比企丘陵 北川尾根から関八州見晴台 

バリエーションルートを登り、大展望のピークへ

2014年12月27日


 
北川の岩場上部より伊豆ヶ岳を望む
関八州見晴台より武甲山と両神山を望む
                            
西吾野駅(745)→道路改修記念碑(757)→高山不動へのパノラマコース入口(802)→高不動への萩ノ平茶屋コース入口(805)→高山不動への大滝コース入口(811)→白山神社(816)→全昌寺(823)→中組自治会館(829)→北川の岩場(841)→岩場上(845〜849)→460mピーク(915)→510mピーク(927〜931)→石仏のある高畑集落分岐(954〜1004)→グリーンライン(1039〜1041)→飯盛峠(1054〜1057)→飯盛山(1101〜1108)→関八州見晴台(1139〜1156)→四寸道分岐(1211)→花立松ノ峠(1224)→傘杉峠(1251〜1254)→黒山三滝(1330)→黒山バス停(1350〜1427)

 
 今年もあと5日である。いよいよ押し迫ってきた。何となく慌ただしい感じもするが、考えてみれば、私にとっては普段の生活が変わるわけでもない。相変わらず暇である。ならば山でも行ってみようか。幸い天気予報が今日一日の晴天を告げている。

 とは言っても、もはや近郊に行きたい山もない。高い山は雪だろうしーーー。考えた末、高麗川左岸稜に行ってみることにした。旧正丸峠から高麗の里背後の日和田山まで高麗川左岸にそって長々と続く山稜である。昔々は、この山稜は奥武蔵のよきハイキングコースであった。しかし、昭和30年代後半から40年代にかけて奥武蔵グリーンラインと呼ばれる稜線林道が横縦無尽に開削され、ハイキングコースはズタズタにされてしまった。今や林道を歩かずしてこの山域をハイキングすることはできない。あまり気が向く山域ではないため、私の足跡は少ない。

 それでもこの山域には一度は行ってみたい名所旧跡が点在している。高山不動尊、関八州見晴台、顔振峠、黒山三滝などである。いずれも、記憶が定かでない幼少の頃、両親に連れられて行ったことがあるような気もするのだがーーー。

 雑誌「新ハイキング」の昨年11月号に、登山道のない北川尾根からこの山稜に登り上げるというバリエーションルートの登山記録が載っていた。少々面白そうである。行ってみることにする。バリエーションルートだけに若干の不安はあるが、迷ったところで標高600〜700メートルの里山、大怪我をする心配はない。

 北鴻巣発5時23分の上り一番列車に乗る。まだ夜明け前で上空には双子座が輝いていた。大宮、川越で乗り換える。6時半で明るくなり始め、7時で朝日が射し始めた。車窓の行く手に真っ白な富士山がモルゲンロートに輝いている。いい天気になりそうである。東飯能で西武秩父線に乗り換え、7時45分、西吾野駅に到着した。

 私の他に二人ほど単独行者が下車したが、皆ばらばらの方向に散っていった。さすが寒さは厳しい。ダブルヤッケを着て手袋をはめ、北川の小流沿いの道を奥へ進む。時折車が通るだけだが、立派な鋪装道路である。この道は「ぶな峠道」である。高麗川左岸稜を「ぶな峠」で越えて、旧都幾川村の西平地区に通じている。江戸時代から明治時代に掛けて、西平の慈光寺や秩父札所巡りをする巡礼たちが通ったお遍路道である。

 鉄道線路のガードを潜り、しばらく進むと、高山不動尊へのパノラマコースが分岐する。後ろから追いついてきた単独行者はこの道に入って行った。私は川沿いの「ぶな峠道」をなおも進む。すぐに、萩ノ平茶屋コースが分岐する。その角に江戸期のものと思える石の道標が立っていた。2行の文字が穿たれている。右側は「右 たかやま道」は読めるが、左側ははっきりしないが、どうやら「左 西たいら道」と読める。西平はぶな峠を越えた山の向こう側、古刹・慈光寺の鎮座する集落である。なにやら巡礼たちの足音が聞こえてくるようだ。

 その先に進むと、右側に白山神社の小さな社を見る。旧北川村の鎮守である。更に進む。左側に沿う北川の対岸に全昌寺の山門が現れた。曹洞宗の禅寺である。小さな橋を渡って行ってみる。人の気配もなく、凛とした空気が漂っている。山村の寺にしてはなかなか趣のある寺である。街道に戻る。目指す中組自治会館はそのすぐ先の道路右側にあった。庭先には秋葉神社の小さな祠と4柱の石碑、石仏が並んでいる。ここからいよいよ登山開始である。

 自治会館横より背後の山中に向って急角度で登り上げている幅広の地道がある。ブル道と思われるが、この道が北川尾根の取り付きである。ただし、入り口に標示はおろか赤テープ一つない。急坂を一つ折り返すと、左側潅木に赤テープが一つ結ばれ、そこから細い踏跡が急斜面を直登している。一瞬通り過ぎたが、胸騒ぎがして戻る。踏跡を登り上げてみると、上空に巨大な岩塔が見えてきた。雑誌の登山記録に記載されていた「北川の岩場」のようである。この巨大な岩はロッククライミングの練習場となっているようで、使用上の注意書きが掲げられている。ただし、人影はない。巨岩を右側から巻いて背後の尾根末端に登り上げる。「秋葉大権現」と刻まれた石柱が立っている。背後に展望が開け、真青に晴れ渡った空に伊豆ヶ岳を主峰とした山並みの連なりが見える。ひと休みする。

 尾根を辿っての前進を開始する。辺りは鬱蒼とした杉檜の植林で展望は一切ない。尾根上には細いながらも明確な踏跡が確認できひと安心する。緩く下って急登し、顕著なピークに登り上げる。地図上の460メートルピークかと一瞬思ったが、違うようである。小さなピークを幾つか越える。左より顕著な尾根が合流し、明確なピークに達した。どうやらここが460メートルピークのようであるが、特に標示はない。特徴のない小ピークが続くので、現在位置を確と確認しにくい。そのまま少し下ると木の幹に見落としそうな小さな標示が張付けられてあった。来し方を「西吾野駅」、行く末を「グリーンライン」。辿っているルートに間違いはないことを確認する。それにしても私製ながらも道標のあったことに驚く。

 相変わらず杉檜林の中の特徴のない登り下りが続く。辺りは静寂そのもので風の音さえしない。もちろん、人の気配なぞまったくない。下草に笹が現れだした。踏跡は相変わらず明確である。笹が消えると厳しい急登となった。持参のストックを突き立てグイグイ登っていく。まだ登り始めたばかり、元気が有り余っている。登り上げたピークは510メートル峰であった。ここにも先程と同様消え入りそうな小さな標示があった。現在位置を「510m」、来し方を「西吾野駅」、行く末を「グリーライン」と標示している。ひと休みする。

 尾根が何やら明るくなった。ここまでの鬱蒼とした杉檜林に代わって、尾根の右側が自然林となったのだ。木の間越しではあるが行く手奥にはこれから登り詰める稜線も見える。ただし、足下の踏跡は怪しくなった。散り積もった落ち葉に隠れ、もはや確とは確認できない。次の地図上の目標は636メートル峰なのだが、雑誌の記録によるとルートはこのピークを右から巻くようである。進むに従い、尾根の勾配は緩むが、踏跡は完全に消えてしまった。思い切って山稜の右斜面に逃げる。ルートの取り方に間違いはなかったようで、すぐに尾根を右から巻く確りした踏跡が現れた。

 すぐに三差路に達した。文久元年(1861年)銘の石仏と元治2年(1865年)銘の庚申塔が立つ。山中初めて見る人工物である。小さな標示が来し方を「中組」、左に折れる踏跡を「グリーンライン」右に下って行く踏跡を「高畑、不動三滝」と標示している。この地点は高畑集落のすぐ上部のはずである。座り込んで持参のパンを頬張る。辺りは鬱蒼とした杉檜林で休むと寒い。

 標示に従い「グリーンライン」への踏跡を辿る。尾根を巻くように進む踏跡である。しかしすぐに踏跡は二つに分かれた。一つはそのまま尾根を巻くように進む踏跡、もう一つは左に分かれ、戻るようにして尾根を登って行く踏跡。分岐に標示は何もない。後者の踏跡を選ぶ。踏跡は回り込むようにして尾根に登り上げ、そのまま尾根上を進む。次第に踏跡ははっきりしなくなるが、尾根上を辿るかぎりルートに心配はない。

 尾根は凄まじい急斜面に突き当たった。確りした踏跡が尾根を右から巻くように続いている。しかし、雑誌の記録によると、ここは強引に目の前に立ちはだかる急斜面を登り上げるのがルートのようである。幾つかの赤布も急斜面を進むことを示している。斜面に取りつく。危険を感じるほどの傾斜である。踏跡もはっきりしない。立ち木に掴まりながら、滑り落ちるステップに注意し、1歩1歩身体を引き上げる。

 さしもの急斜面も登るに従い傾斜が緩む。見上げると上方にグリーンラインのガードレールが見えるではないか。もうひと息である。10時39分、ガードレールの隙間を抜けて、ついにグリーラインに登り上げた。北川尾根踏破の無事完了である。道路端にへなへなと座り込む。立派な稜線林道だが、通る車もなく、ハイカーの姿もない。林道から尾根への下降点には赤布一枚結ばれていない。これでは下降点が特定できず、下山にこのルートをたどることは困難かも知れない。

 この後の今日の計画は、この地点から稜線を南に辿り、「関八州見晴台」まで行くつもりである。ただし、その前に、稜線を北へ、すなわち逆方向に辿り、この地点の北方約1キロの飯盛峠を往復する予定である。この高麗川左岸稜上に印された我が足跡は、北端の旧正丸峠から南下して飯盛峠まで印されている。今日の足跡を過去の足跡につなげるために飯盛峠まで行く必要がある。

 稜線を北へ辿る。林道歩きと登山道歩きが半々である。グリーンラインと呼ばれる稜線林道は小さなピークを巻いており、その小さなピーク上には昔からの登山道が残されている。こんな目茶苦茶にされた稜線を辿るハイカーは少ないと見え、人影を見ない。また、皮肉なことに、鋪装された立派な林道を走る車の姿もない。林道歩きと登山道歩きを数回繰り返すと、見覚えのある飯盛峠に到着した。平成12年3月以来の訪問である。

 飯盛峠は峠の北に聳える816.3メートル峰と南に聳える795.2メートル峰の間の顕著な鞍部ではあるが、古道の越える昔ながらの峠ではない。ただし、明るく大きく開けていて気持ちのよい峠である。座り込んでひと休みしていたらトレイルランナーが二人林道を駆け抜けていった。今日山中で見かけた初めての人影である。

 さて、ここからいよいよ稜線を南に縦走し、北川尾根下降点まで戻り、さらに関八州見晴台まで縦走することになる。ただし、その前に飯盛峠の南に聳える795.2メートル峰に登っておこう。飯盛山と呼ばれるピークである。ただし、峠の北に聳える816.3メートル峰も飯盛山と呼ばれている。峠を挟んで向いあう二つのピークが共に飯盛山なのである。どちらのピークも、まさに茶碗にご飯を大盛りにしたようなモッコリした山容をしている。そして、ちょっと不思議に思うのだが、この795.2メートル飯盛山には登山道がない。従って縦走路上にはこの山を示す道標は一切ない。稜線林道(グリーンライン)はこの山を西側から巻いてしまっているし、山頂を通る縦走路もない。(816.3メートル飯盛山には縦走路が山頂を通過している)。しかし、山頂に登り上げる弱い踏跡はある。物好きのハイカーが時折登るのであろう。私もその一人だがーーー。

 ガードレールの隙間から山頂に続く踏跡に入る。この山の頂は平成12年の3月に踏んでいる。登り上げた山頂には真新しい立派な山頂標示が立てられていた。「飯盛山(竜ヶ谷富士) 越生町最高峰 795.2m」。さらに隣りには「峠を挟んだ反対側の816.3m峰も同名の飯盛山と呼ばれる」旨の説明まで添えられていた。嬉しくなった。2年半前に登った際にはこの頂きには山頂標示一つなかったのだからーーー。

 稜線林道(グリーンライン)に下り、南に歩を進める。相変わらず、林道歩きと登山道歩きの繰り返しである。誰にも会わない。好天の土曜日だというのにーーー。どこまで行っても道は雑木の中で展望は得られない。ただし、燦々と降り注ぐ日差しは暖かい。林道を離れ、770m峰を越える登山道を行くと、突然人家が現れた。茶店のようだが営業はしていない。と、前方の高みから子供たちの声が聞こえる。どうやら目指す関八州見晴台のようである。足早に高みに登り上げると、思わず「あ」と声が漏れるほどの大展望が待っていた。

 山頂は枯れ草が敷き占められた大きな広場となっており、三方が大きく開けている。広場の真ん中には休憩舎と仏堂が建つ。ここは高山不動尊の奥の院でもある。何組ものパーティが、あるいは車座になり、あるいは一人静かに座り込み、太陽の光を一杯に浴びて、この一時の幸せを満喫している。

 私もザックをベンチの上に下ろし、何はともあれ、眼前の大展望を楽しもう。先ずは、山々が視界の限り折り重なる西を眺める。真っ先に目に飛び込むのは真っ白な富士山である。この山が見えると、何となく幸せな気分になる。日本が世界誇る名峰である。その前面に見えるのは奥多摩三山の御前山、その左には独特の山容の大岳山も見えている。富士山から右に目を移す。奥多摩の川乗山が思いのほか大きくその全貌を晒し、そこから右に都県尾根の山が続く。日向沢の峰、蕎麦粒山、三つドッケ、ーーー。更にその前面に、蕨山、伊豆ヶ岳、大持山などの奥武蔵核心部の山々が連なり、右端にはひときわ高く、盟主・武甲山が凛として聳えたっている。更にその右には、木々が若干邪魔にはなるが、埼玉県の誇る名峰・両神山の独特の山容がはっきりと確認できる。今日は何と視界がよいことか。

 南を望む。高く昇った太陽のためか、西方ほど視界ははっきりしないが、うち重なる低い山並みの背後に丹沢山塊が見える。一番左に三角形の大山がぽつんと一つ離れ、その右手から 塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳と核心部の山々が確認できる。東を望む。薄く靄った関東平野がどこまでも続き、その奥にあるはずの筑波山は見えない。ただし、目を北に大きく振ると、白く霞んだ山並みが微かに見える。日光連山である。僅かに男体山が確認できた。嬉しいことに、山頂には三方に詳細な展望図が掲げられている。展望図と見比べ見比べ山岳同定に励む。あとはゆっくりと枯れ草の上に座り込み、パンを頬張りながら、心ゆくまで大展望を眺め続ける。

 さて、この先の今日の行程を決めなければならない。稜線を右に下り、高山不動尊を経て西吾野駅または吾野駅に出るか、あるいは、稜線を更に傘杉峠、顔振峠と縦走して左側の黒山三滝に下るか。考慮の末、後者を採ることにした。このコースなら帰宅ルートが楽である。バスで越生に出て、東武鉄道で坂戸経由東松山に出ればよい。東松山からはバスが鴻巣に向け頻発している。

 花立松ノ峠を示す道標に従い、稜線を東に向う登山道に踏み込む。途端に人の気配が消えた。関八州見晴台に集うハイカーのほとんどは、高山不動尊とを結ぶルートを歩いているようである。樹林の中の確りした登山道を下っていくと、標示があり、左に「四寸道」が分岐した。「四寸道」とは昔の高山不動尊への参拝道であり山伏の駆けた道である。現在では廃道に近いと聞いていたが、見たところ確りした小道である、こうして道標まである。何時か歩いてみたいとの思いが湧く。すぐに、グリーンラインに下り立ち、そのすぐ先が花立松ノ峠であった。猿岩林道が分岐し、黒山三滝方面に向って下っている。

 私は更に稜線を先に進む。相変わらず林道歩き、登山道歩きを何度か繰り返す。まったく人と会わない。不思議なほどである。花立松ノ峠から30分ほど歩き続けると登山道からグリーンラインに下り立ち、そこが傘杉峠であった。樹林の中の暗い感じの峠である。珍しく、単独行者が一人休んでいた。設置されたベンチに腰を下ろす。時刻は12時51分、顔振峠まで行けないこともないが、いささか疲れた。縦走をここで打ち切り、黒山三滝に下ることを決意する。

 沢に沿った単調な山道を下る。確りした道である。登ってくる二人連れとすれ違う。この時刻に登りとはーーー。どこまで行くつもりなのだろう。40分ほど下り続け、飽き飽きするころ黒山三滝に到着した。埼玉県内にあっては少しは名の知れた観光地である。ところが、観光客の姿は皆無、売店の戸も堅く閉められている。ようするに滝周辺には人っ子一人いないのである。観光地どころか廃虚の匂いさえする。それでも、案内に従い奥へ進むと、2段になって落下する男滝、女滝に出会えた。更に少々下った地点には天狗滝があった。いずれもこじんまりした優雅な滝ではあるが、いかんせん、水量が少ない。こんなもんかと納得して、バス停のある黒山集落へ向う。意外に遠く、滝から15分も歩かされた。途中で見かけた観光ホテルも営業を中止した気配で、観光地としての黒山三滝は終わった気配である。到着したバス停でのバス待ち時間は40分であった。今年最後のハイキングの終了である。

 登りついた頂  
     飯盛山(龍ヶ谷富士雄岳)  795.2 メートル
     関八州見晴台         771.1 メートル
                                  

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