比企丘陵 車山から鉢形城址 

寄居町郊外の小峰から関東屈指の城跡へ 

2013年2月9日

車山山頂
北面より望む車山
                                                          
八高線折原駅(844)→南側登山口(902)→車山山頂(915〜930)→人家(940)→舗装道路→諏訪神社(945)→正喜橋(1035)→造り酒屋・藤崎総兵衛商店(1108)

 
 埼玉県内の未踏の小峰の踏破を続けている。またまた絶好の小峰を見つけた。寄居町の鉢形城址南側に聳える車山である。標高226.8メートルの三等三角点峰であるにも関わらず、ハイキング案内に一切登場したことのない山である。二万五千図を確認しても、登山道の記載はない。私も今までこの山の存在は知らなかった。

 しかし、インターネットで検索してみると、意外にも、幾つもの登山記録がヒットする。それによると幾つかの確りした登山道があり、しかも登山口から山頂までわずか15分ほどの登りとのことである。冬晴れの一日を利用して行ってみることにする。

 ただし、この山だけではいくら何でも物足りない。車山の北面に広がる鉢形城址の見学を折り込んでも半日ですんでしまう。かといって、車山は他にルートを延長しようのない孤峰である。地図を睨んで考えあぐねた末、寄居の街並みを挟んで車山とは反対側、町の北側に連なる鐘撞堂山に行ってみることにする。

 熊谷、寄居と乗り換え、8時44分、八高線の折原駅で降りる。何と、あるのはホームと自動改札機のみ、券売機も駅舎もない超簡素な駅であった。駅前には数軒の人家が、まばらに建ち、その背後にこれから登る車山が三角形のすっきりした姿で聳え立っている。人通りもない里道を山に向う。空は真青に晴れ渡っているが、寒さは厳しい。昨夜聞いた天気予報は、今朝はこの冬一番の寒さになると報じていた。

 「色鉛筆の街」などというしゃれた名前の新興住宅地を過ぎ、車山の南麓を流れる三品川に沿った田舎道をのんびりと歩いて行く。駅から約15分で、登山口に到着した。道端に無人の小さな小屋があり、その脇から北側奧の民家に続く小道を「車山入り口」と示している。また、反対側、南に分かれている小道を「仙元名水」と示している。一瞬行ってみようかと思ったが1キロとの標示に諦めた。

 小道は人家の裏庭に入り込み、一瞬、この道でいいのかと思ったが、「車山」の標示に導かれて山中に入る。竹林を過ぎ、小さな空沢を越えると雑木林の中の登りとなる。山頂に近づくに従い、傾斜は次第に急となり、やがてザイルが張り巡らされた急坂となった。少々危険を感じる急登である。ただし踏跡は確りしており、ルートに不安はない。

 登山口から15分も掛からずに山頂に達した。もちろん誰もいない。雑木林に囲まれ、小広く開けた高まりで、真ん中に小さな石の祠が安置されている。その周りにはビール瓶収納ケースがベンチ代わりに幾つも置かれ、一段下には226.8メートルの三等三角点「車山」も確認できる。

 すっかり葉を落とした雑木林の間からは360度の視界が得られる。先ずは北を眺める。直下に鉢形城址が見られ、その背後に荒川が真一文字に視界を横切る。その向こうには寄居の街並みが広がっている。その背後に連なる山並みはこれから向うつもりの鐘撞堂山を主峰とする荒川左岸稜である。

 車山の頂からは鉢形城が丸見えである。秀吉の小田原北条氏攻めの際に、北条方の有力支城であった鉢形城も豊臣方の軍勢に包囲された。この際、車山に陣取った本多忠勝軍が山頂より城に向って大砲を打ち込んだと伝えられている。

 振り返って南西を眺めると、視界を遮るがごとく長大な山並みが続いている。大霧山、二本木峠、皇鈴山、登谷山、釜伏山と続く山稜である。山肌には真っ白な残雪が張り付いている。この稜線上を外秩父七峰縦走ハイキングコースが走っている。40.3キロもの超ロングコースである。今から26年前、わずか8時間余りでこのコースを踏破した。若かりしころの思い出である。

 目を東に向けて、思わず「あっ」と小さく叫んだ。遥か遥か彼方に、空に溶け込むかのごとく顕著な一峰がうっすらと見えるではないか。一目、筑波山である。とてつもなく嬉しくなってしまった。まさかここから筑波山が見えるとはーーー。

 しばしの休息の後、下山に移る。山頂には3本の登山道が登り上げていた。それぞれ標示があり、私が登ってきた南面からのルートは「折原六区、三品、仙元名水」との標示、東に下るルートは「折原四区、折原駅」の標示、西に下るルートは「正芳寺、東国寺」と示している。東に下るルートを選ぶ。いきなり、ザイルを張り巡らした猛烈な急坂である。慎重に一歩一歩下る。いったん、気持ちのよい雑木林に包まれた緩やかな尾根道となった後、再びザイルの張られた急坂となる。ただし、登山道は確りしており不安は一切ない。

 傾斜が緩むと、道標があり、右に折原駅への踏跡が分かれる。しかしこの踏跡は背を没する篠竹の切り開きの中で、踏み込むのをちょっと躊躇する薮道である。そのまま続く確りした登山道を下る。すぐに再び右に踏跡が分かれる。道標はないが赤テープが続いている。この踏跡もかなりの薮道である。ネットの登山記録にあった東側に下るもう一本のルートなのだろう。さらに続いてきた確りした登山道を下る。

 このたどっている登山道はどこに導くのだろう。道は車山の東面から北面へと回り込んで行く。ほぼ傾斜も尽きた雑木林の中を進むと三差路にでた。右北側から車の通行可能な地道が登り上げてきている。この分岐には「車山」を示す確りした道標もある。地道を進むと、すぐに人家が現れた。200〜300メートル進むと東西に走る舗装道路に突き当たる。ここに立派な道標があり、来し方を「車山」、左すなわち西に続く舗装道路を「鉢形城跡」、右を「平倉ぶどう」と標示している。辿ってきた登山道の状況から考えると、どうやら下ってきたこの登山道が車山のメイン登山道であり、この地点が車山のメイン登山口と思える。

 舗装道路を左、すなわち「鉢形城跡」方面に向う。道はすぐに90度カーブして北へと向きを変える。前方左側に学校のような建物が見える。手持ちの地図と見比べ現在点がわかった。辿っている道は折原小学校のすぐ東側を南北に走っている道である。すぐに小学校の脇に出た。振り返ると車山が遮るものもなくその全貌を現している。折原小学校の校歌にも車山が登場する。「♪ 呼べば答える車山 歴史のあとを偲びつつーーー♪」。車山は故郷の山なのである。

 角角に建つ道標に従い、八高線の踏切を越えて鉢形城跡に達する。鉢形城は戦国時代、関東屈指の大城郭であった。築城は文明8年(1476)、長尾景春によってなされたと伝えられている。その後、城はこの地方の豪族・藤田氏の持城となり、その藤田氏に入り婿の形で小田原北条氏の第三代当主・北条氏康の四男・北条氏邦が入城し、北条方の重要な支城として拡大整備された。

『此本丸の後背は屏風立たる如き十餘丈の絶壁にして、其下を幅二百間余の荒川流れて、眺望殊に勝たり、左に秩父ヶ嶽を望み、眼下川の対岸は榛沢郡萱刈庄の陸田打開け遥に彼郡の山々突立し、山下に寄居町場の人家軒を連ねて、勝景更に云うべからず』
新編武蔵風土記稿はその壮観の様をこのように述べている。

 しかし、天正18年(1590)に至り、城の運命は一変する。豊臣秀吉の天下統一の最終行程、小田原の北条氏攻めが開始されるのである。北条方の有力支城である鉢形城も前田利家や上杉景勝らの率いるおよそ5万の軍勢に包囲される。そして、籠城約1ヶ月、たいした戦いもしないまま、鉢形城は降伏して開城する。現在、北条方の城として最後まで不落であった「のぼうの城・忍城」が話題となってるが、鉢形城の最後は難攻不落の大城と謳われた城としてはまことにあっけないものであった。

 城跡の北西の隅にある諏訪神社に先ず詣でた後、三の曲輪、二の曲輪と見学して歩く。城跡はよく整備されており、深い濠や土塁があちこち走り、また新たに復元された柵が伸びる。他に人影はなく、冬の光が遮るもののない城跡を照らす。在りし日の栄光を頭に画きながら城跡を放浪する。

 城跡の真ん中を貫通する深沢川を渡り、鉢形城歴史館に行ってみる。深く大地を削ったこの川も城の防衛ラインとして利用されている。川向こうは外曲輪の跡である。「イノシシに注意」の看板が多い。それだけ未だに自然が残っているのだろう。鉢形城歴史館は見るべきものはなかった、戻って、荒川の絶壁際の伝御殿曲輪を訪ねる。この辺りがいわゆる本丸である。荒川を挟んだ向こう岸に寄居の街並みが広がり、その背後に此れから訪れる鐘撞堂山を主峰とする山並みが続いている。

 正喜橋で荒川を渡るともう寄居の街中である。駅前の造り酒屋・藤崎総兵衛商店で地酒を仕入れ、街並みの背後に聳える鐘撞堂山に向う。

登りついた頂  
   車山  226.8 メートル 

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