麻布山から前黒法師山へ

 深い原生林の中、三つ目の黒法師へ

1995年9月15日

     
 
コガネ沢林道分岐点(800〜820)→休憩舎(930〜945)→麻布神社奥宮跡(1010)→麻布山(1020〜1045)→前黒法師山(1125〜1140)→麻布山(1220)→コガネ沢林道分岐点(1400)
              
 
 今日から3日連休というのに、戦後最大級の大型台風12号が近づいている。明日と明後日は大荒れの天気になりそうである。今日も曇り時々雨の予報であるが、3日も家に閉じ込もっているわけにはいかない。南ア深南部の麻布山から前黒法師山へ行ってみることにする。どうせ展望の利かない原生林の中だ。少々の雨は覚悟の上である。

 南ア深南部には「黒法師」と名のつく山が三つある。黒法師岳、前黒法師岳、前黒法師山のいわゆる黒法師三山である。主峰の黒法師岳を護衛するがごとく、二つの前黒法師が東西にそびえている。黒法師岳と前黒法師岳はすでに登った。残すは前黒法師山である。この山も登りにくい。直接登るルートはなく、稜線ぞいに麻生山を越えて到達する。手元に3年前の登頂記録があるのだが、それによると、踏み跡はあるもののスズタケの藪漕ぎが大変なようである。昨年の夏にもこのルートで一人行方不明となり、後に戸中川で遣体が発見されている。

 5時10分、静岡の自宅を車で出発する。静岡県の最果て水窪町は深南部への登山基地となる町であるが、浜松市、浜北市、天竜市経由で3時間近く掛かる。なんとも遠い。水窪市街地手前から山道に入り山住峠に向かう。山住峠には有名な山住神社がある。帰りに寄ってみよう。峠から悪名高いスーパー林道を北上する。この林道は、火伏の神で有名な秋葉神社から水窪ダムまで通じる稜線林道である。遠州の名峰・竜頭山もこの林道のため目茶苦茶にされてしまった。山住峠から先の稜線ぞいは「野鳥の森」として整備されている。林道開削の非難を少しでもかわすための窮余の策としか思えない。10分ほど林道を走って、ちょうど8時、コガネ沢林道分岐に達する。ここが麻布山への登山口である。昔は山住峠から稜線上をここまで歩いたようである。広場となっていて、立派なトイレまである。

 広場はがらんとしていて人影もない。今日この山に登るのは私一人のようだ。登山口に注意書きがあり、「登山者は事前に水窪役場の遭難対策本部に登山届けを出すように」とある。この場にこんな標示をしても意味がない。登山届けのポストでも設けたほうが実質的である。まったくお役所的な注意書きである。磐田山の会の小さな道標が登山道入口を示している。 登山道に踏み込んでびっくりした。確りと整備されているのである。笹が刈られ、坂道には人工建材による階段がくどいほど設けられている。昨年、水窪町により整備事業が行なわれたようである。

 緩やかな尾根道を進む。左側は楓を中心とする自然林で右側は檜の植林である。空はどんより曇り、今にも降りだしそうな天気である。突然大きなガマ蛙が現われびっくりする。立ち止まって足元を見れば、一匹のヤマヒルが靴を目指して懸命に近づいてくる。今日もヤマヒルとの戦いになりそうである。深南部の山に登るからには宿命である。確りした踏み跡が左に分かれ、一瞬判断に迷う。登山道がこれほど確り整備されているにもかかわらず、道標がない。20分ほど歩くと、何と、立派な休憩舎が現われた。何とも場違いな感じである。

 ついに雨が降りだした。尾根は狭まり、山毛欅、コメツガの巨木の中に楓が混じる原生林が続く。まさに深南部の雰囲気である。山毛欅の倒木が登山道を塞ぐ。行く手の麻布山はガスに覆われ見えない。緩やかな登りに入ると、またもや真新しい休憩舎が現われた。雨を避けて小休止をとる。右側に小ガレを見ると、伐採地跡の急登に掛かる。檜の幼木が植えられている気配であるが、手入れが悪くスズタケのすさまじい密叢となっている。かなりの急登ではあるが、確りと階段が設けられているので楽である。背後に大展望が開けているのだが、あいにく小雨混じりのガスの中に煙っている。写真を撮ろうとしたらカメラが作動しない。山頂でゆっくり検査してみよう。

 傾斜が緩み山頂部の一角に達した。崩壊した建物の残骸があり、麻布神社奥宮跡と記されている。昭和39年9月の台風で崩壊したようである。さらに2〜3分進むと、半壊した大きな建物があった。植林人夫の飯場跡とのことである。ここに小さな道標があり、水窪ダムヘの踏み跡が分かれている。案内ではこのルートは廃道に近いとあるが、見たところ踏み跡は確りしている。植生が変わり、巨木は姿を消して楓の潅木の密生となる。二次林なのだろうか。「三角点ヘ」との小さな標示に従い左の踏み跡をたどると、麻布山山頂に達した。登山口から休憩も入れてちょうど2時間であった。

 麻布山山頂はどこが山頂ともつかない平らな楓の潅木の密生の中で、展望は一切ない。三角点の周りがわずかに開けている。誰もいない。いつしか雨も止み、辺りは静寂のみが支配している。再びカメラをいじくり回してみるがどうしても作動しない。証拠写真も撮れないのは残念である。ここまで登山道は完ぺきに整備されていた。然るに、公的な道標が一切ない。山頂標示も含め道標はいずれも登山者のつけたものだ。その落差に驚く。お役所仕事とはこのようなものなのだろう。

 いよいよ前黒法師山に向かう。下りに入る地点に看板があり、「標示はここまで。ご無事で」と書かれている。なんとも皮肉な標示だ。ここからはいよいよ難路のはず、神経を集中させて踏み跡に踏み込む。びっしりと斜面を埋めた楓の潅木の中を下っていくと、尾根筋が現われた。再び植生が変わり、コメツガの巨木を主体とした本来の原生林となる。肌色の小さな蛇が慌てて藪に逃げ込む。きれいな蛇だ。ジムグリだろう。握り拳ほどの大きなガマ蛙が頻繁に現われる。山でガマ蛙に出会うのは記憶にない。季節のせいなのだろうか。登山道は意外に確りしている。麻布山までのように階段整備こそされていないが、笹刈りをした跡がある。少々がっかりである。しかし、周りの原生林は見事である。ダケカンバの巨木が現われだし、コメツガの巨木とあいまって見事な原生林を作り出している。楓が相変わらず多い。ふと見ると、シロヤシオの木がたくさんある。6月初句の花の頃に来たらさぞ見事であろう。小さなピークをいくつか越えながら次第に高度を上げる。踏み跡は相変わらず確りしていて地図を見る必要もない。

 11時25分、ついに前黒法師山山頂に達した。どこが山頂ともつかない狭い尾根上の小ピークで三角点と浜松北高山岳部の山頂標示がある。欝蒼とした原生林に囲まれ、さすがに深南部の山の雰囲気である。風の音一つしない静寂の山頂に一人座り込み、森の精の呟きに耳を澄ます。私は北アルブスなどの明るい岩場の山頂よりも、こういう原生林の中の静寂の山頂のほうが心が落ち着く。続いてきた明確な踏み跡はこの山頂で終わり、その先は微かな気配が原生林の中に続いていた。目本最南端の二千メートル峰・バラ谷山を越えて黒法師岳に続くルートである。いつか辿ってみたい。偵察をかねて少々踏み込んでみる。林床の笹も簿く、尾根筋も割合明確なので、覚悟さえつけば辿れるであろう。

 もと来た道をのんびりと引き返す。時間はたっぷりあり、急ぐことはない。麻布山まで引き返すと、意外にも男女5人の中年パーティが休んでいた。今日初めて出会う人影である。天気がいくぷん回復して、時々薄日が漏れる。伐採跡の急斜面に出ると、朝方は煙っていた山々が何とか姿を現している。目の前の常光寺山は確認できるがあとはわからない。再び原生林の中にはいる。それにしてもこの山は楓が多い。もう一ヶ月もしたらさぞすばらしい紅葉に染まることであろう。突然道脇の藪の中でガサガサと音がして何か大型の動物が逃げていく気配。鹿かカモシカであろう。休憩舎で一休みして、ふと目を足元に落とすと、一匹のヤマヒルが靴に取り付いて懸命に登ってくる。このすばしこいヤマヒルはまったく油断ができない。登山口手前の小ピークに達すると、登りには気付かなかった山の神の祠があった。今目一日の無事に対しお礼をいう。

 ちょうど2時、登山口の愛車に帰り着いた。もう少しハードなルートと覚悟してやってきたのだが、意外にもルートは整備されていて拍子抜けであった。しかし、麻布山から前黒法師山にかけての原生林はすばらしく、深南部の山を楽しむことができた。

 帰りに山住神社に寄る。樹齢1300年といわれる杉の神木が茂り、なかなか雰囲気のある古社である。眷族がオオカミである点は、ちょうど我が故郷の三峰神社と同じである。

 
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