京丸の里と京丸山

京丸川の奥深く、伝説の隠れ里を訪ねる

1996年5月26日


京丸の里にただ一軒残る藤原本家
 
洞木沢林道・京丸林道分岐点(720)→洞木沢橋(730)→京丸の里(830〜840)→林道終点(920〜930)→旧道分岐(935)→京丸山(1050〜1105)→林道終点(1150〜1200)→山の神(1215)→京丸の里(1235〜1245)→   洞木沢林道・京丸林道分岐点(1350)

 
 南ア深南部の山懐深く、美しくも悲しい京丸牡丹の伝説を秘めた里・京丸。今は無人となったこの里を包むように連なる山々。高塚山を主峰とし、その右手に竜馬ヶ岳と岩岳山、左手に京丸山。昨年の5月、山肌を煙るようなピンクに染めて咲き誇る京丸牡丹こと赤ヤシオを竜馬ヶ岳と岩岳山で眺めた。そして京丸川の谷底深くにその伝説の里・京丸の藤原家をはるかに俯瞰した。今年はこの京丸の里から京丸山に登ったみよう。この山は伝説のイメージとは裏腹にスズタケの密生した徹底的な藪山のようで、案内書には熟達者向きとある。登山ルートは京丸の里から「スズタケの密生の中に残るわずかな踏み跡を辿る」とある。しかもアプローチがいたって不便である。今では京丸の里まで林道が通じているのだが、途中ゲートがあって車は入れぬらしい。案内書には深南部の山々でも最も登りにくい山とあり、1泊2日の行程を示している。しかし、早朝に出発すれば日帰りでやれぬこともあるまい。
 
 早朝5時10分、車で家を出る。目指すは天竜川支流の気田川のまた支流の石切川のそのまた支流の京丸川の奥である。なんとも遠い。東名浜松インターから北上し、気田集落の小さな街並を過ぎて門島集落より石切川沿いの林道に入る。この奥にまだ集落があるという。ようやく石切の集落に達した。4〜5軒の質素な家が斜面にへばりついている。よくもこんな山奥に人がすんでいるものである。しかし、京丸の里はまだこのはるか奥、まさに隠れ里である。地道となった狭い林道をさらに進むと、ようやく洞木沢林道と京丸林道の分岐に達した。何とここにゲートがあって車はストッブである。数台の車が止まっている。案内書ではさらに1キロほど先の洞木沢橋にゲートがあることになっているのだが。それでも静岡から2時間10分、意外に早く着いた。

 林道は洞木沢橋まで緩く下った後、京丸川に沿って曲がりくねりながら次第に高度を上げる。道端にはマルバウツギやガクウツギの白い花がたくさん咲いている。峡谷となって流れる京丸川の絶壁には紫の藤の花も見られる。晴れてはいるのだが春特有の霞みが濃く、行く手の山々の稜線はぼんやりと霞んでいる。案内書では洞木沢橋から1キロほどのところで林道開削前の京丸へ通じる古道が分かれることになっているが、それらしき踏み跡は見あたらなかった。快調なピッチで緩やかな登りをグイグイ進む。30分ほど進むと、同年配の単独行者に追いついた。やはり京丸山に登るという。「一緒にお願いします」というのでピッチを落として並んで歩く。磐田から来たという彼は皮の登山靴を履いている。これでは歩みが遅いはずである。私はいつもの通りジョギングシューズである。そろそろ京丸の里ガ近づいた頃、林道は分岐する。何の道標もないが、沢から離れて左手へ登っていく道が京丸の里へのルートのはずだ。

 急な林道を登り一段上の台地に出るとそこが京丸の里であった。ここがあの伝説の里・京丸なのだ。よくもまあ、こんな山奥に人がすんだものである。春野町教有委員会の立てた「京丸藤原本家と牡丹谷」と題する石碑があり、「京丸は南北朝の頃、藤原左衛門佐が移りすんだのに始まる。慶長年間には戸数20余を数えた。析口信夫博士も大正9年に訪れ藤原家に1泊した。京丸牡丹の伝説は有名」との趣旨が刻まれている。今この里に1軒のみ残る藤原家の前で古を偲ぶ。家の前にはコデマリが満開の白い花をつけていた。今はこの藤原家も山を下り、この里は無人である。鬼瓦に「京」の字が彫り込まれている藤原家は雨戸は閉まっているが出作小屋として使われていると見え、庭もよく手入れされ、納屋も整然と整理されていた。

 ここから京九山へのルートがどうもよくわからない。案内書によるとルートは2本ある。1本は京丸山の南尾根上の1070メートル地点に直接登り上げるルート。ただしこのルートは悪いとある。もう1本は林道をたどり伐採基地跡を経て南尾根の1035メートル標高点ピーク付近に登り上げるもの。こちらが本ルートとある。周囲を探るが、道標はおろかルートを示すものは何もない。相棒は二万五千図を一生懸命見つめているが、わかるわけがない。たどってきた林道が藤原家の前を通り過ぎそのまま奥へ続いている。この林道が案内書の二本目のルートと判断してさらにたどることにする。林道は緩やかに登りながら南尾根を巻くように進む。どうも案内書のルートとは違うようだ。とはいっても他にルートは見当たらないので構わず進む。相棒の歩みは相変わらず遅いので少々苛々する。「どうぞ先ヘ」との言葉を待って、一人ピッチを上げる。ガサッと音がしたと思ったら、目の前をカモシカが横切った。さすが南アルプス深南部である。道端には濃い赤紫のヤブウツギの花が咲き誇っている。

 30分近く林道をたどると南尾根の先端に達した。ここに山の神の祠がある。場合によっては藪を漕いでも南尾根をたどるつもりでいたが、うまい具合に林道もここから南尾根に添って上部に向かいだした。傾斜が増し、ヘアビンカーブを繰り返す林道を息せき切って登る。行く手に新緑に覆われた京丸山が見えてきた。ピッチはますます上がる。1035メートル峰直下を左から巻いて尾根上に出た。広場となっており、しかも周りは伐採跡で実に展望がよい。谷一つ隔てた向こうに、岩岳山から竜馬ヶ岳、高塚山と続く稜線が、ぼやけた青空に浮かんでいる。1年前に京丸牡丹を眺めた稜線である。京丸の里以来初めての休憩をとる。しばらく待つが相棒は影も形も現わさない。

 林道はここで向きを180度変えて、100メートルほど後ろの1035メートル峰で終わっている。ただし、ここから尾根に添ってさらに200メートルほど先まで未完の林道が続いている。一体どこまで林道を開削するつもりなのだろう。1070メートル地点に達した。ここに初めて道標があり、笹の中に藤原家へ下る微かな踏み跡を見る。案内書にあった1本目のルートである。いよいよ本格的な登山開始である。数日晴天が続いたので大丈夫とは思うが、やはりここは深南部、ズボンの裾を靴下に入れ山蛭に備える。しばらく痩せ尾根をたどった後、原生林の中の本格的な登りに入る。前衛峰である1305メートル峰への急登である。案内書には背よりも高いスズタケの密生をかきわけてのハードなルートとあるが、大したことはない。踏み跡も確りしており、スズタケも腰ぐいである。確かに密生とはいえるが、安倍奥で経験した密生に比べれば雲泥の差である。ほっとするやらがっかりするやらである。しかし、さすが深南部、倒木は多い。足元に白い落花を見る。見上げるとアセピの大木が満開の花をつけている。どうやら先行者がいるようで、所々に真新しい足跡を見る。さらに急登が続く。腹が滅って力が入らない。しかし笹藪の中では休む場所もない。突然人の気配がして3人パーティが下ってきた。ずいぷん早い下山である。今日も人に会うことはないと思っていたが、こんな山にも登る人がいるものである。
 
 ようやく1305メートル峰に達する。さらに、京丸本峰との鞍部に下ると、そこはほんの1メートルほどだが、両側から谷の食い込んだ危なっかしいナイフリッジとなっている。危険というほどでもないが少々緊張する。小休止後、いよいよ最後のアタックに入る。笹も薄れ、山毛欅やアセビ、ツツジなどの原生林である。わずかに三つ葉ツツジを見るが、花は少ない。そういえば今朝ほどの単独行者が「昨年夏の猛暑の影響で、岩岳山の赤ヤシオも今年は花芽が少なくまったく駄目であった」と語っていた。山頂が近づいたと思う頃、何と、登山道の笹が確りと刈られている。何でまたこんな山の登山道が手入れされているのだ。不思議に思った。

 10時50分、山頂に達した。ついにこのロマンの響きのある山へ登ることができた。感激の一瞬である。いくつかの山頂標示が木々に打ち付けられている。小広い山頂は木々がじゃまして展望は得られないが、深南部特有の静かな頂である。山頂部も笹が一面に刈られていている。しかもこの笹刈りは、高塚山に向かってなおも続いている。案内書には「高塚山への稜線は、笹の密生が激しく熟達者といえども縦走は無理」とあったが。これなら高塚山へ容易に縦走できそうである。握り飯を頬張り一人静かなひとときを過ごす。

 いよいよ下山に移る。5分も下ると、今朝ほどの単独行者がようやく登ってきた。ずいぷん差がついたものである。下りは早い。あっという間に下り切って1070メートル分岐点に達した。藤原家へ直接下る道をたどってみようかと思ったが、笹が深く、歩かれていないようなので元の道を戻ることにする。林道に出て最後の展望を楽しみながら一休みしていると、マウンテンバイクに乗った若者がやってきた。これから京丸山に登るという。車にバイクを積んできてアプローチに利用したとのこと。考えたものである。林道をどんどん下る。振り向くと、京丸山が前衛峰の後ろにすっくとそびえている。道端でガサッと音がして、真っ黒なカラス蛇が慌てて藪に逃げ込む。もう蛇が這い出す季節である。山の神に今日の無事を感謝し、12時35分、藤原家にたどり着いた。道の真中でシマ蛇が悠々と昼寝をしている。平和な無人の里である。

 車までの長い林道歩きをしながら、京丸の里の昔を思った。この山深い絶界の里で人々はどんな幕らしをしていたのだろう。苦しくつらいものであったのだろうか、それとも平和な桃源郷のような里であったのだろうか。

 トップページに戻る

 山域別リストに戻る