おじさんバックパッカーの一人旅   

マレー半島縦断とジャワ島の旅(4)

美しき古都を後に、天使の都を目指す帰還の旅

2005年6月7日

    〜6月23日

      
 
   
   第44章 ソロからバンドンへの列車の旅

 6月7日火曜日。いよいよ帰路の旅に入る。再び陸路でタイ・バンコクを目指すことになる。昨日取得した列車のチケットは、ソロ発11:28、バンドン行き特急ARGO-WILIS号のEKSEKUTIFクラスである。本来、ジャカルタへ直接戻るべきなのだが、往路のバンドンで、アジア・アフリカ会議博物館に入場できなかったことが、未だに心残りである。悔いを残さぬために、バンドンに立ち寄り、この博物館を再訪するつもりでいる。

 発車1時間前にソロ駅に行く。昨日、親切にしてもらった駅案内所の女の子に、無事にブンガワンソロへ行けたことを報告し、お礼を言う。しばらくすると、彼女はアンケート用紙をもって待合室の私のところにやって来た。用紙に、「SOLO is the best city at Indonesia 」と書くと大いに喜び、「ジョグジャと比べてどうだ」と聞く。ジョグジャカルタへの対抗心が垣間見られて面白い。彼女は、そのまま私の隣りに座り込んだ。発車時間まで会話を楽しむ。Iという名前で、27歳の独身。珍しいことにクリスチャンだという。実に感じのいい娘である。盛んに日本のことを知りたがる。

 インドネシアでは、イスラム教、キリスト教、ヒンズー教、仏教の4宗教が法律で許された宗教で、国民はいずれかの教徒にならなければならない。その意味では、真の信仰の自由はない。「あなたの宗教は何だ」と聞くので、「仏教徒」と答えざるを得ない。「無宗教」との答えは、日本以外では通用しない。共産主義者か、アナーキストを意味することになる。ブンガワンソロ(ソロ川)に行きたいなどという旅行者は初めてだと笑っていた。結局、発車まで見送ってくれた。

 発車してすぐに昼食が配られた。車内は7割り程度の乗車率で、私の隣は空席であった。車窓を見続ける。相変わらず、田圃、田圃、田圃である。この中部ジャワ地方は、インドネシア最大の穀倉地帯である。家々は全て、大邸宅も、掘っ立て小屋も、オレンジ色の屋根瓦と白い漆喰の壁。見事なまでに統一されている。至る所で凧が青空に舞っている。変化のない風景か延々と続く。

 インドネシアのジャワ島は、東南アジアでは珍しく鉄道網が発達している。また、列車の運行が正確なのに驚く。揺れも少なく、線路の整備がよくなされていることが分かる。列車が止まるたびに、物売りが列車に群がる。それとは別に、飲み物や食べ物の車内販売が常に行き来する。面白いのは、代金は後精算で、終点間近に集めに来る。窓の外はやがて日暮れを迎えた。列車はなおも走り続ける。

 19時30分、定刻通り列車は終点・バンドン駅に到着した。既に外は真っ暗である。夜の街を歩き回るのはいやなので、駅のホテル予約デスクに行く。記念に、サボイ・ホマン・ホテルに泊まりたかったのだが満室であった。アジア・アフリカ会議の際に各国首脳の泊まった高級ホテルである。シーズンオフの今なら、350千RPで泊まれる。代わりに、195千RPのホテルを予約する。新しい立派なホテルであった。
 

   第45章 アジア・アフリカ会議博物館

 6月8日水曜日。朝一番で、アジア・アフリカ会議博物館を再訪する。入り口のドアは閉じられ、人の気配がない。アレッと思って、ドアを押すと開いた。ホールとなっていて片隅に受付があった。何やら凛とした空気が流れ、Tシャツにサンダル履きは場違いな感じがする。入場料を払おうとすると、無料だという。代わりに記帳を求められる。瞬間、「インドネシアもやるわい」と嬉しくなった。この博物館は人類の記念碑、インドネシアだけのものではない。料金を取って見物させるなどしたら、世界中の笑われ者になる。記帳こそ、この博物館にはふさわしい。インドネシア政府もこのことをよく分かっているようだ。ここを訪れる者は見学者ではなく、来賓なのだ。

 見学者は私1人であった。ホールには、1955年当時の熱気を伝える多くの写真やパメルが展示されている。20世紀の世界史を飾った巨人たちの懐かしい顔。理想に燃えた平和10原則の宣言文。当時の燃え上がる熱気が伝わってくる。満足し、受付にひと言お礼を言って去ろうとすると、女性が、「もしご希望なら、会議場へご案内しましょうか」という。飛び上がらんばかりに嬉しくなった。わざわざ事務室へ鍵を取りに行ったところをみると、一般には公開していないらしい。

 女性に導かれて会議場に入る。演壇に参加29ヶ国の国旗が並ぶ。その前には、数百のイス席が設けられている。こここで50年前、スカルノが、ネールが、ナセルが、周恩来が、世界に向って「反帝国主義、反植民地主義、民族自決」のメッセイジを高らかに発した。その場所に今立っているかと思うと、足が震える。「日本からは、1955年には高崎さん、今年の記念会議には小泉さんが参加されました」。女性が説明する。実に知的な雰囲気を持った女性である。「当時、あなたはまだ生まれていなかった。私は当時のことを覚えている」。私が答える。

 参加29ヶ国のうち、日本以外は全て、その国の首脳が参加した。日本は鳩山首相に替わり高碕達之助特別代表が参加した。戦後まもないこの時期の、日本の微妙な立場を反映している。しかし、高崎は各国首脳に引けをとるような人物ではなかった。当時の日本の最高の知性の1人であった。それから50年、今年開かれた記念会議に出席した小泉首相は「戦争に対する反省とおわび」を表明して帰ってきた。何とも格調の低い演説であった。バンドン会議の歴史的意義を理解しているとは到底思えなかった。

 会議場をでる。女性にチップを渡すべきか一瞬迷う。この国では「無償の親切」というものが存在しないことを、いやというほど知らされてきた。その気配を察し、女性が「どうぞご心配なく」とにっこり笑って言う。インドネシア政府も、この場所には最高の知性を配している。
 

   第46章 ジャカルタへの帰還

 わざわざバンドンに戻ってきてよかった。この旅の最高の思い出がつくれた。ホテルへ戻り、チェックアウトして駅に向う。チケットは予約していないが、バンドンージャカルタ間には1日20本近い特急列車があるので、心配はない。駅にはジャカルタ行きチケットの専用窓口まであった。11:15発特急Parahyangan67号のビジネスクラスのチケットを得る。駅員に何番線か尋ねると、列車まで案内してくれた。しかし、確りとチップを要求する。業務範囲だと思うのだがーーー。

 途中で激しいスコールが来た。慌てて窓を閉める。ビジネスクラスには冷房はない。約3時間でジャカルタ・ガンビル駅に到着した。5月28日以来のジャカルタである。今晩はインドネシアでの最後の夜、270千RPと少々高めのホテルに入る。すぐに、市内のタイ国際航空事務所に行って、オープンとなっているシンガポールまでのチケットの、明日のフライトを予約する。これで準備完了である。

 夕食は日本レストランへ。久々に日本食を堪能する。やはり日本食が1番うまい。外国を旅すると、いつも食事に困る。英語メニューのあるところなら、何とかなるが、安食堂では何を頼んでいいのか分からず困り果てる。インドネシアでは、こんなときはナシ・ゴレン(チャーハン)、ミー・ゴレン(焼きそば)、ソト・アヤム(鳥肉のスープ)の三つを覚えておくと助かる。最もポピュラーなメニューで、どこの食堂にもある。
 

   第47章 国立中央博物館にて

 6月9日木曜日。今日も朝からカンカン照りである。インドネシアではただの1日も雨に降り込められることはなかった。いよいよ今日、インドネシアを去る。16日間にわたるジャワ島の旅が終わる。飛行機の出発時刻は17:40、時間はたっぷりある。前回行きそびれた国立中央博物館に行ってみる。独立広場の西隣にあり、ホテルから歩いていける。中庭もある2階建の大きな建物であった。入場してすぐに、「これは手に負えないわ」と思わず苦笑いしてしまった。何しろ時間軸が、100万年前のピテカントロプス(ジャワ原人)から始まり、地域的広がりは300以上の民族である。100万年×300民族の遺物が、建物一杯に並んでいる。たかだか2万年の歴史と、ほぼ単一民族の住む日本とでは、その時間的、空間的スケールが全然違う。ソロ川流域でピテカントロプスの化石が発見されたのは1890年のことである。

 この時間的空間的広がりの巨大さが、インドネシアの魅力であり、また弱点でもある。国土面積190万平方キロメートル(日本の約5倍)、しかも、その国土は1万数千の島々から成り立っている。そこに、300以上の民族の2億3千万人が暮している。さらに、この地には、インド、中国、西洋の文化が絶え間なく流れ込んできた。宗教をとっても、ヒンズー教、仏教、イスラム教、キリスト教の洗礼を受けた。これだけ多様性のある地域をひとつの国としてまとめようとすれば、必ずどこかにほころびがでて来る。東チモールやアチェ州の独立闘争、イスラム過激派組織・ジェマー・イスラミヤのテロ活動などもその1例である。この国の未来は、決して明るいものではない。
 

   第48章 シンガポールへ

 正午にホテルをチェックアウトし、バスでスカルノ・ハッタ空港に向う。ガンビル駅前からシャトルバスが出ている。空港は第1ターミナルと第2ターミナルがあり、さてどっちで降りたらよいのか分からず、慌てる。空港到着と同時に、ハゲタカとハイエナが群がってくる。おっかない空港だ。荷物を預け、空港内をぶらつく。国際空港として、それなりの設備の整った空港である。出国手続を済ませ、免税店を覗く。シンガポールに向うからには、煙草を買っておかなければならない。何しろ1箱700円以上するのだから。無税で何箱持ち込めるのかと、案内書を調べて驚いた。何と何と、1本(1箱ではない)から申告する必要があり、1本当たり0,38S$(約25円)の関税がかかる。喫煙所で1人煙草を吸っていたら、パイロットの制服を着た男がやってきて、「互いに煙草のみは大変ですねぇ」と話しかけてきた。1週間に1度は日本に飛ぶという。「どこの航空会社だ」と聞くと、カーゴ専門とかで、聞いたことのない航空会社名を名乗った。

 夕闇迫るころ、TG414便はインドネシアの大地を離れた。さらばインドネシア、もがき続ける大国よ!  いつの日か、真の大国になることを期待しよう。そして再度、バンドンの地に世界の指導者を集め、世界の平和について語り合りあって欲しいものだ。

 機内は満席であった。この便はシンガポール経由バンコク行きである。このまま、バンコクまで行ってしまいたい誘惑にかられる。機内で久しぶりに読んだ英字新聞に嬉しいニュースが載っていた。昨夜バンコクで行われたサッカーワールドカップアジア最終予選で、日本は北朝鮮を破り、出場1番乗りを決めたと。何週間ぶりかで聞く祖国のニュースである。

 8時20分、定刻通りシンガポール・チャンギ国際空港に着陸した。入国手続を済ますと、時刻は既に9時を過ぎていた。これからホテルを探し回る分けにも行くまい。ホテル予約カウンターへ行き、「1番安いホテルを予約したい」と申し出る。係の女の人が笑っている。60S$(約3900円)のホテルを予約できた。どうせ1晩だけ、明日はマレーシアへ向うつもりである。
 

   第49章 シンガポールからクアラルンプールへの列車の旅
 
 6月10日金曜日。朝5時半起床。6時過ぎにザックを担いで、まだ真っ暗な街に飛びだした。タクシーを拾ってシンガポール鉄道駅に急ぐ。今日は列車で一気にクアラルンプール(KL)まで行くつもりである。列車の発車時刻は8時30分だが、早く駅へ行って、列車のチケットを入手する必要がある。6時半に駅に着いたが、チケットの発売開始は7時とのこと。いらいらしながら待つ。チケットが入手できなければ、バスに切り替えざるを得ない。駅には既にかなりの人が集まっており、売店や食堂も開いていた。7時に係員は現れたが、コンピューターの立ち上がりに時間がかかるとかで、実際のチケット販売は7時半近かった。それでも無事に2nd classのチケットが獲得できた。

 シンガポール駅は大きなホールを持つ時代掛かった建物で、文化遺産の匂いが濃い。また雰囲気も、KL中央駅よりもバンコク・ホアランポーン駅に近い。要するに、昔の上野駅の雰囲気である。この駅を発車する列車は1日4本だけである。地下鉄等の都市交通の発達したシンガポールにとっては利用価値が低く、シンガポール政府は廃止したいらしい。

 待つほどに、ようやくホームへの入場が始まった。注意書きが張られていて、「シンガポール駅ではマレーシアへの入国手続のみが行われ、シンガポールの出国手続はマレーシアとの国境のウッドランズ・トレイン・チェックポイントで行われる」と告示されている。ホーム入り口で、告示通り、マレーシアへの入国審査が行われる。しかし、必要と思われるArrival Cardがどこにもない。係員に言うと、嫌々という感じで、一枚くれた。窓口に、パスポートとArrival Card を提出する。ところが、パスポートには入国印を押さず、しかも、Arrival Cardは突き返された。これでは密入国になってしまう。「どういうことか」と聞くと、「いいから行け」と言う。一体どうなっているんだろう。何となく不安になる。税関検査はなかった。

 列車はすぐにウッドランズ・トレイン・チェックポイントに到着した。全員列車を降りて、シンガポールの出国審査を受ける。とはいっても、実状は、機械的にパスポートに出国印を押すだけだが。列車はコーズウェイを渡ってマレーシアに入る。ジョホール・バルから新たに多くの人が乗り込み、座席は全て埋った。私の隣は13歳のインド系の少年。スレンバンまで行くという。1人旅のようだ。口数の少ない子で、問えば答えるが、話には乗ってこない。しかし、英語は完璧に話せる。

 車窓の景色は退屈である。低くうねる大地はどこまでもどこまでも油椰子の林である。耕地はまったく見られない。集落とて、ときおり通過する駅の付近だけである。家畜の姿もない。列車はときおり主立った駅に停車するが、売り子はまったく現れない。また、車内販売もない。そろそろお昼、腹が減ったがどうしたものか。列車内を前方へ移動する人が増える。食堂車がある気配である。行ってみると、食堂車のテーブルは長蛇の列であったが、売店でサンドイッチを売っていた。

 進むに従い、列車の遅れが顕著になる。既に1時間以上遅れている。時刻表のKL到着時刻は2時58分だが、大幅に遅れそうである。日暮れ後となるとホテル探しが煩わしい。ようやく、スレンバンに到着し、隣りの男の子は挨拶もせずに降りていった。マレーシア人は概して笑顔が少なく、他所者に対して余りフレンドリーではない。タイやラオの人々の笑顔が懐かしい。

 夕方5時、列車は2時間遅れで、ようやくKL中央駅に到着した。この瞬間、バンコクからシンガポールまでの鉄道路線の完全制覇が実現した。両替所でマレーシア・リンギットを入手し、KLモノレールに乗ってブキッ・ビンタンへ行く。適当なホテルを見つけてヤレヤレである。すぐにKさんに電話し、程なく1ヶ月ぶりに再会した。前回もいっしょであったFさん、その友人のSさんをまじえ会食する。旅の途中に知人がいると、何とも心強い。KLには2泊するつもりである。
 

   第50章 バトゥー洞窟とブルー・モスク

 6月11日土曜日。昨夜の会食時、在KLの3人に「KL及びその近郊で見る価値のあるところはどこか」と問うたところ、バトゥー洞窟とブルー・モスクが候補に上がった。今日はこの2箇所を尋ねるつもりである。まずはバトゥー洞窟に向う。今日も朝からカンカン照りである。

 バトゥー洞窟は、案内書によると、「KLの北郊外にある鍾乳洞で、ヒンズー教の聖地」とある。KLモノレールでテティワン駅まで行ってタクシーを拾う。ところがメーターを倒さない。「Meter Down」と怒鳴ると、嫌々倒した。どうもマレーシアのタクシーはいまひとつ信用できない。全車メーターを装備しているのだが、使用を嫌がる。料金交渉制ならそれでもやむを得ないが、料金未定のまま走って、後で高額を請求されたのではたまらない。

 郊外に出て、しばらく走ると、行く手に奇怪な姿の岩山がみえてきた。やがてその麓でタクシーは止まった。周りは多くの人々で賑わっている。特にインド系の人々が多い。そして、恐ろしく長く急な石段が、麓から岩山の中腹へ向って1直線に伸びている。ヒンズー教独特の色鮮やかな神々や動物の飾られた門をくぐり、石段に進む。272段あるという。かなりのアルバイトとなりそうである。ゆっくりゆっくり登り始める。途中でへたり込んでいる人が多い。登るに従い、眼下に、モヤに霞んだKLの街並みが広がる。幾匹もの猿が現れ、盛んに食べ物をねだる。1息で登りきるのは無理だ。時々立ち止まりながら、一歩一歩身体を引き上げる。

 ついに登りきった。目の前に巨大な洞窟が口を開けている。洞窟内には至る所にヒンズーの神々が祀られ、インド系の人々が熱心に祈りを捧げている。洞窟は石筍や石柱が見られ、明らかに鍾乳洞である。おそらく、昔、ヒンズー教の修験者が修業をしたところなのだろう。階段を下る。たむろしているタクシーに、市内までいくらかと聞くと、25RM(約750円)だと言い、頑として値引きに応じない。来たときのメーターは8RMである。他に交通手段もないため、完全に足下を見透かしている。意地でも乗るもんか。通りに出て流しを捕まえる。20RMの言い値を15RMに値切って市内に戻る。
 

 午後からはブルー・モスクに行ってみることにする。このモスクはKLの南西約25KMに位置するシャー・アラム(Shah Alam)の街にある。正式名はスルタン・サラフディン・アブドゥル・アジズ・シャー・モスクと言うのだが、特徴的な青い屋根を持つことから、ブルー・モスクと通称される。1988年建立で、世界で4番目の規模を誇る巨大モスクである。高さ142.3メートルのミナレットは世界1の高さを誇っている。

 KL中央駅からKTMコミューターに乗る。なかなか快適な電車である。30分ほど乗り、シャー・アラムの駅に近づくと、右手遠くに巨大なモスクが見えてくる。マスクメロンのような模様に綾取られた青い屋根のドーム、天を突き上げる4本のミナレット。ひと目でブルー・モスクとわかる。駅は、人家もまばらな街の郊外にある。駅前にタクシーもいたが、20〜30分も歩けば行けそうなので、大きな通りを北へ向って歩き出す。真昼の太陽がじりじりと照りつけ、今日の暑さは半端ではない。シャー・アラムの街は綿密な都市計画に基づき造られたとみえ、広い通りが幾つも交叉する。

 その巨大さゆえに近くみえたモスクは意外に遠かった。45分も歩き続けて、ようやく目の前にモスクが全貌を現した。濃紺の屋根が、南国の太陽に映え、強烈な異国情緒を醸し出している。そそり立つ4本の細い尖塔と相まって実にきれいである。広大な敷地の中に入る。辺りは閑散として、人影もまばらである。ここまで来たからには、モスクの中に入ってみたい。通りかかった係員に、「内部を見学してもよいか」と尋ねると、「北の入り口へ行け」という。行ってみると、ここが正面入り口で、入場者のチェックポイントとなっている。近づくと、鋭い視線が向けられる。どうもイスラム寺院は苦手だ。恐る恐る、「ムスリムではないが、見学したい」と申し出る。「どこから来た」と問うので、「日本から」と答えると、「コンニチワ」との言葉とともに笑顔が返ってきた。やっと緊張が解けた。記帳を求められ、見学が許可された。

 2階建ての大きな建物で、床はいち面に大理石が敷き占められている。1階は集会場や沐浴場、2階が礼拝室になっている。絨毯を敷き占めた広大な礼拝室には、もちろん、異教徒は入れない。満足して、モスクを去る。隣りのスルタン・アラムシャー博物館を見学して、駅に戻る。
 

   第51章 情緒溢れる街・イポー

 6月12日日曜日。今日はイポー(Ipoh)に向う。KLの北約180キロに位置する、人口50万人の、マレーシア第3の都市である。特別見どころのある街ではないが、のんびりした、気持ちのよい街らしい。

 KLの長距離バスターミナルであるプドゥラヤバスステーショは相変わらずごった返していた。見た目にも手狭であり、いずれ郊外に新設されるのであろう。1階が待合室や売店、食堂で、2階が各バス会社の切符売り場、地下がバスの発着場になっている。2度目なので勝手は知っている。前回はここでダフ屋に引っ掛かった。すぐに、8時30分発の切符を13.4RMで手に入れる。しかし、発車時刻になっても、バスが来ない。プラットホームを間違えているのではないかと不安になる。周りの人も同じ思いで、「ここでいんだよねぇ」と互いの切符を確認しあう。すぐに、係員がやってきて、プラットホームが変更になった旨告げた。

 バスは横3座席の豪華バス。7割り程度の乗車率である。市内を抜けて、高速道路に乗る。車窓には相変わらず油椰子のプランテーションがどこまでも続く。その中に、奇怪な姿の岩山がぽつりぽつりとそそり立つ。独特の風景である。途中15分のトイレ休憩をし、11時30分に大きなバスターミナルに到着した。ここが終点・イポーだという。案内書ではイポーのバスターミナルは市街地あることになっていたので慌てる。どうやら、最近郊外のこの場所に移動したらしい。ダウンタウンまではだいぶ遠そうである。勝手もわからないのでタクシーに乗る。市内まで10RM(300円)だという。協定料金のようだ。宿のあてはない。運転手に「どこか安宿へ連れていけ」と言うと、市内中心部のホテル前で車は止まった。建物は少々古びているが、部屋は確りしている。1泊65RM(約2000円)とのこなのでここに決めた。

 いつもの通り、すぐに街に飛びだす。今日もカンカン照りである。現在位置と方向を確認し、まずは旧市街に向う。街の中心をキンタ川が南北に流れ、その西側が旧市街、東側が新市街となっている。ホテル前の広い道を西に進むと、キンタ川に達する。小さな川だが何とも心地よい川である。土手は並木となり、川岸には緑が溢れている。とても大都会を流れる川とは思えない趣である。川を渡り、旧市街に入る。現れた街並みに思わず息をのむ。コロニアム調の銀行や市民ホールが連なり、まるで時代を間違えたような錯覚に陥る。人通りも少なく、街はまるで眠っているようである。

 さらに進む。美しいオレンジ色のドームを持つ州立モスクを過ぎると、イポー鉄道駅に達する。緑豊かな公園風の広場を前に、白亜の時代掛かった建物がどっしりと横たわっている。この建物が街のシンボル・イポー鉄道駅である。ただし、鉄道駅といっても、この駅を通過する列車は今では1日に上下1本づつ、しかも真夜中である。従って、鉄道駅としての役目はほとんどなく、現在はホテルとして利用されている。

 道を戻る。キンタ川の堤の木陰でひと休みした後、今度は新市街を歩く。この街並みもまた素晴らしい。高層建築など一切なく、古びたショップハウスが連なる。道は広いが、車の通行量は多くない。どことなくのんびりした田舎町の雰囲気で、人口50万の大都会とはとても思えない。何やら嬉しくなって、あてもなく歩き続ける。
 

   第52章 ペナン島へ

 6月13日月曜日。今日はペナン島(Pulau Penang)に向う。よく知られたリゾート地である。いい歳をしたオッサンが1人でリゾート地に行っても仕方がないのだが、ペナン島はいわばマレーシア発祥の地、歴史の街でもある。やはり行くべきとの結論に達した。

 朝起きたら9時過ぎ、慌ててタクシーでバスターミナルへ向う。今日もいい天気である。すぐに10時発のチケットを取得する。料金は16.9RM(約510円)である。時刻は既に10時、焦って、何番のプラットホームかと聞くと、切符売り場のニイチャンは「Bus come, We go」と怪しげな英語で答える。どうやらバスは始発ではなく、途中乗車らしい。10時半になって、ようやくジョホール・バルからのバスが来た。横3座席の豪華バスで、8割程度の乗車率である。

 バスは高速道路を一路北上する。ペナン島まで3時間半ほどの旅である。車窓の景色は相変わらず油椰子のプランテーション一色である。やがてバスは高速道路を降り、バタワース(Butterworth)のバスターミナルへ入った。不思議なことに、乗客のほとんどが降りてしまい、バスに残ったのは3〜4人。何か変だ。その理由は後日明らかになる。バスはしばらく複雑に市内を走った後、海に出た。マレー半島とペナン島を結ぶペナン・ブリッジを渡り始める。1988年に架橋された東洋屈指の長大橋である。右手前方には島の中心都市・ジョージタウンの街並みが望まれる。

 橋を渡り終えてペナン島に入ると、バスは左に折れ、南に進みだした。おかしい、目指すジョージタウンは北である。しかし、バスはどんどん南下する。そして、真新しいバスターミナルに滑り込んだ。ここが終点だという。ターミナルは閑散として人影もない。いっしょに下車した3人もすぐに迎えの車で立ち去り、私1人がターミナルに残された。「まいったなぁ。ここはいったいどこなんだ」。案内書ではバスターミナルはジョージタウンの中心部にあることになっている。隅の方にタクシーが2台ばかり止まっていた。ジョージタウンまで20RM(約600円)だという。他に手段もなく仕方がない。聞くと、このターミナルは2ヶ月前に開業したばかりで、ペナン島南端の空港の近くだとのこと。どこの都市でもバスターミナルがどんどん郊外に移り、不便になってきている。

 運転手と相談して、街の中心部近くの安宿へ行く。1泊69RM(約2000円)、ホテルというより豪邸という感じのたたずまいである。内部には吹き抜けの中庭もあり、昔の華僑の豪商の屋敷を改造したのであろう。すぐに街に飛びだす。この都市はマレーシアの中で、最も華人の人口比率が高い街で、約60万の人口のうち約70%が華人である。街全体がまさに中華街である。狭い通りに沿ってショップハウスが並び、街には漢字が溢れている。インド系の人々の姿は見られるが、マレー系はほとんどいない。いわんや、ムスリムの服装をしている人などまったくいない。改めて、マレーシアにおける華僑の存在の大きさを知る。
 

   第53章 ペナン探索

 6月14日火曜日。日本を旅立ってから1ヶ月が経過した。ここまで大したトラブルもなく順調に来た。残りあと2週間、旅もいよいよ後半である。どういうわけか、昨夜は1睡もできなかった。おまけに、朝から何となく咽の奥がむずがゆい。風邪を引きそうな気配である。連日、炎天下での強行軍、無理をしすぎたのかも知れない。

 今日は1日、ジョージタウンの街を探索し、明日はアロー・スターへ向うつもりでいる。ホテルで、「アロー・スターへはどう行くのがベストか」と聞くと、面白い答えが返ってきた。「フェリーで対岸のバタワースまで行き、そこからバスに乗れ。バタワースのバスターミナルはフェリー乗り場に隣接している。この方法が一番早くて便利。ペナンのバスターミナルは遠くて不便」。自分の街のバスターミナルより、海の向こうの隣町のバスターミナルを利用したほうが便利とは笑ってしまう。昨日、バスの乗客のほとんどがバタワースのバスターミナルで降りてしまった理由がわかった。どこの国でも、行政は時々、住民の意思とはかけ離れたことをする。

 街の真ん中を東西に横切るチュリア通りを15分も東に進むと、フェリー乗り場に突き当たった。明日はここからフェリーに乗ればよい。乗り場からは人波が次々と吐きだされてくる。海沿いの道を北へ向う。今日も朝からカンカン照りである。程なく、コタ・ラマ公園に達した。この一角にコーンウォリス要塞(Fort Comwallis)がある。この場所こそ、英国によるマレー半島侵略の、最初の一歩が印された場所である。1786年、英国東インド会社のフランシス・ライトは、ペナン島をケダー州のスルタンから割譲させ、最初の拠点をこの場所に築いた。以降、英国はマレー半島の領有を巡ってオランダと争い、1824年、英蘭協定によりマレー半島全域の領有権を取得する。ポルトガルとオランダがマラッカを侵略の拠点としたのに対し、英国はペナン島から侵略を開始したのである。

 入場料を払い、砦に入る。早朝のためか、他に見学者はいなかった。砦はさして広くはないが、石で補強された土塁で四方を囲み、土塁の上には何門もの大砲が据え付けられている。砦内には、武器庫や生活のための部屋が幾つもあり、現在は博物館となっている。

 砦を出て、マスジッド・カピタン・クリン通り(Jl. Masjid Kapitan Keling)を南に進む。右手に尖塔のそびえるセント・ジョージ教会がある。1818年建設の東南アジア最古の英国教会である。続いて、クアン・イン寺(観音寺)。1800年代に建てられたペナン島最古の中国寺院である。周りには線香等参拝用品を売る店が並び、ひときわ賑わっている。その先には、マハ・マリアマン寺院、1883年に建てられた古いヒンズー教寺院である。その向かいには1801年に建てられたカビタン・クリン・モスクがある。人間は面白いもので、新たな地域に移住していくと、必ずそこに己の信ずる神の社を築く。日本人も、侵略先に神社を建てた。

 さらに、少し先に進むと、ロン・サン・トン・クー・コンシ(龍山堂丘公司)がある。丘氏一族が建てた中国寺院である。博物館を兼ねており、華僑豪商の生活が垣間見られる。午後からは、街の中心にそそり立つ超高層ビル・コムタ(Komtar)へ行く。中はショッピングセンターとなっており、最上階の60階展望台に上ると、眼下にジョージタウンの街並みが広がり、海峡の向こうにマレー半島の山々が望める。まさに絶景である。

 ひとまずホテルに帰るが、どうも体調がよくない。熱っぽく、食欲もない。日本食レストランを見つけ、お茶漬けを無理に流し込んで、早々に寝る。明日はアロー・スターへ行くつもりでいるが、場合によっては停滞も考えなければならないか。心配になる。
 

   第54章 発熱そして入院

 6月15日水曜日。朝起きるが、やはり熱っぽく、咽が痛い。出発できなくもないが、無理することもあるまい。今日は1日休養することにする。外は朝から雨が降っている。昼ちかく、ホテルに事情を話し、薬と体温計はないかと聞いてみる。このホテルは70歳ぐらいの爺さん2人で切り回しているのだが、少しは助けてくれるのではとの期待もあった。しかし、まったく無反応で、「ない」との一言だけである。「近くに薬屋はないか」と聞いても、「さぁ、タクシーの運転手に聞いてみたら」とホテル前に停まっているタクシーを指さすありさまである。まったくあてにできそうもない。朝から何も食べていない。食欲はまったくないが、何か食べなければならないだろう。外出する。

 薬屋を探し、症状をいうと、咽飴と解熱剤をよこした。コンビニでパンと水を買ってホテルに帰る。3時近くなるが好転の兆しはなく心配になる。「医者に行って注射を1本打ってもらった方がいいかなぁ」。海外旅行傷害保険に加入しているので調べてみると、幸運にも、ペナンには契約病院がある。病院の勝手も分からないが、ともかく行ってみることにする。

 タクシーに乗ってGleneagles Medical Centreという病院へ行った。大きな総合病院であった。周囲を見渡すと、「ENQUIRY」というデスクがあったので、ともかくそこへ行き、保険証を差し出して、「診療してもらいたい」と訴えた。係の女性は事務室に入り何やら打ち合わせた後、「OK」との返事をくれた。ほっとする。女性はその上で、「どの医者を希望するのか」と内科医のリストを示す。そんなこと分かるわけがない。幾つかの書類に記入させられた後、身柄を看護婦に引き渡された。

 尿検査、血液検査、レントゲンと続く。ちょっと大げさじゃないかなぁ。ようやく医者の診療となった。女医さんである。熱を測ると。39度5分もある。自分ながら驚く。医者はいろいろ聞くのだが、難しい医療用語の英単語など知るわけがない。医者は笑いながら、英和辞書を持ちだしてきた。その上で入院だという。瞬間、「助かったぁ、これで心配することはなくなる」と思った。ついては、ホテルに帰って荷物を全て運んでこなければならない。医者はこの熱では無理だから止めろという。とはいってもーーー。タクシーでホテルを往復する。我ながら、高熱の割には確りしている。

 まるで1流ホテルのような個室に案内された。入院費は全て保険で賄えるはずである。ベッドに横になると、緊張が解けたためか、さすがにぐったりしてしまった。

 翌朝には熱は37度台に下がった。それにともない、周りを観察する余裕も生じる。部屋はかなり大きく、トイレとシャワールームがついている。ベッドは上半身や下半身の上げ下げできる最新式、それに移動自在のテーブルがついている。テレビ、冷蔵庫もある。何よりも驚いたのは食事である。朝昼晩とも幾つかのメニューから選択できる。しかも豪華である。10時と3時には紅茶のサービスがある。朝は新聞が届けられた。いろいろな係の人が次々に訪れ、落ち落ち寝てもいられない。ただし、不思議なことに主治医はまったく診察に来ない。暇に任せて人の出入りを観察した。

   7:00   床掃除(マレー系の娘)
   7:30   検温と血圧測定(インド系の看護婦)
   7:35   朝食持参(インド系のおばさん)
   7:40   薬持参(中国系の看護婦)  彼女の名前は曽秀亭
   8:00   新聞配達(中国系の看護学校の学生)
   8:30   ベッドメーキング(中国系の看護学校の学生2人)
   8:30   朝食片づけ(インド系のおばさん)
   8:45   浴室掃除(マレー系の娘)
   9:15   枕元にある飲み水の取り換え(マレー系のおばさん)
   10:00  10時の紅茶(インド系のおばさん)
   10:30  浴室のタオルの取り換え(インド系のおばさん)
   10:30  翌日の食事のメニュー選択(中国系の看護学校学生)
   11:10  検温と血圧測定(中国系の看護学校学生)
   11:30  ごみ箱清掃とトイレットペーパーの取り換え(マレー系のおばさん)
   11:50  薬持参(中国系看護婦)
   12:00  昼食持参(インド系おばさん)
             あと省略
 
 中国系、インド系、マレー系が入り混じって働いている。病院の標示も全てマレー語、中国語、英語の3ヶ国語である。中国系の看護学校の学生に何カ国語しゃべれるのだと聞いたら、マレー語、中国語、英語との答えが返ってきた。まさにここは多民族国家である。

 高熱の後遺症か、2晩ほど全身から生じる痛みに眠れぬ夜を過ごしたが、3日目には完治した。4日目にようやく退院の許可が下りた。ところが、ここで一悶着おこった。入院費用は全て病院から直接保険会社に請求するシステムなのだが、今日は土曜日のため、保険会社のマレーシアのエイジェントが休みで連絡が取れないという。このため、「あなたがひとまず費用を病院に払って、あとであなたから保険会社に請求して欲しい」と申し出てきた。これを聞いて頭に来た。直接日本の保険会社に国際電話して、「おかしいではないか」とねじ込んだ。日本からすぐに電子為替を発行するということで話はついた。どうやら、こういう場合の行動マニアルが不整備だったようである。
 
 あれやこれやで、退院時間が夕方の6時になってしまった。病院で心配してくれ、ホテルを手配してくれたうえに、病院の車で送ってくれた。何とも貴重な体験をした。しかも、全てを1人でやり通したとは我ながら感心である。このようなトラブルを1人で乗りきることができなければ、バックパッカーの1人旅はできない。
 

   第55章 国境を越え、一気にタイのハジャイへ

 6月19日日曜日。思わぬトラブルのため、ペナン島で6泊もする事態となってしまった。先を急がなければならない。当初は、マレーシア西海岸北端の街・アロー・スターから東海岸北端の街・コタ・バルへ行き、そこからタイの深南部へ入国するつもりでいた。しかし、もはや東海岸に回る余裕はなくなった。アロー・スターから直接タイに入ることにする。今日はどこまで行けるやら、まずはアロー・スターを目指す。

 バタワース行きのフェリーに乗る。朝晩は15分置きに出帆しており、実に便がよい。しかも、ペナン島に行く便は有料だが、バタワースへ行く便は無料である。短い時間といえ、船の旅は味わいがある。海峡は多くの船で賑わっている。ペナン島が見る見る遠ざかり、わずか30分ほどの航行でパタワースに着いた。パタワースのフェリー乗り場とバスターミナルは連絡橋で結ばれている。病み上がりのためか、ザックを背負って歩くと、少しふらふらする。タイのハジャイへ直行するバスもあったが、次は13時とのことで諦め、9時45分発のアロー・スター行きのバスに乗る。料金は7.5RM(約220円)、いつもと同じ豪華バスである。乗車率は50%程度であった。

 バスはすぐに高速道路に乗り、油椰子の林の中を北上する。マレーシアの景色はどこまでも単純である。バスは短時間で高速道路を降り、アロー・スターの街へと入っていく。この街で1泊することも考えたが、ここまで来るとタイ国境は目の前である。「帰心矢の如し」。今日中にタイのハジャイまで行ってしまおうと決意する。車窓から眺めるアロー・スターはなかなか味わいのある街である。街のシンボル・アロー・スター・タワーがよくみえる。この街は、初代首相ラーマンと4代首相マハティールの2人の首相を生んだ街として知られている。どこの国でも、傑出した政治家は辺境の地から出現する傾向がある。2人とも、現在のマレーシアを造った偉大な政治家である。

 街の中心部を抜け、かなり郊外に走ったところにアロー・スターのバスターミナルはあった。時刻はまだ11時、充分ハジャイまでいけそうである。さてここからどうするか。ハジャイまたは国境へ行くバスかミニバスはないものかと、辺りを見渡していると、タクシーの運チャンが寄ってきた。国境まで35RM(約1000円)で行くという。財布の中を確認すると、ちょうど50RM残っている。タクシーを奮発することにする。

 低くうねる大地は、相変わらず油椰子一色である。その中を一本の高速道路が真っすぐに貫いている。交通量は以外に少ない。運転手は人のよさそうな陽気な男で、絶えず話しかけてくる。マレーシアでは誰でも英語を完璧にしゃべる。タイと比べるとこの違いは顕著である。1時間弱走ると、マレーシア側の国境についた。車に乗ったまま出国審査が受けられる。ただし、心配がひとつある。私のパスポートにはマレーシアへの入国印が押されていない。いわば密入国状態である。「もめるといやだなぁ」と思い、シンガポール→KL間の列車のチケットもいっしょに提示する。係員はチケットをちらりと見て、何も言わずに出国印を押してくれた。

 さらに1キロほど進むと、タイ側の国境である。タクシーもここまで。車を降り、タイ国旗と"Welcom to Thailand"の大きな看板のかかげられた門をくぐり、イミグレーションに行く。歩いて入国するものは他に誰もいない。何事もなく入国は許可された。ようやくタイに帰り着いた。何かほっとする。

 国境を越えると同時に、周囲の景色、雰囲気はがらりと変わる。漂う匂いまで変わる。道の両側は賑やかな街並みになっていて、道には屋台が溢れている。この猥雑さ、この溢れ出るエネルギーがタイの象徴である。この国境の街はダン・ノック(Dan Nok)である。安ホテルの乱立する歓楽街である。休日になると、マレーシアの男どもがこの街に押し寄せる。ここへ来れば、酒も女も自由である。やはりイスラムの世界は、どこか無理があるのだろう。

 時刻はちょうど12時、道端の食堂に飛び込む。懐かしいタイの味だ。さて、ハジャイまでの交通手段は何かないかなと、街を50メートルも進むと、ミニバスの乗り場があった。ハジャイまで50バーツ(約140円)で行くという。しばらく待つと、13人乗りのワゴン車は出発した。マレーシアの高速道路はそのままタイに通じているが、タイ側は一般道路である。ただし、道はよい。サダオ(Sadao)の街を抜け、約2時間走ると、車は懐かしいハジャイの街並みに入った。5月17日にこの街を旅立ってから34日目、何やら故郷に戻ったような安らぎを覚える。
 

   第56章 ワット・ハート・ヤイ・ナイ

 6月20日月曜日。深南部へ旅立とうかと思っていたが、どうもまだふらふらする。退院した翌日に、船、バス、タクシー、ミニバスと乗り継いで、一気にハジャイまで来る強行軍をしたのだから無理もない。今日1日、のんびりと休養することにする。この街なら勝手も知っている。

 午後からワット・ハート・ヤイ・ナイへお礼参りに行く。1ヶ月前、この街を旅立つ際に、この寺の老僧に安全祈願をしてもらった。お陰で、とにもかくにも無事にこの地に戻ってこれた。到着した境内は相変わらず閑散としていた。本堂に行くと、老僧はおらず、中年の僧がいた。事の顛末を話すと大変喜んで、再び聖水を降りかける祈祷をし、黄色い糸を腕に巻いてくれた。約1ヶ月にわたり、マレーシア、インドネシアとイスラム圏を旅してきたが、やはりイスラム教は排他的で、きつい印象は否めない。イスラムの聖職者と親しく話す機会もなかった。それに比べ、仏教はどこか優しい。お寺は誰でも自由に入れるし、僧侶とも親しく話せる。

 境内の木陰では、ソンテウの運チャンがのんびりと客待ちしている。近づくと、「暑いねぇ」と話しかけてはくるが、別段客引きはしない。しばらく座り込んで雑談である。「それじゃ行こうか」と後の客席に乗り込むと、「こっちに乗れ」と助手席を指さす。お互い運賃交渉もしない。ホテルに到着すると、私は黙って30バーツ渡す。運転手はにっこり笑って「コップンクラップ」。インドネシアではとても考えられないやり取りである。この国は平和で、人の心も豊かだとつくづく思う。
 

   第57章 ナコン・シー・タマラートへ

 6月21日火曜日。今日はナコン・シー・タマラート(Nakhon Sri Thammarat)に向う。ハジャイの北方約160キロに位置する街である。日本人には山田長政が最期を遂げた地として知られている。タイのマレー半島部には「行きたい」と思う魅力的な都市がないのだが、このナコン・シー・タマラートだけは是非訪れてみたいと思っていた。

 マレー半島の北半分はタイ領であるが、この地域がタイの歴史の表舞台に登場することはない。常に、辺境の地として、あるいはイスラム勢力との接点の地域として、歴史の裏側に隠れ続けてきた。その中にあって、ナコン・シー・タマラートだけは、わずかに歴史の表面に顔をのぞかせる。この街は、シュリーヴィジャヤ王国の時代に、マレー半島における仏教文化の1大拠点として多いに栄えたらしい。シュリーヴィジャヤ王国とは、7世紀後半、スマトラ島のバレンバンを都として栄えた仏教王国である。その後も、仏教文化圏最南端の拠点として、重きをなしてきた都市である。17世紀にはリコール(六昆)と呼ばれ、アユタヤ王国の属国の地位にあった。山田長政はこのリコール国の王となるのが、政争に巻き込まれ、1630年に毒殺されたと伝えられている。
 9時頃ハジャイのバスターミナルへ行く。案内所があったので、「ナコン・シー・タマラートへ行きたい」というと、「バスは19番プラットホーム。チケットはバスの中で」と、若い女性が歯切れのよい英語で答えてくれた。19番プラットホームへ行くと、かなりのボロバスが停まっていた。すぐに出発するという。横5座席で、もちろん冷房はない。50%程度の乗車率である。運転席後の3座席を占領する。ここが一番視界がよい。長距離バスではなく、一般路線バスのため、点々と停留所に停まっていく。ようやくハジャイの街並みを抜け、郊外にでる。バス料金は80B、タイではバス料金をごまかされる心配はない。

 バスは1時間ほど東進し、ソンクラー(Songkhla)郊外で進路を北へ変える。すぐにソンクラー湖に架る橋を渡る。この辺りは実に風光明媚である。バスはタイ湾とルアン湖に挟まれた砂洲の上を北へ北へと進む。すぐ右手に続いているはずの海は林に隠れ見えない。どこまでも単調な道が続く。乗客が乗ったり降りたり、バスは混んだり空いたり。最初から乗っているのは私1人である。運転手は運転しながら悠然と煙草を吸っている。途中2箇所ほど小休止があった。小さな街を幾つも過ぎる。一瞬左手に海が見えた。やがて空がにわかに曇り、激しいスコールが来た。車掌が慌てて窓を閉めて廻る。

 3時間半ほど走り、大きな街並みに入った。ナコン・シー・タマラートだろう。左手に巨大な仏塔の建つ寺院が現れた。乗客の多くは寺に向って黙って手を合わす。街並みは次第に賑やかになり、バスは停まった。乗客全員がぞろぞろ降りる。車掌が私に向って、「ここで降りたらいい」という。この辺りが街の中心なのだろう。私は「終点まで行く」と答える。バスは私1人を乗せ、中心部を離れ、西郊外のバスターミナルに着いた。

 到着したバスターミナルは、思惑とは違い、閑散として何もない。車掌が、街の中心部で降りろと言った意味がわかった。さてどうしたもんか。誰もいないし、周りには食堂も売店もない。頭上では真昼の太陽がぎらぎらと輝いている。広いターミナルの隅の方に、バイタクらしい人影が2〜3見える。話に夢中で、商売っ気のない運チャンの輪に入っていき、「どこか安くてよいホテルへ連れていけ」と頼む。着いたところは、街の中心部にあるなかなか立派なホテル。1泊550Bと料金も安い。ただし、英語がまったく通じないのには参った。この街は観光地でもなく、外国人など来ることもないのだろう。
 

   第58章 ワット・プラ・マハタート

 既に時刻は1時近い。部屋に荷物を置くとすぐに近くの食堂に飛び込んだ。女の子に「カオ・パット・ムー(豚肉入りチャーハン)」と注文したのだが、出てきたのは、ご飯と焼き魚。魚は「プラ」であるから、聞き間違えるわけがないがーーー。狐につままれたようである。

 まずは、この街最大にして唯一の見どころであるワット・プラ・マハタートに行ってみることにする。この街の構造は単純である。南北にラーチャダムヌーン通りが貫いており、街はそれに沿って長々と構成されている。地図を見るとワット・プラ・マハタートは街の中心部から3キロほど南にある。バスの車窓から眺めた巨大な仏塔のある寺である。バイタクをつかまえ、目指す寺に行く。広大な敷地を持つ寺で、いくつもの伽藍が軒を連ねている。いやでも目に入るのは白い漆喰で固めた巨大な仏塔である。高さは53メートルある。シュリーヴィジャヤ王国時代に建てられたものと言われている。ということは、山田長政も確実にこの仏塔を眺めたはずである。

 境内は多くの参拝者や行き交う僧侶たちで賑わっていた。境内の南端には土産物屋が軒を並べている。木陰のベンチに座り、巨大な仏塔を見上げながら、山田長政に思いをはせた。彼がシャムに渡ったのは1610年頃といわれている。関ヶ原の戦いが1600年、大阪夏の陣が1615年、日本の世はまさに戦乱の真っ最中であった。多くの大名が潰れ、浪人が町に溢れていた。彼もそんな1人であったのだろう。駿府出身で、下級武士であったとも駕篭担きであったとも言われている。シャムの首都・アユタヤに渡り、瞬く間に日本人集団の頭領に躍り出る。当時アユタヤには1500人もの日本人町があったと言われる。さらに、日本人武装集団を率い、アユタヤ王朝の実力者にのし上がる。恐れたアユタヤ朝はリゴール(Ligor)の王に任命して体よく彼を辺境の地に追いやる。さらにその上で毒殺する。まさに波乱の人生であった。

 仏塔を中心とした一角は回廊で囲まれている。おそらく、この領域が元々の寺域だったのだろう。回廊には多くの仏像が並び、また、巨大仏塔の周りには無数の小仏塔が立ち並んでいる。一角に小さな博物館がある。入ってみると古い仏像や寺宝が整理もされずに雑然と並んでいた。

 歩いて町の中心部に戻ることにする。さすが南部における仏教の中心地、至る所に仏教寺院がある。仏教寺院がひとつきり見当たらなかったハジャイとは違う。しかし、途中にヒンズー教の遺跡が二つあった。いつの時代か分からないが、この都市にもヒンズー教が普及した時代があったことが推察される。町には高校生、大学生が溢れている。特に、女子大生の姿が目立つ。タイも、多くの女性が大学に通う時代に突入している。

 古い城壁の1部が残っていた。この街がかつて、城壁で囲まれていたことが分かる。山田長政の時代も当然城壁都市であったであろう。夕闇迫るころ、街の中心部に戻り着いた。
 

   第59章 バンコクへ

 6月22日水曜日。いよいよバンコクへ戻るときが来た。「マレー半島縦断とジャワ島の旅」が終わる。朝一番で駅にチケット購入に行く。ナコン・シー・タマラートからバンコク行きの夜行特急が1日2本走っている。13時発の2等寝台のチケットが得られた。ただし、寝台は、下段は満席で上段である。 午前中暇なので、国立博物館に行く。南部タイの歴史を示す数々の遺物が展示されているが、興味を引いたのは「国土の変遷」と題した1枚のパネルである。タイの領土はトンブリ王朝(1767年〜1782年)の時代に最大となる。以降1909年に現マレーシアのケダー州、トレンガヌ州を英国に譲渡するに至まで9度にわたり、領土を英(現在のマレーシア、ミャンマー)、仏(現在のカンボジア、ラオス)に譲渡している。タイは、これら国土の譲渡により英仏の圧力を際どくかわしながら、かろうじて独立を守り通した。まさに苦難の歴史が読み取れる。

 13時、列車はナコン・シー・タマラート駅を発車した。発車してすぐに、おばさんがおずおずとやってきて、座席を交換して欲しいという。仲間から1人だけ離れた座席になってしまったらしい。差し出されたチケットを見ると、2両先の同じ2等寝台の下段席である。交換して損はない。移った席の向かいの席は空席であった。1人で1ボックスを占有して、車窓を見続ける。ゴムの樹の林と雑然とした荒れ地が続く、至る所で牛が草を食んでいる。耕地はまったく見られない。

 約3時間走ると、スラー・ターニー(Surat Thani)に到着した。3人連れのオバチャンが乗ってきて、向かいの席と、隣のボックスを占めた。菓子や果物を食べながら、甲高にしゃべり続ける。いい加減耳障りである。しかも、果物の皮や菓子の袋を躊躇することなく窓外に投げ捨てる。どこの国でも、オバチャンの集団は傍若無人である。チャイヤー(Chaiya)を過ぎると、ようやく田圃が現れた。田植え前の土くれた田圃が広がる。次第に夕闇が迫ってきた。ベッドメーキングが始まる。

 目が覚めると、列車は既に街並みの中を走っていた。車掌にどの辺だと聞くと、あと30分で終点・ホアランポーン駅に着くという。5時30分、列車は15分遅れでホアランポーン駅のプラットホームに滑り込んだ。ようやく帰ってきた。天使の都・グルンテープへ。長かった旅がひとまず終わった。
                                              (完)

 

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