カナサナの神の坐す山 御嶽山

武蔵の国二ノ宮のご神体となる山に登る

2002年12月23日


金鑽神社拝殿
 
金鑽神社駐車場(1015)→拝殿(1020)→鏡岩(1030)→石仏群(1030〜1045)→御嶽山山頂(1050)→法楽寺跡→駐車場(1115)

 
 年末の三連休だが二日間は雪の降る悪天候。今日天皇誕生日は何とか晴れそうであるが、遠くの山に行く元気もない。前々から気になっている児玉郡の二つの小峰に登って見る気になった。御嶽山と神山である。登山と云うより散歩であり、登山用具は何もいらない。9時、車で出発する。晴れてはいるが霞の掛かったぼんやりした天気で、奥武蔵の山々が微かに見える。ただし、昨日の雪がかなり積もっている様子で、山肌は真っ白である。一時間半走って、10時20分、最初の目的地・金鑽神社に着いた。

 武蔵の国の一ノ宮は大宮の里に座す氷川神社である。このことは多くの人が知っている。しかし、武蔵の国の二ノ宮はどこかと問われ、答えられる人は極めて少ないはずである。埼玉県神川村二の宮に座す金鑽神社である。この金鑽神社のご神体となる山が神社の背後に聳える御嶽山である。金鑽神社は極めて古い形式を残す神社で、拝殿のみ存して本殿はない。この形式を今に残す神社はほかに奈良県の大神神社、長野県の諏訪大社ぐらいである。

 神社の境内に参拝者の姿はない。もう一週間も経てば初詣客でごった返すはずである。駐車場に車を停め、カメラだけを持って出発する。日陰には雪が残っている。室町時代の建物で国の重要文化財である多宝塔の下を通り、数分進むと拝殿の前に達した。傍らには神楽殿がある。拝殿に詣で、今年1年の無事を感謝する。道標に従い、山中に向かうよく整備された小道に入る。100メートルも進むと道標があり、鏡岩への道が右に分かれる。人口建材で階段整備された山道が延々と山腹を登っていく。傾斜はそれほどでもないが、なかなか登り甲斐がある。道脇には句碑が絶え間なく並んでいる。周りは鬱蒼とした杉林である。登るにしたがい雪道となる。

 10分ほど頑張ると鏡岩に達した。つるつるの一枚岩で、約1億年前の断層活動による摩擦のため生成されたものと云われる。岩面の大きさは、高さ4m、巾9m、傾斜30度、岩の表面が鏡のようにみがかれている。この鏡岩が金鑽神社の本来のご神体であったと思われる。鏡は光を反射することから太陽の同根別姿とみなされ、天孫系の神々の根元である。おそらくカミ(神)と云う言葉はカガミ(鏡)から生じたのであろう。

 ほんの数分登ると、広場となった峠状の鞍部に達した。多数の石仏が立ち並んでいる。説明書きによると、御嶽山石仏群と呼ばれているとのこと。この御嶽山は江戸期に本山派修験の活動が盛んであった。その痕跡の一つである。中世から近世に掛けて多くの神社において本地垂迹思想のもと神仏習合がはかられた。金鑽神社も例外ではなかった。山頂は右だが、その前に左の岩峰に登ってみる。雪で滑りやすい岩場をちょっと登ると頂きに達した。展望盤と小さな石の祠がある。360度の大展望が開けているのだが、全て霞の中である。微かに眼下に鬼石の町並みが見える。
 
 鞍部の広場に戻って御嶽山山頂を目指す。ここからは完全な山道となった。宗教的雰囲気も一切消える。尾根道を緩く登る。周りは杉桧林と竹林が入りまじり、雑然とした雰囲気である。いたるところで竹が雪の重みで倒れ道を塞ぐ。こんな小峰ひと登りと思ったが、そうも行かない。道型が消え目の前に岩場が立ちふさがった。どうやら道を踏み外したようだ。山頂は目の前なので強引に登る。滑りやすく危険を感じるほどの急登である。

 10時50分、積雪の山頂に達した。小広い平坦地で、山頂標示は何もなく、「御嶽城本郭跡」と記した木柱が一本立っているだけであった。この御嶽山山頂には中世、山城があった。武蔵七党の一つ児玉党の一族・阿保氏の居城といわれる。神社境内にある多宝塔も阿保氏の寄進である。山頂は周りを杉檜林に囲まれ展望もない。積雪のため座る場所もないため早々に下山に移る。

 登ってきた岩場は危険で下れない。本来の道があるはずと探すと、雪に埋もれた道型を見つけた。やれやれと踏み込むが、すぐに無数の倒れた竹に行く手を阻まれた。右往左往しながら下るが、これでは登りに道型を見失ったのも当然である。何とか鞍部の広場に下り着く。鞍部から登ってきたのと逆の方向に立派な小道が下っている。おそらく、山腹を大きく巻いて鏡岩分岐に通じているものと判断する。緩やかに下ると、法楽寺跡との木柱の立つ池の畔にでた。この法楽寺はかつて本山派修験の本拠地であったが、明治の神仏分離令により廃寺となった。ここから沢添いの小道を雪を蹴立てて駆け下りると金鑽神社は一足長であった。11時15分、車に戻る。   

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