おじさんバックパッカーの一人旅   

チェンマイ近傍の二つの古代都市遺跡訪問

ピン川に消えた幻の王都ヴィアン・クムカームと

ハリプンチャイ王国時代の古代都市ヴィアン・ターカン

2010年1月16日

         〜19日

 
 第1章 チェンマイへの列車の旅

 タイ北部の中心都市・チェンマイは「北の薔薇」と呼ばれる美しい都市である。ラーンナー王国の古都であり、いわばタイの京都である。私も何度か訪れたが、五つの城門と城濠、連なる多くの寺院が綾なす街並みはまさに古都の風情がある。ただし、私はこの街が余り好きになれない。騒音と排ガスをまき散らす車の群れ、わが物顔に闊歩する無数の半裸のファラン(欧米人)。物価も高く、はびこる商業主義がせっかくの街並みを台なしにしている。

 もはやわざわざ行く気の起きないチェンマイであるが、その近傍にある二つの古代都市遺跡が前々から気になっている。「ヴィアン・クムカーム(Wiang Kumkam)」と「ヴィアン・ターカン(Wiang Thakan)」である。前者はラーンナー王国のチェンマイ以前の王都であり、後者はラーンナー王国以前に栄えたモン族の国・ハリプンチャイ王国時代に建設された都市である.何となくロマンの香りがする。両都市遺跡とも発掘整備を終え、公開されているらしいが、この都市遺跡を紹介する日本の案内書はない。チェンマイは今回のラオへの旅の通り道になる。長年の懸案を果たすチャンスである。

 1月16日。いよいよバンコクから北へ旅立つ。先ず目指すは、古都チェンマイである。飛行機で行くか、列車で行くか迷ったが、前日、ホアランポーン駅発8時30分特別急行9号の2等座席チケットを用意した。チェンマイまで列車で行くのは2度目であるが、前回は夜行列車であった。今回は思う存分車窓の景色を楽しむつもりでいる。ただし、心配が一つある。チェンマイ到着が時刻表では20時30分、1〜2時間遅れるのが常であるから到着は大分遅くなりそうである。夜遅く宿を探すのは不安が大きい。

 BTS、地下鉄を乗り継いで8時前にバンコクの中央駅ファランポーン駅に行く。いつもの通り大勢の人でごった返している。大きなザックを担いだバックパッカーの姿も多い。私もその1人であるが。所が発車時刻が迫っても列車が入線しない。駅アナウスが20分遅れを告げている。ただし、タイ語放送のみのため、私は何とか聞き取ったが、多くの外人バックパッカーは事情が分からずオロオロしている。漸く、30分遅れで列車は発車した。2等車のみの3輛編成の列車で、ほぼ満席である。私の隣は空席であったが、アユタヤから若い女が乗ってきた。香水の匂いが強く鼻につく。10時にはパンケーキと飲み物、12時には昼食が配られた。

 ロッブリー、ナコンサワンと窓外に見覚えのある景色が続く。ピッサヌロークまでは昨年の4月に通った経路である。ウタラディットで隣の女は降りていった。次のSila Atで、上り列車待ちの為30分も停車。少々いらつく。続いてきた田園風景が終わり、列車は山中へと進んでいく。デンチャイを過ぎると本格的な山岳地帯となった。何処までも何処までも山肌を覆う原生林が続く。人家はまったく見られない。列車は喘ぎながらのろのろと進む。夕暮れを迎え、辺りは次第に暗さを増す。何となく侘びしくなってくる。それにしても、これほどの山深さは想定外である。昨年の4月、タークからチェンマイへバスで向ったが、大きな山越えなどなかった。いつしか日も暮れ。外は漆黒の闇となった。もはや何も見えない。

 漸く、小さな光の点が時折見えるようになり、時間とともにその数を増した。どうやら山越えは終わったようである。街並みが現れ、列車はランパーンに到着した。チェンマイまで、あと2時間程の距離である。この分では到着は大分遅れそうである。

 21時15分、列車は45分遅れで終点チェンマイ駅のホームに滑り込んだ。やれやれである。駅にはホテル紹介カウンターが設けられていた。さすが国際観光都市である。ホテルの確保をそれほど心配することはなかったようである。多くのバックパーカーがカウンターの前に列をなしている。私も並ぼうとしたが、気が変わって、何度か利用したことのあるホテルへ直接行ってみることにする。駅舎を出ると大勢のトゥクトゥクやソンテウの運転手に囲まれた。彼らにとっては今日最後の、そして最大のかき入れ時である。ターぺー門まで普通なら50バーツ程度なのだが80バーツの言い値、仕方がないか。目指したホテルに幸い空き室はあった。しかし、値段を聞いてびっくりした。何と、1泊1,680バーツだという。昨年の4月に泊まった際は1,100バーツであった。わずか9ヶ月で50%以上の値上げとは驚きである。憤然と立ち去りたい所だか、時刻は既に22時近い。1泊のみして、明日別の宿を探そう。案内された部屋は皮肉にも、昨年泊まった部屋であった。

 
 第2章 ピン川に消えた幻の王都・ヴィアン・クムカーム(Wiang Kumkam)訪問

 1月17日。9時チェックアウト。近くのゲストハウスに行ってみたが、満室と断られてしまった。仕方がないので15分ほど歩いて旧市街南東にあるゲストハウス街に行く。この地区に足を踏み入れるのは初めてである。多くのゲストハウス、食堂、旅行代理店などが立ち並び、バックパッカーの街を形成している。行き当たりばったりでトップ・ノース・ゲストハウスにチェックインする。プールや食堂、ツアーデスクまである巨大なゲストハウスである。1泊400バーツ、昨日のホテルの1/4以下の料金である。

 10時、自転車を借り、ヴィアン・クムカームを目指して出発する。チェンマイの中心部から5キロ程の距離である。ヴィアン・クムカームはラーンナー王国の王都の跡である。多くの歴史教科書は、「1296年、ラーンナー王国のメンラーイ王が新都チェンマイを建設しチェンライから遷都した」と記す。しかし、この記載は正確ではない。史実は、1294年に新都ヴィアン・クムカームを建設しチェンライからに遷都し、更に2年後の1296年にチェンマイに遷都している。ヴィアン・クムカームはわずか2年と言えどもラーンナー王国の王都であったのである。そして、チェンマイに王都が移った後も、王都の南の防衛を担う都市として発展し続けた。

 ヴィアン・クムカームはピン川に面していた。そして、この都市を発展させたのも滅亡させたのもピン川であった。すなわち、ピン川の水運が街を発展させ、洪水が街を滅亡させた。特に、16世紀〜18世紀に起ったと思われる大洪水は街を完全に埋め尽くし、地上から消し去った。そして、ピン川の流れも変わり、いつしか街のあった場所さえ不明となった。

 1984年、偶然、この地にあったワット・チェンカムの境内から古い仏像や陶器が発掘された。これを契機に、本格的な発掘調査や上空からの調査が行われた結果、長さ850メートル、幅600メートルの城壁と濠に囲まれた都市遺跡が確認された。また、21カ所に及ぶ寺院遺跡も確認され、この地がヴィアン・クムカームであったことが判明した。
 
 市街地を抜け、ピン川左岸に沿ってチェンマイ・ランプーン通りを南下する。この通りは実に素晴らしい。道の両側にゴムの木の巨木が並木となって続き、古街道の雰囲気を色濃く残している。世界街道100を選ぶとしたら間違いなく選定されるだろう。しかし、交通量も多く、並木によって道幅が狭められているので、自転車での通行はかなり苦しい。国道1141号線との大きな交叉点を過ぎ、さらに1キロほどペタルを漕ぐと、左側にワット・クー・カーウ(Wat Ku Khao)廃寺の上部の掛けた仏塔が現れた。ここを右(西)に曲がりスリーブンルアン通り入る。薄い家並みの続く細道である。大都会チェンマイの街並みもここまでは押し寄せていない。この通りが旧ピン川の河床で、その南側一帯が目指すヴィアン・クムカームである。進むに従い、点々と遺跡を示す道標が現れる。先ず目指すのはこの遺跡の中心に建つワット・チェンカム(Wat Changkam)である。道標に従い細道を左(南)に入ると、ちょうど11時、目指す寺院に到着した。

 ワット・チェンカムは大きなウィハーン(礼拝堂)と白色のチェディ(仏塔)を持つ現役の寺院である。ヴィアン・クムカーム消滅後にこの地に建てられたと考えられる。その境内に煉瓦積みの基礎のみ残る遺跡が広がっている。この遺跡こそが、かつて王都の中心に建っていたワット・カーントーム(Wat Kanthom)のウィハーンとチェディの跡である。木陰に座し、しばし華やかりし頃の古都に思いを寄せる。ここがヴィアン・クムカーム見学のセンターとなっており、遺跡を巡る馬車と遊覧車が発着している。周囲には思いのほか多くの見学者の姿が見られる。ただし、全てタイ人で外国人の姿はない。遺跡の隅に小さな祠がある。メンラーイ王が建てたと言われるサーラーピー(精霊の家)で、折しも多くの参拝者が列をなしている。

 ワット・カーントーム遺跡のすぐ西側がワット・タートゥノーイ(Wat Thatnoi)遺跡であった。森に囲まれた小さな遺跡で、ウィハーンとチェディの煉瓦積みの基礎のみが残されている。道標に従い、400〜500メートル西に自転車を走らすと、赤茶けた煉瓦剥き出しの大きなチェディの建つ遺跡が現れた。ワット・イーカーン(Wat E-Kang)遺跡である。チェディの北側には1メートルほどの柱の跡の残るウィハーン跡も確認できる。この遺跡はヴィアン・クムカーム遺跡群の中でもっとも見ごたえのあるものであった。草原に座しそそり立つチェディをうっとり眺めていたら、観光馬車がやって来て、短い停車の後去っていった。

 更に100メートルほど西に移動すると、ワット・プーピア(Wat Pupia)遺跡に達した。上部の少し欠けたチェディと、壁の部分の少し残ったウィハーン、ウボーソット(布薩堂)が残っている。こじんまりしたなかなか美しい遺跡である。誰もいない。南国の太陽が赤茶けた煉瓦を照らし、辺りは静寂に包まれている。再び、北へ向って少しペタルを漕ぐとワット・タートゥカーウ(Wat Thatkhao)遺跡が現れた。草が生い茂り、少々荒れた感じのする遺跡である。崩れかけ原形を留めないチェディとその前に柱の1部がわずかに残るウィハーンが確認できる。更に、その脇の建物跡に近代に設置されたと思われる大きな仏像が据えられている。ひと休みしていたら、タイ人の家族が車でやってきて、遺跡には見向きもせず、仏像に供物を供えて熱心に祈りを捧げていた。

 林の中の細道をちょっと北に走るとワット・プラ・チャオ・オン・ダム(Wat Phra Chao Ong Dam)遺跡とワット・パヤ・メンラーイ(Wat Phaya Mangrai)遺跡が隣りどうしで現れた。ただし、前者はウィハーンの基壇のみ、後者もチェディとウィハーンの基壇がわずかに残っているのみで見ごたえはない。辺りは荒れた感じの林で、1人でいると何となく怖い。

 曲がりくねり、入り組んだ小道を西に向っていい加減に走ると、ワット・チェディ・リヤム(Wat Chedi Liam)との標示のある現代の寺院に達した。その境内にある巨大チェディにあっと息をのんだ。見事なまでのハリプンチャイ様式のチェディである。四角錐の四面には多くの仏龕が穿たれ、白い漆喰は剥がれかけてはいるが、形は完璧に保たれている。説明書きもなく、このチェディが何を意味するのか分からない。現代の寺院とは歴史を異にしそうであるが、ヴィアン・クムカーム遺跡の一部なのだろうか。発掘調査の結果では、ヴィアン・クムカームの街が築かれる以前から、すなわちハリプンチャイ王国の時代に、既にこの地には集落があったことが確認されている。

 更に西に進むとピン川に突き当たった。現在、ピン川はヴィアン・クムカームの西側を流れているが、王都建設当時は北側を流れていた。この付近にヴィアン・クムカーム最西端の遺跡・ワット・パータン(Wat Patan)があるはずなのだが探しても見当たらない。民家のおばさんに聞いてみると、ピン川の洪水で遺跡は水没したとのこと。ヴィアン・クムカームを地上から消し去ったピン川は今でも雨期には洪水を繰り返している。

 少々道に迷いながら、いったんスタート地点のワット・チャンカムに引き返す。さすが炎天下の行動で大分疲れた。この遺跡群の見学は皆、馬車や観覧車を利用しており、自転車で回っているものなど見当たらない。次は遺跡群の東側を探索することにする。北に向って進むと道の右側(東側)にワット・クー・アイラン(Wat Ku Ailan)、左側にワット・クムカム(Wat Kumkam)の遺跡がある。どちらも基壇が残るだけの小さな遺跡である。更に北へ進むと、遺跡群の北を区切るスリーブンルアン通りに出る。ここにワット・パンラオ(Wat Phanlao)の遺跡があるが基礎石だけでつまらない。東に大きく回り込むとワット・ファーノン(Wat Huanong)遺跡に突き当たった。実に広大な遺跡である。基部に像の彫像のある原形を留めぬほど崩れたチェディが目に付く。城壁と城門の跡も確認できる。その他、多くの建物の基部が赤茶けた煉瓦の塊として残るが、かなり叢が深く、近づくのを躊躇する。ただし、往時はさぞや壮大であったろうとの想像はつく。

 途中ワット・クー・アイシー(Wat Ku Aisi)の小さな遺跡を見て荒れ地の中の小道を南下すると、遺跡群の南の区切りとなるザ・リン通り(The Ring Road)に突き当たる。ここにワット・クー・マイソン(Wat Ku Maisong)遺跡があった。下部のみ残るチェディとウィハーンの痕跡が確認できるが、辺りは鬱蒼とした叢である。案内図によると、この辺りにヴィアン・クムカームの城壁の跡があるとのことなので探してみたが見つけることは出来なかった。更に付近にあるワット・クムカム・ティープラム・No.1(Wat Kukam Teepram No.1)、ワット・クー・マグルエル(Wat Ku Maguluer)、ワット・クムカム・ティープラム(Wat Kumkam Teepram)などの小遺跡を見学し、帰路に着く。もはや疲労困憊である。交通量の多いチェンマイ・ランプーン通り、チェンマイの市内を危なっかしいハンドルさばきでのろのろと進み、何とか無事にゲストハウスに帰り着いた。それでも、幻の王都を見学できたとの満足感は疲労をも心地よく感じさせるほどであった。

 
 第3章 ハリプンチャイ王国時代の古代都市・ヴィアン・ターカン訪問

 ヴィアン・クムカームへの自転車旅行で疲れ果て、早めに布団に入った。所が、CDプレーヤーからと思える隣室からの音楽がうるさくて寝られない。隣室との区切りは板壁一枚である。22時を過ぎても止まない。仕切りの板壁をドンドンと強く叩くと、音は幾分小さくなる。と言うことは、こちらの意思は通じているはずなのだが。「いくら何でも」と思った午前0時を回っても止まない。よほど直接部屋に乗り込もうかとも思ったが、どんなやつがいるとも分からず、やはり怖い。何度か板壁を思いきりドンドン叩くが、一瞬音は小さくなるものの、暫くすると元に戻る。午前2時を過ぎても止まない。そのうちウトウトしたが、午前4時に騒音で再び目が覚めた。もはや我慢の限界をはるかに越えた。フロントに行って事情を訴えた。フロントの兄ちゃんを連れて部屋に戻る。兄ちゃんが隣室のドアを何回かノックする。しかし、ドアは開かない。その代わり音は相当小さくなった。相手が起きていることは確かだ。いったい、どんなやつなんだ。我慢できる程度に音が小さくなったので寝る。
 
 1月18日。いささか寝不足だが、今日は古代都市遺跡・ヴィアン・ターカン(Wiang Thakan)を訪問する。チェンマイの南40〜50キロほどに位置するハリプンチャイ王国時代の都市遺跡である。問題はそこまでどうやって行くかである。公共交通機関はない。また、遺跡まで行ったとしても、広範囲に散らばる各遺跡を歩いて回るのは不可能である。考えられる唯一の方法は、チェンマイからバイクを自分で運転していくことである。私もそのつもりでいるが、交通量の激しい国道108号線を行くことになり、不安が大きい。また、タイ語の道路標識を読めない中、果たして目的地に行き着けるだろうかーーー。バイクで事故に遭っても海外旅行保険は効かない。前日まで逡巡していたが、朝起きたら完全に行く気になっている。

 ヴィアン・ターカンの街が建設されたのは11世紀〜12世紀と考えられている。この時代、北タイに君臨していたのはモン(Mon)族の国ハリプンチャイ王国である。モン族は現在のタイからミャンマー南部にかけて居住した先住民族である。早くから仏教を受け入れ、モン文字を創造するなど、現在の東南アジア文化の基礎を築いた民族として知られている。モン族は6世紀頃より各地に都市国家を建設する。その代表的な国家が、ナコーンパトムを王都としてタイ南部に栄えたドゥヴァーラヴァティー王国とハリプンチャイ(現在のランプーン)を王都としてタイ北部に栄えたハリプンチャイ王国である。ハリプンチャイ王国は12世紀〜13世紀初頭に掛けて絶頂期を迎える。ヴィアン・ターカンが建設されたのはちょうどこの頃である。王都ハリプンチャイの補完都市であったと考えられている。伝説はブッダがハリプンチャイとヴィアン・ターカンを訪れたと伝えている。

 しかし、隆盛を誇ったハリプンチャイ王国も、1281年、北方に興ったタイ・ユアン族の国家ラーンナー王国に滅ぼされ、ヴィアン・ターカンもその支配下に入る。更に、1558年、ラーンナー王朝はビルマ・タウングー王朝の支配下に入り、ヴィアン・ターカンの街は荒廃した。現在、街は発掘され整備されている様子だが、この都市遺跡を紹介した日本の案内書はない。

 9時ゲストハウスを出る。スズキの100CCのバイクを200バーツで借りていざ出発。途中ガソリンを入れ、交通量の激しい市街地を慎重に抜け、国道108号線に入る。この道を30〜40キロひたすら南下して、トンシアオ(Thung Sieo)の街で左折すればよい。ただし、問題はこの左折地点が特定できるかどうかである。土地勘もないし、いわんや、タイ語の標示は読めない。国道108号線はさすがタイの国道、市域は片側3車線、その後は片側2車線の立派な道路である。ただし、交通量がかなり多く怖い。その上、駐車車輛が多く、その度に本線に出ざるを得ない。後ろから時速100キロものスピードで車が迫ってくる。道路標示は、当然ながら、全てタイ語。現在位置がどの辺なのかもよく分からない。時折現れる英語の副書きのある標示が唯一の頼りである。

 サンパトーン(San Pa Tong)まで9キロとの標示を見つけた。距離メーターを確認し、9キロほど進むと賑やかな街並みに入った。車線も片側1車線に狭まり渋滞している。ランプーンへ向う国道1015線が分岐しているのでサンパトーンの街に間違いない。ようやく現在位置が確認できた。目標とするトンシアオの街はここから約10キロのはず、再び距離メーターを確認する。街を抜けると、交通量も減り、いたって走りやすくなる。6キロほど走るとトンシアオの街域入り口を示す道標を見つけた。もう安心である。やがて小さな街並みが現れ、その中心に信号のある交叉点があった。左に曲がる方向には、ワット・ターカンの標示さえもある。

 左折するとすぐに田園風景となった。田舎道をのんびりと2キロほど進むと左手に古色蒼然とした大きなチェディが現れた。ヴィアン・ターカン遺跡の一つで、第6遺跡群のワット・トン・コーク(Wat Ton Kok)である。この遺跡の見学は後回しにして、先ずは遺跡群見学の拠点となる第1遺跡群に行こう。更に道を1キロほど進むと目指す最終目的地に到着した。目の前に広大な遺跡が広がっている。ついにやって来た。思わず顔がほころぶ。

 ヴィアン・ターカンの遺跡は三方を城壁と濠で囲まれた2キロ四方ほどの領域に点在し、第1遺跡群〜第6遺跡群と幾つかの単独遺跡からなる。全部で30程の寺院遺跡が存在するようである。その中心となるのが今到着した第1遺跡群で、遺跡群全体の案内図や小さな資料館もある。真新しい立派なトイレもある。資料館のドアは半開きになっているが、電灯も消え、中に人影もない。貴重な展示物があるのに少々物騒である。

 目の前に広がる広大な遺跡にも人影はない。ただただ、赤茶けた煉瓦の積み重ねが視界一杯に広がっている。その中に、ほぼ原形を留めた2つのチェディ(仏塔)が、燦々と降り注ぐ太陽の光を浴びて、すっくとそそり立っている。第1遺跡群の奥が第3遺跡群で、両遺跡群は一体となっている。スコータイ遺跡やアユタヤ遺跡にも匹敵する壮大な遺跡である。それにしても、この壮大な遺跡を独り占めとは豪勢である。遺跡の中を歩き回る。伸び始めた下草が少々うるさい。建物の跡はいずれも基礎石と基壇のみである。ウィハーン(礼拝堂)やウボソット(布薩堂)であったのだろう。往時の華やかさが目に浮かぶ。

 いたって満足し、再びバイクに跨がって、集落の中の小道を北に辿る。すぐに第4遺跡群のワット・クラン・ヴアン(Wat Klang Wiang)に達した。下部のみ残るチェディと、基壇のみ残るウィハーンからなる小さな遺跡であった。この遺跡にも人影はない。入り組む集落内の小道をいい加減に北西に辿ると第2遺跡群のワット・ウボソット(Wat Ubosot)に行き着いた。基壇から頂上までほぼ完璧な姿で残る小型のチェディとその前に残る基壇だけのウィハーン、更にその前には屋根を失った楼門が残されている。チェディの横には現代の寺院が遺跡と対象的にあでやかな姿で立ち並んでいる。この遺跡にも人影は見られない。遺跡のすぐ背後は濠と城壁の跡であった。水を湛えた幅3メートルほどの濠と、その内側に土塁が続いている。橋を渡り城外に出ると、そこにワット・パー・パオ(Wat Pa Pao)があった。オークの林の中に基壇だけのチェディーの跡とウィハーンの跡が残る小さな遺跡である。周りに人家も人の気配もなく、何となく怖い。 

 城内に戻り、城の北東を目指す。辺りは典型的な農村集落で道には鶏と犬が遊んでいる。目指す第5遺跡群のワット・プラチャオカム(Wat Prajawkhm)に達した。チェディの下部と重厚なウィハーの基壇のみ残されている。相変わらず辺りに人の気配はない。細道を隔てた反対側には基壇と柱の跡がわずかに残るウボソットの跡と思われる遺構も残っている・

 城外に出て、街道をトンシアオ方面に戻る。程なく第6遺跡群のワット・トン・コーク(Wat Ton Kok)に達した。あの巨大なチェディを伴う遺跡である。鬱蒼とした森を背景にすっくとそそり立つチェディは圧倒的な存在感がある。15世紀〜17世紀に建設されたらしい。背後の森の中に未だ多くの遺跡が眠っている様子であるが、未だ発掘はなされていない。

 再びバイクを走らせて城の南東に回る。濠の外側に大きな遺跡が広がっている。ワット・パーパイルアック(Wat Phapairuawk)である。 Phapairuawkとは「竹」を意味する。この寺の背後に竹が生い茂っていることによるらしい。確かに、大きな遺跡の周りは竹やぶである。基壇のみ残る2つのチェディ跡と、2つのウィハーンの分厚い基壇、その他幾つかの建物の跡が残っている。ワット・パーパイルアックと対峙して濠の内側にも中規模の遺跡が広がっている。農道のような細道を辿っていってみると、オークの林の中にワット・クラーンヴィエン遺跡が横たわっていた。ここに到っても、遺跡に人影を見ない。これほどの遺跡群に見学者が私一人とは驚きである。

 城内南の端にあるワット・ノーイの小さな遺跡を見て、スタート地点の資料館に戻る。資料館は相変わらず電灯もつかず無人であった。これでヴィアン・ターカン遺跡の見学は終了である。満ち足りた気持ちで帰路に着く。
 
 チェンマイ市内を少々ぶらついて、夕刻ゲストハウスに戻る。すると、何と、隣の部屋から大音響の音楽が響き渡っているではないか。このままだと、今晩も昨晩の二の舞いになることは火を見るより明らかだ。反射的にフロントに行き、部屋の変更を申し出る。係りの女性は、最初は、満室だとか言っていたが、「ならばゲストハウスを変える」とまで強硬申し出ると、漸く変更に応じてくれた。変わった部屋はバスタブまである素晴らしい部屋であった。超満足である。夜9時過ぎ、元の部屋に偵察に行ってみると、相変わらず音楽が響き渡っていた。一体どんなやつが泊まっているのやら。明日はいよいよラオに向って旅立つ。
   

 

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