アヤメ咲く櫛形山

満開のアヤメの花の中を人波をかきわけて

1994年7月10日

 


アヤメの群生
 
県民の森 (745)→北尾根登山口(800)→櫛形山林道 (845〜855)→アヤメ平(955〜1010)→裸山(1030〜1035)→櫛形山山頂(1105〜1115) →三角点ピ−ク (1125〜1140)→中尾根→県民の森(1330) 
       
 
 梅雨のこの時期どこの山に行ったものかと思い悩んだ。展望もまったく期待できないし、雨も覚悟しなければならない。静岡市近郊の藪山など夏草が生い茂り論外である。ふと、南アルプス前衛の山・櫛形山へ行ってみようと思った。櫛形山は日本二百名山にも選ばれており一度は登ってみたい山である。この山のセ−ルスポイントは山頂付近のアヤメの大群生である。そのアヤメの花が7月中旬には満開になると聞く。まさにこの時期に登る最適の山である。調べるてみると、県民の森グリ−ンロッジ付近に車を止めて北尾根を登って中尾根を下ればちょうど一周できる。

 5時40分、家を出て国道52号線をひたすら北上する。今日の天気予報は曇り時々雨、もとより降られることは覚悟の上である。ちょうど100キロ、2時間走って県民の森付近に至る。辺りは濃くガスが立ち込め、周囲の状況がさっぱりわからない。突然ガスの中に広場が現われ、数十台の車が止まっているのが目に入った。広場の奥は森林科学館となっている。広場入口の案内図を見ると、どうやら目的の場所である。

 7時45分、ザックを担いで歩き出す。広場の林道を挟んだ反対側がちょうど中尾根の登山口となっており、帰りはここに下ってくることになる。北尾根登山口を目指して、林道を奥に進む。15分も歩くと登山口に達した。毎年7月第3日曜日に行なわれるアヤメ祭りにはこの北尾根登山道が利用されるという。それだけにこの登山道はよく整備されており遊歩道という感じである。樹林の中は低くガスが立ち込め、あれほど車があったにもかかわらず周囲に人の気配はない。巨摩高校自然科学部が木々に名札をつけてくれている。馬酔木や楓の木が多い。この登山道は1300メ−トル付近で櫛形山林道を横切る。突然、上方のガスの中から鐘の音が響いてきて、すぐに林道に飛び出した。驚いたことに、林道には大きな駐車場があり100台にも及ぶと思える車が止まっている。路肩にも車があふれ、トイレまである。どうやら多くの登山者はここまで車で上がって山頂を目指しているようである。

 林道から一段上がったところが展望台で、双眼鏡まで設置されている。しかし、今日はガスが濃く数メ−トル先までしか見通しは利かない。ここから先、登山道には何組ものパ−ティが現われた。しかし、のろのろ進むパ−ティを追い越すのはわずらわしい。すぐに道が二分した。左の道は「アヤメ平」、右の道は「もみじ平経由アヤメ平」となっている。どちらの道が本道かわからないが、右の道に踏み込む。どうもこの道は本道ではなかったと見えて少々藪っぽい。深い樹林の中に入る。やがて、もみじ平がどこであったのかわからないままに先ほど分かれた道と合わさる。と同時に、登山道は急ににぎやかとなった。ほとんどが、おじさん、おばさんで、パ−ティというより群である。いつもの山登りと雰囲気がまったく違う。どうやら、大変な時に大変な山に来てしまったようである。前方を父と子の二人連れが行く。登山者特有の緊張感を漂わせて進む父、後にぴたりと従う小学生の男の子。他の烏合の衆の様な群と比べ、黙々と歩む二人の間に漂う信頼感はなんともすがすがしい。傾斜は増すが私のピッチはますます早まる。無数の群を追い越す。道端に一人で休むような雰囲気でないため登山口からノンストップで登っている。

 傾斜が緩やかになったと思ったら、森林が切れて草原に出た。その瞬間、咲き誇る無数のアヤメの花が目に飛び込んだ。アヤメ平に到着したのである。アヤメの原はロ−プで囲われ、その中に遊歩道が設けられている。シ−ズン真っ盛りとあって、避難小屋周辺の広場は人また人である。ただし、単独行者など皆無で身の置き所もない。それにしても、このアヤメの群生は想像以上であり、草原はまさにアヤメの花一色である。アヤメというから、湿地帯のようなところに生えているのかと思ったが、普通のお花畑に群生している。

 道標に導かれて裸山に向かう。反対側からも続々と群がやってくる。おそらく丸山林道から櫛形山山頂を経てやってきたのであろう。群の雰囲気はまさにアヤメ見物の観光客である。そのせいか登山者どうしの礼儀も通じない。登り優先のル−ルも無視、こちらが道を譲って待避していても、礼の一つもない。ただ、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃおしゃべりに夢中である。小さな草原をいくつか横切る。アヤメもあるが、いろいろな花がたくさん咲いている。残念ながら私は花の名前に弱い。知っていればもっと楽しいはずなのだが。

 裸山の肩に出た。思わず目を見張る。山頂から肩にかけての斜面がアヤメの花で埋め尽くされている。ものすごい群生である。そしてまた、人の波である。思い思いの場所に陣取ったグル−プが車座になり、まさに花見の雰囲気である。単独行者にとっては場違いもはなはだしい。ひと登りで裸山山頂に達した。ここも人の波である。しかし、見下ろす斜面はアヤメの花一色であり、そのすばらしさは一見の価値がある。

 早々に櫛形山に向かう。周囲の景色が一変した。なんと大原生林の中に入ったのである。想像だにしていなかったすばらしい原生林である。苔むした倒木が横たわり、コメツガやシラビソの大木が鬱蒼と立ち並んでいる。南ア深南部の原生林と比べても、まったく遜色のない第一級の原生林である。何となくほっとして、ふかふかした苔の上に腰をおろす。どうも私は、あの華やかなアヤメのお花畑より、この薄暗い大原生林のほうが心が落ち着く。

 中尾根方面への道を分岐して、櫛形山への道を辿る。大きなお花畑にでる。この辺りをバラボタン平というらしい。アヤメの花もちらほらあるが、赤青白の無数の花花が咲き乱れている。ここで再び中尾根方面への道を分岐し、原生林の中の緩やかな登りに掛かる。ほどなく「櫛形山山頂」との標示のあるピ−クに達した。原生林の中の小広いピ−クである。数組の群が休んでいる。実はこの辺りを奥仙重といい櫛形山の山頂部であるのだが、櫛形山の最高点がどこなのか今一つはっきりしない。この先に三角点ピ−クがあり、標高は2051.7 メ−トルである。今到着したピ−クも二万五千図を見ると、標高点はないものの2050メートルは越えている。各種案内書も、櫛形山の山頂をこのピ−クとしたり、三角点ピ−クとしたりで一定しない。

 念のため、三角点ピ−クまで行ってみることにする。緩く下って緩く登る。この辺りの原生林もすばらしい。樹齢数百年と思える大木が鬱蒼と茂っている。ほどなく三角点ピ−クに達するが、つまらないピ−クである。藪っぽい山頂に三等三角点のみがぽつんと置かれている。もと来た道を山頂標示ピ−クを経てバラボタン平まで戻る。おばちゃんの群の一つがお花畑に入り込んでキャ−キャ−騒いでいる。まったく自然保護の心も道徳心もあったものではない。世の中でおばちゃんの群が一番質が悪い。

 中尾根に通じる登山道に入ると、にわかに人の気配が消えた。道も山道となり、やっと山登りの雰囲気となる。お花畑を突っ切り下りに入ると、またもやすばらしいところに出た。コメツガの原生林なのだが、どの枝からも無数の霧藻(サルオガセ)が垂れ下がっている。これほどのすばらしい霧藻は見たことがない。否、今から四〇年ほど前、父に連れられて登った奥秩父の霧藻ヶ峰付近で同じようなすばらしい霧藻を見たような気がする。現在はまったく昔の面影はなくなってしまったが。あまりのすばらしさに一休みする。先ほどまでの騒がしさが嘘のような誰もいない静かな原生林の中である。

 ぽつりぽつりと登ってくるパ−ティと擦れ違う。この道で出会うパ−ティはみな登山者の仁義と礼儀を知っている。この中尾根コ−スは他のコ−スと比べ歩行時間も長いためアヤメ見物の群は入り込まず、登山者の世界なのであろう。朽ちた道標が現われ、左に中尾根下山道と示している。メイン道ではなさそうなので見送ってさらに尾根道を下る。やがて案内にある祠平キャンプ場に出た。何組かの登山者が休んでいる。ここには立派な道標があり、左に中尾根登山道が分かれている。そのまま中尾根登山道に踏み込む。ここから先は完全に人の気配が消えた。

 確りした小道をどんどん下る。やがてバイケイ草などの夏草が現われるが、確りと下刈りがなされている。この道も櫛形町観光協会により樹木に名札がつけられている。今日は木々の名前を覚えるよい勉強になった。櫛形山林道を横切りさらに下る。樹相は自然林から植林に移る。一本調子の下りで足に疲れを覚え頃、伐採地に出た。天気がだいぶ回復したようで視界が大きく開け、今日初めての展望が得られた。霞んではいるが、甲府盆地が大きく広がり、その真中を富士川が悠然と流れている。背後の奥秩父連山は、残念ながら雲の中である。眼下には県民の森も見え、私の愛車も豆粒のように見える。切り株に腰掛けしばし展望を楽しむ。

 さらに下ると、数人のハイカ−が地図を広げて何やら思案している。見ると道が二分しており、道標もなく判断に迷っているようである。近づくと「どっちへ行ったらいいですか」と問いかけてきた。「どっちを行っても大丈夫でしょう」と答えて立ち止まりもせず、左の道に踏み込む。もう県民の森まで高度差2〜300メ−トル、道の状況からして、どちらも本道であろう。ただし、左の道に下刈りの跡があるのを確認したので私はそちらを選んだだけだ。地図を見たって判断はできない。見事な檜の植林の中を行くと、ほどなく今朝ほど確認した中尾根登山口に出た。1時30分である。三角点ピ−クからほとんど休まなかったこともあり、2時間も掛からずに下ったことになる。

 櫛形山はよい山である。すばらしいアヤメの群生と、想像だにしなかった深い原生林を持っている。ただし、今回は季節が悪かった。ハイカ−というより観光客の群で混雑するこのアヤメの時期に登るのは一度でよい。晩秋か早春の頃に登ったら、きっとすばらしいであろう。天気がよければ白峰三山も目の前に大きくそびえているはずである。

 帰路の富士川河畔は晴れ渡っていたが、望む櫛形山は厚い雲に覆われ、和櫛の形の山容は最後まで見ることができなかった。

                                                               
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