熊伏山から観音山へ歴史を秘めた峠から南信の名峰を越え、グジャグジャの岩稜を必死に縦走 |
1997年4月27日 |
青崩峠登山口(530〜545)→青崩峠(555〜600)→観音山分岐(710〜715)→熊伏山(730〜750)→観音山分岐(805)→観音山(1215〜1240)→国道(1345)→青崩峠登山口(1505) |
信州遠山川流域と遠州水窪川流域を結ぶ青崩峠越えは歴史を秘めた古い峠道である。遠州側で信州街道、信州側で秋葉街道と呼ぶこの街道は縄文の昔より信州へ塩を運んだ「塩の道」であり、信州から秋葉権現への参拝者たちが通った「秋葉道」でもある。そして、戦国の昔には武田軍が遠州に侵略した「軍の道」でもある。明治期から戦前に掛けては、北遠山間の娘たちが信州の機屋に赴く為に雪のこの峠道を越えていった。「女工哀史の道」でもある。また逆に、南信の娘たちは茶摘み娘としてこの峠を越えて遠州に向かった。「茶摘みの道」でもあった。
しかし、この峠道もいつしかすっかり寂れ、青崩峠を挟んだ北遠南信地域は、時代から取り残された辺境の地となってしまった。両側から峠に迫った国道152号線も峠の手前で途切れ、幻の国道として名高い。現在でも徒歩でなければこの峠は越えられない。この付近は中央構造線が通過しており、トンネルさえ掘れないのである。しかしながら時代は再び大きく変わり始めた。隣接する北部三河地域も含わせ、今この三遠南信地域には未来へ向かっての大きなうねりが生じつつある。隣接する地元自治体は互いに県境というバリアを突破して、一つの文化圏の再構築を目指して元気一杯に動き出している。高速道路建設の槌音も既に響き出している。
未明というより深夜に近い2時50分、車で出発する。何しろ今日の目的地は遠い。しかも山の状況がわからないので早いにこしたことはない。国道152号線を走るうちに山の端がぼんやりと浮かび上がってきた。ようやく夜が明けた水窪の街並を過ぎ、名ばかりとなった国道152号線をさらに先に進む。このあたりは奥領家といわれる地域で遠州最深部である。最後の集落・池島を過ぎると、一気に道の傾斜が増す。旅人の足を守ったという足神神社を過ぎると、ついに辿ってきた国道152号線はつきた。5時30分、青崩峠登山口着。 大平洋岸の相良町からこの、青崩峠を越えて信州諏訪までの古街道を「塩の道」として現在地元が盛んにPRしている。この青崩峠登山口から峠までも、石畳の古道が整備されていた。早朝の古道を辿る。途中武田信玄公腰掛岩などがある。約15分の登りで待望の青崩峠に達した。峠は雑木の茂る狭い鞍部で、歴史を秘めた峠らしく摩耗した板碑や地蔵仏が置かれている。実に好ましい雰囲気を残した峠である。北を見下ろせば、信州遠山川流域の谷がV字形となって足もとまで迫っており、その奥には信濃の山々が朝もやの中に霞んでいる。多くの旅人がこの峠に立ち、初めて目指す他国を眺め、期待と不安の思いを抱いたことだろう。元亀3年(1572年)10月、武田信玄率いる天下最強の甲斐の軍勢二万五千が風林火山の幟を押し立て、京を目指してこの峠を越えていった。馬上の信玄はただ前方を見つめ寡黙であったという。信玄は三方ヶ原の戦いで家康を粉砕するが、生きては二度と故郷甲斐に戻ることはできなかった。人影のない峠には鴬の鳴ぎ声だけが響いている。信州側の山肌は青崩れの名の通り、青みを帯びた岩石の大崩壊帯となっている。 しぱし早朝の峠で一人感傷に耽った後、熊伏山を目指して稜線を西に辿る。雑木と笹の中の急登である。紫のつつじがいたるところに咲いている。下部は人工建材で整備の最中であったが、青崩れの縁を登るため登山道も崩壊が激しい。この青崩れは昔から「今日の踏み跡は明日はない」といわれてきた。整備しても整備しても崩れてしまうのだろう。それでも熊伏山への登山道であり不安はない。青崩れを恐々覗き込むとグジャグジャに崩壊した大斜面が一気に谷底に雪崩落ちている。青崩れの上部に出ると傾斜もいくぷん緩む。ヤブレガサを見つけた。何ともおもしろい草である。1時間10分の登りで、ようやく観音山分岐に達した。標示は何もないが、微かな踏み跡が左に分かれている。一休みする。 山毛欅やモミの林の中を緩やかに進むと、あっさり熊伏山山頂に達した。と、同時に展望が大きく開けた。北から東にかけて雑木が切り払われて視界が確保されている。白く濁った春霞の中に、南アルプス深南部の山々がまるで墨絵のように浮かんでいる。三角形の黒法師岳は一目でわかるが、ぼやけた輪郭だけの山並みはなかなか同定できない。それでも地図とにらめっこして、丸盆岳、不動岳、中ノ尾根山を確認する。大好きな池口岳も見えているはずだが、どうもよくわからない。写真を撮って、帰ってからゆっくり検討しよう。空気の澄んだ日には南アルプス主稜線の山々も全て見えるとのことだが、今日は残念である。一等三角点の設置された山頂は朝日が差し込み暖かい。
背を没する笹をかきわけながら進むと、痩せ尾根の急な下りになった。おかしい。地図を読むかぎりルートにこのよう地形はない。明らかにルートを踏み外している。登り返してしぱらく戻ると、正しいルートが見つかった。尾根が南西から南に方向を変える地点で、笹薮の中で見通しが利かず、そのまままっすぐ進んでしまったのだ。さらに笹を漕ぎ漕ぎ狭い尾根を進むと、笹が切れ、小岩峰に達した。稜線の続きを見て仰天した。何と! 尾根がスパット切れているではないか。キレットの底まで約20メートルの絶壁、まずこの絶壁をどうやって下るのだ。下ったとしても、キレット部約2メートルは稜線がない。足も置けない刃渡りとなっている。さらにその先もどう登ってよいのかわからない絶壁。進退極まった。
ここから先のことはもはや正確には覚えていない。極端なナイフリッジの稜線に尖塔のごとき岩峰が次から次と現われた。そのたびに命懸けで絶壁を登り下りする。どの岩もグジャグジャで手掛かり足掛かりにはならない。ここは青崩を生み出した中央構造線の直中なのだと、妙に納得したのを覚えている。二万五千図を読むかぎり、こんな地形は想像もできなかった。地図には崩壊記号もほとんどなく、小ピークの連続する楽な縦走路と考えていたのだが。時間の経つのも疲れさえも忘れ、ただ目の前に現われる岩峰に最大の緊張感を持って挑む。いくつめかの岩峰の上に立つと、ようやく行く手にゆったりした山容の観音山が見えた。この岩峰さえ下れぱ、もう危険はなさそうである。そう感じると同時に初めて疲労と空腹を覚える。腰を下ろして昼食とする。見上げる空は霞が掛かってはいるが快晴である。手足のあちこちには擦傷切傷がある。 急に穏やかとなった薮尾根を観音山に向かう。周囲は唐松の植林となった。わずかな登りを経ると、ついに今日の終着駅・観音山の山頂部に達した。しかし、命懸けでやってきたこの山頂は何だ。南北に細長く広々とした山頂部には真新しいヘリポートが作られ、大きな飯場が建ち、建設機材が置かれている。何やら大掛かりな工事が行なわれている最中である。ただし人影はまったくない。山頂部の南側にある三角点に到着する。ここも真新しい社務所風の建物が建ち、まったく風情がない。 さて、いよいよ下山である。社務所の前から工事用に新設されたと思える立派な道が長野県側に下っているが、この道を下るわけには行かない。事前に調べた情報では、山頂部の北の端から池島集落に向かう尾根に踏み跡があるとのことである。北の端まで戻り、踏み跡を見つけた。赤テーブもありこれが目指すルートと思える。もう安心である。急な尾根につけられた踏み跡をひたすら下る。途中踏み跡はいくつも分岐するが、道標の類いはいっさいない。約1時間下り、落石防止用の金網の切れ目を抜けて車道に隆り立った。金網に色あせた赤テープが一つ括られ、わずかに観音山へのルート入り口であることを示している。道路は国道152号線と思えるが、付近に人家もない山間で、現在位置がさっぱり分からない。10分も上に向かって歩くと、上鴬巣のバス停があり、ようやく現在地がわかった。池島集落に下山する予定が、だいぷ下部に下ってしまったのだ。ひたすら古街道を歩く。大きな鯉のぼりが泳ぐ池島集落を抜けると青崩峠に向けての本格的な登りとなる。疲れはててピッチも上がらない。足神神社を過ぎ、最後のひと踏ん張りをすると、ようやく愛車に巡り合えた。 |