湖西連峰縦走弓張山脈を神石山から本坂峠へ縦走 |
1997年12月20日 |
奥浜名湖を望む
新所原駅(740)→梅田峠(815)→嵩山(825〜830)→梅田峠(835)→仏岩(850〜855)→らくだ岩分岐(905)→神石山(925〜935)→多米峠(1030〜1035)→大知波峠(1145〜1150)→富士見台(1215〜1230)→浅間神社(1250)→本坂峠(1255〜1300)→国道(1340)→三ヶ日駅(1445〜1507) |
浜名湖の西岸から北岸にかけて一筋の低い山並みが続いている。遠江と三河の国境稜線でもある弓張山脈である。一般的に、この山並みを中間の宇利峠で区切り、峠から南西に続く山並みを湖西連峰、西に続く山並みを湖北連峰と呼んでいる。山並の最高峰は富幕山の563メートルで、いたって低い山並みだが浜名湖の好展望台として知られている。左足首の負傷は徐々には回復しているようではあるが、今のところ歩行限界距離は2キロである。行きたいところは多々あるが、得意の長距離縦走はとても無理である。考えた挙げ句、この湖西連峰へ行ってみることにした。静岡市からはだいぶ遠いが、縦走路もよく整備されていそうだし、途中いくつも下山路があるため、足と相談して適当に距離を調節できる。
静岡から普通列車で1時間半。7時32分、静岡と愛知の県境の駅・新所原に降り立つ。今日はここから歩き初めて稜線を本坂峠まで縦走するつもりである。本来なら宇利峠まで縦走したいのだが、この足ではとても無理だ。街並の背後にこれから登る神石山から嵩山へ続く低い山並が見える。嵩山の西の鞍部である梅田峠に登り上げるつもりなのだが、駅前には期待していた道標はない。二万五千図を見い見い街中の道を行く。アスモ工場の前から左に入る道を行くとコミュニティーセンターがあり、ここに案内板とトイレがあった。身仕度を整え、少し進むと池の端に梅田峠への登山口があった。無理すれば車も通れる小広い道を緩やかに登って行く。今日の天気予報は「曇り、午後から晴れ」だが予報に反し空は青く晴れ渡っている。ただし靄が濃い。周囲は気持ちのよい照葉樹林である。 約5分であっさりと縦走のスターと地点である梅田峠に登り上げた。ここから西に稜線をたどるのであるが、その前に行きがけの駄賃として一つ東の嵩山に登っておこう。標高わずか170.4メートルの小峰だが、三角点もあり二万五千図に山名の記載もある。一峰を巻いてすぐに山頂に達した。三角点はコンクリートボックスの中の金属性のものであった。灌木の間から浜名湖、猪鼻湖が見える。視界さえよければ浜松の街並や遠く富士山も見えるとのことだが。岡崎の保育園児が集団で登った跡がある。 梅田峠に戻る。山仕事の人が三人、チェーンソーの目立をしていた。小広い尾根道を緩やかにたどる。周囲は照葉樹の森である。わずかな急登をへると大きな露石の積み重なったピークに達した。地図上の214メートル峰で、「仏岩」との標示がある。岩に登ると実に展望がよい。どんよりした視界の中に浜名湖が多くの入江と岬を複雑に入り組ませながら広がっている。ルートは右に折れる。ここからは三遠国境稜線となる。緩やかな道を進むと送電線鉄塔があり、「らくだ岩」への道が左に分かれる。行く手には神石山から南西に続く弓張山脈主稜線が見える。今辿っている稜線は神石山から北に派生した支稜である。少し急登すると再び送電線鉄塔に出る。行く手を見渡すと送電線が稜線上をどこまでも続いている。今日一日送電線の下を歩き続けることになる。大きな露石があり、普門寺への下山道が右に分かれる。ここまで続いてきた岡崎保育園児の登山の痕跡はここで下っていった。少し急登すると神石山山頂に飛び出した。この山は「静岡の百山」にも選ばれている。一等三角点の山であるが、不思議なことに二万五千図に山名の記載が無い。昔、航空灯台があったという山頂は広々としているが、照葉樹に囲まれ展望はない。寒椿の花がわずかに咲いている。二人のハイカーが休んでいた。 握り飯を一つ頬張って山頂を後にする。山頂東端の露石に立てば浜名湖が一望できる。ここからは弓張山脈の主稜線である。縦走路は「豊橋自然歩道」となってよく整備されている。下って少し登ると露石のある小ピークに達する。実に展望が好いので昼食とする。行く手には亡羊とした山並がどこまでも続いている。この山並は写真対象にはならない。何よりも稜線上に続く送電線が邪魔である。はるか北方彼方にうっすらと白い山が見える。南アルプスだろう。視界さえ好ければすばらしい展望が得られるのだが。「太田峠跡」の標示を過ぎ、小さな上下を繰り返す。所々椿の落花が道を赤く染める。この縦走路はなんとも照葉樹林が美しい。稜線付近には人工林はなく、どこまでも照葉樹の自然林である。「照葉樹の美しき森の縦走路」と名付けることにした。「雨宿り岩」と標示された巨岩に出た。岩に登ってみると辿ってきた稜線の背後に神石山が高々とそびえ立っていた。ここで右に中尾根を下る道が分かれる。ふと東を見ると富士山がうっすらと見える。うれしくなった。さらに進むと多米峠に達した。湖北と三河を結ぶ古くからの峠である。現在はこの下をトンネルが貫いている。峠にはテーブルとベンチが設置されており、東に下る道には「知波田」、西に下る道には「多米町」と標示されている。 ひと休み後、先を急ぐ。初めて照葉樹の森が切れ萱との尾根となる。いつしか空に雲が広がりだしている。それにしても師走の後半とも思えない暖かさである。ポロシャツ一枚で歩いている。400.0メートル三角点峰への急登に掛かる。直下を左から巻くと、目の前に西にのびる顕著な支稜が立ち塞がっている。そろそろ足が痛くなった。特に下りは苦痛である。支稜分岐で再び昼食とする。男女五人づれのハイカーが追い抜いていった。下るとイヌツゲの群生地に出た。実に見事である。「遊歩道を経て石巻山」への道が左に分かれる。登りに掛かると、ここまで続いてきた美しい照葉樹の森は終わり、笹と萱とと灌木の道となる。再び石巻山への道が分かれるが、背を没するひどい笹藪の道である。鉄塔ピークからわずかに下ると、そこが大知波峠であった。右に大知波集落への道が下っている。何となく雑然とした感じで休む気も起きない。すぐ上に大きな電波塔が立っている。この建設のため樹木を切り倒したので荒れてしまったのだろう。 道の状況が一変した。今までの自然歩道はここで終わり、背を没するスズタケの密生の中の踏み跡となった。踏み跡は明確でルートに心配はないのだが、絡み付く笹をかきわけ進むのは鬱陶しい。そこを抜けると灌木の藪尾根となった。小さな上下を繰り返す。足首が痛くてそろそろ限界である。苛々しながら進むと視界が開け、富士見岩と呼ばれる巨岩の積み重なった富士見台に達した。50年配のハイカーが休んでいたので、挨拶するも知らん顔、目を合わせようともしない。変わった人だ。巨岩の上に登れば展望がよさそうなのだが、この足ではそんな元気は湧かない。 痛む足を引き摺り最後の行程に出発する。次の426.9メートル三角点峰を越えれば本坂峠は近い。萱とと灌木のすっきりしない道だが、先程よりはだいぶよくなった。三角点峰を越えると樹林に入った。少し登ると神社が現われた。浅間神社との幟が立てられている。左に嵩山集落への道が分岐する。わずかに下ると、ついに本坂峠に達した。樹林の中の薄暗い鞍部を小道が乗っ越している。姫街道である。ここが姫街道最大の難所といわれた峠なのだ。まさに歴史を秘めた峠である。座り込んでしばし感慨に更ける。峠の反対側に坊ヶ峰あり、ここから往復30分である。普通なら登っておくのだが、足も痛むし、このまま姫街道を三ヶ日に下ることにする。富士見台にいた変人がやってきたが、相変わらず知らん顔である。出発しようとしたら突然、写真を撮ってくれという。どういう神経なのだ。 峠から三ヶ日まで約7キロ。いささか遠いが、この美しい名前の古街道を歩くのは今日の楽しみの一つである。見附宿から御油宿まで、浜名湖の北を迂回するこの街道は東海道の脇街道として繁栄した。特に宝永4年(1707年)の大地震により東海道筋が大被害を受けた際にはほとんどの人がこの街道を利用したという。その後も参勤交代など多くの旅人に利用され続けた。街道の正式名は本坂道という。姫街道の名前は、女性が主に利用したからと俗説的に言われいるが、「古い」を表わす「ひね」という言葉が「ひめ」と訛ったと言うのが通説である。 下り出すと道は意外に荒れている。「こんな道を大名行列が通ったのか」とブツブツいいながら進むと、すぐに石畳の道となった。しかし、残念ながら昔の石畳ではない。昭和34年に設置されたものである。周囲は椿の原生林であるが、花の時期にはまだ少し早い。2月ごろ満開となるという。車道に飛び出した。大正時代に開削された旧道である。この旧道が峠をトンネルで通過するようになったため、本坂峠は昔のまま残されている。車道を横切った先も古街道と思える道型が続いているが標示がない。踏み込んでみるが荒れていている。案内書にある鏡岩が現われこの道型が古街道であることが確認できた。再び石畳の道となった。迂回してきた旧道を横切り、さらに下ると国道362号線に飛び出した。昭和53年に開削された新道である。ここに孔子堂がある。国道を50メートルほど進むと、本坂集落内を通る古街道が分岐する。国道は集落の上部を通っているため、集落内の古街道はそのまま残されている。高札所跡、関所跡、板築(ほうづき)駅跡などの旧跡が現われる。集落を抜けると再び国道と合わさる。
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