猿の街 ロッブリーへの旅 

アユタヤ王朝の栄華の跡を留める街

2003年6月21日


 
 
 5月末に妻が日本からやってきた。1ヶ月間滞在するつもりであるという。ありがたいような、じゃまくさいような、複雑な心境である。生まれて初めての外国への一人旅、無事バンコクまでたどり着けるか心配したが、空港に元気な姿を現した。

 我がワンルームマンションに住み着いたのだが、以後、日本オバチャンパワーをまざまざと見せ付けられることとなった。初めての外国生活、平日は一人になるので、最初は心配したのだが、まさに杞憂であった。あっという間に数人の友達を獲得し、料理学校には通いだすし、日本人会婦人支部のサークル活動には参加するはである。私でさえ未だにビビる路線バスに平気で乗って、バンコク市内をどこへでも行ってしまう。食事はその辺の屋台で食べるという。しかも、全ての行動は日本語のみでやってしまう。凄まじいものである。

 休日の1日、どこかへ連れて行けというので、ロッブリー(Lopburi)へ行ってみることにした。バンコクの北約150キロに置する歴史に富む都市である。そしてまた、「猿」の町として有名である。ロッブリーが歴史の舞台に登場するのは6世紀であるクメール系のモン族が建設した都市国家の中心都市として栄えた。その後クメールのアンコール王国の支配を受ける。そしてこの都市が最も華やいだのは17世紀である。絶頂期を迎えたアユタヤ王国の第二の首都として世界史の舞台に登場する。時の大王・ナライがフランスのルイ14世の使者を迎えたのもこの都市においてであった。

 我が社の専属運転手S君の車で7時に出発する。彼は妻が来て以来ご機嫌が悪い。私がまっすぐ家に帰るため残業時間が減り、面白くないらしい。空はどんよりと曇り、あいにく今にも降り出しそうな天気である。5月末より、日増しに雨季の気配が濃くなっている。最近はほぼ毎日雨が降る。国道1号線を時速120キロの猛スピードで一路北上する。

 バンコク平原の景色は至って平凡である。うねりさえない、平坦な大地がどこまでも続いている。かといって、ただ一面に田圃が開けているわけでもない。湿地帯と、潅木の林が雑然と広がっている。やがて車は大きな町に入った。S君に聞くとSaraburi(サラブリ)だと言う。町並みを抜けると、以外にも低い岩峰の小さな連なりが現れた。ただし、どの山も無残に山肌を深く削り取られている。石灰岩の採石場のようである。ついに雨が降ってきた。午前中から雨が降るのも珍しい。ガソリンスタンドとコンビニがセットとなっている休憩所で一休みする。雨が一段と激しくなってきた。これではどこかで傘を買わなければならない。ロッブリーまではもう10分ほどだという。

 東からロッブリーの町へ入った。大きなロータリーを二つ過ぎ、町の中心部へと進む。出発前、S君にロッブリーに行くというと、不思議そうな顔をして、猿以外何もない町だという。どうやらロッブリーの旧所名跡は知らないらしい。まずは行動の基準点を定めなければならない。鉄道の駅を目指せと指示する。駅の北側500メートルほどの線路に面したちょっとした広場に着いた。いい具合に雨もやんだ周りにいくつかの崩れかけた仏塔が見られる。車から降りると同時に、Monkey ! とのS君の声。指差すほうを見ると、線路をはさんだ反対側は猿、サル、さる である。家の屋根といわず電柱といわず、いたるところサルが群れをなしている。

 まずは目の前の遺跡に行ってみる。入り口にWat Nakhon Kosaの表示がある。クメール時代の寺院遺跡である。プラーン(クメール式の仏塔)の痕跡は確認できるが、後は赤レンガの積み重なった廃墟である。すぐに線路の向こう側の、三つのプラーンの立つ遺跡に向かう。踏み切りをわたると、街中猿だらけとなった。車の往来の激しい大通りもすいすい渡っていく。30バーツの入場料を払って遺跡に入る。Phra Prang Sam Yotというクメール時代の寺院遺跡である。遺跡はすさまじい数の猿の群れに占拠されている。100匹以上はいるだろう。油断していると後ろから飛び掛ってくる。ふざけているのか、本気なのか、少々怖い。この寺院はクメール時代のヒンズー教寺院をアユタヤ時代に仏教寺院に改修したものである。三つの仏塔は内部の細い通路でつながっている。入ってみると、いくつかの首のない仏像が残っていた。

 クメール王国の宗教はアンコールワットに見られるとおりヒンズー教である。従って、タイがクメール王国の支配を受けた時代の寺院はヒンズー教寺院である。バンコクの代表的な寺院・Wat Arun(暁の寺)も、元々はヒンズー教寺院であった。タイに仏教が本格的に普及するのは13世紀に成立したタイ民族初の独立国家・スコータイ王国からである。それに続き14世紀に成立したアユタヤ王国は仏教を国教としてその普及に力を尽くした。しかし、現在においてもタイの仏教はヒンズー教の影響を色濃く残している。どの寺院に行っても仏像とともに多くのヒンズー教出身の神々が祀られている。現在のチャクリ王朝も含め、歴代の王朝は仏教とともにヒンズーの思想を積極的に取り入れてきた。そもそも、人間平等主義を唱える仏教は国家支配の思想にはなりにくく、王位を正当化するためには階層の思想であるヒンズー教の思想が必要であった。

 Phra Prang Sam Yotと線路をはさんだ反対側ある寺院がSan Phra Karnである。新旧二つの寺院からなっている。クメール時代の寺院はすっかり廃墟と化し、単なる赤煉瓦の山としか認識できない。その廃墟の前に1951年に建てられた新しい寺院があり参拝者で賑わっている。この寺院にはクメール時代からブラフマー神が祀られている。この神は四面の顔と四本の腕を持つヒンズーの神である。従ってこの寺院は正確にはヒンズー教寺院と云うべきなのかも知れないが、タイにおいては仏教とヒンズー教は渾然一体となっている。日本においても寅さんで有名な柴又の帝釈天はヒンズーの神であるが、仏教寺院の形を取っている。

 本来この寺院が猿の寺として有名なのだが、境内には数匹がいるのみであった。寺院の門前には狛犬ならぬ石の狛猿が睨みを利かせている。その横には、相当な歳なのだろう、でっぷりと太った1匹の猿がデンと腰を構えていた。ロッブリーの猿の謂われは、インドの古代叙事詩ラーマーヤナの中に求められている。それによると、ラマ王が敵の攻撃を受け窮地に立ったとき、猿王の援軍を得て勝利した。猿王はその功としてロッブリーをもらったとのことである。

 500メートルほど移動して、ロッブリー駅前に車を停める。目の前に広大な廃墟が広がっている。ロッブリーで一番大きな寺院遺跡・Wat Phra Sri Rattana Mahathatである。この寺院も元々はクメール時代のヒンズー教寺院である。その後スコータイ王朝、アユタヤ王朝により仏教寺院に改修され、またいくつもの建物が増改築された。そのため、各時代の建築様式が入り混じり、歴史的価値が大きいという。30バーツの入場料を払い遺跡に入る。女性もまじえた4〜5人の若者がメモを片手に熱心に見て回っている。Phra Prang Sam Yot遺跡でも見かけたグループである。目が会うと英語で挨拶してきた。大学生のようである。彼らとはこの先々でも一緒になった。遺跡の中をのんびりと歩き回る。この遺跡にはもはや猿はいない。崩れかけた大きなプラーンがひときわ目立つ。遺跡の片隅には一本の火炎樹が真っ赤な花を樹木いっぱいにつけていた。

 手持ちの案内書によるとこの遺跡の裏手にTAT(Tourist Authority of  Thailand)ある。行ってみると、コピーした粗末なものだが日本語のパンフレットが得られた。大学生たちもやってきた。行動がまったく同じとは驚きである。駅に戻る。駅のホームには大きな猿の像が建てられている。やはり猿がこの町の象徴なのだろう。

 街中を500メートルほど西に移動すると、5メートルほどの赤レンガの塀で囲まれた広大な一角に突き当たる。ロッブリーの誇る最大の歴史的遺産 ナライ・ラーチャニウェート宮殿(Narai Ratchaniwet Palace)である。この宮殿はアユタヤ王朝絶頂期の王の一人であるナライ王(1657〜1688)により夏の離宮として建設された。ナライ王の時代はアユタヤ王国とフランス王国が濃厚な蜜月関係にあった時代でもある。この離宮もフランス建築家の指揮のもとに建てられた。このため、タイ様式とフランス様式の入り混じった珍しい建物であるといわれている。

 建設は12年もの歳月を掛け、1677年に完成する。17世紀、アユタヤ王朝は東南アジア最大の貿易拠点としてその繁栄の絶頂期を迎える。ヨーロッパ、アジア各国から多くの物、人、金が集まり、チャオプラヤ川にはアユタヤに向かう船の列が絶えなかったという。それだけに、植民地主義の牙をむき出しにしたヨーロッパ諸国はアユタヤ王朝を我がものにせんと、虎視眈々とねらっていた。また列強間の争いも激しかった。それに伴い、王国内の内部抗争も激化していた。ナライ王はこんな時代のアユタヤの大王である。

 この時代、ヨーロッパ諸国の中でオランダが最も強力であった。そして、貿易権益を独占すべくチャオブラヤ河口を封鎖するなどしてアユタヤ王国に激しく圧力を掛けた。ナライ王は活路をフランスとの接近に求める。フランスは太陽王・ルイ14世の時代である。海外への勢力拡大を狙っていたフランスはこの誘いに飛びつく。ただし、いずれも狐と狸の化かし合いであったことには変わりない。

 王は年とともにこの離宮で1年の大半を過ごすようになる。アユタヤ宮殿内での権力闘争に嫌気が差したこともあるのだろう。このため、ロッブリーは事実上王国第二の首都として機能するようになる。1685年ルイ14世の使者を迎えたのもこの宮殿においてであった。ロッブリーが最も華やいだ時代である。しかし、1688年、反乱のため急遽このナライ・ラーチャニウェート宮殿に避難したナライ王は、ここで急死する。以降、この宮殿は見捨てられ、荒れるに任されるのである。そしてアユタヤ王国もヨーロッパ諸国からの圧力を避けるべく鎖国の時代に入る。しかし、貿易立国で力を蓄えた王国は、この鎖国により次第に衰退に向かう。そしてナライ王の時代から100年後の1767年、あれほどまでに繁栄を極めたアユタヤ王国はビルマ軍によって滅ぼされる。 

 建設当時そのままと思える時代を感じる立派な門をくぐってナライ・ラーチャニウェート宮殿に入る。よく手入れされた広大な芝生の広場の中に、赤レンガの崩壊した建物群が広がる。そしてその奥には、白い漆喰のいまだしっかりした建物がいくつか見られる。何となくアンバランスな景色である。実は、現チャクリ王朝のラマ4世(1851〜1868)によって、王の仮宮殿としていくつかの建物が19世紀に建てられのである。無責任なものの言い方をするなら、まったくラマ4世は余計なことをしたものである。やはりこの地はナライ王の宮殿のままであってほしかった。アユタヤ王朝華やかりし頃の残り香を嗅ぐためには、崩れかけた赤煉瓦の建物群こそふさわしい。19世紀の建物はやはり邪魔である。

 芝生の広場を横切り、小さな小部屋がいくつも連なる半壊の建物群を抜ける。物品を蓄えた倉庫の跡だという。そして、その在りし日を想像するのも難しいほど崩れた建物の一角に、フランス使節に謁見するナライ王の姿が刻まれた銅板が置かれている。宮殿の跡なのだろう。かの大学生たちが説明文を熱心にメモしている。ナライ王が水浴びをしたという池もそのまま保存されている。ラマ4世時代のいまだしっかりした建物は現在博物館などに使われている。

 時刻はちょうど正午、S君が警備所で聞いてきた近くのベトナムレストランに行く。学校帰りの中学生が何人も入り込んでいる大衆食堂であったが、意外にも、女店主がタイ訛りのない流ちょうな英語をしゃべる。しかも、さらに驚いたことに、注文した春巻き風のベトナム料理が実にうまい。ロッブリーでの思わぬ拾いものであった。

 昼食後、最後の見学地であるチャオプラヤ・プラヤー・ウィチャエンの家(Chao Phraya Wichayen House)に向かう。ナライ・ラーチャニウェート宮殿のすぐ北隣である。さして広くない敷地の中に赤煉瓦の壊れた建物跡が並ぶ。いずれも17世紀の建物である。誰もいない。この建物群はナライ王が各国使節の迎賓館として建てたもので、一時はフランス大使の住居となった。その後、ナライ王の顧問であったギリシャ人コンスタンチン・プファウルコン(タイ名チャオプラヤ・ウィチャエン)の屋敷となった。このギリシャ人は東インド会社の使用人から王の腹心にまで登り詰めた怪人物で、宮廷内に大きな力を及ぼしたと云われている。またその裏でフランスと癒着していたとも云われている。小説の素材としたらかなりおもしろそうな人物である。建物群は住居、礼拝堂、宿舎の三つからなると案内書にあるが、どれがどれやらもはや確認できないほど荒れ果てている。

 以上でロッブリーの旧所名跡巡りは終わりである。真っ直ぐバンコクへ帰ろうと思ったら、S君が「隣町のSing BuriにBig Big Sleeping Buddha があるので案内する」といいだした。要するに大きな寝仏と思われる。ロッブリーではあっちへ行けこっちへ行けと私の指示で運転していただけ。一つぐらい主体的に案内しなければタイ人としての面子が立たないと考えたのだろう。彼の薦めに従う。

 道を西に向かう。北に大きく視界が開け、見渡す限り田圃が広がっている。そしてその先に低いながらも山並みがくっきり見える。タイに来て以来始めてみるどこか日本的な景色である。Sing Buriの町を抜け、目指すWatに着いた。境内に土産物屋や食べ物屋が並ぶ大きな寺で、参拝者で大いに賑わっている。ただし、観光地ではなく、地元の霊感あらたかなお寺のようである。少々気後れはするが、参拝者の列に紛れて、寺内の施設の奥へ進む。講堂のような大きな建物に入ると、そこに黄金に輝く巨大な寝仏が横たわっていた。バンコクの有名なワット・ポーの寝仏とどちらが大きいのか。顔の近くに祭壇があり、皆熱心に祈りを捧げている。タイでは参拝者の中に若者の姿が非常に多い。ここでも、臍だしルックの娘さんが床にひれ伏すタイ式作法を持って熱心に祈りを捧げていた。

 日本・中国等の大乗仏教の地域では仏像は座像か立像に限られる。しかし、タイでは寝仏すなわち寝そべった仏像も一般的である。そのほかにWalking Buddhaと呼ばれる歩いている仏像もある。寝仏は釈迦の入滅の姿を現しているという。この寺の名前はS君に何度も聞いたのだが難しくてさっぱり頭に入らない。名前を刻んだ立派な門柱はあるのだが全てタイ語。帰ってきて調べてみると、どうやら地図にChksi Reclinning Buddhaと記載されている寺院であったと思われる。

 帰路、どこまでも続くバンコク平原をぼんやりと眺めながら、タイの歴史に思いを馳せた。遠く今から2,000年前、タイ民族は稲作を携えて中国江南の地を旅立ったといわれる。それから1,000年後、雲南の地を経て、バンコク平原にたどり着く。しかし、政治的には東の強国クメールの支配が長く続く。自らの独立国家を持つのは13世紀のスコータイ王朝まで待たねばならなかった。しかし以後も、西のビルマ、東のクメール、そして時には中国の元や明などの侵略、支配をしばしば受ける。そして17世紀以降はヨーロッパ列強の植民地主義と戦う。まさに苦難の歴史である。それに伴い王朝も興亡を繰り返した。現チャクリ王朝の成立したのもほんの18世紀である。そして現在、東南アジア最大の経済大国としてその地位を確たるものとしている。
そして、今、この国に私がいる。
 

 
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