤヴァルマン7世は即位し、ここにアンコール王国が復活した。この戦いの様子はバイヨン寺院の第一回廊の浮き彫りに詳しく標されている。 この闘いの後、ジャヤヴァルマン7世は再度のチャンパ襲来に備え、堅固な王城アンコール・トムを新たに建設し、そしてまた、戦勝を記念してこの激戦の地にプリア・カン寺院を建立した。その後、力を貯えたアンコール王国は1190年以降チャンパ王国への復讐戦を開始する。そして、1203年にはついにチャンパ王国の王都ビジャヤ(現在のクイニョン付近)を攻略して占領するのである。 プリア・カン寺院の寺域は東西800m、南北700mと実に広大である。この寺院は僧院であると同時に仏教大学であり、僧侶養成機関であった。1,000人以上の僧侶がおり、食料を供給するための特別の荘園村落基で帰属していたという。この寺院には仏像とともにヒンズー教の神々や土地の精霊たちも祀られている。いわば複合的寺院である。ジャヤヴァルマン7世は熱心な大乗仏教徒ではあったが、仏教を国教とすることもなく、また、アンコール王朝に広く浸透していたヒンズー教を排除することもなかった。
第3節 ロリュオス地方の遺跡 11月18日(日)。シュムリアップの街から東に約13キロ、ロリュオス地方はアンコール王朝発祥の地である。インドシナ半島南部が初めて歴史に登場するのは1世紀頃である。この地の南部に扶南国が建国され、東西海上貿易の中継拠点として栄えたらしい。国を担った民族は不明である。6世紀に入ると、現ラオス南部・チャムパサック地方を揺籃の地とするクメール族がメコン川に沿って南下を始める。6世紀末、彼らはバヴァプラ(現コンポン・トムの北約30キロのソンボール・プレイ・クック遺跡と考えられる)を王都して真臘王国を建国する。 真臘王国はイーシャーナヴァルマン1世(615年頃~628年)の時代に扶南国をも併合し、カンボジア全土を統一する。ここに、カンボジアにおける最初の統一王朝が出現した。王国は一時乱れるが、アンコール地方を拠点とするジャヤヴァルマン1世(657年頃~681年)が再び国内を統一し、王国は最盛期を迎える。しかし、ジャヤヴァルマン1世の死後、王国は次第に乱れ、小国分裂の状態になる。8世紀の中頃、ジャワ島中部に興ったシャイレーンドラ王国は瞬く間に急膨張し、インドシナ半島もその影響下に置く。ボロブドゥール遺跡を残した王朝である。真臘国を形成したカンボジアの各勢力も、このシャイレーンドラ王国の支配下に入ったと思われる。 8世紀末、1人の若い王子がジャワから帰還した。おそらく、人質としてシャイレーンドラ朝に差し出されたカンボジアの小国の王子であったのだろう。王子はカンボジア南部において、シャイレーンドラ朝からの独立を宣言し、北へと討伐を開始する。いったんインドラプラ(現コンポン・チャム州のプレイ・ノコール遺跡)に都城を開いた後、さらに北上しアンコール地方に入る。そして、802年、プノン・クレーン(クレーンの丘)に都城を築き、そこでジャヤヴァルマン2世として即位した。歴史はこの802年をもってアンコール王朝建国の年とする。その後王は丘を下り、麓のロリュオス地方に王城ハリハラーヤを築き、そこで亡くなった。 今日は1日。アンコール王朝発祥の地・ロリュオス地方の遺跡を巡るつもりである。9時半、S君のバイクで出発する。国道6号線を東に向かう。街の中心から1キロほどのところにあるマーケット付近は大混乱である。リヤカーや荷車、トゥクトゥクなどが市場に入りきれず国道にあふれている。街並みを抜け、田園地帯を30分も走るとロレイ寺院遺跡に着いた。893年にヤショヴァルマン1世によって建立されたヒンズー教寺院である。東側より階段を登って境内に入る。この階段は、昔の船着き場の跡である。この寺院が建立された当時、この付近には877年にはインドラヴァルマン1世により建設された巨大貯水池インドラタターカが広がっていた。ロレイ寺院はこの貯水池の真ん中に建造されたのである。
以上でロリュオス地区の見学は終わりである。正午にはゲストハウスに帰り着いてしまった。午後からはやることもない。せっかくなのでアンコール・ワットに行ってみることにした。この有名な遺跡は4年前に心ゆくまで見学したので、今回はパスするつもりでいた。しかし、シュムリアップに来て、アンコール・ワットを見学しないのはやはりつむじ曲がりだろう。バイタクで行こうとしたが、片道4ドルとか5ドルとか吹っかけてくる。自転車で行ってみることにする。街の中心から5~6キロの距離である。
4年前、初めてアンコール・ワットを訪れたとき、第一回廊の印象を次のように書いた。
今回もまた同じであった。雨に降りこめられた回廊は足下もおぼつかないほど暗く、所々雨漏りもしている。まさに、妖怪変化の栖との印象が強かった。十字回廊に進む。今回、是非注意して見ておきたい所があった。森本右近大夫一房の落書きである。彼は寛永9年(1632年)、この地を訪れ、十字回廊の柱に次のような墨の落書きを残した。
この落書きは内戦前までは読むことが可能であったとのことだが、今目の前にする落書きは、上に黒く塗料が塗りたくられ、文字を読み取ることは出来なかった。それにしてもこの時代に遥か遠い日本からどうやってこの地までやって来たのであろう。限りないロマンを感じる。 第三回廊へのルートは斜度70度もあるものすごく危険な石段である。4年前には、命懸けで登ったのだが、行ってみると登頂禁止の処置がとられていた。当然かも知れない。雨も小降りになったので、再び自転車を漕いで街まで帰る。道路は到るところ先ほどの降雨で水没している。
11月19日(月)。S君がクバール・スピアンへ行こうと誘う。なかなか商売熱心だ。シュムリアップの街から北東へ約50キロ、クーレン山系の川の中にある遺跡である。しかし、ガイドブックには「この辺りは地雷撤去が完了しておらず云々。人気のない山中を歩くため、シュムリアップからはバイクタクシーは避け、信用のおける旅行会社の車をチャーターし、ガイドを付けること」と何やら物騒な注書きがされている。この辺りはポルポト派の拠点であった地域であり、武装解除後も引き続きポルポト派兵士が森林警備員という名目で武器を携えて暮しているとのことである。S君は「No Problem」を連発しているがーーー。 8時40分出発。先ずは北東約40キロにあるバンテアイ・スレイ寺院を目指す。「東洋のモナリザ」で有名な寺院である。4年前は地道であった道路も舗装道路に変わっている。橋もなく水の中を走って横断した川にも立派な橋が掛かっていた。途中の小学校も掘っ立て小屋から立派な鉄筋コンクリート造りに変わっていた。前方の低い山並が次第に近づき、約1時間走ってバンテアイ・スレイの門前に到着した。所が、ここからものすごい悪路となった。泥んこでグジャグジャとなった地道が続く。振り落とされないように車体にしがみつく。1台のトゥクトゥクが泥濘にはまり立ち往生している。幾つかの集落を過ぎ、山裾の大きな広場にようやく到着した。ここが登山口である。付近には数軒の簡易食堂が並んでいる。 「一本道だから心配ないよ」の声に送られて、1人山中に踏み込む。道型ははっきりしているものの木の根、岩角を踏んでのなかなか手強い登山道である。危険というほどではないが、日本のハイキングコースならザイルが張られてもおかしくないような岩場の急登もある。サンダル履きなので慎重に登る。周囲は鬱蒼としたジャングルである。いつポルポト派のゲリラが出現してもおかしくない雰囲気だが、思った以上に人影が濃い。ただし、いずれもガイドを連れたパーティである。1人で歩いている者など私以外だれもいない。時々人影が絶えると、やはり少々怖い。途中崩れかけた休憩舎を見る。
遺跡を充分堪能して、下山に掛かる。いつの間にか周りの人声は一切消え、密林の中でたった独りぼっちになってしまった。密林の中からトラが飛びだすのか、コブラが這いだすのか、はたまたポルポト派の残党が現れるのか、妄想が湧き怖い。にわかに空がかき曇り、激しい驟雨が来た。折り畳み傘は持っているがこの激しい雨には役に立たない。あわてて先ほどの休憩舎に逃げ込む。20分もすると、雨は突然止み、太陽が顔を出す。
シュムリアップに向かう途中、再び激しい驟雨に襲われた。もはや全身ずぶ濡れである。以上でアンコール遺跡巡りは終了である。明日はいよいよタイに向かう。
第6章 カンボジアからタイへの帰還 11月20日(火)。今日はシュムリアップから150キロほど北西のポイペト(カンボジア)/アランヤプラテート(タイ)で国境を越えるつもりである。昨日、チェンラー・ゲストハウスで国境までのバスのチケットを取得しておいた。飛行機ならバンコクまで1時間だが、私は陸路でバンコクを目指す。バスは8時にゲストハウス前に来るとのことであったが、その時刻になっても来ない。S君が面倒を見てくれた。どこかに電話をし、バイクに乗せられ別のゲストハウスにつれていかれた。何人かのバックバッカーが集まっていた。すぐに20人乗りの小型のぼろバスがやって来た。 バスは30分遅れの8時30分、満席の乗客を乗せて国道6号線を西に向かって走り出した。乗客は中国人らしい中年の夫婦連れと私を除いて、全員白人のバックパッカーである。冷房はあるものの、狭い車内は通路も荷物の山で身動きも出来ない。シュムリアップの街並を抜け、30分ほど走ると、突然舗装が切れて、泥んこのがたがた道に変わった。一瞬工事中なのかと思ったが、どこまでもどこまでも泥んこ道が続く。これには参った。結局、この超悪路はタイ国境まで続いていた。通る車とてないラオス国境に向かう国道7号線が素晴らしい舗装道路なのに対し、タイ国境に向かう国道6号線がどろどろのでこぼこ道とは理解に苦しむ。6号線の方がはるかに重要で交通量も多いのだが。おそらく、次のような理由なのだろう。カンボジアの対タイ国民感情はよくない。カンボジア人はタイによる歴史上の度重なる侵略に憎悪の感情を抱いている。しかも、現在においても、大きな経済格差を付けられている。カンボジア国内ではタイバーツさえ流通している。カンボジア人にとってはこれらのことが癪で仕方がないのである。こんな感情がタイへ通じる道路に現れているのだろう。
バスは再び凄まじい道を進む。ぬかるみを避け右へ左へ、でこぼこを乗り越える度に座席からはね上げられる。車窓は凄まじいばかりの田んぼの広がりである。稲田が地平線まで広がっている。12時過ぎ、前方に街が見えてきた。ポイペトかと思ったが、そんなに甘くはなかった。小さな街を抜け、バスはのろのろと進む。再びドライブインで昼食休憩。ここはどこかと聞くと、シソポンの手前だという。ポイペトまではまだ2時間掛かるとのこと。ただし、このドライブインでは価格表示はタイバーツ、タイが近づいたことが知れる。 シソポンの街に入る。国道6号線と国道5号線が交わる交通の要衝である。ただし街中も道は舗装されておらずほこりっぽい。プノン・スパイ(スパイの丘)の麓を抜け、再び田園風景の中に入る。バスはついにポイペトの街に入った。国道に沿った細長い街である。 このポイペト/アランヤプラテートの国境には最近多くのカジノを備えたホテルが急増している。もちろん、ターゲットは経済発展著しいタイの富裕層である(タイはカジノ禁止である)。休日ともなるとタイから大勢の客が押し寄せるらしい。目の前には、そのキンキラキンの豪華なカジノホテルが幾つも建ち並んでいる。先ずはカンボジアのイミグレーションへ行く。混雑している。しかも、列が一向に進まずいらいらする。出国手続終了後、建ち並ぶカジノホテルの間の道を歩いて国境に向かう。カンボジアは歩行者左側通行、タイは右側通行である。国境の川を渡ると横断歩道があり、左側の歩道から右側の歩道に導かれる。何となく面白い。
イミグレーションを出た所がアランヤプラテートの街、ただし街の中心部まではまだ6キロある。東南アジア最大規模と言われるクロンクルア市場の前にバイタクが屯していた。おばちゃん運転手のバイタクで街中のインター・ホテルに向かう。何と素晴らしい道なのだろう。先ほどまでの泥んこのがたがた道とは雲泥の差である。タイとカンボジアの経済格差を改めて思い知らされた。到着したホテルは1泊550バーツ、設備の整った満足できる中級ホテルである。
(完) |