おじさんパックパッカーの一人旅

安らかなる国 ラオス放浪記 (下) 

 悠久の時流れる大地を一人旅して

2004年2月17日〜24日


 
 
  (上)より続く

  第八章 古都ルアンプラバンを目指すバスの旅

 いよいよ今日はバスで古都ルアンプラバンを目指す。ラオス核心部の山岳地帯を越えて、10時間の旅である。いわば今回のラオスの旅のハイライトである。しかし、このルートを採るに当たっては多いに迷った。なぜなら、現在、このビエンチャンとルアンプラバンを結ぶバスルートに関し、外務省から強い警告が発せられている。「退避勧告」の次のレベルである「渡航の延期をおすすめします」が発せられているのである。理由は、このルートを走行するバスがしばしば武装集団に襲われ、外人旅行者を含む多数の死傷者を出していることによる。武装集団は反政府ゲリラとも強盗団とも言われ、はっきりしない。従って、現在、大多数の旅行者はビエンチャンからルアンプラバンまで飛行機を利用する。しかし、私はこのバスルートにこだわった。このルートを辿らないことにはラオスを旅したことにはならないとの思いが強い。バスでこのルートを辿ってこそ、本当のラオスが見える気がする。

 6時半。ザックを背負ってゲストハウスを出る。ルアンプラバン行きのExpressバスは町の東端にあるバスターミナルから出る。発車時刻は7時30分、昨日、ゲストハウスで場所と時間を確認し、チケットも購入した。現在、この首都と古都との間には3種類のバスが走っている。普通バス、VIPバス、Expressバスである。このうち冷房と座席指定が得られるのはExpressバスだけである。気持ちとしては、普通バスで行きたいが、私ももう若くはない。せめてこのぐらいの贅沢は許してもらおう。それでも料金はわずか60,000キープ、約600円である。

 トクトクでバスターミナルへ向かう。今日はTシャツの上に長袖のポロシャツを着てきた。バスの冷房対策でもあるが、ビエンチャンはバンコクに比べると朝夕はずいぶん涼しい。部屋のクーラーも結局使わずじまいであった。今朝もトクトクで風を切ると寒いぐらいである。

 5分ほどでバスターミナルに着いた。すでにバスが1台停まっていた。タイミングがいっしょになった白人の女の子が係員に「このバスはルアンプラバン行きですね」と英語で確認すると、そうだというような返事。2人ともザックをバス底部の荷物収容スペースに入れる。乗り込む際に、今度は私が、タイ語で運転手に行く先を確認すると、違うという。ルアンプラバン行きはもう少ししたら隣りに来るとの返事。2人して顔を見合わせ、慌てて荷物を引きだす。危ないところであった。何しろバスの表示はラオ語だけ、読めるわけがない。しばらくしたら、もう一台バスがやって来た。今度は間違いなくルアンプラバン行きである。

 ターミナル前の屋台で水とフランスパンのサンドイッチを買って乗り込む。10時間の旅、途中昼食がどうなるのかまったく不明である。7時30分、バスは定刻通り出発した。50人乗りのバスは約80%の乗車率、うち2/3ほどがバックパッカー達である。 中に2人連れの日本人の若者がいる。勇敢な日本人が私以外にもいたかと、少々安心した。ビエンチャン到着以来初めて見かける日本人である。他のバックパッカーはすべて欧米人である。隣りの席は、例の白人の女の子。単独行のようだ。なかなかの美人だが身体は私より大きい。バスに車掌は乗りあわせていない。15分も走ったと思ったらバスはガソリンスタンドへ。おいおい、燃料ぐらい出発前に入れておけよ。ただし、そのすきにちょっとトイレへ。歳をとると近くて困る。

 バスは国道13号線を一路北上する。この国道はラオスを南北に縦断する最重要幹線である。郊外に出ても車は多い。バスは頻繁に警笛を鳴らしながら、のろのろ走るボロ車や2人〜3人乗りのバイクを追い越していく。しばらくは田園風景が続く。田んぼではちょうど田植えが行われている。日本のひと昔前と同じ人海戦術である。やがて平野は尽き山道となる。途端にバスは速度をガクンと落とす。たいした上り坂とも思えないが、エンジンの馬力がないのだろう。車内は、予想通り、冷房が効き過ぎ寒い。

 1時間半走り、三叉路となった小さな集落で15分のトイレ休憩となった。地図にHin Hoeupと記されている集落と思われる。反対側からも屋根に荷物を満載したバスがやって来て停まった。道端には何軒かの店があり、水やスナックを売っている。車外で一服していると、数人の乗ったリヤカーを引いて耕耘機がやって来た。降り立った人が金を払っているところを見ると、この耕耘機も公共交通手段らしい。

 深い渓谷を渡り、再び山道に入る。突然、5〜6歳の女の子が激しくもどし始め、汚物が辺りに飛び散る。車酔である。一瞬車内は大騒ぎとなる。逃げ出す者、ティッシュやビニール袋を差し出す者。案内書にも、このバスは車酔に注意とある。日本人の若者が献身的に後処理をしている。感心、感心。不思議なことに、否、タイで何度か経験していることなのだが、側に付き添う母親は平然としている。日本なら、こんなとき、周りに対して詫びやお礼の言葉をていねいに述べるだろうが。誰かが運転手に一時停車してくれと声をかけたが、まったく無視された。「こんなことでいちいち停まっていられるかい」なのだろう。女の子は汚物の飛び散った床に座り込みぐったりしているが、泣き言一つ言わない。強い子だ。

 出発してから3時間、車窓の景色が一変し、ゴツゴツした岩山が周りを取り囲むようになる。程なくバスはバンビエン(Vang Vieng)郊外の停留所に到着した。乗りあわせていたバックパーカーのうち約半数がここで降りる。隣りのカワイコちゃんも降りてしまった。残念。バンビエンはこの首都と古都を結ぶルートの途中において、唯一の町らしい町である。内戦時代は北部攻撃の拠点として米軍の基地があった。その時使用された飛行場跡が目の前に広がっている。最近は、美しい自然に魅かれて訪れる旅行者も多いようである。

 再びバスは古都を目指す。町を取り囲む山々はまことに奇怪な姿をしている。日本でいうと妙義山のような山々である。この地はラオスの桂林とも呼ばれている。ゆったりした山の多いラオスにあっては異質な景色である。道はしばらくソン川に沿ったのち、山岳地帯へと入っていく。バスに残った勇士は10数人。これからの運命を共にする仲間達である。座席も1人1シートを占められるようになり、何やら安らいだ空気が車内に流れる。山岳地帯へ入ったといっても、まだ山は浅く、人の気配も濃厚で危険は感じられない。

 約1時間走ると、バスは再びガソリンスタンドに入った。その間にちょっとトイレに行ったのだが、用足し中に何やら車の動き出す気配。慌てて外に飛びだしてみると、何と、バスはまさにガソリンスタンドから道路に出るところ。これには慌てた。「おおい、待ってくれぇ」、思わず日本語で大声をあげながらバスを追いかける。何とか気がついてくれたと見えて、前方でバスが止まった。危ないところであった。荷物もすべてバスの中、こんな所に一人残されたら、それこそ路頭に迷う。バスに戻ると、みんなニヤニヤクスクスしている。

 やがてバスはドライブインで停った。昼食のため30分の休憩だという。時刻もちょうど12時である。売店と簡易食堂を兼ね備えており、ラオスの山中にしては立派なドライブインである。反対方向からも続いて2台のバスがやって来た。この地は地図にKasiと記されている場所と思われる。

 再びバスは北を目指す。車窓から眺める風景は大きく変わりだした。ゆったりした大きな山が幾重にも続き、バスは絡み合う尾根を追い求めるように、何度もルートを大きく曲げながら稜線近くを辿っていく。もはやすれ違う車も少なく、集落もめったに現れない。見渡す山肌は、どこも明らかに焼き畑の跡である。焼いたばかりなのだろう、まだ一面に灰に覆われている場所もある。バナナなどの植えられている場所もある。回復を待っている期間なのか、潅木と雑草に覆われた場所が多い。いつの間にか冷房が切れている。エンジンの出力を確保するため切ったようだ。これでは冷房車の意味がない。しかし、標高が上がったせいか、それほどの暑さも感じられない。

 兵士3人が道に立ちふさがりバスを止めた。自動小銃を肩から吊るした若い兵士が1人乗り込んでくる。一瞬、車内に緊張が走る。バス護衛のために乗り込んだようだ。いよいよこれからしばらくは危険地帯である。そしてまた、ラオスの核心部でもある。兵士を乗せてバスは再び動きだす。同時に、バス入り口のドアが開け放たれた。冷房の切れた車内に風を入れるためなのか、それとも、襲撃されたときにすぐに逃げだすためなのか。

 もはやすれ違う車は皆無である。おそらく、この道は夜間通行は禁じられているだろう。となると、ビエンチャンに向かう車はいずれも早朝の限られた時間にルアンプラバンを出発することになる。集落もめったに現れない。ただただ、幾重にも重なる大きな山並みだけが車窓の外に広がっている。その中を孤独なバスがウンウンいいながら、尾根から尾根へと渡っていく。ときたま現れる集落は、いずれもバナナの葉で葺かれた屋根と竹を編んだ壁でできた高床式の家、否、家というより小屋である。そして、裸足の子供たちと、放し飼いの豚、鶏、犬がのんびりと歩き回っている。やがて道脇の小屋の前で兵士が降りた。ほっとした空気が車内に流れる。危険地帯を脱したようだ。

 現れる集落の数はいくぶん増えたが、周りの景色は変わらない。山岳地帯に入って以来、一つのことに気がついた。集落はすべて尾根上、もしくはその直下にある。従って、この国道13号線も決して谷間には下らない。日本では、集落は概して谷間にあり、道も谷筋に添って付けられることが多い。稲作民族と焼き畑民族の違いのためだろう。この山岳地帯に住むのは焼き畑で暮らすモン族などの少数民族のはずである。ラオスにおけるラオ族の人口比率は60%にすぎない。山岳地帯に入って以来、寺院をまったく見ない。モン族は仏教徒ではない。

 集落が近づくと、穂のある草が一面道路端に並べられている。また、この草の束を背負って歩いている人に出会う。何なんだろう。この疑問は数日後、タイ・チェンライの少数民族博物館で解けた。この草はTiger Grasssと呼ばれるもので、箒の材料になるという。1月〜3月が収穫期で、山岳民族の数少ない現金収入の源であるとのことであった。

 山岳地帯に入って以来初めての集落らしい集落に入った。地図にPhou Khounとある集落だろう。バスは一時停止して、2人の地元民を下ろす。このバスは全席指定の特急バスなのだが、時々地元民を乗せたり降ろしたりしている。しかも料金を取っている気配はない。運転手の裁量なのだろう。

 再び山岳地帯に入る。見渡す山肌は、相変わらず焼き畑である。焼き畑に関しては、地球環境問題に携わる世界の色々な研究機関で意見が二分している。二酸化炭素増大の元凶であるとの意見がある一方、環境循環型の地球に優しい農法だとの意見がある。戦前まではあったという日本の焼き畑は今では完全に姿を消した。

 昼食から1時間半走って、ちょっと大きめの集落でトイレ休憩となった。地図に、Kiu Kachamと記されている集落と思える。もうルアンプラバンまで1時間ほどのはずである。乗り合せているバックパーカー達はもうすっかり顔なじみである。単独行は私一人。おじさんも私一人で、あとは若者である。女性は4人いるが、中に黒人と東洋人(多分中国系だろう)の2人連れがいる。黒人のバックパーカーは珍しい。もっとも、彼ら彼女らから見れば、私の存在も奇異だろう。

 ここから一気にルアンプラバンまで下っていくのかと思ったが、相変わらず上ったり下ったりしながら尾根道を走る。しかし、集落は頻繁に現れ、下界が近いことが伺える。夕日も大分傾いてきた。明るいうちに着けばよいが。暗くなってからの宿探しはわびしい。5時近くなったころ、ようやくバスは坂道を転げるように下りだした。スポーツ大会でも行われていたのだろう、大きな広場があり、そこから中学生がぞろぞろと歩き出している。突然バスは急停車して、運転手が身を乗り出し、「おおい 乗ってけぇ」と大声で叫ぶ。中学生達は喜んでバスに殺到してきた。まったくなんというバスなんだ。皆、座席を詰めながら苦笑いである。これがラオスなのだろう。

 ルアンプラバンの町はもうすぐと思っていたら、突然バスはバスターミナルへ滑り込んだ。「ん! ここが終点 ? ここはいったいどこなんだ」。終点のバスターミナルは町中にあると思っていたので一瞬面食らう。町の中心までは、まだだいぶありそうな気配である。何はともあれ、無事にルアンプラバンに着いたことを喜ぼう。さて、ここからどうしたものかと、思案してたら、みんなが「こっち、こっち」と呼ぶ。相談して、ソンテウに同乗して町まで行くことになったらしい。いつの間にか、みんな「仲間」になっている。私も「仲間」に入れてくれたらしい。

 ソンテウが着いたところは町の南寄りのゲストハウス街、皆はこの辺で宿を探すという。私はもっとメコン川寄りに泊まりたい。皆と別れて歩き出す。しかし初めての土地で現在位置もはっきりしない。困ったなぁと思っていたらバイクが止まり、5ドルで乗らないかという。「人の足下を見て吹っかけやがって」と思ったが、3ドルで商談は成立した。メコン川沿いの道から一本奥に入った静かなゲストハウス街に宿を取る。1泊20ドル、別棟のいい部屋であった。何はともあれ、よくぞ無事にここまで来た。ラオの神に感謝しよう。ルアンプラバンには3泊する予定である。
 

   第九章 世界一美しい町・ルアンプラバン

 結論から言おう。私はルアンプラバンこそが世界で一番美しい町と確信する。その美しさは、私の拙い文章ではとても表現できない。都市の美しさは、その都市を取り囲む自然環境(山、川、海、湖、森等)と、創造された人工物(街並み、公園、寺院等の建物)だけで評価できるものではない。これらの視覚的要素に加え、いわば香りともいうべきその都市に漂う雰囲気が大きな要素となる。その香りは、その都市の辿ってきた歴史と、その都市で暮らす人々の日常が醸し出す。以下、私がこの町で過ごした1日を記す。その中で、この町がいかに美しいかを感じとって欲しい。ルアンプラバンは1995年、町そのものが世界遺産に認定された。

 6時前に起きだした。ルアンプラバンの托鉢の光景を見たかったのである。通りにでると、まだ明けきらぬ薄明の中に、いくつもの山吹色の列がうっすらと見えた。そして、道端に座り、僧を待つ女たちの集まりがあちらこちらに。その集まりの一つ近くに目立たぬようにしゃがみ、近づく僧の列を待つ。まだ眠りから覚めきらぬ街は人影も薄く、天秤棒を担ぎいだ物売りの姿が散見されるだけである。

 ラオ族の正装の印であるパービアンを肩に掛けて道端に座す女たちは、いずれもカオニャオの詰まった大きな丸篭を抱えている。やがて僧の列が近づく。長老を先頭にした10数人の列は、ただじっと正面を見つめたまま歩んでくる。僧は裸足であり、また、女たちも履物を脱いでいる。女たちの前に来ると、僧は無言で肩からかけた壺を差し出す。女たちも無言でカオニャオの一つかみを壺に入れ、じっと手を合す。僧は1歩歩んで次の女の前に立つ。10数人の僧と数人の女が、同じ動作を終えると、僧の列は再び正面を見据えたまま歩んでいく。女たちは手を合わせたまま僧の列を見送る。そしてまた、次の僧の列を待つ。

 言葉も音も一切ない。静寂の中、儀式はたんたんと進んでいく。ただ、列最後尾付近の少年僧に対したとき、女たちの目は愛情を含んだ母親の目になっている。ルアンプラバンの町で毎日繰り返される早朝の荘厳な儀式である。儀式はビエンチャンと同じである。しかし、それを包み込む町の雰囲気が、そしてその規模が、数段に違う。まるで夢の一コマのようであった。僧の列がそれぞれの寺に帰るころ、ようやく街は眠りから覚める。

 目の前で繰りひろげられた絵巻物の余韻に酔い、あてもなく早朝の街を漂う。天秤棒を担いだ女が何人か見かけられる。その内の一人が歩み寄る。女は吊るされた篭の中からバナナの葉に包まれた何ものかを取りだし私の前に差し出す。「ニー・アライ(これは何)」と私。女は目の前でバナナの葉を解く。なかから小豆の混ざったカオニャオに砂糖をまぶした小さなおにぎりが現れる。女は食べてみろと、私の前に差し出す。おはぎのような甘さとほのかなバナナの葉の香りが口の中に広がる。この地で食される朝食の一つなのだろう。

 さらに町をさまよう。細い路地に何やら人々が密集している。覗いてみると朝市である。50メートル程に渡って、地ベタの上にありとあらゆる食材が並べられている。雑穀、コメ、野菜、肉、魚、各種調味料。地元民だけを相手にした市のようで、観光客の姿はない。この市は案内書にも載っていない。昼間改めてこの場所に行ってみたが、もはや市の痕跡は何もなかった。早起きすると、昼間は決してみることのない、街の違った顔に出会える。

 宿に戻ると受付のニーチャンが「明日、パークウー洞窟へのツアーに行きませんか」と誘う。市内見物は今日で終わりそうである。「OK」と返事をし、案内書とカメラをもって再び街に出る。このルアンプラバンの街は、昨夕と今朝少々ぶらついただけだが、ほぼ把握できた。メコン川と平行に走るシーサワンウォン通り(Sisavangvong Rd.)がメインストリートで、この通りにそって王宮や主な寺院が並んでいる。そして、セッタティラット通り(Setthathilath Rd.)との交差点が町の中心点である。

 ルアンプラバンをここまで都市とか町と呼んできた。しかし、この呼び方は著しい誤解を生むだろう。ルアンプラバンに街並みらしい街並みなどない。ビルなど一つもない。商店街もない。もちろんデパートもスーパーもない。ただ、メコン川に沿った4キロ×1キロほどの範囲に、森と寺院と家々が広がっているだけである。私も当初多いに戸惑った。それでもラオスにおいては大都会なのだろう。

 先ずは王宮博物館に行く。1975年、社会主義への移行により王制が廃止されるまでの王宮である。以下ラオ(ス)の歴史について少し触れる。しかし、その前に、ラオ(ス)の国名についての説明が必要である。

 ここまで私は、この国をラオス、ラオ、ラオ(ス)と三通りの表記をしてきた。日本ではこの国をラオスと呼んでいる。英語でもLaosと表記する。しかし、この呼称は植民地主義の残滓である。古来、この地域は「ラオ」と呼ばれてきた。しかし、1893年、フランスがこの地域を占拠し植民地とした当時、この地域はルアンプラバン王国、ビエンチャン王国、チャンバサック王国の三国に別れていた。このため、フランスはこの地域の呼称としてLaoを複数化したLaosを用いた。これがLaosのが始まりである。現在においても、ラオ(ス)の人々は自国をラオと呼ぶ。タイでもラオと呼んでおり、ラオスとはいわない。この国の正式英語名もLao People's Democratic Republicである。ラオスと言う呼び方は、この国をひとつの統一国家とは認めないニアンスを含む。以降、私もこの国を「ラオ」と呼ぶことにする。
   

    ラオの歴史

 ラオが歴史の舞台に登場するのは14世紀中頃である。1353年、クメールの支配を脱し、ファーグム王によりルアンプラバンを王都とするラーンサーン王国(ラーンサーンとは百万頭の象という意味)が建国される。王国は仏教を国教として繁栄を続けた。

 16世紀にはいると隣国ビルマにタウングー王朝が興り、周辺地域への膨張を開始する。これに危機感を抱いた王セーターティラートは、1560年、タイのアユタヤ王朝を頼り、都を国境のビエンチャンに遷す。1556年にはタイ北部のランナー王国がビルマに滅ぼされる。しかし、ラーンサーン王国は1570年のビルマ軍の攻撃を跳ね返し独立を保った。ラーンサーン王国が繁栄の絶頂を迎えるのは17世紀後半、スリニャ・ウォンサー王の時代である。

 しかし、18世紀には入ると、王位継承を巡る内紛で、ルアンプラバン王国、ビエンチャン王国、チャンパーサック王国の三国に分裂する。そして力の弱まった三国は漸次ビルマの支配下に入る。ビルマは1767年にはタイのアユタヤ王朝をも滅ぼす。

 アユタヤ王朝の武将であったタクシンは即座にビルマをタイから駆逐し、1768にトンブリ王朝を興す。さらに、ラオからもビルマ勢力を駆逐し、ラオ三国をもその支配下に置く。その後三国は、トンブリ王朝のあとを継いだチャクリ王朝のもと、自治権を認められ安寧の時代を過ごす。

 19世紀にはいると、インドシナ半島に侵略を開始したフランスがタイに圧力をかけ、1893年、タイからラオ三国の支配権を奪う。これによりラオ三国は仏領インドシナに編入され、ラオスと称されるようになる。

 1945年、日本軍がフランス軍を武装解除する。同年4月には、ルアンプラバン王国のシーサワンウォン王が日本の保護もと、ラオの独立を宣言した。8月、日本が敗退すると、ラオの民族主義者たちは直ちに「ラオ・イサラ(自由ラオ)」を結成し、臨時政府を樹立する。しかし、1946年にフランスが復帰し、ラオ・イサラは亡命する。そして、民族主義者達は1950年に民族解放戦線をハノイで結成する。

 以降、フランス、続いて米国の支援を受ける政府軍と、ベトナムの支援を受ける愛国戦線との内戦が続く。しかし、1975年、ベトナム戦争が終結すると、ラオにおいても愛国戦線が権力を掌握し、王制を廃して社会主義体制に移行する。
 

 入場料1000キープを払い、一切の荷物をロッカーに預けさせられて王宮に入る。フランスはラオ三国を植民地化した後も、政治的思惑からルアンプラバン王国の王室を存続させた。この宮殿も、フランスにより1909年に建て与えられたものである。宮殿と呼ぶにしてはかなり小さい。正面が王位授与ホール、その両脇が王の接見の間と王妃の接見の間、奥が王の寝室と王妃の寝室などになっている。その後の歴史の推移を見るといささか皮肉な結果となるが、中華人民共和国や日本の皇室からの贈り物もある。この宮殿で、ラオの王室はまさにフランスの愛玩動物のごとく暮らしていたのである。この形骸化した王室も1975年の社会主義への移行により廃止された。

 宮殿と道を挟んだ向かい側にプーシー(Phusi)がある。高さ150メートルほどの小高い丘で、ルアンプラバンの展望台として知られている。「プー」とはラオ語で山を意味する。8000キープと、ちょっと高めの入場料を払って、山頂に続く328段の石段を登る。少し登ると、眼下に宮殿が一望できる。丘の斜面は照葉樹の森に包まれている。息を切らせて山頂に達する。瞬間、360度の視界が開けた。眼下にルアンプラバンの町が大きく広がっている。「なんて美しい町なんだろう」。これが心の中で発した第一声であった。視界の先には広大な緑の森が広がっている。森の中に点々と浮き上がる赤、オレンジ、エンジ色の屋根、屋根。大きな屋根は寺院だろう。そして緑の隙間から南国の強い光を浴びた白い壁が光を放っている。近代都市の象徴であるビルなど一つも見えない。街並みも見えない。振り返ると、水を万々とたたえた大河・メコンが視界を直線的に横切り、その支流・カーン川がゆったりと森の中を蛇行している。この時期特有のモヤが町全体を覆い、視界の遥か先は乳白色の幕の中に消えている。

 仏堂の建つ山頂の一角に、錆びついた高射砲が残っていた。ラオで見たただ一つの内戦の痕跡であった。そういえば、ラオに地雷があるとの話は聞かない。両軍とも使用しなかったのだろう。さぁ、今日1日この美しい町を歩き回ろう。王宮前の道路に下り立つと、音楽を奏でながら、4台のビックアップトラックが列をなしてゆっくりとやって来た。1台の車に大きな仏像が積まれ、その前に白い布に包まれた小箱を抱えた人が座っている。他の3台では鐘や太鼓、弦楽器が奏でられている。葬列のようである。

 その時、王宮前の路上に座り込んでお供え用の生花を売っていたオバチャンが、やおら履物を脱ぎ捨て、売り物の生花を抱えて葬列に駆け寄った。そして、花を渡すと何事もなかったようにまた元の場所に座り込んだ。別に葬列と知り合いであった様子はない。やはりこの国は、空に向けて鉄砲を撃ち合いながら内戦を戦った国なのだとの思いが、ふと胸に湧く。

 王宮隣りのワット・マイ・スワンナプーン・アハーン(Wat Mai Suwannaphum Aham)に詣でる。1821年に建立されたルアンブラバンの代表的な寺院である。5重に折り重なった屋根は典型的なルアンプラバン様式で、ラオで最高の美しさを誇ると言われている。僧房の前には今朝の托鉢で得たカオニャオが、干し飯にするのだろう、天日干しにされていた。

 シーサワンウォン通りを北西に向かう。旅行社、食堂、インターネット喫茶、ゲストハウスなどの旅行者相手の店が並ぶ小さな街並みを過ぎると、小学校があった。今日は土曜日、学校は休みと見えて、小さな校庭には子供たちの姿はない。校舎は粗末な平屋建てであるが、屋根だけは二重になっている。これもルアンプラバン様式なのだろう。ここから通りの左手には5つの寺院が連続する。朝のお勤めが終わり、ほっとしたひと時なのだろう、境内には若い僧の姿が目立つ。旅行者相手に話し込む者、ベンチに座り本を読む者、境内で遊ぶ子供たちの相手をしている者。ビエンチャンでもそうであったが、ラオの若い僧は旅行者に気軽に声をかけてくる。

 一番奥が有名なワット・シェントーン(Wat Xiengthong)である。5000キープの参拝料を払い広々とした境内に入る。目の前には何とも美しく優雅な本堂がゆったりとたたずんでいた。大きく湾曲した5重の屋根、まるで音楽の調べを聞くようである。この寺院はラオの寺院の中で最高の美しさを誇ると言われている。1560年、セタティラート王により建てられた。本尊の前に座り、「ルアンプラバンの美しい町とこの美しい寺をいつまでもお護り下さい」と手を合わす。本堂をでると若い僧が話しかけてきた。英語で「タイから来たのか」と聞くので、「メダイ(No)、マー・イープン(日本から来た)」とタイ語で答えると、「サヨウナラ、コンニチハ、アリガトウ」と言ってにこにこしている。以上が知っている日本語のすべてと見える。

 辿ってきた道も、カーン川に突き当たり行き止まりである。カーン川沿いの道を歩いて町の中心に戻ることにする。この付近は、紙漉きをしている家が散見される。川沿いの道をのんびりと歩く。通る車も少なく、実に気持ちのよい道である。右側に並ぶ民家の前には名物のオコシが天日干しされている。左側にはメコン川の支流・カーン川がゆったりと流れている。この川はルアンプラバンの町のすばらしいアクセントとなっており、町の景観を一段と引き立たせている。高く上った太陽が南国の光を降り注ぎ、さすがに暑い。どこかでひと休みと思うが、この町には屋台もない。プーシーの裾を巻きくと、ワット・アパイ(Wat Aphai)にでた。境内に人影はなく、鶏の親子が歩き回っている。

 程なく、目指すワット・ビスンナラート(Wat Visunnalat)に達した。この寺は1513年、ビスンナラート王により建立された。この寺のセールスポイントはまるで西瓜を半分に切ったような独特の形の仏塔である。1914年、嵐によりこの仏塔が破壊されたとき、中から金銀財宝が山となって出現したとのことである。

 正午を過ぎた、どこかで昼飯をと思うが、この町はゲストハウス街の一角を除くとまったく食堂がない。ようやく小さな食堂を探し当て、「カオ・ソーイ ミー マイ(カオソーイはありますか)」と聞くと、「ミー(ある)」との返事。この料理は食べたことはないが、案内書に「ルアンプラバンなどの北部でしか食べられないスペシャルな麺。きしめん風の幅広い麺に辛みそを乗せて食べる」とある。激辛を心配したが、それほどでもなく、空腹にはおいしかった。

 シン(ラオス風巻きスカート)をもう一枚買おうと思っているのだが、街にまったく店がない。タラート・ダーラーに寄ってみることにする。衣料品と雑貨を扱うマーケットである。平屋建ての建物の中にたくさんの小さな店が入っている。しかし、中は薄暗く、規模もビエンチャンのタラート・サオに比べたら雲泥の差で、余り活気はない。シンの店は数軒あったが、ここでもやはり店員は目をそらす。こちらももう慣れっこである。ひと声かければ、満面の笑顔で対応してくれる。

 午後からはシーサワンウォン通りを、朝方とは反対に、南西方向に歩いてみることにする。こちらも多くのお寺がある。ワット・ホクシャン(Wat Hoxiang)、続いて隣のワット・マハタット(wat Maha That)の境内をぶらつき、通りに戻るとナンプー(噴水)があった。ここに、長い髪を手で絞る女神の像が立っている。一目、トラニの像である。トラニは、自分の髪をしぼって、洪水をおこし、悪魔から仏陀を救ったと伝えられる大地の女神である。バンコクでは水道局のシンボルマークとなっており、王宮前の広場にその像が立てられている。

 さらにテクテクと歩き、ワット・タートルアン(Wat Thatluang)に達する。この寺にはルアンプラバン王朝最後の王・シーサワンウォンの墓がある。今朝方見学した宮殿の最後の主である。さらに歩く。家並みも疎となり、ルアンプラバンの町が尽きるところに、メコン川を背にしてワット・パバート・タイ(Wat Pha Baht Tai)がある。この寺はベトナム寺院である。寺の表示にもベトナム語が併記されていた。しかし、僧は他の寺院とまったく同じ格好であった。

 メコン川に沿いの道を歩いて帰る。ビエンチャンで眺めたメコン川は、川幅も数キロあり、また水流がタイ側にあったため、何か寝ぼけた印象であった。しかし、このルアンブラバンのメコン川は200〜300メートルの川幅一杯に水が蕩々と流れ、大河の風格が漂っている。川岸から水辺までは数メートルの絶壁となっている。宿に帰ると受付のニーチャンが「明日のツアーは日本人だけの4人になった」と得意げに報告に来た。こっちはあんまりうれしくない。白人のネーチャンと一緒の方がよかったのに。

 近くの食堂に行きラープに再挑戦する。ビエンチャンで懲りたので「辛いのはだめ」としつこいほど言っておく。出てきた料理は確かに辛くはなかったが、その代わり、味も薄くてまずい。やはりラープは辛くなければラープではないのだろう。おまけにご飯がカオニャオではなく普通のインディカ米。これではラオ料理ではない。

 夜、王宮前のシーサワンウォン通りが全面的に車両通行止めとなり、ナイトバザールとなる。夕食後、行ってみる。200メートルほどにわたり、地ベタに直接店が開かれている。商品は主としてラオ特産の絹製品や少数民族の衣装などだが、特にモン族の人たちの手芸品が多い。モン族は中国雲貴高原からタイ、ラオスの山岳地帯に暮らす民族で、主として標高1000メートル以上の高地で焼き畑農業を行っている。ラオにおけるモン族は悲劇の民族である。内戦時代、モンは民族を挙げて米軍に味方し、その先兵として戦った。そのため戦後、数10万人のモン族が米国などの国外へ亡命した。

 バザールの中をぶらつく。ここでも例によって、店のおばちゃん達は目をそらす。さも、お客になど興味がないかのように、裸電球に向かって刺繍に余念がない。わずかに、少女の店番が「サバィディー(こんにちは)」と遠慮がちな声を掛けるだけである。そう言えば、ビエンチャンでもそうであったが、店番は必ず女たちである。15〜16歳の少女の店の前にしゃがみ込み、モン族特有の文様が刺繍されたエプロンを買う。いったん話しだせば、真心こもった対応をしてくれる。
 

   第十章 メコン川遊覧

 朝の散歩をしていたら、追い越していったトクトクから大きな声があがった。見ると、ビエンチャンからのバスでいっしょであった、黒人の娘と東洋人の娘の2人が、私に向かって大きく手を振っている。私も思わず「おぉ」と大きな声を上げて手を振る。ともに危険地帯を越えてきた「仲間」である。よく私に気がついたものである。

 今日はメコン川遊覧をすることになっている。9時、事前連絡のあった日本人とゲストハウス前で落ち合う。タイ在住の40歳ぐらいの男性とその母親。もう一人は私と同年配の男性、タイから滞在ビザ延長のためラオスに遊びに来たとのこと。バンコクを発って以来、日本語は封印してきたが、今日はしゃべらざるを得まい。船頭に案内されて、船着き場に向かう。岸から10メートルはある絶壁を怪しげな踏跡を辿って水辺に下る。船着き場と言っても特別な施設があるわけではない。大小数艘の舟が水辺の岩につながれている。メコン川を上下する川船はどれも独特の形をしている。喫水の低い平底で、かなり細長い。

 8人乗りの小さな船に乗る。エンジン音を響かせて舟は上流に向かう。船べりから手を伸ばし、メコンの水を触ってみる。この水は遠くチベット高原を発し、4,180キロという想像を絶する距離を旅して、南シナ海へ注ぐ。古来、この川の流域であまたの国が興り、そして滅んだ。チベット、雲南、ビルマ、ラオ、タイ、カンボジア、そしてベトナム。そう思うと不思議な感情が胸に去来する。

 川は意外と岩場・岩礁が多い。川中にそそり立つ大小の岩場により、流れは分離湾曲する。水面が波だっているところは岩礁だろう。船は巧みに水深部を縫って上流に向かう。岸辺も岩場が多い。時たま穏やかな岸辺が現れると、走り回る子供たちやのんびりと草を食む牛の姿が見られる。時々網を打つ小舟を見る。この流れの中では手漕ぎは無理と見えて、小さな船もエンジンを備えている。流れの緩やかな岩陰には、網も張られている。内陸国・ラオにとって、川は魚を得る貴重な場所である。両岸に迫る山肌は焼き畑の跡が濃厚である。

 1時間あまりの航行の後、船は小さな浜辺に着いた。水辺からそそり立つ10数メートルの絶壁の上に小さな集落が見える。案内書に酒造りの村として紹介されているバーン・サーン・ハイ(Ban Sang Hai)村のようである。危なっかしい踏跡を何とか登り、集落に入る。ここはラオ・ルー族の村である。踏み固められた道とも広場ともつかない空間の両脇に10数軒の掘っ立て小屋が並び、一番奥にお寺がある。集落内は、ラオの村はどこでもそうだが、子供たちの姿が多い。1人に「アーユー・タオライ(歳はいくつ)」と聞くと、「フォック(6)」との回答が返ってきた。道に面する家々の軒先には、絹織物とラオの地酒・ラオラーオが並べられ、その奥では機織りがなされていた。見るからに原始的な機織機であが、そこから色鮮やかな織物ができ上がっていく。また軒先ではラオラーオの蒸溜が行われている。ドラム缶から無造作に突き出たパイプの先から琥珀色の液体がポタリポタリ。密造酒の製造現場を見るおもいである。

 再び船に乗って上流に向かう。 程なくパークウー(Pak Ou)洞窟についた。川に面した切り立った崖に、大きな穴が開いている。すでに20人ほどの欧米人の団体を乗せた船が横づけされていた。洞窟の内部には無数の(案内書によると4000体以上)の仏像が安置されている。しかし、穴も浅く、たいしたことはない。わざわざ見に来るようなところとも思えない。そこから急な階段を15分も登った山の中腹に第二洞窟がある。こちらは穴が少し深いが、やはり見に来るほどでもない。洞窟対岸の四阿風の食堂で昼食にする。同行の二人はタイ語がかなりうまい。

 船は下流に向かい引き返す。船頭が、もう一つ紙漉きと織物の村に寄るという。小さな砂浜に接岸すると、真っ裸の兄妹が砂の上を跳ね回っている。5歳と3歳ぐらいだろう。崖を登ると、先程と同じような小さな集落があった。店を覗きながら集落内をぶらつく。珍しい黄色のマユを見つけた。黄金色の糸を吐く蚕のマユである。この蚕は世界中でもインドシナ半島の北部にしかいないと書物で読んだことがある。一軒の織物の店を覗く。店番の少女が「買って下さい。全部私が織ったの」と澄んだ眼差しを向ける。そう言われたら買わないわけにはいかない。絹のマフラーが10000キープ(100円)、何と安いことか。

 3時にルアンプラバンに戻りついた。3人と別れ、インターネットカフェには入り、自宅にe-mailする。何とも便利な通信手段ができたものだ。世界中どこへ行ってもP.Cさえあれば連絡できる。今日はルアンプラバン最後の日、メコンに沈む夕日を見ながら食事をしよう。川岸に椅子とテーブルを並べた屋外食堂に行き、ビアラオを飲みながら沈みいく夕日を眺める。ビエンチャンでも、メコンに沈む夕日を眺めた。しかし、このルアンプラバンでの眺めのほうがはるかに情緒がある。やがてメコンの流れが赤く染まり、向こう岸の山の端に赤い太陽が沈んでいった。明日は、この美しい都市・ルアンプラバンを去る。
 

   第十一章 メコン川を遡る船旅

 朝7時半、ザックを背負ってゲストハウスを出る。今日はメコン川をスピードボートで遡り、タイとの国境の町・フアイサーイ(Huai Xay)を目指す。約6時間の船旅である。

 ラオは山国であり、道路網の発達が遅れている。その代わり、河川交通が発達している。川さえあれば必ず船便がある。ルアンプラバンからフアイサーイまでも、道路は通じていないが、メコン川を遡る定期船が出ている。ただし、定期船で行くと2日ないし3日かかる。定期船とは別に、スピードボートと呼ばれるモーターボートの便もある。こちらは時速80キロものスピードで走るため、6時間で行くことができる。ただし、人数が集まり次第出発するという不定期船であり、また当然料金も高い。どちらで行こうかだいぶ迷っていたのだが、昨日、ある旅行社の前を通りかかったら、ファイサーイまでスピードボートのチャーター便を出す旨の掲示があった。即決して、260,000キープ(約2600円)でチケットを購入した。8時半に出発するという。

 スピードボートは定期船や観光船の船着き場ではなく、町からだいぶ離れた船着き場から出るので、遅くても7時40分にはゲストハウスを出発せよと指示されている。トクトクで20分ほど上流に向け走り、スピードボート・ピアに着く。すでに欧米人のバックパッカーを含め、同乗者と思える何人かが集まっていた。

 しばらく待つと、船に乗れとの合図。乗客は合計8人。バックパッカーが私、単独行の若い白人の女性、白人のアベック1組の計4人。ラオ人が若い女性1人を含めて4人である。船は6人乗りのちっちゃなモーターボート。2隻で行くという。当然、バックパッカー4人とラオ人4人に分かれると思ったら、東洋人5人と白人3人に分けられた。私もこのほうが気楽だ。ところが私のザックは白人3人の船に積み込まれてしまった。心配になって、何度も船頭に確認するが大丈夫だという。何となく気掛かりである。乗客全員に救命胴衣とヘルメットが配られる。凄まじい船旅になりそうである。荷物の積み込みに手間取り、結局、我々のボートが出発したのは9時であった。もう一台は10分ほど前に出発していった。

 想像を絶する凄まじい走行である。耳をつんざく爆音、否、爆「音」などという生易しいものではなく、空気の物理的振動そのものである。鼓膜が耐えきれずに耳奥が痛くなる。慌てて耳を押さえる。風圧もすごい。眼鏡がとびそうである。慌ててヘルメットの風防を下ろし、身を屈める。このことをある程度予想し、防風対策として、セーターを着、さらに雨具を着けている。大正解なのだが、それでも寒い。一番前の席に男性2人、真ん中に私と若い女性、後の席に中年の男性と荷物。最後尾で船頭がスクリュウに直結した梶棒を握っている。膝を抱えた状態で身動きもできない。耐える以外にないが、6時間も身体がもつのか。何隻かの観光船、定期船をあっという間に抜き去り、昨日、1時間半近くかかったパークウー洞窟をわずか15分で通過してしまう。まさに水面を飛ぶかのごとき疾走である。

 それでも時間とともに、周りを眺める余裕も生じる。両岸は荒々しく切り立った岩場が多く、川中にも大小の岩が突きだしている。船は大きく舵を切りながら巧みに航路を選んでいく。集落はまったく見えない。それでも時折、漁をする小舟と張られた網が見られるので、山陰に小集落はあるのだろう。山肌は焼き畑である。メコン川は瀬となり瀞となって流れる。川幅は1キロにも広がれば20〜30メートルにも縮まる。直線の瀞に入れば、船はエンジンを全開させ100キロ近い猛スピードで疾走し、小波たつ瀬に入れば、激しい振動に見舞われる。

 1時間半も走ると、船は水上ドライブインともいうべき筏に接岸した。ガソリンタンクと売店を乗せた筏が小さな浜に繋がれている。トイレ休憩だがトイレはない。岸辺で立ちションである。同乗の若者がメコンの川水で歯磨きを始めた。濁った水を平気で口に含み、うがいをしている。浜には小さな落花生畑が見られ、奥に集落がある気配である。

 再び川面を疾走する。30分ほどで小さな磯に接岸した。岸には何もないが、崖の上に数軒の家が見える。若者二人はここで降りたが、代わりにおばちゃんとおっさんが乗り込んできた。大きな荷物を抱えている。

 さらにメコン川を遡る。1時間も走るとパークベン(Pakbeng)に着いた。ルアンプラバンとフアイサーイとのちょうど中間に位置する「町」である。二日がかりの定期船の場合はここで1泊することになっている。小さいながらも「町」を想像していたのだが、切り立った山肌の斜面に10軒ほどの家が並んでいるだけである。なかに、1軒だけ二階建ての大きな家が見える。ゲストハウスなのだろう。

 船が着いた所は岩場の岸に浮かぶ筏。筏の上は食堂になっている。先発したボートも含め、数艘の船が繋がれている。昼食休憩だという。こんな時、単独行のおじさんは孤独である。話し相手もなく、一人で注文したうどんをすする。食堂の中はにぎわっているが、外国人は4人だけ、3人の白人は奥のテーブルで懇談している。筏からは上部の集落に向かって、とても道とは言えない踏跡が付けられ、人々が行き来している。

 岩の上でぼんやりしていたら、船頭が出発だと呼びに来た。ここから乗客は6人になった。私と3人の白人、それに中年の男性と若い娘さんである。いずれもルアンプラバンから乗船した面々である。船も一艘にまとめられ、私のザックも積み替えられていた。ひと安心である。3人の白人バックパッカーは、いずれも米国人だといい、三人で仲良しになっている。言葉の問題もあり、私はちょっと仲間には入れない。中年のラオ人は、なかなか陽気な男で、英語もぺらぺら、タイまで仕事で行くという。プーイン・ラオ(ラオ娘)はなかなかの美人だが、にこにこしているだけで我々の会話には入らない。英語は分からないようだ。ともかくこの6人が同舟となった。

 船は再び爆音を響かせてメコン川を遡る。今度は私が一番前の席となった。風圧はすごいが、視界は最高である。まさにジェット機の操縦席に座っている気分だ。重々と続く山並み、その中を大河メコンは瀬となり瀞となって流れ下る。時には両岸絶壁に囲まれた深い瀞を爆走し、あるときは、激しく泡立つ瀬を乗り越え、またあるときは、迷路のような切り立つ岩の間を縫い。一瞬袋小路に入ったかと思うと、岩の間に細い水路が開けている。もはや人家はまったく現れない。切り裂く風の寒さと、腰や背中の痛みに耐えながらも「私は今メコンを辿っているのだ」との思いが強い。

 2時間近く走ったろうか。景色が大きく変わりだした。両岸から山並みは遠のき始め、川幅は数キロもの広がりとなる。両岸もこれまでの荒々しい岩璧から砂洲の広がりに変わる。タイ国境が近づいて来た気配である。船は速度を落として、筏のドライブインに停まった。フアイサーイまで、もう40分の距離だという。峠は越したとの解放感が乗船者の間に広がる。

 筏の上には、ここの店主なのか、それとも居合わせた地元の人なのか、3人の男がいた。食べかけていた菓子を、「食べてみろ、うまいぞ」と我々に差し出す。すると、同乗のおっさんが、何か声を掛ける。おそらく「菓子よりも酒はないか」と、いったのだろう。竹筒にはいった酒が持ち出されてきた。小さなコップが次々に回される。赤く濁った液体は強烈にのどを焼く。白人の2人の女性も「だめだめ」と手を振りながらも飲み干している。「もう一本だ」。おっさんが叫ぶ。思わぬ事態の進展に、40〜50分もの休憩となった。プーイン・ラオはここで下船した。

 5人を乗せて、船は最後の行程に出発する。ほろ酔い気分のメコン川、ほてった顔に当たる風が気持ちいい。40分ほどで、ついにファイサーイの船着き場に到着した。何はともあれ、無事の到着を喜ぼう。崖の上に川と平行に道路が走っており、数軒の家が見える。山の上には立派なお寺も見える。崖を登るとトクトクが待っていた。米国人3人とおっさんは今日中にタイへ渡るという。私はこの町で1泊するつもりだ。ここで握手をして別れる。彼らはトクトクで出発していった。

 ここで大きな勘違いをした。町の中心はすぐだと思い、崖上のメコン川沿いの道を歩き始めた。船着場から見えた山の上のお寺を地図にあるワット・マニラートだと思ったのである。ところが、民家もなくなり、近くに町がある気配がない。おかしいなぁと思い、道端の人に尋ねてみると、方向は正しいが、町までだいぶあるとの答え。困ったなぁと思っていたら、幸運にもトクトクが通りかかった。車でも町まで10分ほどかかった。
 

   第十二章 国境の町・ファイサーイ

 この町で一番立派なホテルにチェックインする。とはいっても1泊400バーツ(約1200円)、田舎だけにビエンチャンやルアンプラバンに比べてはるかに安い。ここはもうバーツの世界である。部屋も立派で、窓からメコン川が一望できる。荷物を置いて、すぐに街に飛びだす。街といっても、わずか100メートルほどの薄い街並みがあるだけ、端から端まで歩いても数分である。メインストリートからほんの20メートルほど坂道を下ると、そこはメコン川の岸辺で、小さな船着き場となっている。向こう岸にはタイのチェンコーンの街並みがはっきり見える。

 街並みの中心から長い長い階段が背後の山に続き、その先に立派なお寺が見える。ワット・マニラートである。行ってみることにする。ほかに行くところもない。長い階段を上っていったら、一番上に2人の若い女性が座っている。通り過ぎざまに、ちらっと見ると、「地球の歩き方」を抱えている。思わず、「Are you Japanes ?」と問うと、「はい」と日本語の答えが返ってきた。こんなラオの辺境の地で日本人の娘に会えるとは思わなかった。彼女らは明日飛行機でビエンチャンへ行くという。「何でルアンプラバンに寄らないの。それじゃラオスに来た価値がないよ」というと、残念がっていた。

 本堂に上がり、金色に輝く本尊の前に座る。周りには誰もいない。静かに本尊を見続ける。明日、ラオを去る。ラオでの思い出が脳裏を去来する。突然、「年たけて また越ゆべしとおもいきや いのちなりけり さやの中山」という西行の1首が頭をよぎった。まさに、この歳になって、ラオに来られるとは思わなかった。これほど素晴らしい国を旅できたことは何と幸せなことだろう。「素晴らしい旅をありがとうございました。どうかラオの国をいつまでもお護り下さい」。本尊に手を合わせ、本堂をでる。

 境内に3層の櫓となった鐘撞堂がある。若い僧が「登ってみなさい。メコン川がきれいですよ」と勧める。登ろうとすると、先ほどの女の子が「いいですねぇ」という。ふと見ると、登り口に「女人の登楼を禁ずる」と、確り書かれている。小さな町並みの背後に、大きく川幅を広げたメコン川が滔々と流れ、向こう岸に、明日向かうチェンコーンの町が手に取るように見える。この場所で、メコンに沈む夕日を見るという彼女達と別れ、町に戻る。私は川沿いの小さなレストランで、ビアラオを飲みながら、沈む夕日を見ることにする。
 

   第十三章 さらば! 安らかなる国 ラオ

 宿を出て、船着き場に向かう。ほんの5分ほどの距離である。ここにラオの小さなイミグレーションがある。業務開始は8時から、まだしばしの時間がある。ベンチに座り、目の前を流れるメコンを見つめなが8日にわたるラオの旅を思い浮かべた。何とさわやかな旅であったろう。この国は訪れる旅人の心まで安らかにしてくれる。ラオス政府観光局ホームページの冒頭コピーを思い出した。

 「何もない国?」、とんでもない。素晴らしい自然と、ルアンプラバンという世界一美しい都をもっているではないか。「貧しい国?」、確かにそうかもしれない。しかし、この国には物乞いはいない。人々は他人を押しのけてまでも豊かになろうとはしていない。身の丈にあった生活の中で、皆一生懸命生きている。「心の豊かさはどこの国にも負けない?」、その通りだと思う。そして、それ故に、この国は美しいのだろう。

 水辺におり、1人小さな渡し船に乗る。船はすぐにメコンの流れに乗りだし、舳先をタイに向けた。私はその反対側、遠ざかるラオの大地をいつまでも見つめていた。「さようなら。そして、ありがとう」と心のうちで叫びながら。

 (完) 

 

 
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