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久遠寺下(900)→久遠寺(910〜930)→大光坊(1010〜1015)→法明坊(1055〜1100)→奥の院(1125)→身延山山頂(1130〜1155)→ケーブル山頂駅(1200〜1210)→追分(1230〜1250)→松樹庵(1330)→高坐石(1355〜1400)→日蓮墓地→久遠寺下(1425) |
「身延山」とは山名であり山号である。普通は身延山と言った場合、誰しも山号である「身延山久遠寺」を思い浮かべる。言わずと知れた日蓮宗の大本山である。久遠寺の背後にそびえる1,153メートル峰が山名としての身延山である。この山は安倍奥の八紘嶺と七面山を結ぶ稜線上の希望峰南付近から分かれた支稜上の一峰で、いわば安倍奥の山々と尾根続きの山である。安倍奥の山々の完全踏破を目指す上で、一度は足跡を残しておかなければならない。久遠寺もぜひ一度尋ねてみたい。もちろん、日蓮宗の何たるかは知らないが、鎌倉仏教の代表的宗派である日蓮宗と、その開祖日蓮については知識として知っている。日蓮は佐渡流刑の後この身延の山に立てこもり、今に続く一大宗派を築き上げた。
7時過ぎ、車で家を出る。大雨警報まで出た昨日の荒天が嘘のように、空は真っ青に晴れ上がっている。梅雨の晴間である。国道五二号線を北上し、総門から身延川沿いの門前町に入る。狭い道の両側には土産物屋、信者の宿泊施設、坊などがぎっしりと立ち並んでいる。白装束に身を包んだ信者の集団が道にあふれ、宗教的熱気が立ち込めている。困ったことに適当な駐車場所がない。20分ほどうろついたあげく、ようやく車を止めていざ出発である。と言っても、実は登山道がよくわからない。現在、身延山にはロープウェイが掛っており、歩いて登る人などいないとみえる。聞こうにも、周りは信者や僧侶ばかりで、信者でもない私は気後れがする。そもそも登山姿でうろついていること事態がこの地では異様である。二万五千図の破線が当てにならないことは百も承知だが、久遠寺裏より山頂に向かう破線を目指す。 両側に坊が立ち並んでいる急な車道を辿る。ロ−プウェイ駅を過ぎ、少し登ると久遠寺の裏に出た。ここに「奥の院参道」との標示があり、確りした小道が上部に通じている。やれやれである。 身延山に登るからにはまず久遠寺にお参りしよう。さすが日蓮宗の総本山、大きな大きな本堂である。意外にも本堂前の広場は人影もなくひっそりしている。ここはまさに日蓮宗の本丸。登山姿で現われた非教徒に周りの目が集中しているようでどうも落ち着かない。お参りだけして去ろうとしたら、本堂上がり口に「履物を脱いでお上がりください」と書かれている。どうやら、自由に本堂に上がってよいようである。さすが日蓮宗の総本山、誰でも奥座敷にどうぞと言う態度に宗教的自信があふれている。生きた宗教とは本来こうあるべきなのだろう。観光宗教や閉鎖的な宗教は参拝料を払った者か、信者以外は奥座敷には通さない。急に日蓮宗が好きになった。好奇心がにわかに沸いて、本堂に上がる。数百畳敷の本堂もがらんとして人影はない。恐る恐る本尊の前まで進み出る。Tシャツに登山ズボン姿の私にも周囲にいる寺の関係者は無関心である。荘厳な雰囲気に自ずと膝まづかざるを得ない。今日一日の無事を祈って早々に退出する。 参道は車も通れる舗装道路となっているが、人影はまったくない。鬱蒼と茂る杉の大木の中を登っていく。地図を読むと山頂までの標高差約800メートル、約2時間程の行程であろう。道々には「○○丁目」と記した石柱があるのだが、山頂が何丁目なのか分からないので目安とならない。参道にはさすがに塵一つ落ちていない。休憩所を兼ねた坊があるが参拝者の姿はない。坊の女性と目が合うと「ご苦労様です。暑いでしょうから休んでいらっしゃい」と丁寧な声が掛る。昨年、同じく日蓮宗の聖地である七面山に登ったときも、常に「ご苦労様です」との声が掛った。ここにいる者はみな日蓮宗の仲間なのである。道の真中に小さなマムシが昼寝をしている。ここではマムシ酒にされる心配もない。 約45分歩いて、26丁目で三光堂という休憩所を兼ねた坊に達するが人影はない。参道はここから地道となり、傾斜も増す。今日は体調がどうもよくない。800メートルぐらいひと登りと思ったのだが。行く手に高々と山頂が見え、左手には春木川を挟んで七面山が見える。七面山への急登を腰の曲がった老婆が「南無妙法蓮崋経」のお題目を一心に唱えながら登っていたことを思い出した。私も試みにお題目を唱えてみる。歩みにリズムが生じて登りやすい。やはりここは日蓮宗の聖地である。どうもいつもの山登りと私自身の雰囲気が違う。地図に卍印のある法明坊に達した。住職もいないようで戸が固く閉まっている。34丁目が山頂かと期待していたが、さらに参道は続く。やがて傾斜が緩み山頂は近そうである。50丁目でついに奥の院に達した。久遠寺から休憩も入れて1時間55分、予定通りである。 途端に多くの人が湧き出した。みなロープウェイで登ってきた人たちである。まずは奥の院の思親閣に詣でる。日蓮は時折この身延山山頂に登り、遠く故郷安房の国を望み故郷に残る両親を思ったという。奥の院の裏手に回り込むと、そこが1,153メートルの身延山山頂であった。展望台となっていて、西面、南アルプスに向かってものすごい展望が現われた。備え付けの展望図を見ながら、視界の先を追う。目の前に何とも格好のいい山がそびえている。富士見山である。この山がこれほどすばらしい山容とは知らなかった。秋になったらぜひ登ってみよう。落ち着いて山々の同定に入る。一番左は大ガレを晒した七面山である。その右奥の上河内岳は何とも平凡な姿に見える。少々がっかりである。さらに右には布引山、笊ヶ岳と白峰南嶺が続き、その背後に赤石岳、荒川岳、悪沢岳、千枚岳の巨峰がわずかに頭を覗かせている。塩見岳は伝付峠の背後に大きく姿を現しているが、白峰三山は残念ながら雲の中である。大きく目を右に振れば、富士川の流れが白く光り、その先には甲府盆地が霞む。その背後には八ヶ岳、茅ヶ岳がうっすらと見え、奥秩父の山々も霞んでいる。真冬なみとはいかないが、梅雨時には珍しい良好な視界である。のんびりと握り飯を頬張りながら心ゆくまで山々を眺め続ける。 正午前、ようやく重い腰を上げる。2〜3分下るとロープウェイ山頂駅。ここは東方に大きく展望が開けていて、天子山塊の山々が一望できる。下山は追分と呼ばれる北西の肩から下る破線を辿ってみるつもりである。七面山を正面に見据えながら、追分への道を下る。車も通れる広い道であるが、一歩山頂部を離れると人影はまったく消える。七面山礼拝所を過ぎ、約20分で坊の建つ追分に着いた。道標があり、期待通り久遠寺へ向け立派な道が下っている。これで今日はもうルートの心配はなくなった。 実は身延山から稜線沿いに七面山まで縦走してみようとの計画を暖めている。この場合この追分から先の道なき稜線上の通過が可能かどうかがポイントである。今日はその偵察も兼ねている。追分から稜線を巻くように春木川に下る道が続いている。この道をしばらく辿り適当なところから稜線に這い上がれればベストなのだが。車の通れるほどに拡張中の道をしばらく進んでみたが、この道からは稜線に這い上ルートはなさそうである。追分に戻って、この地点からいきなり稜線を辿るルートを偵察してみる。稜線は笹が繁茂しているが、微かに踏み跡らしき気配がある。冬枯れの季節ならなんとか辿れそうである。 久遠寺への道を下る。車も通れる広い道である。ただし、車はおろか、人影もまったくない。道は山腹を巻くようにだらだら下る。展望もなく退屈な道である。やがてすばらしい杉林に出た。「千本杉」との標示がある。樹齢数百年、高さ50メートルにもなる数百本の杉の大木が天を衝いている。道標に従い車道から離れて小道を急降下すると、松樹庵という坊に出た。眼下に視界が開けて、久遠寺とその門前町がよく見える。さらに下る。またもや小さなマムシが道の真中で昼寝をしていてあわや踏みそうになる。高坐石というところに出る。説明書によると、「この地で日蓮が説法をする度に美しい女性が常に拝聴にきた。この美女こそ七面観音であった」とのこと。緩やかとなった身延川沿いの道を辿ると、道標があり、日蓮の墓と草庵跡を示している。せっかくなので行ってみることにする。ここは日蓮宗の聖地中の聖地、観光気分で訪れるところではない。凛とした周りの雰囲気からして非信徒には気後れがする。勇気を出して墓前まで進む。登山姿の私もフリーパスである。あらためて日蓮宗の度量の大きさに感心する。草庵跡もそのまま保存されていた。日蓮はこの草庵で文永11年(1274年)から9年間過ごしたのである。 すぐに愛車に巡り合った。今日一日、登山というよりも、聖地巡礼の雰囲気であった。それにしても、行きも帰りも参道では誰にも会わなかった。
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