おじさんバックパッカーの一人旅
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2010年1月25日~28日 |
第7章 ウー川を下る船旅(1) ハート・サーからムアン・クアへ
1月25日。今日から3日を掛けてウー川(Nam Ou)を下り、古都ルアンプラバンを目指す。「これぞラオの旅」ともいえるとっておきのルートである。メコーンの船旅が黄金ルートなら、ウー川の船旅はダイヤモンド・ルートである。今日はポンサーリーの北西20キロに位置するウー川の河港集落ハート・サー(Hat Sa)までバスで行き、そこから船でムアン・クワ(Muang Khua)まで行く計画である。 朝5時過ぎに目覚める。心配していた風邪は、少なくとも悪化はしていない。予定通りの行動が出来そうである。外は未だ真っ暗である。5時30分、突如、近くの政府機関から大音響の音楽とアジ演説が流れ出した。安眠妨害も甚だしい。どうせ、政府共産党の宣伝だろう。こんな所に共産主義の悪癖が残っている。 7時、チェックアウトしてバス発着場に向う。道は入り組んでいるが、昨日歩いておいたので迷うことはない。しかし、ザックを背負っての急な坂道の登りはかなり苦しい。30分ほどでバス発着場に着いた。トラックバスを予想したが、20数人乗りのマイクロバスが既に停まっていた。乗客がぽつりぽつりとやってくる。カナダ人の夫婦とドイツ人のおじさんもヒィーヒィーいいながら坂道を登ってきた。今日1日同行することになる。発着場の横に小さな茶店兼雑貨屋があり、赤ちゃんを負ぶった女性が忙しく立ち働いている。生後4ヶ月だという男の赤ちゃんが実にかわいい。私の手を握って離さない。ラオに来て強く感じたことは、子供、特に赤ん坊の数が実に多いことである。女性の多くは必ず赤ん坊を背負っている。 発車時刻の8時になっても発車しない。いらいらしながら待っていると、30分近く遅れて男が駆け込んできた。どうやら彼を待っていたらしい。携帯電話ででも連絡したのだろう。他の乗客は別段迷惑がっている様子もない。民族により精神構造は異なる。ほぼ満席となってようやく発車した。外国人はわれわれ4人だけである。バスは地道の山道をガタガタと進んでいく。辺りは霧が立ちこめ視界を遮る。点々と現れる小集落で乗客を乗せたり降ろしたり。約1時間で終点ハート・サーに到着した。街並みもない小集落である。
ウー川の名称につき日本では混乱が見受けられる。この川の現地呼称は「ナーム・ウー(Nam Ou)」である。前述した通りナームは川を現す言葉であるので、ナーム・ウーの日本語訳は「ウー川」が正しい。しかるに、最近は「ナムウー川」なる表記を多く見かける。これは、例えば、「揚子江川、ミシシッピー・リバー川」というに等しい。面白いのは案内書「地球の歩き方 ラオス」である。'03~'04年版は「ウー川」、'07~'08年版は「ナムウー川(ウー川)」、'10~'11年版は「ナムウー川」となっている。このように頻繁に地名を書き換えるなら、それなりの説明が必要だと思うのだがーーー。ラオス国家観光庁の日本語ホームページでは「ウー川」と表記している。
どこまでも「これぞ北ラオ」といった風景が続く。昼飯替わりに、ハート・サーで買ったビスケットをほお張る。包装にはMade in Vietnamと記されていた。山一つ向こうはもうベトナムである。最後はわれわれ4人だけとなり、15時、今日の目的地ムアン・クアの船着き場に到着した。
部屋に荷物を置くと、すぐに街の探索に出た。ムアン・クアはウドムサイから続く国道4号線とウー川が交差する交通の要衝である。国道4号線はさらにベトナムのディエンビエンフーに通じており、ムアン・クアから国際バスも運転されている。ただし、ウー川には橋がなく、大きな艀に車ごと積んで対岸に渡している。ムアン・クアの街には、ポンサーリーとは異なり、バックパッカーの姿が多く見られる。G.H.の数も多い。ただし、街並みはほんの200メートルと小さく、犬と鶏が闊歩している。街の南端ではコー川(Nam
Ko)がウー川に合流している。ウドムサイの街中を流れていた川である。国道4号線が開通する以前はこの川も重要な交通路であったのだろう。
1月26日。ウー川を下る船旅の2日目、今日はノーン・キアウ(Nong Khiaw)を目指す。朝5時半に目覚めるが、電灯も点かず動きようがない。朝方は電気が来ないようである。風邪は快方に向っておりひと安心する。7時に外は明るくなったが、室内はまだ暗い。手探りでパッキングをする。ノーン・キアウ行き船の出発時間は、宿の親父から8時と聞いた。7時半にチェックアウトして船着き場に行く。船着き場には、ハート・サーと違い、船のチケット売り場がある。お兄ちゃんに聞くと、船の出発は9時だという。まったくもぉ、どこのG.H.もいい加減なことをいう。
船着き場から急な石段を登ると、茶店や雑貨屋、ボートのチケット売り場などの並ぶ広場に出る。さらに、地道の急坂を登るとメインストリートに出た。街並みはなく、道いっぱいにタイガー・グラスが日干しされている。ぽつりぽつりとG.H.や食堂の建つ小さな集落である。ここでカナダ人の夫婦、ドイツ人のおじさんと別れることにした。カナダ人の夫婦は「明日もう1日ここに留まり、明後日バスでルアンプラバンに行く。船はもうお尻が痛くてノーサンキュウ」と言っている。確かに、左右の船体を結ぶ横木に座たままで、立ち上がることも出来ない船旅は苦痛である。またトイレの問題も女性にとってかなり精神的重圧だろう。私は明日、船でルアンプラバンに行くつもりである。もう会うことはあるまい。特別親しくしたわけではないが、4日間、付かず離れず同行した。別れるとなると何となく寂しい。握手して別れる。 G.H.は橋を挟んで右岸と左岸に分散している。1人橋を渡り左岸に向う。この立派な橋は中国の援助で作られた。ウドムサイから続いてきた国道1号線がこの橋でウー川を越え、ベトナムへと続いている。生活のためというより戦略的目的の強い橋なのだろう。橋の上より眺めるウー川は絶景である。今日はこの街でもっとも上等な「ノーン・キアウ・リバーサイド」というリゾートホテルに泊まるつもりでいる。たまには高級な宿に泊まってみたい。ここノーン・キアウは古都ルアンプラバンから船でもバスでも5~6時間で来られるため、、ルアンプラバンの喧騒を嫌う旅行者の隠れ里的存在になっている。このため、高級リゾートホテルから安宿まで多くの宿泊施設がある。
すぐに街の探索に出かける。この街は特に見所もない。周囲の雄大な景色を眺めるだけである。明日、船でルアンプラバンに行くつもりなので、情報を求めてチケット売り場まで行ってみた。小屋は無人であったが張り紙があり、「明日のルアンプラバン行きに乗船希望者は署名せよ。出航時刻は10時~11時」とある。既に10人程度の署名が並んでいた。私も署名しておく。何も面白いことはないのでホテルに戻る。 夜9時過ぎ、雷雨がやって来た。ものすごい雨である。南国の激しいスコールを何度も経験しているが、これほど凄まじい雨は初めてである。家が振動し今にも押しつぶされそうである。この世の終わりかと思えてくるほどで、恐怖心が沸き起こる。あちこちで雨漏りも始まる。停電に備えて懐電を握りしめて身構える。濡れた床に滑って転んで膝を擦りむいてしまった。踏んだり蹴ったりである。
第9章 ウー川を下る船旅(3) ノーン・キアウからルアンプラバンへ
8時頃よりまた雨が降りだした。気分はブルーである。それでも9時過ぎには止んだので出発を決意する。9時30分に船着き場に行く。ところが、今日の出港は11時だと言う。長い待ち時間となってしまった。10時50分に乗船が始まった。定員以上の乗船希望者がいるが、昨日乗船名簿に署名した人が優先される。15名ほどが乗り込んだ。私を除き、全員欧米人の若者である。何となく孤独である。料金は100,000キープ(約1,100円)、昨日よりは安い。驚いたことに、船は昨日と同じものだが、座席が椅子席になっていて、座布団まで置かれている。 11時過ぎ、今にも降りだしそうな空模様の中、ルアンプラバン目指してウー川に乗りだす。船旅3日目、いよいよ最後の航行である。30分も走ると、景色が大きく変わりだした。連なる石灰岩の岩峰は背後に退き、両岸は低い山並みとなる。現れる集落の数も増し、集落下の川岸には畑も見られるようになる。子供たちが船に向って盛んに手を振る。漁をする小舟も見られるようになり、何となく人の匂いが濃くなる。ウー川の流れは、船旅スタート地点のハート・サーに比べると、明らかに水量、川幅とも増大しているが、逆に難所も増加した。滝のような早瀬、行く筋にも流れが分かれて船の通行が危ぶまれるほどの隘路、水底が透けて見える浅瀬。船頭は、時にはエンジンを止めてサオを操り、巧みに難所を抜けて行く。 タバコを吸いたいのだが、タバコの煙を嫌がって、大声を出して逃げ回る娘が1人いる。おかげで誰も吸えなくなってしまった。ちょうど1時間走ってトイレ休憩。女どもは連れ添って遥か遠くまで出かけていった。現れる集落の家々に、板壁やトタンの屋根が見られるようになる。刻一刻と、文明社会が近づいて来る気配である。更に1時間半ほど走り、船は浜に接岸した。トイレ休憩かと思ったら、「この先の岩礁地帯は空舟でないと越えられないので、歩いて欲しい」とのことである。雑草の生い茂る河原を500メートルほど歩く。 15時、最後の航行に出発する。ついに雨が降りだした。一時は大分強く降ったが、幸い短時間で止んだ。客席には屋根があるが、船尾に積んだ荷物はずぶ濡れである。ウー川はすっかり大河の風格を備え、瀬となり瀞となって悠然と流れる。両岸の山々も遠のき、低い丘の連なりに変わる。
さすが天下のメコーン、川幅はゆうに1キロはあるだろうか、大小の船が行き来している。船はひたすら濁流を下る。すっかり薄暗くなった18時半、ついにプー・シー(Phou Si シーの丘)が見えた。ルアンプラバンの街の中心に聳える丘である。船は大きく舵を切って、船着き場に向う。ちょうど反対側から来た大型客船も接岸しようとしている。パークベンからの船だろう。船着き場は下船した多くのバックパーカーで大混雑である。さてどこかG.H.を見つけなければならない。 ルアンプラバンは2004年2月以来6年ぶりである。以前の訪問時、この都市は世界一美しい都市と確信した。その気品に満ちた美しさは今でも強く脳裏に焼き付いている。それだけに、今回の訪問は、大いなる楽しみとともに、強い恐怖感を抱いている。ひょっとしたら、あの素晴らしい桃源郷がズタズタに壊されてしまっているのではないかーーー。最近、欧米では、この都市は「世界でもっとも行きたい街No.1」になっているとのニュースも聞く。大勢の観光客が押し寄せているはずである。商業主義が美女をあばずれ女に変えてしまっていないか、それだけが心配である。 船着き場から続く急坂を登る。トゥクトゥクの運転手やG.H.の客引きが大勢待ちかまえている。1人の若者に捕まった。G.H.の客引きである。暗くなった中、あてもなくG.H.を探すのはしんどい。「部屋を見てから決める」を条件に彼について行く。トゥクトゥクに乗せられ、着いたところはプー・シーの南側、ラッサウォン通りからちょっと入ったVilla Sokxai2というG.H.であった。部屋はまぁまぁ、20ドルの言い値を15ドルに値切ってチェックインする。少々高いが、ルアンプラバンでは仕方がない。客引きの若者はこのG.H.のマネージャー格、ファという名前で20歳とのこと。流暢な英語を話す。少々小生意気だが、利発そうな若者である。 夕飯を食べようとラッサウォン通りに出て驚いた。飲食店が連なり、その店先には電飾がキラキラと輝き、店内からは大音響の音楽が流れている。あぁ、やはり心配した通り、ルアンプラバンは商業主義に汚染されかけている。言い知れぬ寂しさを感じた。シーサワンウォン通りで開かれているナイトマーケットに行ってみることにする。ここから15分ほどの距離である。辿り着いたマーケットは、規模は昔より幾分大きくなっているものの、裸電球の下、地べたに並べられた品々、一見愛想のない売り子のおばさんたち、昔のままであった。ようやく、少し安心した。人込みの中から日本語が聞こえてきた。振り返ると2人の日本人の娘が品定めの最中であった。
第10章 ルアンプラバンの1日 1月28日。朝、フロント前でコーヒーを飲んでいたら、30歳ぐらいのアベックが荷物を抱えて2階から降りてきた。何やらフロントの女の子と言い争いを始めた。ファも飛びだしてきて、険悪な雰囲気になる。アベックはそのまま玄関先に止まっていたトゥクトゥクに荷物を積み込み出発の構え。フロントの女の子が大声で何か叫ぶ。すると男は持っていたペットボトルを力いっぱい投げつけた。女の子は、気丈夫にも、それを投げ返した。男がファに歩み寄り胸ぐらを掴んで、力いっぱい突き飛ばした。ファがすっ飛び、テーブルにぶつかる。コーヒーカップが床に転げ落ち割れる。騒ぎに人の輪ができる。「ポリスを呼べ、ポリスを呼べ」の声が起こる。アベックはそのままトゥクトゥクで立ち去ろうとするが、運転者が出発を拒否する。男が、今度は運転手の胸ぐらを掴む。アベックは通りかかったトゥクトゥクを止め立ち去る。ファが慌てて、バイクでその後を追う。 後からファに聞いた話では、アベックはインド系マレーシア人。5泊したのに3泊分しか料金を払わなかったとのこと。「最後はどうなった」と聞いたところ、「警察に捕まった」と言っていたがーーー。 出鼻をくじかれたが、今日は1日ルアンプラバンの街を歩き回るつもりである。この都市はラオ最初の統一王朝・ラーン・サーン王国の古都である。1995年、街全体が世界遺産に指定された。現在、欧米においては、「行ってみたい街」のNo.1であるという。私は6年前にこの街を十分に堪能した。 先ずは、プー・シーに登ろう。高さ150メートルほどの丘で、街を一望できるはずである。頂上には金色に輝く仏塔が建っている。いわば裏口の南側から長い階段を登る。 山頂には地元民と思える1人の若者がいた。彼が突然「日本の方ですか」と流暢な日本語で話しかけてきたのにはびっくりした。「どこで日本語を習ったのか」と聞くと、「以前僧侶であったとき、ビエンチャンのお寺で習った」とのことであった。ラオにおいては、現在もなお、寺院が教育の大きな役割を担っている。山頂の隅には、6年前と同様、内戦時代の高射砲の残骸が残されていた。 丘を北側に下る。途中で、ガイドを伴った同年配の日本人に出会った。しばし、立ち話、豪勢な旅である。下りきると王宮の前に出る。6年前に、門前に座り込んでお供え用の生花を売っていたおばさんはいなかった。王宮は門から覗いただけでパス、西隣のワット・マイ(Wat
Mai)に行く。 シーサワンウォン通りを東に歩く。道の両側に旅行代理店、食堂、インターネットカフェ、プチホテルなどが軒を並べる。この通りも昔のままだ。キンキラキンの電飾もマッサージなどの風俗店も見当たらない。ほっとする。左側(北側)に平屋建ての小さな小学校が現れる。しかし、校庭に子供の姿もなく、閑散としている。どうやら廃校のようだ。 ワット・シェントーンの西隣りの寺に行く。大きな金色に輝く立仏像がある。名の知れた寺でもないためか観光客はおらず、数人の若い僧が屯していた。私が行くと愛想よく話しかけてくる。座り込んでしばし雑談、タイ語(ラオ語)と英語のチャンポンである。インターネットカフェで家にE-mailをした後、 いったんG.H.に戻る。風邪がぶり返した気配でどうも体調がよくない。昼食後、G.H.のすぐ裏にあるワット・アパイ(Wat
Aphai)に行く。6年前には人影もなく、鶏の親子が歩き回っていた小さな寺である。昔と変わらぬ風景で子供たちが元気に飛び回っていた。 あてもなく歩いていたら、タラート・ダーラーに行き当たった。衣料品や雑貨を扱うマーケットである。タラート(マーケット)は一新されていた。以前は、裸電球のぶら下がる暗い建物の中に小さな店がごちゃごちゃ並ぶ、如何にもラオらしいタラートであった。しかし、今目の前にするタラートはすっかり建て替えられ、明るい建物の中に宝飾店や洒落たブチィックが店を並べている。以前は多く見られたシンの店など見当たらない。ラオの変貌を実感した。 そのままシーサワンウォン通りに抜けて、西に向う。ワット・ホクシャン(Wat
Hoxiang)続いてワット・マハタット(Wat Mahathat)と好ましい寺院が続く。見覚えのあるナン・プー(噴水)に出た。南国の光が降り注ぎ暑い。ルアンプラバンにやって来て、ウー川沿いの街と明らかな気温の差を感じる。昼間はTシャツ1枚で十分である。早々にG.H.に帰る。
第11章 悲劇の民族・モン(Hmong) 夕食をすませ、フロントの前でぶらぶらしていたら、ファが「相談があるのだがーーー」と寄ってきた。彼は今日も船着き場に客引きに出かけていったが成果はゼロ、今晩の泊まり客は私一人である。このため、他の従業員も引き上げ、この場にいるのは彼と私の2人きりである。「相談って何だ」、彼とテーブルを挟んで向きあう。 「日本に行って、日本の会社で働きたい。方法を教えてくれ」、彼は単刀直入に切りだした。そんなことだろうと思った。この種の話しは、アジアを旅しているとしばしば聞かされる。「日本のワーキング・ビザは取得が非常に困難、それに君は日本語も話せない。無理な話だ。ラオもこれから発展する。無茶なことは考えないほうがいいよ」、私は軽くいなそうとする。「だから相談しているんだ。俺は今のまま一生を終えたくない。I have a ambition.」彼が粘る。「俺は英語も話せる。カレッジも卒業した」、彼は部屋に戻って、何とカレッジの卒業証書を持ってきて見せた。「日本語が必要というなら4年でマスターする。英語は3年でマスターした。貴方よりうまいだろう」、小生意気ながら真剣な眼差しで食らいついてくる。 「考えられる方法は、タイへ行くことだ。ラオ人は簡単にタイへ出稼ぎに行けるはず。タイには日系企業が沢山あるから、どこかにうまく就職し、チャンスを待って日本へ行かせてもらう。こんなことぐらいしか思いつかないなぁ」困り果てて私が曖昧に答える。更にやり取りが延々と続く。彼はなかなか諦めない。 「日本でもラオ人が大勢働いているよ。ただし、多くがモン族だと思うがーーー」、何かの拍子に私が言った。一瞬彼の顔色が変わった。数呼吸の後、彼は私を睨みつけるようにして、短く、低くつぶやいた。「俺もモン族だ」。私は彼の顔を凝視した。そして「カオチャイ(理解した)」とラオ語(タイ語)で短く答えた。彼の心の内も、置かれている立場も、ようやく理解しえた思いであった。 彼は声を低くし語りだした。本名は○×であること。ファイサーイ近くのモン族の集落で生まれたこと。苦労してカレッジを卒業し、英語をマスターしたこと。しかし、大志とは裏腹にゲストハウスの従業員の職きり得られなかったこと。そして未来への展望がないこと。彼は語らなかったが、その全てが「モン族」の一言にあることは容易に理解できた。 私は改めて言った、「タイへ行って云々の話しは全て取り消しだ。モン族ならモン族のネットワークがあるだろう。米国にも、オーストラリアにも、欧州にも、沢山のモン族がいるはずだ」。彼が答える、「俺のおじさんも米国にいる。しかし、米国だけには行きたくないんだーーー。やっぱり日本がいい」。彼の米国を拒否する気持ちもわかる。「今日はありがとう。先ずは日本語を勉強するよ。4年後に日本語で貴方にメールすることを約束する。それまで忘れないでいてくれ」、彼は笑顔でようやく腰を上げた。2時間にも及ぶ重い会話がようやく終わった。
モン族は剽悍な民族である。中国ではミャオ(苗)族と呼ばれ、タイではメオ族と呼ばれる。揚子江流域を祖霊の地とするが、漢、唐などの中国歴代王朝によって次第に追いつめられ、貴州、雲南の山岳地帯へと移動する。明代、清代にはたびたび大規模な反乱を起こし漢族と徹底的に戦う。特に清代の1854年~1873年に起した大反乱は壮絶で、ミャオ族の人口の2/3を失ったと言われる。この反乱に敗れたミャオ族の1部はタイ、ラオ、ビルマ、ベトナムの山岳地帯へと逃れた。現在、中国のミャオ族(モン族)は約300万人、ラオには45万人が暮す。 ベトナム戦争以前においては、山岳地帯で焼き畑を営むモン族と平地で稲作を営むラオ族との間で大きな摩擦はなかったが、ベトナム戦争がその関係を一変させた。米軍は南ベトナム解放民族戦線の生命線となる補給路・ホーチミン・ルートを叩くため、ラオ北部へ凄まじい空爆攻撃を行った。と同時に、東側の勢力範囲であるラオ北部山岳地帯を攻略するために、剽悍な山岳民族であるモン族を徴兵し、大規模な特殊部隊を編成した。この結果、モン族の村から青年の姿が消えたとまで言われる。モン族特殊部隊はラオ北部において米軍の指揮の下、北ベトナム軍及びパテト・ラオ軍と死闘を演じた。 1975年、ベトナム戦争が東側勝利の下に終結、米国はモン族を見捨て、インドシナ半島から撤退する。以降、北ラオに孤立無援のまま取り残されたモン族に対し、北ベトナム軍とパテト・ラオ軍による激しい掃討が開始される。この掃討はジェノサイドと呼んでよいほどの激しいもので、20万人ものモン族が殺戮されたと言われる。多くのモン族は、国境の川・メコーンを越えてタイに逃げ込んだ。その数30万人におよんだ。そしてまた、大河を越えられずに力尽きたモン族の数多くの死体が、メコーンを流れ下ったと伝えられている。その後、米国等の西側諸国は、少しは責任を感じたのだろう、難民として10万人ほどのモン族を受け入れた。現在、米国、オーストラリア、フランスなどにこれら難民およびその2世3世がモン族のコミュニティを作っている。
【バンコク西尾英之】タイ政府は28日、同国北部ペチャブン県のキャンプに収容されている少数民族モン族約4400人のラオスへの送還に着手した。欧米各国や国際人権団体は「送還されればラオス政府による迫害を受ける恐れがある」と中止を求めるが、タイ政府は「ラオスでの迫害は過去の話」として送還を強行する姿勢を崩していない。
ラオ北部周遊(3) に続く
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