奥武蔵 金毘羅尾根から蕨山へ

思い出を綴る秋の縦走路

2002年10月27日

                
金毘羅尾根「見晴らし」より名栗湖の背後に棒の嶺を望む
 
川又バス停(750)→見晴らし(830〜835)→金比羅神社跡(855〜900)→金毘羅山(915〜930)→大ヨケの頭(1005〜1010)→藤棚山(1045〜1050)→蕨山(1115〜1130)→橋小屋の頭(1205〜1210)→ヤシタイの頭(1225)→ショウジクボの頭(1230)→滝の入りの頭(1240)→旧道分岐(1250〜1255)→鳥首峠(1310〜1325)→白岩集落跡(1345)→工場(1400)→妻坂峠分岐(1420)→名郷バス停(1430)

 
 天気予報が久しぶりに日曜日の晴天を告げている。登りたい山は多々あるのだが、最近は遠出するのがおっくうである。考えあぐねて、奥武蔵の一般コースを歩いてみる気になった。奥武蔵の山々は20年も前にほぼ登り尽くしているが、昔を思い出しつつ歩いてみるのも一興である。土地勘は完璧にあるし、危険度ゼロ。地図もいらない気軽な山行きである。金比羅尾根を登って蕨山まで行き、その先は成り行きに任せればよい。縦走路はさらに→鳥首峠→大持山→妻坂峠→武川岳と続いている。このコースなら未踏のままになっている金比羅尾根の金比羅山が稼げる。わざわざ登に行くような山ではないが、一応、二万五千図に山名記載された三角点峰である。また、大ヨケの頭から藤棚山に掛けての雑木林がすばらしいはずである。紅葉も少しは始まっているだろう。

 いつもの通り、東飯能駅発7時13分の名郷行きバスに乗る。ちょうど座席が埋まる程度のハイカーが乗り合わせていた。7時50分、河又のバス停で降りたのは、私のほか2パーティであったが、いずれも棒ノ嶺に向かうようである。バスを降りたが、周りの景色がすっかり変わっていて登山口がさっぱりわからない。私の頭の中の地図は名栗湖ができる前の古いものだ。おまけに最近「さわらびの里」という大きな温泉施設までできている。温泉施設への取り付け道路入り口には休憩舎、トイレ、案内図が設置されていた。しばしうろうろした挙げ句、案内図を再確認して、温泉施設への立派な道路を少し進むと、金比羅尾根への登り口が見つかった。墓地の脇からしっかりした踏み跡が山中に向かっている。ただしこの場所に道標がなく、ちょっとわかりにくい。

 植林地帯のいきなりの急登に息を切らす。小さな尾根筋に登り上げ、さらに急登すると、しっかりした尾根筋に達する。そのすぐ先の「見晴らし」と標示された小平地でひと休みする。東、南に展望が大きく開けている。眼下に名栗湖が広がり、その背後に棒ノ嶺のゆったりした稜線が、真っ青に晴れ渡った空にスカイラインを描いている。20年前とは違う景色である。昔、有間谷に何回も入り込んだ頃はダム工事中で、まだこのダム湖は出現していなかった。湖は景色に溶け込んでいるが、心痛む変貌が見える。棒ノ嶺から隣の槙ノ尾山に掛けて、稜線直下の山肌を林道が真一文字に切り裂いている。晴天のわりには、視界は少々寝ぼけている。

 再び樹林の中に入り、しっかりした尾根道を緩やかに登っていく。人の気配もせず、辺りは静寂が支配している。石鳥居をくぐり、ちょっとした急登を経ると金比羅神社に出た。しかし、社殿はなかった。最近焼失したようで、礎だけが残り、周囲の木々も焼けこげている。金比羅尾根の名称由来となった神社だけに残念である。基礎石に座り、朝食のいなり寿司を頬張る。鳥居観音方面への下山路が分かれているが道標はない。

 植林の中の緩やかな尾根道を辿る。秋葉大権現の小さな祠を見ると、道は顕著なピークを左から巻きに掛かった。案内書では登山道は金比羅山の頂を通過することになっているが、勘としてはこのピークが金比羅山と思える。巻いてしまうわけには行かない。植林の中の、踏み跡のない急斜面を強引に登り上げる。山頂の一角に達すると電波反射塔が建っており、その先に三角点を見つけた。やはりここが金比羅山であった。山頂部は広々とした樹林の中で、手製の小さな山頂標示が一つだけある。いったい年に何人の登山者が、この山頂をわざわざ訪れるだろうか。

 微かな踏み跡に沿って緩やかに下るとすぐに、巻きながら登ってきた登山道に合流した。緩く、きつく尾根道を登る。右側が雑木林となり気持ちがよい。北側に初めて視界が開けた。ゆったりした山容の武川岳から続く山稜が、妻坂峠の鞍部を経て、大持山の鋭い頂へと続いている。その背後には武甲山がカッコよく盛り上がっている。北側から眺める武甲山は健全であり、心が和む。中登坂と標示のある小鞍部に達すると有間谷への下山道が分かれる。小ヨケの頭は知らないうちに通り過ぎた。そろそろ大ヨケの頭と思う頃、突然、左側稜線直下に工事中の林道が現れた。びっくりするやら、悲しいやら。すぐ先が、大ヨケの頭であった。しかし、ここもまた、腹立たしい現実が待っていた。雑木林に囲まれた小さな頂の一方に、「林道工事のため通行止め」と大書きされたベニヤ板が無粋に立てられ、柵まで設けられて通せんぼされている。昔何度も通った有間谷へのルートである。長居は無用と、早々に出発する。

 期待通り、昔のままのすばらしい雑木林の尾根道となった。クヌギや小楢がうっすらと黄色く色づいている。この大ヨケの頭から藤棚山に掛けての稜線は奥武蔵でも1、2を争うほど雑木林が美しい。ただし、先ほどの工事中林道が相変わらず左側直下を走っていて、気分を壊す。その代償として視界が開ける。目の前に奥多摩の雄峰・川苔山が大きく立ちはだかっている。その前を棒ノ嶺から日向沢ノ峰に続く都県境尾根が長尾ノ丸を中心として緩やかに横切っている。いつしか黒い雲が湧きだし、日向沢ノ峰の頂をすっかり覆い隠している。やがて工事中林道も離れていった。ただ一筋に気持ちのよい雑木林の尾根道が続く。相変わらず人影はない。緩く、きつく登りながら尾根は次第に高度を上げる。やや急な登りを経ると、大棚山山頂に達した。緩やかな傾斜地の山頂部はただ一面の雑木林である。まさに、雑木林の美しさはこの山頂に極まる。座り込んで、森の精のつぶやきに耳を澄ます。木漏れ日が暖かい。

 重い腰を上げて、蕨山を目指す。ようやく2〜3のパーティとすれ違う。急斜面を登り上げると、そこが蕨山山頂であった。突然大勢の人が湧き出し、狭い山頂はにぎやかである。私も山頂の一角に陣取り、握り飯を頬張る。18年振り、5度目の頂である。この頂を最後に踏んだのは、1984年5月、当時3歳の長男を連れて、鳥首峠から縦走してきた。昔は360度の大展望が得られたこの頂も、南側は植林がすっかり大きくなり、視界を妨げてしまっている。わずかに北側、雑木の間から伊豆ヶ岳のぼやけた山容が確認できるだけであった。昔と同様、この頂に「蕨山山頂 1044メートル」と記載された立派な山頂標示が立っている。しかし、この山頂標示は嘘である。蕨山は双耳峰となっていて、この頂は1033メートル峰である。この事実を山頂で憩う登山者の果たして何人が知っている事やら。空はすっかり黒い雲に覆われ、雨さえ心配される。

 下山するにはまだ早い。鳥首峠に向け出発する。鞍部で名郷への下山路を分け、ひと登りすると、そこが蕨山の最高地点1044メートル峰である。ただし、登山道はこのピークの4〜5メートル下を巻いてしまっている。もちろん何の標示もない。登り上げてみると、何の変哲もない桧林の中で、「蕨山 1044メートル峰」と書かれた小さな板切れが一つぶら下がっていた。防火帯の広々とした尾根道を下る。この辺りも雑木林が美しい。前方には、木の間隠れに有間山が高々と立ちはだかっている。下り着いた逆川乗越は昔と景色が一変していた。当時は林道工事の最中で、この辺りは丸裸であったが、今では樹木がしっかり茂り落ち着いた雰囲気となっていた。車が一台駐車しており、傍らには休憩舎も建っていた。

 いよいよ有間山への登りにはいる。いまだ昔の記憶の生々しい大急登である。今は樹林の中の道だが、以前は裸地の急斜面であった。あまりの急斜面に3歳の息子は泣き出してしまった事を思い出す。ストックを頼りに、一歩一歩高度を稼ぐ。何段かに分かれた急登を登り切ると、有間山の一峰・橋小屋の頭に達する。単独行者がラーメンを作っていた。尾根はここで二つに分かれる。左が有間山への山稜だが道標はない。ひと休みの後、私は右の急斜面を下る。前方木の間にこれから越えるヤシタイの頭が真っ黒な鋭鋒となって浮かび上がっている。鞍部からの登りは急登ではあったが短かった。雑木林の中の痩せ尾根を進む。すぐにショウジクボの頭との標示のある小峰に達する。雑木林の急斜面を下る微かな踏み跡を、小さな道標が「白岩」と示している。

 さらに尾根道を辿る。小さなピークをいくつか越えると、滝の入の頭に達した。ちょうど反対側から中年の夫婦連れが登ってきた。木の間隠れに、槍先のような鋭い姿の大持山が見える。女「あの山はどこかしら」。男「――――」。女「きっと雲取山ね」。男「そうかも知れないな」。思わず口を出した。「あれは大持山です。雲取山はこっちの方向です」。90度左の方向を指さす。女「そうですか。そういえば、さっきその方向に高い山が見えたわ。きっと雲取山だったのね」。私「―――――」。今日は雲取山はまったく見えないはずである。このようなパーティでも道標に従って歩けば迷うこともないのが奥武蔵のよいところなのかも知れない。

 緩やかに下ると、尾根道は丸太で通せんぼ。道標が左の急斜面を下る細い踏み跡を「鳥首峠」と示している。昔は、もう暫く尾根道を下ったのち、支稜沿いに峠に下るルートが本道であった。現在道標の示すルートは近道ではあったが脇道であった。どうやら本道と脇道が入れ替わった様子である。道標に従う。しかし、この道は、記憶によると、ものすごい急斜面をずり落ちるようないやな道であった。踏み込んだ道は記憶通りであった。逆さ落としのような急斜面を、立木を頼りに下る。足を滑らすと真っ逆さまに下まで落ちそうで怖い。暫く下ると弱い尾根筋が現れ、右側に今日初めて越えてきた蕨山の姿を望むことができた。

 送電線鉄塔が現れ、そのすぐ下が鳥首峠であった。懐かしい場所である。樹林の中の暗い狭い鞍部で、小さな祠がぽつんと建っている。人気のない峠に座り込んで握り飯を頬張る。峠を吹き抜ける風が冷たい。この先の予定を考える。時刻は1時半近い。大持山まで行って妻坂峠に下ると、最後は日暮れと競争になりそうである。あくせくすることもあるまい。名郷に下ることにする。

 杉檜林の中の急斜面だが、さすがに峠道。ジグザグを切る道は歩きやすい。4人が登山道の補修作業をしている。仕事とはいえ、ありがたいことである。お礼を言って、さらに下る。白岩の廃村が現れた。戸も窓も破れた数軒の廃屋がわびしい姿で薮の中に建っている。以前来たときはまだ集落は健全であった。集落の人と朝の挨拶を交わしながら鳥首峠に向かったものだ。廃村になってもう10年以上経つという。車道も通じない山奥ではもう生活はできないのだろう。

 さらに下ると、石灰岩処理工場の敷地内に降り立った。ここからは見えないが、この上に大規模な石灰岩採掘場がある。今朝から時折発破の音が響き渡り、稜線から垣間見た採掘現場は山肌を大きく傷つけていた。昔はまだ小さな傷であったのだが。車道となった道を下る。妻坂峠道と合流し、すぐに名郷の集落に入った。バス停を見つけ、歩み寄ろうとした瞬間、バスがやってきた。まさに待ち時間ゼロ秒。何と幸運なことか。

 20年振りの奥武蔵縦走路であった。昔の思い出を綴る山旅でもあった。新たな林道の開削や古い集落の放棄などの悲しい変化はあったが、山々の姿は昔のままであった。縦走路では人にほとんど会わず、山々は相変わらず静であった。   

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