おじさんバックパッカーの一人旅   

クメール遺跡を巡る旅(4)  アンコール編 

 アンコール王朝の古都を巡礼

2007年11月15日

    〜11月21日

 
第5章 古都・アンコール巡礼
 第1節 アンコール・トムとその周辺の遺跡

 11月16日(金)。いよいよ今日からシュムリアップ周辺のクメール遺跡を巡る。先ずは足を確保しなければならない。距離的に徒歩や自転車では無理なので、ゲストハウス出入りのバイタクの若者S君と交渉し、1日8ドルでチャーターすることにした。彼は片言の英語と日本語を話す。8時30分スタート、先ず目指すのはアンコール・トムである。並木道となった素晴らしい道路を北上するとチケットチェックポイントがある。遺跡見学にはチケットが必要であり、1日券20ドル、3日券40ドル、7日券60ドルと安からぬ入場料である。おそらくカンボジア最大の国家収入なのだろうし、遺跡の補修等を考えれば致し方ないだろう。7日券を購入する。

 道はすぐにアンコール・ワットに突き当たった。環濠の向こうに懐かしい巨大寺院が横たわっている。周囲は既に多くの観光客で賑わっている。しかし、アンコール・ワットは素通りし、先ずはアンコール・トムに向かう。プノン・パケンの麓を抜けるとアンコール・トムの南大門に達した。ナーガの胴体を抱えた神々と阿修羅の像が並ぶ欄干の先に、大きな四面仏の刻まれた楼門が聳える。

 アンコール・トムはアンコール王朝中興の英雄ジャヤヴァルマン7世(1181年〜1220年頃)が建設した王城である。1辺3キロの方形で城壁と幅113mの環濠で囲まれ、その中心にバイヨン寺院が建つ。1177年、アンコール王朝はベトナム中部の強国・チャンパ王国の奇襲攻撃を受け王城ヤショダラプラは陥落し、王は殺された。新たに王位に就いたジャヤバルマン7世は再度のチャンパ王国の攻撃に備え、かくも堅固な王城を築いたのである。

 楼門を潜り、アンコール・トムの城内に入る。目の前にバイヨン寺院が現れた。4年前にも、このバイヨン寺院を訪れたのだが、不思議なことに、帰ってから思い起こしてみると、バイヨン寺院についてのみ記憶がすっぽりと抜け落ちている。どんな建物であったのか、何を見学したのか、思い出せない。決して印象が薄かったからではない。むしろ逆だ。原因はあの四面仏である。196個の薄笑いを浮かべた不気味な面相から降り注ぐ視線が強烈に脳裏に焼き付き、他のすべての記憶を奪い去った。

 バイヨン寺院の前に立った。廃虚となった巨大な石の固まりの上にそそり立つ51基の石塔、その塔にはいずれもあの四面仏の大きな面が彫り刻まれている。顔の1辺は3mある。その面から発せられる凍りつくような視線は、未だ脳裏の奥深くに焼き付いている不気味な恐怖を再び思い起こさせた。信じがたいことに、この四面仏は観世音菩薩であるという。そこには、慈悲に満ちた観音様のイメージはまったくない。得体のしれない異教の神としか思えない。バイヨン寺院は仏教寺院である。ヒンズー教を国教としたアンコール王朝にあって、ジャヤヴァルマン7世だけは熱烈な大乗仏教徒であった。この点からもジャヤヴァルマン7世は異端の王である。彼はこのバイヨン寺院を始めとして多くの仏教寺院を建立した。しかし、彼の死後、再び天下を取ったヒンズー教勢力により、多くの仏教寺院において、刻まれた仏像は無残にも削り取られ、安置されていた仏像は破壊されて地下にうずめられた。

 第一回廊を巡る。半ば崩壊しているがここには見ごたえのある浮き彫りが連なっている。中でもチャンパとの戦いの様子を刻んだ浮き彫りが素晴らしい。「トンレサップ湖での水上戦の図」「クメール軍奮戦の図」は異様な迫力をもって見るものに迫る。ジャヤヴァルマン7世はアンコール・トムを建設して防衛を固め、1190年のチャンパの再度の侵略を退けると反攻に転じる。そして1199年にはチャンパ王国のに攻め込み、王都ビジャヤ(現ベトナム中部のクイニョン付近)を占領し、王を捕虜にするという大勝利を得る。こうして、ジャヤヴァルマン7世の下でアンコール王朝はその繁栄の絶頂期を迎えるのである。しかし、王の死後、王国への脅威は今度は西から急速にやって来た。チャオプラヤ川流域に居住するタイ族がアンコール王朝の支配を脱し、1238年にはタイ族最初の国家スコータイを建国する。さらに、1350年にはアユタヤ王朝が建国される。アンコール王朝は数度にわたるアユタヤ王朝との闘いで次第に領土を蝕まれ、1431年についにとどめを刺されて滅亡するのである。

 四面仏の視線を逃れ、バプーオン寺院へ行く。1060年頃ウダヤディティヤヴァルマン2世(1050年〜1066年)によっ建立された壮大なヒンズー教寺院である。現在はバイヨン寺院と王宮の間の狭い空間に建つが、かつては、アンコールトム以前の王城・ヤショダラプラの中心に建っていた。空中回廊となった200mの参道を進むと、3層の基壇の上に建てられたピラミッド型寺院に達する。しかし、フランスチームによる修復作業が現在も続いており、内部に入ることは出来なかった。

 王宮前の象のテラスに立った。長さ約300m、高さ約5mの長大な石造りのテラスである。テラスの前面には広大な芝生の広場が広がっている。テラスの真ん中は広場に向かって張り出しており、この部分は王のテラスと呼ばれる。王のテラスの正面から一本の道が広場を突っ切って真っすぐ延びている。その道の先には勝利の門があるはずである。チャンパとの戦いに勝利した軍勢はこの勝利の門を潜って王宮に凱旋した。ジャヤバルマン7世は王のテラスに立って凱旋軍を迎えた。南国の強い日差しを浴びてテラスに立ち尽くすと、続々と凱旋してくる軍勢の勝利の雄叫びが聞こえてくるようである。テラスの基壇前面には巨象の連なりと両腕を伸ばしてテラスを支える神鳥ガルーダの浮き彫りが力強く刻まれている。

 象のテラスの北側にはライ王のテラスがある。三島由紀夫の戯曲「癩王のテラス」の舞台となったテラスである。テラスの基壇部分には神々や神獣が隙間なく浮き彫りされている。そして、テラス上には1体の全裸の彫像が置かれている。もちろんこれはレプリカ、本物はプノンペンの国立博物館に納められている。この像のモデルは誰かと長らく論争が続いたが、現在では閻魔大王の像と考えられている。

 象のテラスより王宮の塔門をくぐり王宮跡に入る。王宮は東西約600m、南北約300mの周璧に囲まれている。ただし、宮殿は残っていない。「神の家は石造り、人の家は木造り」であったため、アユタヤ朝との闘いで焼失してしまったのである。王宮跡の真ん中に3段の基壇の上に建てられたピラミッド型の寺院がある。スールヤヴァルマン1世(1002年〜1050年)によって建立された宮殿内のヒンズー教寺院ピミアナカスである。四方より傾斜70度の恐ろしく急な石段が中央祠堂に登り上げていて、勇気ある者は登ることが可能である。4年前には私も登ったのだが、もうこの歳で無理することはあるまい。付近にある茶店でひと休みしながら登頂を試みる若者を見上げる。

 王宮を囲む周璧を北に抜ける。途端に賑わっていた人影は一切消えた。アンコール・トム内の北西の隅にあるプリア・パリライ寺院遺跡に行ってみる。12世紀初頭に建立された小さな仏教寺院である。テラス、塔門、祠堂からなるが、煉瓦造りの祠堂にはスポアンの大木が絡みつき、崩壊寸前である。林の中の小道を東に向かう。数人の子供が寄ってきて、盛んに写真を撮ってくれとせがむ。魂胆は見え透いている。撮った瞬間モデル料を請求するのである。昔は「マネー」と素直に手を出したものだがーーー。断り続けると悪態をついて去っていった。

 王城の北東にあるプリア・ピトゥ寺院遺跡に行く。林の中に廃虚となった遺跡が広がっている。下草は刈られ一応管理はされている気配だが、人影はまったくない。少々怖いぐらいである。この遺跡は五つの神殿からなる中規模の仏教寺院遺跡で、12世紀の建立と考えられている。まったく補修されておらず、叢には多くの石片が転がっている。神殿には多くの仏像の浮き彫りが、削り取られることなく残っていた。

 象のテラス前の広大な広場の奥に12基の塔が立ち並んでいる。「綱渡りの塔」とも呼ばれるプラサット・ストゥル・プラットである。12世紀末にジャヤヴァルマン7世によって建造されたが、用途はよく分かっていない。正月に、塔の間に綱を張って綱渡りが行われたとの言い伝えが残る。日本チームにより修復と調査が行われている。幾つかの塔を覗いてみたが彫刻もなく、内部も空である。この塔は象のテラスから眺めるのが一番よさそうである。勝利の門に続く小道の両側に並ぶ北クリアン南クリアンを見て、アンコール・トムの見学を終える。広場の隅に何軒か小屋掛けされている食堂がS君との待ち合わせ場所である。

 昼食後、アンコール・トム城外の遺跡に向かう。象のテラスから東に向かう道を1キロ進むと勝利の門に達した。南大門とまったく同じ造りの楼門で、高さ23mの主塔と左右の副塔に四面仏が刻まれている。楼門前の環濠に掛かる橋の造りも南大門と同じで、阿修羅と神々がナーガの胴体を抱えている。アンコール・トムには五つの城門がある。南北西面に各一つ、東面にはこの勝利の門と死者の門がある。勝利の門は凱旋軍が帰還する門であり、死者の門は戦死した兵士の魂が帰還する門と言われている。どちらの門から帰還するか、個々の兵士にとっても家族にとってもその違いは余りにも大きかったであろう。

 勝利の門から城外にでて300mも進むと道の両側に小さな寺院遺跡がある。北側がトマノン寺院、南側がチャウ・サイ・テボーダ寺院である。どちらも12世紀初頭のスールヤヴァルマン2世の時代に建立された平地式ヒンズー教寺院である。特段、素人の目を引くような寺院ではないが、素人目にも分かる大きな違いがある。トマノン寺院はフランスチームが修復作業を行った。さすが実に見事な修復で、建立当時の姿を見る思いである。一方、チャウ・サイ・テボーダ寺院は中国チームが補修を行った。このため、見るも無残な姿に変えられてしまっている。このようなへたくそな補修はむしろ遺跡の破壊である。

 さらに200メートルも東に進むとシュムリアップ川に突き当たる。橋が壊れていて通行止めになっていたが、オートバイを押して何とか渡る。この橋はスピアン・トモー(石橋)と呼ばれ、ジャヤヴァルマン7世時代に建造された橋である。すぐにタ・ケウ寺院遺跡に行き当たる。巨大なピラミッド型のヒンズー教寺院である。3層の基壇の上に5基の祠堂がそそり立っている。基礎基壇は122m×106m、建設当時の祠堂の高さは50mを越えていたと言われる巨大寺院である。また、初めて回廊を巡らせたピラミッド型寺院でもある。

 ただし、この寺院は未完である。このため壁面彫刻も一部を除き施されていない。タ・ケウはジャヤヴァルマン5世(968年頃〜1000年頃)により国家守護寺院として975年頃に建設工事が始まった。工事は王の存命中には完成せず、後継のジャヤヴィーラヴァルマン王(1002年〜1010年頃)が工事を引き継いだ。しかし、この王はスールヤヴァルマン1世(1002年〜1050年)との王位継承戦争に敗れ、タ・ケウはついに完成することなくうち捨てられた。ジャヤヴィーラヴァルマン王は実質10年近くアンコール地方を支配したが、王統系図にその名を連ねることは出来なかった。アンコール王朝の王位継承にはルールはなく、すべて実力主義であった。前王が死ねば、次の王位はライバルを力でねじ伏せたものが継承した。従って、一時的に戦乱で国内は乱れるが、必ず実力のある者が王位を継ぐことにより王朝の繁栄が守られたのである。

 タ・ケウの3層の基壇の上に登るのは少々危険を伴う。崩れかけ恐ろしく急な石段をルートファインディングしながら登頂を試みる。小学生中学年ぐらいの絵葉書売りの男の子が手助けしてくれた。基壇の上に座り込み、そそり立つ神殿を見上げながら、この寺院の辿った奇数な運命に思いをはせた。

 タ・ケウから南に1キロも進むとタ・プローム寺院遺跡がある。1186年にジャヤヴァルマン7世が母のために建立した仏教寺院である。巨大なスポアン(榕樹)に飲み込まれた遺跡として有名である。この遺跡は4年前に充分観賞したのでパス。さらに東に進むとバンテアイ・クディ寺院遺跡に到着した。12世紀末、ジャヤヴァルマン7世により建立された平地式の巨大仏教寺院である。周璧と環濠で囲まれた寺域は東西700m、南北500mと広大である。元々ヒンズー教寺院であったものを仏教寺院に改修したと考えられている。

 四面仏の刻まれた東塔門を潜り境内に入る。ナーガの欄干のある参道を進んで「踊り子のテラス」に上る。再び塔門をくぐって薄暗い祠堂に入る。3基×3列、計9基の祠堂が田の字型回廊で結ばれ、内部は複雑である。中央祠堂の内部にはヨニ(女陰を現した石型)のみ残されていた。祠堂を通り抜けると西塔門に行き当たった。 

 2001年、この寺院で発掘調査をしていた石澤良昭教授を団長とする上智大学アンコール国際遺跡調査団は深さ2メートルの地中から計274体もの廃棄された仏像を発見した。仏像はいずれも人為的に首を刎ねられていた。アンコール王朝史を塗り替える大発見であった。教授はこの時の様子を次のように感動的に語っている。

 「考古班のカンボジア人研修生達の様子がおかしいので声をかけたら、仏像が出てきたというのです。彼らは1体ずつ合掌して丁寧に竹ベラとハケを使って土を落としていたのです。普段は陽気に作業している彼らですが、このときは言葉も出ない状態でした。私にとっては世の中にこんな偶然があるのかと、ぞくぞくと寒気がするくらいの衝撃でした。さらに、研修生達は畏敬の念を持って丁寧に仏像を取り扱い、彼らの生きた信仰を目の当たりにして私はさらに感動しました。すべての廃仏が出土してから、カンボジア人研修生の発案で、すべての仏さまと発掘にかかわった人々の手を紐で結び、その一端を私の手首に結びました。そして僧侶を呼んで"お迎えの儀式"というのをしました」
 
 ジャヤヴァルマン7世により力を得た仏教であるが、13世紀半ばに到り、凄まじい仏教弾圧の嵐が吹き荒れた。ありとあらゆる寺院の仏像は破棄され、仏像の浮き彫りは削り取られた。この仏教弾圧の指揮をとったのはジャヤヴァルマン7世の2代後の王ジャヤヴァルマン8世(1243年〜1296年)である。おそらく、王位継承戦争が宗教戦争に発展した結果だったのだろう。
 
 このアンコールの地で活動する「上智大学アンコール国際遺跡調査団」は日本が世界に誇れる組織である。この組織は1980年に結成され、以降、次の三つのプロジェクトによって活動を続けている。
 (1)遺跡の調査研究と保存修復
 (2)カンボジア人の専門家の養成
 (3)「遺跡・村落・森林」の共生
 もちろん、その学問的成果は大きな国際的評価を得ているが、特筆するべきは、その活動を通じて日本とカンボジアの友好関係構築に計り知れない役割を果たしていることである。本組織はその活動理念を次のように謳っている。

 「アンコール遺跡はカンボジア民族の誇りと伝統の象徴である。その保存修復はあくまでも現地の人たちの手でなされることが原則である。民族の固有の文化を世界に向かって説明できる人々は誰よりも現地に暮らす人々である。アンコール遺跡の保存修復に関する国際協力とは何と言っても、そこに暮らすカンボジアの人々の自立を助ける人材養成などがその基本でならなければならないと考える」

 何とも頼もしい活動である。橋を架けたり、道路を造ったりするばかりが国際貢献ではない。

 バンテアイ・クディと道を挟んだ東側に東西700m、南北350mの大きな人工池が広がっている。スラ・スランである。岸は石材で補強され水辺に向かって石段となっている。池の西側にはナーガの欄干のついたテラスがあり、シンハーが池を睥睨している。池は10世紀に造られ、ジャヤヴァルマン7世によって王の沐浴場に改修された。現在は子供たちの格好の沐浴場である。西側の岸辺には数軒の土産物屋が並んでいる。

 再びバイクに乗り、プラサット・バッチュム寺院遺跡を目指す。街道筋から外れ、荒れ地の中の地道をしばらく進むと、基壇の上に3基の祠堂が並んだ小規模な遺跡に到着した。この寺院は953年に高官カヴィンドラーリマタナによって建立されたアンコール地方で最初の仏教寺院である。周囲に人気はまったくなく、怖いぐらいである。一見して早々に去る。

 再び街道筋に戻り、少し南に進むと、プラサット・クラヴァン寺院遺跡に達した。基壇の上に五つの煉瓦造りの祠堂が横一列に並んでいる。ただし、真ん中の一基を除いて、上半分は喪失している。この寺院は921年にハルシャヴァルマン1世(910年〜922年)により建立されたヒンズー教寺院である。この寺院は祠堂の内部に浮き彫りがあることで有名である。このような例は他にないという。早速祠堂内部を覗く。北の祠堂の内部にはヴィシュヌ神の妻ラクシュミー、中央祠堂の内部にはヴィシュヌ神の三つの姿が直接煉瓦に彫刻されている。なかなか見ごたえのある浮き彫りである。

 付近に寺院遺跡はまだまだあるが、余り急いで巡ると、どこがどこだか分からなくなってしまう。今日はこれで終了。15時30分、ゲストハウスに戻る。夕方、ぶらりぶらりと旧マーケットまで行ってみたが、周囲は旅行者相手の飲食店や土産物店、ホテルなどが軒を並べ、この地が東南アジア有数の観光都市であるかとを思い知らされた。

 
 第2節 東バライ周辺の遺跡 

 11月17日(土)。今日も一日S君のオートバイをチャーターした。目指すは東バライ周辺の遺跡である。8時30分スタート、昨日見学したバンテアイ・クディの前を通り、スラ・スランの北岸を抜けてしばらく走ると、プレ・ループ寺院遺跡に到着した。巨大なピラミッド型のヒンズー教寺院である。二重の周璧に囲まれ、三層の基壇の上に5基の祠堂が高々と立ち並んでいる。基壇の前にも6基の祠堂が配され、初層基壇の正面のテラスに石組みの槽がある。この槽で死体を荼毘に付したとのことである。

 この寺院は961年にラージェンドラヴァルマン1世(944年〜968年)により国家守護寺院として建立された。ラージェンドラヴァルマン1世はアンコールへ再遷都を行った王である。928年頃、イーシャーナヴァルマン2世がアンコールの都城で亡くなると、アンコールの北東約100キロのコー・ケーを本拠地とするジャヤヴァルマン4世(921年〜941年)が王位を掌中にする。王はアンコール都城に決別してコー・ケーを新たな都城と定めた。941年、ジャヤヴァルマン4世が死ぬと息子のハルシャヴァルマン2世が跡を継いだが、すぐさまカンボジア中部のバヴァプラ地方を統治していたラージェンドラヴァルマン1世が決起して王位を奪取する。彼は再び王都をアンコールに移し、東バライの南岸に新たな王宮を建設するのである。そして、国家守護寺院として建立されたのがプレ・ループ寺院である。

 プレ・ループから数キロ東に走るとバンテアイ・サムレ寺院遺跡に達した。ここまで来ると見学者の数も大分少なくなる。この寺院はアンコール・ワットを建立したスールヤヴァルマン2世の時代、すなわち12世紀前半に建立されたヒンズー教寺院である。平地式寺院で、回廊となった二重の周璧に囲まれ、実に重厚な造りとなっている。二重の回廊の内部には二つの経蔵と主祠堂が建っている。「バンテアイ」とは「砦」を意味するとのことだが、その名にふさわしく、何やら暗く重苦しい雰囲気である。後で知るのだが、この寺院はポルポト時代に刑務所として利用されたとのことである。暗く重苦しく感じたのはその精であったのかも知れない。

 道を西に戻り、東メボン寺院遺跡へ向かう。今進んでいる道はかつての東バライの湖底である。雑然とした薮が広がり、所々に小さな林と貧相な畑が見られる。農耕社会においては王の最大の責務は治水である。米作を社会基盤とするアンコール王国においてもこのことは同じであった。雨期の集中的豪雨は国土を水浸しにし、乾期は飲み水にも窮した。

 877年にはインドラヴァルマン1世により巨大貯水池インドラタターカ(3800 m×800m)が建設された。続いて9世紀末にヤショヴァルマン1世(889年〜910年頃)が東バライを建設した。このバライ(貯水池)は7,000m×2,000mとさらに巨大であった。11世紀には何人もの王が事業を引き継ぎながら西バライを完成させた。このバライはさらに大きく8,000m×2,000mもある。そしてまた、11世紀末、ジャヤヴァルマン7世もジャヤタターカ(3,500m×900m)を建設した。これらの貯水池により11世紀のアンコール平原は豊かな穀倉地帯となった。米の2期作が可能となり、余剰農産物は王国に限りない冨をもたらした。現在、インドラタターカ、東バライ、及びジャヤタターカは干上がってしまったが、西バライは健在である。

 ラージェンドラヴァルマン1世は東バライの辺に新たな王宮を構えると、952年、水を満々とたたえた東バライの真ん中に東メボン寺院を建立した。東塔門をくぐり境内に入る。三層の基壇の上に5基の祠堂が建つピラミッド型寺院である。初層と2層の基壇の隅には計8頭の実物大の象が飾られている。この寺院は同じピラミッド型寺院でも他の同型の寺院のような威圧感を感じない。何か明るく、のんびりした雰囲気を漂わせている。

 道を北上するとタ・ソム寺院遺跡に到着した。楼門に彫られた四面仏が出迎えてくれた。バイヨン寺院では冷たく不気味に感じた視線も、何やら懐かしく感じられる。四面仏でわかる通り、この寺院は12世紀末にジャヤヴァルマン7世によって建立された仏教寺院である。西塔門を抜け、西門に進むと、美しいデバダーの浮き彫りが迎えてくれる。髪をしぼる珍しいしぐさをしている。メー・トラニ(大地の女神、自らのかみのをしぼって洪水をおこしブッダを救ったと言われる)を現しているのだろうか。中央祠堂を抜け、反対側の東塔門まで行く。塔門にはリエップの巨木の根が絡みつき、四面仏が悲鳴を上げている。

 街道を西に進み、小道を少し南に入ると、ニャック・ポアンに到着した。不思議な遺構である。1辺70mの正方形の池があり、その四方に1辺27mの正方形の小池が配されている。大池から小池に水が流れるようになっていて、その吹き出し口には象、獅子、牛、人間の頭部が彫刻されている。水はその口から流れ出るようになっている。大池の中央には円形の基壇を持つ祠堂があり、基壇には2匹のナーガが絡みついている。ニャッ・クポアンとは「絡み合うナーガ」を意味する。基壇の東側には神馬ヴィラーハの彫像がある。

 この遺構は建設当時、巨大貯水池ジャヤタターカに浮かぶ島にあった。建造したのはジャヤヴァルマン7世である。従来、病人のための沐浴場ではないかと言われてきたが、どうも違うらしい。謎の施設である。残念ながら、乾期のため池に水はなく、本来の姿を見ることは出来なかった。

 ニャック・ポアンと道を挟んだ反対側の林の中にクオル・コーの小さな寺院遺跡があった。近くなので1人でのこのこ行ってみた。周璧に囲まれた境内に祠堂が一つだけ建つ小さな寺だが、崩壊が激しい。12世紀末にジャヤヴァルマン7世が建立した仏教寺院である。削り取られた仏像が痛々しい。周りに人っの気配もなく、荒れた遺跡に1人いると怖い。早々に立ち去る。

 アンコールトムの北側に位置するプリア・カン寺院遺跡を訪れる。1191年、ジャヤヴァルマン7世によって建立された広大な平地式仏教寺院である。1177年、現ベトナム中部にあった強国チャンパ王国はアンコール王国の王都を奇襲攻撃し、王トリブヴァナーディティヤヴァルマン(1165年〜1177年)を殺害し王都を占領する。1181年、ジャヤヴァルマン7世が王都奪還の動きを見せると、チャンパ国王ジャヤ・インドラヴァルマン4世は自ら精鋭軍を率いて再び陸路水路から襲来した。迎え撃つジャヤヴァルマン7世軍とトンレサップ湖上及び陸上で激戦が展開された。王宮が最後の決戦の場となった。王宮は焼失し付近は血の海と化した。この闘いにジャヤヴァルマン7世は勝利し、ジャヤ・インドラヴァルマン4世は戦死した。ジャヤヴァルマン7世は即位し、ここにアンコール王国が復活した。この戦いの様子はバイヨン寺院の第一回廊の浮き彫りに詳しく標されている。

 この闘いの後、ジャヤヴァルマン7世は再度のチャンパ襲来に備え、堅固な王城アンコール・トムを新たに建設し、そしてまた、戦勝を記念してこの激戦の地にプリア・カン寺院を建立した。その後、力を貯えたアンコール王国は1190年以降チャンパ王国への復讐戦を開始する。そして、1203年にはついにチャンパ王国の王都ビジャヤ(現在のクイニョン付近)を攻略して占領するのである。

 プリア・カン寺院の寺域は東西800m、南北700mと実に広大である。この寺院は僧院であると同時に仏教大学であり、僧侶養成機関であった。1,000人以上の僧侶がおり、食料を供給するための特別の荘園村落基で帰属していたという。この寺院には仏像とともにヒンズー教の神々や土地の精霊たちも祀られている。いわば複合的寺院である。ジャヤヴァルマン7世は熱心な大乗仏教徒ではあったが、仏教を国教とすることもなく、また、アンコール王朝に広く浸透していたヒンズー教を排除することもなかった。

 西参道より寺院に向かう。両側にはリンガを模した石柱が並ぶ。石柱にはガルーダと座仏が浮き彫りにされているのだが、その座仏は見事なまでにすべて削り取られている。ジャヤヴァルマン8世時代の仏教弾圧の跡である。続いてナーガの胴を抱える神々と阿修羅の像が欄干となって塔門まで続いている。塔門脇の壁にはナーガを踏みつける大きなガルーダの浮き彫りがある。ただし、その上に並ぶ仏像はすべて削り取られている。

 西門をくぐり巨大な伽藍に入る。内部は複雑で迷路のようである。到るところにデバダーやアプサラの彫像が残るが、仏像は丁寧にすべて削り取られている。その執念に不気味さを感じる。中央祠堂の北東に建つ建物は非常に珍しい。二階建てで一階の柱は円柱である。何やら古代ギリシャの神殿を思わす建物である。伽藍を抜け塔門に達すると、スポアンの大木が周璧に絡みついていた。

 アンコール・トムの城内を抜け帰路に着く。途中プノン・バケン山の麓に建つバクセイ・チャムクロン寺院遺跡に寄る。948年にラジェンドラヴァルマン王により建立されたピラミッド型のヒンズー教寺院である。3層の基壇の上にただ1基の祠堂が高々と建っている。祠堂に到る石段は傾斜約70度、相当な危険を感じる急角度である。登るのを諦める。これで、アンコール中心部の遺跡はほぼ見終わった。明日はロリュオス地方へ行く。
 

 第3節 ロリュオス地方の遺跡

 11月18日(日)。シュムリアップの街から東に約13キロ、ロリュオス地方はアンコール王朝発祥の地である。インドシナ半島南部が初めて歴史に登場するのは1世紀頃である。この地の南部に扶南国が建国され、東西海上貿易の中継拠点として栄えたらしい。国を担った民族は不明である。6世紀に入ると、現ラオス南部・チャムパサック地方を揺籃の地とするクメール族がメコン川に沿って南下を始める。6世紀末、彼らはバヴァプラ(現コンポン・トムの北約30キロのソンボール・プレイ・クック遺跡と考えられる)を王都して真臘王国を建国する。

 真臘王国はイーシャーナヴァルマン1世(615年頃〜628年)の時代に扶南国をも併合し、カンボジア全土を統一する。ここに、カンボジアにおける最初の統一王朝が出現した。王国は一時乱れるが、アンコール地方を拠点とするジャヤヴァルマン1世(657年頃〜681年)が再び国内を統一し、王国は最盛期を迎える。しかし、ジャヤヴァルマン1世の死後、王国は次第に乱れ、小国分裂の状態になる。8世紀の中頃、ジャワ島中部に興ったシャイレーンドラ王国は瞬く間に急膨張し、インドシナ半島もその影響下に置く。ボロブドゥール遺跡を残した王朝である。真臘国を形成したカンボジアの各勢力も、このシャイレーンドラ王国の支配下に入ったと思われる。

 8世紀末、1人の若い王子がジャワから帰還した。おそらく、人質としてシャイレーンドラ朝に差し出されたカンボジアの小国の王子であったのだろう。王子はカンボジア南部において、シャイレーンドラ朝からの独立を宣言し、北へと討伐を開始する。いったんインドラプラ(現コンポン・チャム州のプレイ・ノコール遺跡)に都城を開いた後、さらに北上しアンコール地方に入る。そして、802年、プノン・クレーン(クレーンの丘)に都城を築き、そこでジャヤヴァルマン2世として即位した。歴史はこの802年をもってアンコール王朝建国の年とする。その後王は丘を下り、麓のロリュオス地方に王城ハリハラーヤを築き、そこで亡くなった。

 今日は1日。アンコール王朝発祥の地・ロリュオス地方の遺跡を巡るつもりである。9時半、S君のバイクで出発する。国道6号線を東に向かう。街の中心から1キロほどのところにあるマーケット付近は大混乱である。リヤカーや荷車、トゥクトゥクなどが市場に入りきれず国道にあふれている。街並みを抜け、田園地帯を30分も走るとロレイ寺院遺跡に着いた。893年にヤショヴァルマン1世によって建立されたヒンズー教寺院である。東側より階段を登って境内に入る。この階段は、昔の船着き場の跡である。この寺院が建立された当時、この付近には877年にはインドラヴァルマン1世により建設された巨大貯水池インドラタターカが広がっていた。ロレイ寺院はこの貯水池の真ん中に建造されたのである。

 4基の煉瓦造りの祠堂が四角形に並んでいるが、いずれもかなり崩壊が進んでいる。4基の祠堂の中央に十字形に交わる砂岩製の樋があり、その真ん中にリンガが立っている。リンガに水を注ぐと四方に流れ出す仕組みである。治水神事に使用されたと考えられている。遺跡は集落の中にあり、隣には現在の仏教寺院が建てられている。日曜日のためか大勢の子供たちが遺跡内を飛び回っていた。

 国道6号線の南側に回り、バコン寺院遺跡に向かう。目の前に、アッと息をのむほどの迫力のあるピラミッド型の寺院が現れた。881年にインドラヴァルマン1世により国家守護寺院として建立されたバコン寺院である。取り囲む環濠は幅50〜65m、東西800m、南北600mもある。濠に掛かる橋の欄干は7つの鎌首を直角に持ち上げたナーガである。ナーガの胴体は直接地面に横たわっている。ナーガを欄干に用いた最初の例だとのことである。その内側には3重に周壁が張り巡らされ、5段に積み重ねられた基壇の上に中央祠堂が高々とそそり建っている。各基壇の四隅には丸彫の象が配され、基壇を登る石段にはシンハーの像が配されている。この寺院はアンコール王国における最初のピラミッド型寺院である。感心するのは実によく修復されていることである。修復したのはフランス極東学院、さすがである。

 すぐ近くのプリア・コー寺院遺跡に行く。アンコール王朝における最古の寺院遺跡で、879年にインドラヴァルマン1世により建立されたヒンズー教寺院である。基壇の上に3基2列の計6基の崩れかかった煉瓦造りの祠堂が並んでいる。今にも崩れ落ちそうで、見るからに古そうな遺跡である。基壇の前には3頭の聖牛ナンディンの丸彫が並んでいる。

 
 第4節 アンコール・ワット

 以上でロリュオス地区の見学は終わりである。正午にはゲストハウスに帰り着いてしまった。午後からはやることもない。せっかくなのでアンコール・ワットに行ってみることにした。この有名な遺跡は4年前に心ゆくまで見学したので、今回はパスするつもりでいた。しかし、シュムリアップに来て、アンコール・ワットを見学しないのはやはりつむじ曲がりだろう。バイタクで行こうとしたが、片道4ドルとか5ドルとか吹っかけてくる。自転車で行ってみることにする。街の中心から5〜6キロの距離である。

 気持ちのよい並木道を進む。途中で何と雨が降りだした。濡れらば濡れろである。30分もペタルを漕ぐと西参道入り口に達した。濠を隔てて、見慣れたアンコール・ワットが3基の祠堂を天に突き上げながら大きく横たわっている。傘をさして神殿に向かう。西塔門は通行止めになっていた。象の門より境内に入る。神殿に向かって長い長い参道が延びている。参道には世界中から来た人々が溢れている。聖池に映る神殿を眺め、いざ神殿に入ろうとしたとき、突然激しい驟雨が襲ってきた。慌てて第一回廊に逃げ込む。

 4年前、初めてアンコール・ワットを訪れたとき、第一回廊の印象を次のように書いた。
  「暗く閉ざされた回廊は、妖怪変化の棲家。窓から差し込むかすかな光に、
     壁に刻まれた神々が蠢き、デバダーが怪しく微笑む」

 今回もまた同じであった。雨に降りこめられた回廊は足下もおぼつかないほど暗く、所々雨漏りもしている。まさに、妖怪変化の栖との印象が強かった。十字回廊に進む。今回、是非注意して見ておきたい所があった。森本右近大夫一房の落書きである。彼は寛永9年(1632年)、この地を訪れ、十字回廊の柱に次のような墨の落書きを残した。
 
  寛永九年正月二初而此処来ル生国日本肥州之住人
  藤原朝臣森本右近太夫一房御堂ヲ志シ千里之海上ヲ
  渡リ一念之胸ヲ念シ世々思ヲ清ル為ココ二仏ヲ□シテ
  之ヲ書ク物也
  攝州津□池田之住人森本儀太夫□□一吉裕道仙之為
  娑婆ニ茲書ク物也
  尾州之国名黒之郡後室老母之魂明生大師為後世書物也
  寛永九年正月七日

 この落書きは内戦前までは読むことが可能であったとのことだが、今目の前にする落書きは、上に黒く塗料が塗りたくられ、文字を読み取ることは出来なかった。それにしてもこの時代に遥か遠い日本からどうやってこの地までやって来たのであろう。限りないロマンを感じる。

 第三回廊へのルートは斜度70度もあるものすごく危険な石段である。4年前には、命懸けで登ったのだが、行ってみると登頂禁止の処置がとられていた。当然かも知れない。雨も小降りになったので、再び自転車を漕いで街まで帰る。道路は到るところ先ほどの降雨で水没している。

 
 第5節 クバール・スピアン遺跡

 11月19日(月)。S君がクバール・スピアンへ行こうと誘う。なかなか商売熱心だ。シュムリアップの街から北東へ約50キロ、クーレン山系の川の中にある遺跡である。しかし、ガイドブックには「この辺りは地雷撤去が完了しておらず云々。人気のない山中を歩くため、シュムリアップからはバイクタクシーは避け、信用のおける旅行会社の車をチャーターし、ガイドを付けること」と何やら物騒な注書きがされている。この辺りはポルポト派の拠点であった地域であり、武装解除後も引き続きポルポト派兵士が森林警備員という名目で武器を携えて暮しているとのことである。S君は「No Problem」を連発しているがーーー。

 8時40分出発。先ずは北東約40キロにあるバンテアイ・スレイ寺院を目指す。「東洋のモナリザ」で有名な寺院である。4年前は地道であった道路も舗装道路に変わっている。橋もなく水の中を走って横断した川にも立派な橋が掛かっていた。途中の小学校も掘っ立て小屋から立派な鉄筋コンクリート造りに変わっていた。前方の低い山並が次第に近づき、約1時間走ってバンテアイ・スレイの門前に到着した。所が、ここからものすごい悪路となった。泥んこでグジャグジャとなった地道が続く。振り落とされないように車体にしがみつく。1台のトゥクトゥクが泥濘にはまり立ち往生している。幾つかの集落を過ぎ、山裾の大きな広場にようやく到着した。ここが登山口である。付近には数軒の簡易食堂が並んでいる。

 「一本道だから心配ないよ」の声に送られて、1人山中に踏み込む。道型ははっきりしているものの木の根、岩角を踏んでのなかなか手強い登山道である。危険というほどではないが、日本のハイキングコースならザイルが張られてもおかしくないような岩場の急登もある。サンダル履きなので慎重に登る。周囲は鬱蒼としたジャングルである。いつポルポト派のゲリラが出現してもおかしくない雰囲気だが、思った以上に人影が濃い。ただし、いずれもガイドを連れたパーティである。1人で歩いている者など私以外だれもいない。時々人影が絶えると、やはり少々怖い。途中崩れかけた休憩舎を見る。

 先行パーティを次々と追い越し、40〜50分も歩くと左から水音が聞こえてきて、小沢に掛かる滝にでた。シュムリアップ川の源流となる流れである。ひと休みして、滝の上にでると目指す遺跡が現れた。水底の岩や水際の岩肌にヴィシュヌ神やシヴァ神などのヒンズー教の神々、あるいはリンガ(男根)やヨニ(女陰)の彫刻が次々と現れる。水は澄んでおり川底の彫刻もよく見える。一体、何時、誰が、何のために、このような彫刻をこの地に施したのだろう。この遺跡は1968年にフランス人によって発見された。クーレン山はアンコール王国の開祖ジャヤヴァルマン2世が即位を行った聖なる山、そこから流れ出ずる聖水は麓のアンコール平原を潤し、命を育む。この辺りはアンコールに暮す人々にとって聖地であったのだろう。

 遺跡を充分堪能して、下山に掛かる。いつの間にか周りの人声は一切消え、密林の中でたった独りぼっちになってしまった。密林の中からトラが飛びだすのか、コブラが這いだすのか、はたまたポルポト派の残党が現れるのか、妄想が湧き怖い。にわかに空がかき曇り、激しい驟雨が来た。折り畳み傘は持っているがこの激しい雨には役に立たない。あわてて先ほどの休憩舎に逃げ込む。20分もすると、雨は突然止み、太陽が顔を出す。

 どろんこの悪路をのろのろ走り、帰路に着く。途中せっかくなのでバンテアイ・スレイ寺院に寄って見た。967年にジャヤヴァルマン5世の摂政役、王師ヤジュニャヴァラーハによって建立されたヒンズー教寺院である。小さな寺だが、「東洋のモナリザ」と称される美しいデバダー像を始め、多くの繊細にして精緻な彫刻で溢れていることで有名である。この寺も4年前に十分観賞した。境内は相変わらず多くの観光客で賑わっていた。

 シュムリアップに向かう途中、再び激しい驟雨に襲われた。もはや全身ずぶ濡れである。以上でアンコール遺跡巡りは終了である。明日はいよいよタイに向かう。
 

第6章 カンボジアからタイへの帰還 

 11月20日(火)。今日はシュムリアップから150キロほど北西のポイペト(カンボジア)/アランヤプラテート(タイ)で国境を越えるつもりである。昨日、チェンラー・ゲストハウスで国境までのバスのチケットを取得しておいた。飛行機ならバンコクまで1時間だが、私は陸路でバンコクを目指す。バスは8時にゲストハウス前に来るとのことであったが、その時刻になっても来ない。S君が面倒を見てくれた。どこかに電話をし、バイクに乗せられ別のゲストハウスにつれていかれた。何人かのバックバッカーが集まっていた。すぐに20人乗りの小型のぼろバスがやって来た。

 バスは30分遅れの8時30分、満席の乗客を乗せて国道6号線を西に向かって走り出した。乗客は中国人らしい中年の夫婦連れと私を除いて、全員白人のバックパッカーである。冷房はあるものの、狭い車内は通路も荷物の山で身動きも出来ない。シュムリアップの街並を抜け、30分ほど走ると、突然舗装が切れて、泥んこのがたがた道に変わった。一瞬工事中なのかと思ったが、どこまでもどこまでも泥んこ道が続く。これには参った。結局、この超悪路はタイ国境まで続いていた。通る車とてないラオス国境に向かう国道7号線が素晴らしい舗装道路なのに対し、タイ国境に向かう国道6号線がどろどろのでこぼこ道とは理解に苦しむ。6号線の方がはるかに重要で交通量も多いのだが。おそらく、次のような理由なのだろう。カンボジアの対タイ国民感情はよくない。カンボジア人はタイによる歴史上の度重なる侵略に憎悪の感情を抱いている。しかも、現在においても、大きな経済格差を付けられている。カンボジア国内ではタイバーツさえ流通している。カンボジア人にとってはこれらのことが癪で仕方がないのである。こんな感情がタイへ通じる道路に現れているのだろう。

 1時間半も走ったら、バスは突然何もない道端で停車した。何事かと思ったら、白人の若い女性がバスから降りて薮に駆け込んだ。私も何度か身に覚えがある。左側に低い丘陵が3つほど見える。10時過ぎ、バスは小さな街並みに入り、ドライブインでトイレ休憩となった。バスを降りても道は泥んこで歩くのもままならない。同じバスに乗り合わせていた中国人らしい夫婦が話し掛けてきた。「Where you go」「Where you from」これぞ東南アジア英語、実に分かりやすくて助かる。

 バスは再び凄まじい道を進む。ぬかるみを避け右へ左へ、でこぼこを乗り越える度に座席からはね上げられる。車窓は凄まじいばかりの田んぼの広がりである。稲田が地平線まで広がっている。12時過ぎ、前方に街が見えてきた。ポイペトかと思ったが、そんなに甘くはなかった。小さな街を抜け、バスはのろのろと進む。再びドライブインで昼食休憩。ここはどこかと聞くと、シソポンの手前だという。ポイペトまではまだ2時間掛かるとのこと。ただし、このドライブインでは価格表示はタイバーツ、タイが近づいたことが知れる。

 シソポンの街に入る。国道6号線と国道5号線が交わる交通の要衝である。ただし街中も道は舗装されておらずほこりっぽい。プノン・スパイ(スパイの丘)の麓を抜け、再び田園風景の中に入る。バスはついにポイペトの街に入った。国道に沿った細長い街である。15時、大きなロータリーで国道6号線は行止まった。ここが終点の国境である。結局、わずか150キロの道程を6時間半掛かった。それにしても凄まじい悪路であった。バスを降りる。私以外は全員バスを乗り換えてバンコクまで行くらしく、出迎えた掛員に引率されてイミグレーションに向かっていった。私は、今日はアランヤプラテートで泊まるつもりでいる。急ぐことはない。

 このポイペト/アランヤプラテートの国境には最近多くのカジノを備えたホテルが急増している。もちろん、ターゲットは経済発展著しいタイの富裕層である(タイはカジノ禁止である)。休日ともなるとタイから大勢の客が押し寄せるらしい。目の前には、そのキンキラキンの豪華なカジノホテルが幾つも建ち並んでいる。先ずはカンボジアのイミグレーションへ行く。混雑している。しかも、列が一向に進まずいらいらする。出国手続終了後、建ち並ぶカジノホテルの間の道を歩いて国境に向かう。カンボジアは歩行者左側通行、タイは右側通行である。国境の川を渡ると横断歩道があり、左側の歩道から右側の歩道に導かれる。何となく面白い。

 タイのイミグレーションは大混雑であった。タイ人用の窓口と外国人用の窓口が各々3つオープンしているのだが、いずれも長蛇の列で、ホールの外まで人が溢れている。ひと目1時間待ちである。さほどこの国境は賑わっているのだ。いくら道路を不備のままにしておいても、人の流れは止められない。私の前に並んだラフな格好の青年はカンボジア人、バンコクのバンコク病院に入院している母親を訪ねるとのこと。ついこの間、私が入院した病院である。カンボジアの医療施設は貧弱なので、手に負えない場合はタイの病院へ搬送される。もちろん、それだけの費用を支払える人だけであるが。散々待たされたが、何事もなくタイへの入国が許可された。ようやくタイへ戻ってきた。何か心も浮き浮きする。

 イミグレーションを出た所がアランヤプラテートの街、ただし街の中心部まではまだ6キロある。東南アジア最大規模と言われるクロンクルア市場の前にバイタクが屯していた。おばちゃん運転手のバイタクで街中のインター・ホテルに向かう。何と素晴らしい道なのだろう。先ほどまでの泥んこのがたがた道とは雲泥の差である。タイとカンボジアの経済格差を改めて思い知らされた。到着したホテルは1泊550バーツ、設備の整った満足できる中級ホテルである。
 
 11月21日(水)。いよいよ今日はバンコクへ帰還する。8時過ぎ、おばちゃん運転手のトゥクトゥクで街の西北端にあるバスターミナルへ向かう。ちょうど8時30分発のバンコク行き1等エアコンバスがエンジンを始動して待っていた。バスはガラガラのまま定刻に発車、冷房が効きすぎ少々寒い。どこまでもどこまでも素晴らしい道が続く。タイの道路状況は日本よりもよい。幾つかの小さな街のバスターミナルに寄って、13時、バスはバンコクの北ターミナルに到着した。10月29日にバンコクを出発して以来、24日ぶりのバンコクである。そして3ヶ国を陸路で巡った「クメール遺跡巡礼の旅」の終焉である。

     (完)

 

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