前黒法師岳

ヤマヒルの恐怖に怯え、深い樹林の中を

1993年7月4日

      
 
寸又峡温泉駐車場(640)→登山口(730)→栗の木の段(920)→尾根分岐点(1030)→前黒法師岳(1150〜1210)→栗の木の段(1335)→登山口(1430)→寸又峡温泉駐車場(1515)
 
 
 昨年の12月、寸又峡温泉から朝日岳に登った。南アルプス深南部への初めての登山であった。思いがけず池口岳という素晴らしい双耳峰を眺めることもでき、この山域への憧れがますます強まった。次なるターゲットを前黒法師岳に定めた。すっくと聳える端正な三角形。朝日岳から眺めたこの山は私の登山意欲を著しく刺激した。しかし、調べてみると登頂はかなりハードな様子で、距離的にも寸又峡温泉から日帰りぎりぎりである。しかも、ルートは微かな踏み跡程度らしく、いったんルートを失ったら原生林の中をさまよい歩くことになる。一人で登るのにかなり不安を感じ、心の中で何ヶ月か葛藤が続いた。しかし、時間が経てば経つほど憧れは強まる。「不安があれば途中で引き返せばよいではないか」と考え、やっと踏ん切りが着いた。昨日の土曜日は大雨警報の出る程の悪天であったが、今日の日曜日、天気予報は梅雨の晴れ間を告げている。昨日の大雨の影響が心配であるが、尾根筋を登るので大丈夫であろう。

 前の晩はルートの一つ一つが頭に浮かび、ほとんど眠れなかった。5時20分、車で出発する。空は期待に反し、雲が厚い。6時40分、寸又峡温泉着。早朝にもかかわらず、この山深い温泉場は、すでに活動を始めている。朝日岳へのルートと別れ、大間川ぞいの林道をたどる。眼下はるかに、連日の大雨で水かさを増した大間川が、茶色のすさまじい濁流となって轟音を上げている。垂直に切れ落ちた山肌からは、いたるところで水流が白く長い滝となって落下している。林道上にも山肌からの水流が溢れ、通行止めの処置がとられていた。かまわず進む。長いトンネルを抜け、夢の吊橋への道を分け、飛龍橋で大間川を渡る。林道は左右に分かれるが、左へルートをとる。この先に登山口があるはずであるが、うまく見つかるかどうか。二つほど沢を回り込むと、右斜面に向かって鉄梯子が掛けられ、傍らに登山届用のポストがあった。標示は何もないが登山口である。ポストの中を覗くと、ノートがあった。めくってみると、前日登ったパーティがある。7時30分出発、2時下山とある。あの大雨の中を(昼からは晴れたが)よくぞ登ったものである。時刻はちょうど7時30分。登頂時刻が同じであり参考になる。ノートに私の名前を書き込む。

 登山道に踏込む。すぐに道が二股に分かれた。分岐に山頂を示す小さな道標が木に縛り付けられてはいるが、ぐらぐらしていて、どちらの道を示しているのかわからない。直進する確りした道を選ぶ。しかし、7〜8分も進むと、暗渠の様な施設が現れ、道が絶えた。慌てて分岐に戻り、真上に登る細い踏み跡を辿る。踏み跡は思いのほか明確で、暗いじめじめした森林の中をジグザグを切って登っていく。しばらく登り、道端に腰を下ろして一休みしながら、ふと足下を見ると、脛の辺りにマッチ棒の先程のナメクジ状の軟体動物が付着し、這い上がってくる。慌ててよく見ると既に何匹も付着している。一目でうわさに聞いた山蛭と認識するが、初めての遭遇なのでびっくりする。指ではね飛ばすが、なかなか取れない。立ち上がって体中を調べる。そうこうしているうちにもどんどん靴に取り付いて登ってくる。どうやら地面のいたるところにいるらしい。恐怖が極限に達し、心はパニック状態である。一瞬、山を走り下って逃げようかとも思ったが、思い止まった。中に入り込まれないようにズボンの足首を確り閉め、全速力で登る。それでも靴に取り付き、どんどん登ってくる。立ち止まっては、取り除く。しかし立ち止まると、一層靴に取り付いてくる。こんな状態が山頂まで続くのであろうか。そうならとても登れたものではない。気のせいか体が痒くなる。

 斜面に石積みをした所に出る。昔、湯山と云う集落のあった跡である。相変わらず木々が欝蒼としたじめじめしたところである。よくもまあ、こんなところに人が住んだものである。相変わらず、山蛭の攻撃が続く。腰を下ろして休むわけに行かないので、足元を見つめながら立ったままの休憩を繰り返す。山腹を水平に横切る道の跡のようなところを突っ切る。二万五千図にある破線であろう。樹相が変わって、檜の植林地帯に入った。同時に山蛭の攻撃も止んだ。やれやれである。しかし、まだ油断はできない。更に登ると尾根に出た。前黒法師岳から東に延びる尾根である。山頂まではこの尾根を忠実に辿ることになる。尾根は左にカーブする。突然真新しい林道に飛び出した。地図にない林道である。林道の乾いた路面にようやく腰を下ろす。ここなら山蛭もいないであろう。

 林道が尾根を突っ切り崖となっているので、尾根への取り付き点を捜す。少し下手に踏み跡を見つけ再び尾根に取り付く。一瞬北東側に展望が開け、正面に朝日岳が大きく見える。初めて仰ぐ朝日岳の全貌である。ようやくカメラが活躍する。しかし、結果的にはここがこの山行きでの唯一の展望であった。植林地帯の急な痩せ尾根を登る。踏み跡も十分確認できるし、尾根筋が明確なのでルートを誤る心配はない。しかし、所々に蜘蛛が巣を張り不愉快である。ルートの所々に直前に誰か歩いた痕跡がある。しばらく急登を続け、9時20分、栗ノ木ノ段に達した。三角点がぽつんとある。ここは標高1197メートル。山頂までまだ750メートルの登りが残されている。

 ルートは緩く左に曲がる。雰囲気が一変した。樹相が植林から原生林となり、傾斜の緩やかな広々とした尾根となる。いかにも人跡希な南アルプス深南部の雰囲気である。もう山蛭の心配は全くない。原生林の中は藪もなく、広々とした尾根は自由にルートがとれる。何とも気持ちが良い。ただし、踏み跡はもはやないに等しく、下りはルートを失いかねないところだ。地形をよく頭に叩き込んでおかなければならない。ヒメシャラの木が目立つ原生林の中を鳥の声を聞きながらのんびりと登る。やがて、尾根筋がはっきりしなくなり、急登に変わる。息せき切って登ると、10時30分、はっきりした尾根に達した。1600メートル付近から北東に延びる尾根である。

 ルートはここで90度左に曲がる。尾根に沿って真っ直ぐ下る踏み跡らしきものもあり、下りの際にはこの分岐をよく注意しなければならない。尾根は広々とし、緩やかに原生林の中を登っていく。1665メートルピークは直下を右側より巻く。この辺りはルートがはっきりせず、赤布を頼りに進む。行く手を眺めると、木々の合間に山頂が見えるがまだまだありそうである。小さな鞍部に下る。またもや状況が一変する。尾根が急激に痩せ、下地は深い笹となる。そして、いくつもの倒木がルートを閉ざす。笹をかきわけ、倒木をくぐり、乗り越し、ひたすら登る。左側はガレとなって崩れ落ちている。倒木に腰掛けひと息入れていると、目の前に鮮やかな茶色の小型の蛇が現われた。日本に住む蛇の中で一番美しいと言われるアカヂムグリだろう。道標があり、山頂まで50分とある。

 視界の利かない笹藪をかきわけながら進むと、突然前方でがさがさと音がした。一瞬熊でも現われたかと、心臓の止まる思いがした。何と、藪の中から一人の登山者が現われたではないか。中年の単独行者で、「熊かと思いましたよ」と云ったら「熊みたいなものですよ」と笑って下っていった。まさかこの山中で人に会うとは思わなかった。ルートは激しい急登に変わった。尾根筋も消え、倒木と藪でルートはわかりにくい。しかし、先行者がいたと思うとなんとなく心強い。山頂部の一角に出た。傾斜は緩やかとなり、辺りはまさに大原始林である。11時50分、ついに山頂に達した。憧れの前黒法師岳山頂である。あの山蛭の群生地を越え、倒木地帯を突破し、今、私は前黒法師岳山頂にいる。山頂は三角点を中心に僅かに切り開かれているが、展望は全くない。まさに原生林のど真中である。しかし、小型の蠅が無数群がり、せっかくの落ち着いた雰囲気を台無しにしている。山頂より黒法師岳に向かって微かな踏み跡が続いている。いつか辿ってみたいルートである。

 証拠写真を撮って、パンを一つ頬張り、12時10分山頂を辞す。朝日岳もそうであったが、深南部の山々はどこも展望が利かない。しかし、千古斧を知らないその深い森林の中を一人さまようことは言い知れぬ喜びを感じる。下りは注意しないとルートを失う。細心の注意を傾けルートを確認しながら進む。赤布が、割合多くあるので助かる。私は、自分では赤布を付けない。ルート泥棒みたいなものである。注意深く進んでも下りは早い。どんどん下って、1600メートル付近の尾根分岐地点で一休みする。急激な下りを経て、栗ノ木ノ段に通じる緩やかな尾根に達する。広々とした気持ちのよい原生林の尾根だが、それだけにルートがわかりにくい。忠実に赤布を追う。こんなに長かったかと思うほどどこまでも原生林の道が続く。1時37分、ようやく栗ノ木ノ段に達する。登りはこの地点から山頂まで2時間30分掛かったが、下りは1時間30分で下ったことになる。ここまで下れば、もうルートを失う心配はない。安心して小休止する。

  植林地帯の急な尾根を20分下ると林道に達した。ここから今日最後の関門が待ち構えている。山蛭の群生地を突破しなければならない。途中で休みは取れないので登山口まで一気に駈け下りる覚悟である。そのまま尾根を僅かに下り、すぐに右に尾根を外れて急斜面をジグザグを切って下る。山蛭が靴に取り付くのを防ぐため、走るように下る。膝が苦しい。思いのほか早く、集落跡に達した。幸い、見るかぎりでは山蛭は取り付いていない。2時30分、あっさりと登山口に下り着いた。やれやれである。腰を下ろして足をよく観察すると、それでも山蛭が一匹取り付いていた。ポストの中のノートを取り出し、朝方「7時30分登山開始」と書いた横に、「2時30分下山」と書き込む。 飛竜橋を渡ると、遊歩道は観光客で溢れていた。3時15分、無事車に戻る。

             
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