おじさんバックパッカーの一人旅   

ラオ北部周遊 (3)

ジャール平原、バンビエン、ビエンチャン

2010年1月29日

        〜2月5日

 
 第12章 ジャール平原へ

 1月29日。今日はジャール平原の中心都市・ポーンサワン(Phonesavan)に向う。ルアンプラバンから南東約230キロ、バスで約8時間の距離である。前日、ファに行き方を相談すると、直通のミニバス(ワゴン車)の便があるという。しかも、G.H.まで迎えに来てくれるとのこと、迷わずチケットの手配を彼に頼んだ。路線バスで行くとなると、街から4キロも離れた南バスターミナルまで行かなければならない。さらに、到着するポーンサワンのバスターミナルも街から数キロも離れている。何とも不便である。

 ジャール平原(Plain ofJars)はラオ北東部に広がる標高1,000メートルほどの広大な高原である。この地は二つの事柄で名を馳せている。一つはその地名「Jar=壺」が端的に表している。平原のあちこちに立ち並ぶ巨大な無数の石壺である。いずれも先史時代のもので、その用途は謎に包まれている。現在、ラオの有力な観光資源となっており、近々世界遺産に指定される見込みである。二つ目は負の遺産である。この地は人類史上最大規模の爆撃を受けた地として知られる。インドシナ戦争中、米軍はホーチミン・ルートの通るこの地を徹底的かつ無差別に爆撃した。このため、ジャール平原は爆撃跡のクレーターだらけと言われる。そして今もなお、多くの不発弾に悩ませられ続けている。 
  
 8時30分、迎えのワゴン車がやって来た。不運なことに私が最初の1人、街中を数カ所回って座席が埋った。さて、ポーンサワンに向って出発と思ったら、着いたところは郊外のミニバスステーションであった。改めて、別のワゴン車に乗り換えさせられ、9時30分、ようやくポーンサワンに向け出発となった。乗客は11人、私以外は全て欧米人である。ワゴン車便は旅行者専用のため、便利ではあるが、路線バスに比べて面白味はない。しかも、補助席も全て使った満席で、窮屈感は否めない。

 国道13号線を一路南下する。この国道はラオを南北に貫く最重要幹線道路である。6年前、ビエンチャンからルアンプラバンまでこの道をバスで走ったが、当時は、ラオで唯一舗装された道路であった。長い、長い登り坂が続く。車はルアンプラバン盆地とビエンチャン平原を隔てる累々たる山並みの中に入って行く。カーブの連続で、しかも路面の状況は余りよくない。約1時間半走って、Kiu Kachamという小集落のドライブインで昼食休憩となった。6年前もこの場所で休憩した。見覚えがある。

 ちょうど13時、山上の集落プークーン(Phou Khoum)を通過する。国道7号線が分岐する交通の要衝である。13号線と7号線の交わる三差路付近は食堂や土産物屋が並び、小さな街並みを形成している。車は停まることなく、7号線に入って東に向う。この道はポーンサワンを経てベトナムへと続いている。尾根上の道となり、展望が大きく開ける。視界の届くかぎり、累々たる山並みが続く。路面の状況は舗装が新しいだけ13号線よりもむしろよい。道の屈曲や上下もゆるやかとなり、車は速度を速める。高床式の家々の並ぶ割合大きな集落を通過する。地図にPhu Viengとある集落だろう。

 プークーンから30分も走った何もない道端で停車、トイレ休憩となる。運転手はむっつりしていて感じが悪い。おそらく英語が話せないのだろう。20分ほどの休憩後発車、小集落が頻繁に現れる。電気も来ており、オートバイも見られ、ウー川沿いの集落に比べればずっと豊かな感じがする。辿る尾根はますますゆるやかとなり、快適な道が続く。ただし、すれ違う車はほとんどない。今でこそ、この国道7号線はすっかり整備され、プークーンからポーンサワンまで3時間ほどで行けるようになったが、数年前までは名だたる悪路で、10時間以上を要した。しかも、雨が降ると通行は不能となった。隔世の感がある。

 道は次第に厳しい山岳道路に変わり始める。カーブの連続となり、上り下りを繰り返す。現れる集落もめっきり減った。プークーンから2時間も走ると、前方眼下に大きく開けた大平原が現れた。ジャール平原だろう。車は急な坂道を急カーブを繰り返しながらグイグイ下りだす。下りきると地形が大きく変わり、低くうねる大地の広がりとなる。家々が散在し、丘の斜面には牧場が多く見られる。牛の群れがのんびりと草を食んでいる。田圃も現れた。道は直線度を増し、車はスピードを上げる。やがて街並みが次第に濃くなる。ポーンサワンだろうが、何やら捕らえ所のないだだっ広い街だ。16時、街の中心と思える広場で車は停まった。ポーンサワン到着である。

 数人のG.H.の客引きが待ちかまえていた。余りしつこくなく、愉快な男たちだった。結局、Nice G.H.をチョイスする。ミニバス発着場からほんの数分の距離であった。80,000キープ(約880円)の部屋と100,000キープ(約1,100円)の部屋がある。後者は何とバスタブがある。迷わずこの部屋をチョイスした。ただし、確りと90,000キープ(約990円)に値切った。今晩は風呂に入れる。嬉しくなってしまった。客引きの男はG.H.の関係者ではなく、隣りの旅行社の従業員であった。早速、本業のツアーの勧誘を始める。私としても1人参加のツアーがあるかどうか心配していたところなので、渡りに船である。ツアーでないと郊外に広がる観光ポイントを見学できない。

 ひと息つくと、早速街に飛びだした。現在位置が街の中心と聞くが、賑やかな街並はない。広々としたサイサナ通り(国道7号線)に沿って、G,H,、食堂、旅行代理店や小さな雑貨屋がある程度で、生活に密着した商店など見当たらない。それでも、通りは、バイク、トゥクトゥク、ワゴン車などの通行も多く、何となく活気が感じられる。

 街中を歩くと、到るところに爆弾の大きな殻を目にする。門柱にしていたり、無造作に庭に積み上げられていたり。人の流にしたがって、サイサナ通りから道一本奥に入ると、人々で賑わうタラート(市場)があった。肉、魚、野菜、生活用品、何でも揃った実に大きなタラートである。タラートらしいタラートに今回の旅で初めて出会った。しかも、見かける女性の多くがシン(ラオの民族服である巻きスカート)を履いている。ひと昔前のラオがこんな辺境の地に活きていた。何やら嬉しくなった。ポーンサワンの街はインドシナ戦争後に造られた新しい街である。昔からジャール平原にあった街は全て、インドシナ戦争の際に米軍の爆撃で廃虚と化した。

 食堂で1人寂しく夕食を取っていたら、通りかかった若者が「日本の方ですか」と、いきなり日本語で話しかけてきた。こんなラオの奥地で日本人に会うとは驚きである。しかも、同じG.H.に泊まっていることがわかった。夕食後G,H.のロビーで雑談する。バンコクで7年ほど働いていたが、首になったので旅に出た由。久しぶりに心置きなく日本語を話せ、多いに満足した。寝る前にバスタブに浸かる。天国天国ーーー。

 
 第13章 ジャール平原の謎の石壺群

 1月30日。今日はジャール平原を巡るツアーに参加する。多くの石壺が立ち並んでいる場所を「サイト」と呼んでいるが、ジャール平原に58のサイトがある。今日のツアーはその代表的サイトであるサイト1、サイト2、サイト3の見学、および付録としてラオ・ラーオ(ラオの地酒)の酒造現場とインドシナ戦争時の遺物・ロシアの戦車の残骸見物が組み込まれている。昼飯(ただし、ヌードルスープと明記されている)付きで料金は20米ドルである。

 朝9時、11人乗りのワゴン車で出発。客は9人で、4組の欧米人のアベックと私である。運転手とガイドが同乗している。説明は全て英語である。私は助手席を指定されたので万万歳である。

 先ずは、街の西外れにあるツーリスト・インフォメーションへ。ジャール平原に関する各種説明展示がなされており、パンフレットの入手が可能である。しかし、私の関心を引いたのは庭いっぱいに積み上げられた爆弾の殻の数々であった。それにしても、何でツーリスト・インフォメーションがこんな街外れにあるのだろう。街中から歩いてこられる距離ではない。

 うねる大地の中の地道を進むとサイト1に着いた。丘の上に立ち並ぶ無数の石壺が見える。丘への登り口には髑髏マーク入りの看板が立つ。MAG(Mines Advisory Group)による不発弾に対する注意喚起である。除去作業の完了した白杭の中を歩けと記されている。MGAは地雷、武器、弾薬などの除去活動を世界中で行っているNGOである。1997年にはノーベル平和賞を受賞している。このジャール平原でも素晴らしい活動を続けている。(http://www.maginternational.org/ja/)

 丘に登る。大小無数の石壺が無秩序に立ち並んでいる。その数は331個あるという。不思議な光景である。石壺の大きさ、形はばらばらで、平均的大きさは600キロ〜1トン、最大のものは6トンもある。中には蓋の付いているものもある。丘の麓にも、より多くの石壺が並んでいる。既に多くのツアー客が石壺の間を歩き回っている。

 この石壺は今から2,500年前に造られたと考えられている。ラオ族がこの地に進出する遥か以前であり、造った民族は不明である。最大の謎は、「この石壺は何のために造られたのか」である。現在唱えられている説は、
 1、一部の石壺の中から人骨、ガラス玉、鉄器が発見されたことから「棺桶」説。
 2、戦勝を祝い、石壺に酒を満たして飲んだという「酒壺」説
 3、穀物を貯蔵したという「米壺」説
など諸説があるが、棺桶説が有力になっている。丘の麓の崖に洞窟がある。天井には煙出しのような穴が開いている。ここで死体を焼き、骨を石壺に収めたというのが棺桶説の根拠となっている。

 いずれにせよ、数キロ先の山から石を切り出し、壺を製造するのには相当な労力を要する。従って、強い動機および目的が必要であり、かつ強力な権力の存在が前提となる。ジャール平原一帯を支配する王国が存在したと考えてよいのだろう。しかし、現在、何一つ分かっていない。この文明を担った民族はどこに消えてしまったのだろう。

 石壺とは別に、丘からの展望が素晴らしい。低い丘の連なるうねる大地がどこまでも続いている。遠くにポーンサワンの街並みが霞んでいる。付近には巨大なクレーターが幾つも見られる。いずれも米軍による爆撃の跡である。

 再び車に乗って、サイト2に向う。途中農家によってラオ・ラーオの酒造工程を見学する。瓶の中に蒸した米と麹を入れて寝かせるだけの到って簡単な行程である。小さなカップで試飲させてもらったが、喉が激しく焼けた。サイト2は木の生い茂る丘とその隣りの丘の二つに分れていた。少々ラオ・ラーオの酔いが回って登りに息が切れる。このサイトには93個の石壺が立ち並んでいる。壺の中をのぞくと、ゴミや泥が詰まっていて汚い。掃除ぐらいしたらと思うがーーー。それにしても、不思議な光景である。

 田圃の中の悪路を進む。ちょうど12時、サイト3の入り口に到着。掘っ立て小屋の食堂で昼食となった。メニューはヌードルスープと指定されている。8人の欧米人と一つのテーブルを囲むのはちょっと苦痛である。幾つかのツアーグループがいるが、日本人はおろか東洋人の姿なぞまったく見られない。私の話し相手はもっぱらガイドの兄ちゃんである。英語、フランス語、中国語が話せるという。そのうち日本語もマスターすると張りきっている。私とはもっぱらラオ語(タイ語)の会話である。

 昼食後、サイト3に向う。刈り取り跡の田圃の畦道をしばらく歩く。真昼の太陽が照りつけ暑い。朝方はセーターまで着ていたのだが。Tシャツ1枚になる。サイト3も丘の上であった。ここには150個ほどの石壺が立ち並んでいる。また、あちこちに爆撃で出来たクレーターが見られる。丘の斜面の草原に座し、石壺について考える。大きさも形もばらばら、配置にも規則性はまったくない。どうも棺桶とは思えない。天に座す神に捧げる供物を入れたのではないか。ふとそんな気がした。

 帰路、インドシナ戦争時代の遺物であるソ連製の戦車の残骸を見る。道端に放置されており、わざわざ見学するような代物でもない。いずれにせよ、インドシナ戦争が東西両陣営の代理戦争であった証拠にはなる。14時30分、G.H.に帰り着いた。
 夕食後、近くのMAG・ビジターセンターへ行ってみる。小さな一室だが、爆撃による被害やMAGの活動がパネル展示されており、係員が付き添って丁寧に説明してくれる。全てを破壊する爆弾を無差別に投下するもの、その後始末を一生懸命するもの。人間とは一体何なのだろうと考えさせられる。

 
 第14章 ムアン・クーンへのOne Day Trip

 1月31日。今日はポーンサワンから33キロ南東に位置するムアン・クーン(Muang Khoun)という小集落へ日帰り旅行する。ムアン・クーンの別名はオールド・キャピトル、すなわち古都である。「ムアン」の名前を冠することからも分かる通り、この街はインドシナ戦争以前においては、ジャール平原の中心都市であり、シェンクワーン(Xiengkhouang)県の県都であった。しかし、米軍による凄まじい爆撃によりこの街は地上から姿を消した。代わって、戦後にポーンサワンの街が新たに建設された。ムアン・クーンは今は取るに足らない小集落だが、爆撃で破壊された寺院や、昔の栄華を伝える仏塔などが残されているという。行ってみる価値がありそうである。

 フロントでムアン・クーンへの行き方を聞く。バスが「ナムグーム市場バスターミナル」から1時間に1本程度出ているとのこと。ただし、このバスターミナルは昨日寄ったツーリスト・インフォメーションの隣り、街から3〜4キロもある。トゥクトゥクで行けとのことである。8時45分、G.H.を出発する。バスターミナルまで歩いて行くことにする。少々遠いが、未知の街を歩くのは大好きだ。

 街を東西に貫くサイサナ通りを西に向う。何とも捕らえ所のない、だだっ広い街だ。繁華街のようなにぎやかな場所はないが、街並みは途切れそうで途切れない。30分も歩くとようやく街並みが途切れた。左に折れて国道1号線に入る。川を越え、坂を登り、さらに20分も歩くとようやく目指すバスターミナルが現れた。

 目の前にするバスターミナルは、周りを小さな商店に囲まれた広場で、バスの姿なぞ皆無。トラックバス、ソンテウ、トゥクトゥクが無秩序に並び、人々でごった返している。もちろん、英語の表示など何もなく、外国人の姿など皆無である。どうやら、地肌のラオのまっただ中に1人迷い込んでしまったようである。さてどうしたものか。聞きまくる以外にない。怪しげなラオ語(タイ語)で2〜3回聞いて、ようやくムアン・クーン行きのトラックバスに辿り着いた。

 乗車前にトイレに行こうと場所を聞くと、親切にも運転手が付き添って案内してくれた。これぞラオ族本来の心遣い、嬉しくなった。トラックバスはすぐに発車した。荷台の左右に設置されたベンチシートに10数人の乗客が座り、真ん中は持ち込まれた荷物の山である。広場を出ると車はムアン・クーンとは反対方向に走り出した。えぇぇ、一瞬不安になる。数100メートル走って、雑貨屋の前で停車。何やら大きな荷物を積み込んで、Uターンした。ヤレヤレひと安心と思ったら、今度はガソリンスタンドへ。まったくもぉ、思わず吹き出してしまう。

 車はようやく順調に走り出した。うねる大地が続く。低地には田圃、丘の斜面には牧場が広がる。車は時々停まり乗客を降ろす。と同時に、家の前で止まり、警笛を鳴らすと家人が飛びだしてきて荷物を受けとる。時には、小道の分かれる道路端に、無造作に荷物を置いていく。後で依頼主が取りに来るのだろう。ソンテウは宅急便も兼ねているのだ。荷台の上はにぎやかである。おばさん、おじさんの大声の会話が続く。辿っている道路は、国道1号線、舗装されているものの車とはめったに出会わない。代わりに、鶏の親子が道を横切る。車は慌てて急停車。今度は、悠然と歩く牛の群れが現れた。車は大きく避けて追い抜く。

 ちょうど11時、数軒の商店のある道端で車は停止した。反対側は大きな広場となっている。ここが終点ムアン・クーンであった。家々がまばらにあるだけの小集落である。背後には山並みが迫っている。丘の上に大きな仏塔が見える。案内書にあるタート・フーン(That Foun)と思われる。その隣りの丘の上に見える上部の掛けた仏塔はタート・チョムペット(That Chomphet)だろう。

 小道を辿って丘に向う。15分ほどで丘の頂に達した。その瞬間、思わず歓喜の声を上げた。何と素晴らしいところなんだろう。芝生を敷き詰めた様な草原の中に古色蒼然たる仏塔が、青空をバックに、すっくとそそり立っている。振り返れば、緑の山々に囲まれた小さな盆地の広がりが見える。辺りに人の気配はまったくない。真昼の太陽が燦々と光を降り注ぎ、暖かい。草原に腰を下ろし、仏塔を見つめ続ける。何て美しい仏塔なのだろう。これほど美しい仏塔にお目にかかった記憶がない。既に漆喰は剥げ落ち、下部は煉瓦剥き出しである。表面には雑草が生え、中ほどには樹が根を張っている。しかし、仏塔は先端に到るまで完全な形で残っている。この仏塔は高さ38メートル、16世紀の建立と伝えられている。

 草原に座り込み、至福の一時を過ごしていたら、エンジンの音がして別の道からワゴン車が登ってきた。せっかくの静かな雰囲気が壊された。ガイドを伴った5人の白人のおばさんが降りてきた。プライベート・ツアーのようだ。ガイドとしばし雑談する。車が去り、再び静けさが戻った。しばしの後、尾根伝いに隣りの丘に向う。鞍部を過ぎた一段上には高い無線鉄塔が立っている。タート・チョムペットの立つ頂も短い草に覆われた気持ちのよいところであった。再び草原に座り込んで塔を見つめる。こちらの塔は上半分を失っている。おそらく、タート・フーンと双子の塔であったのだろう。ここから眺めるタート・フーンの姿は一段と美しかった。

 丘を下り、ワット・ピアワット(Wat Phiavat)を目指す。爆撃で破壊されたという寺である。何回か道を聞き、国道1号線を東に進む。集落も尽き、登り坂となる。目指す寺は遠そうである。坂を登りきったところの高台に爆撃で破壊された病院の残骸があった。爆撃はこのような人道的施設にもおよんだ。取り片付けられることもなく、今も無残な姿をさらしている。今度は下り坂となった。「Baan  ○○」との標示があるところを見ると、ここはムアン・クーンとは別の村のようである。

 坂を下りきったところに数人のおばさんがいたので、またまた道を尋ねる。何と隣りの寺であった。小さな寺の境内に、基壇と柱だけを残す本堂の跡。その奥に黒ずんだ仏像が野ざらしで鎮座している。仏像はあちこち漆喰で修理した跡が認められる。首や腕も付け直した様子である。爆撃の激しさが想像される。大衆食堂で昼食をとり、再びトラックバスに乗ってポーンスワンに帰る。途中僧侶が乗り込んできた。タイと違って、平気で女性の隣りに座る。降りる際に、料金を払おうとしたが、運転手は受け取らなかった。タイでは、そもそも、僧侶は無料との習慣がある。14時過ぎにはG.H.に帰り着いた。

 19時前、夕食を取ろうと近くの食堂に行く。すると向こうのテーブルから「ヘーイ」と大きな声が飛んだ。振り向くと、何と、何と、あのカナダ人の夫婦がいるではないか。思わず駆け寄って抱き合った。ノーンキアウで別れてから5日目、まさか再会できるとは思わなかった。10年の知己に出会った思いである。つい先ほどルアンプラバンから着いたばかりだという。ドイツ人のおじさんとはノーンキアウで別れたとのことである。

 食事をしながらの会話となった。「ルアンプラバンどう思います。世界1素晴らしい都市と聞いて、楽しみにしていたのだがーーー。行ってみたら、物価は高く、旅行者ばかり多くてーーー。がっかりしたわ」。彼女が憤まんやる方ないという様子で語り始めた。私は、「数年前は、正真正銘、世界1美しい都市だったのだがーーー」と言うより仕方がなかった。

 
 第15章 景勝の地・バンビエン(Vang Vieng)へ

 2月1日。今日は景勝の地として知られるバンビエンに向う。バスで約7時間の距離である。実は、バンビエン行きは余り気が進まない。この街はビエンチャンとルアンプラバンの間にあって交通も便利で、かつ、景勝の地のため、ラオ最大の観光地となっている。今では、大勢の観光客が押し寄せ、街は喧騒の最中にあるらしい。「アジア最後の純情」とはほど遠いイメージである。しかし、この旅の最終目的地・ビエンチャンまで直接行くとなると10時間〜12時間掛かる。やはり途中のバンビエンに立寄らざるをえない。

 前日、ミニバス(ワゴン車)のチケットを手配しておいた。路線バスもあるが、バスターミナルは街の中心から3〜4キロも先、それに比べ、ミニバス乗り場は歩いてほんの5分である。8時過ぎ、乗り場に行くと、未だ乗客は誰も来ておらず、ビエンチャン行きとバンビエン行きの運転手および事務所の女の子の3人がいた。しばし雑談、今日の乗客は7人と聞いて喜んだ。早々に助手席を確保する。韓国・現代製のワゴン車である。

 8時45分、15分遅れで出発。12人乗りの車に運転手を含め乗車人数8人、快適なドライブが期待できる。乗客はフランス人のおばさん2人、ヤンキー娘2人、韓国人のアベックに私である。街を出た所でガソリンスタンドへ、いつものことである。すぐに、道端でバスを待っていた男を見つけて停車、運転手が説得して車に乗せる。空席があるので、バス待ちの乗客を奪取したようだ。おそらくその運賃は運転手の懐に入るのだろう。すぐに、またもや、3人のバス待ちの客を見つけて停車、運転手は延々と運賃交渉をして説得している。何のことはない、結局、満席である。3人の中の一人は20歳前後の坊主、助手席にいる私を睨みつけて、隣りに乗り込んできた。おかげで、助手席に2人、窮屈この上もない。一般的に、僧侶は助手席に乗る特権を持っている。このため、助手席に乗っている私が邪魔なのだろう。何とも感じが悪い。この糞坊主めぇ。

 ジャール平原が尽き、厳しい山道となった。すると隣りの糞坊主が激しく車酔いを始めた。ざまぁみろだが、隣りでゲーゲー吐き続け、不快この上もない。見かねて運転手が「席を代わってやってくれ」と言う。私が窓側の席を占めていたのだがーーー。仕方がないか。おかげで3人掛けの真ん中、運転手の隣の最悪の席である。しかも、糞坊主は、「ありがとう」の一言もなく、逆に半ば寝っころがって、グイグイ身体を押し付けてくる。足を蹴っ飛ばしてやったがーーー。

 ポーンサワンから2時間ほど走って、山中の雑貨屋でトイレ休憩。坊主は、酔い止めの薬をもらって飲んでいたが、ぐったりしている。少々かわいそうな気もしてくる。小休止の後、再び山岳ドライブを開始。相変わらず坊主は吐き続けている。12時30分、プークーン着、しばしの昼食休憩となった。ここはビエンチャンとルアンプラバンを結ぶ国道13号線と、ポーンサワンに向う国道7号線の交わる交通の要衝である。ほとんどのバスがここで休憩を取るので、3叉路付近は食堂や土産物屋で賑わっている。

 運転手が細い竹の束を買っている。「何だ」と聞くと、1本の竹を縦割りにした。節ごとに白い芋虫がいる。竹虫と呼ばれるタケツトガの幼虫である。タイ、ラオ、ベトナムの北部ではこの虫を食する習慣がある。普通は油で揚げて食べるのだが、生でも食する。運転手が美味いから食べてみろという。揚げたものは何度か食べたことがあるが、生は初めてである。何とも気持ちが悪いが、日本男児、ここはびびった様子を見せるわけには行かない。噛まずに呑み込んだ。

 韓国人のアベックはここで降りたが、代わりに2人の現地人が乗り込む。相変わらず満席である。国道13号線を一路南下する。右前方にひときわ目立つ鋭峰が見える。まるで、ヒマラヤのマチャプチャレの様な山容で天を突き刺している。運転手に山名を問うと、「ベローチャン」と答えたがーーー。国道13号線はラオ最大の幹線道路であるが、道の状況は6年前のまま、カーブの連続する完全な山岳道路である。しかも、大型観光バスが沢山走っているので、なかなか追い越しも出来ない。鋭いカーブではすれ違いもままならない。隣りの糞坊主は相変わらずゲーゲーやっている。

 突然、左前輪付近から煙が出だした。慌てて車はストップ。見ると、ブレーキが加熱してオイルが燃えている。明らかにブレーキの使い過ぎである。30分ほど停車して冷えるのを待つ。車の性能も悪いのだろうが(韓国・現代製)、プロの運転手としては失格である。フランス人のおばさんに「エンジンブレーキを使わなければだめよ」と繰り返し説教されている。情けない運転手だ。

 カシー(Kasi)の小さな街を過ぎると周囲は奇っ怪な姿をした岩山が目に付くようになる。厳しい山岳道路も終わり、緩やかな道が続くようになる。道端にミカン売りの露店が連なる場所でトイレ休憩、バンビエンは近そうである。3時30分、車は国道沿いのワゴン車溜まりとなった広場で停車、ここが終点だという。当然、街の中心まで行くと思っていたので慌てる。街までまだ数キロある。客待ちしていた乗り合いソンテウに乗り込む。

 到着したバンビエンの街中心部は、想像していた通り、繁華街の真中であった。G.H.、食堂、旅行代理店、インターネットカフェーが軒を並べ、通りは旅行者で溢れている。「ここがラオ? 」と思える街である。先ずは宿を確保しなければならない。喧騒の中心部を避け、街並みの途切れた先にあるDokkhoun2 G.H. に行くもろくな部屋がない。隣りのPany G.H.に行く。オーナーの親父がいやに調子がいい。1泊10米ドルとのことなのでチャックインする。部屋はきれいで問題ない。ただし。何となく変な感じで、他に旅行者が泊まっている様子がない。

 荷物を部屋に置くと、早速街に出た。G.H.の裏は広大な広場となっている。インドシナ戦争中に使用された米軍の飛行場跡である。ポーンサワン近郊で見た無数の爆撃の跡はいずれもここから飛び立った爆撃機によってもたらされた。今はただ、何もない広場として捨て置かれている。宿の親父が話してくれた。「幼少の頃、毎日毎日ここから多くの爆撃機が北を目指して飛び立っていった」と。

 街中をぶらつく。実に大きな「旅行者の街」である。バンコクのカオサンに匹敵する。G.H.だけでも100軒以上ある。「ヒッピーの街」と言ってもいいだろう。半裸のファラン(欧米人)の若者がウジャウジャ街を闊歩している。日本人の姿は皆無である。1人疎外感を味わう。

 
 第16章 喧騒の街・バンビエンの1日

 2月2日。泊まっているG.H.は不思議な宿である。結局、泊まっている旅行者は私1人であった。その代わり、夕方になると、観光バスやワゴン車が続々と広い庭に駐車し、運転手やガイドが宿泊している。そして、早朝、車を洗って出かけていった。そういう種類の宿のようである。受付も常に無人である。ただし、居心地は悪くない。昨夜も物音一つせず静かであったし、今朝も庭のベンチに座っていたら、親父がお茶を入れてくれた。

 バンビエンは周囲を石灰岩の岩山に囲まれ、その麓をソン川(Nam Son)が流れる風光明媚なところである。過ごし方としては、旅行社のツアーに参加して、鍾乳洞巡りや川下りを楽しむことらしい。1人でそんなツアーに参加してもつまらない。どうせファランの若者ばかりであろう。歩いて行けそうな鍾乳洞が案内書に載っているので行ってみることにする。タム・チャン(Tham Chang)洞窟である。今日も朝からいい天気である。ここまで下ってくるとまさに南国の気候、Tシャツ1枚で十分である。

 街を出て人家のまばらとなった道をテクテクと歩く。すれ違った白人の若者が「ポーンサワンで会いましたねぇ」と親しげに話しかけてきた。私に記憶はないがーーー。途中より畑中の地道となった。行く手には奇怪な姿の岩山が絶壁となって立ちふさがっている。街から30〜40分も歩くとバンビエン・リゾートの門前に達した。広大な敷地を持つリゾートホテルで、タム・チャン洞窟はこのホテルの敷地内にある。入園料2,000キープ(約22円)を払い園内を進む。木々が茂る広大な敷地にコテージや管理棟が点在する。敷地内を進むとソン川の辺に出た。そそり立つ大絶壁を背にゆったりと流れる川、素晴らしい景色である。思わず岸辺に座り込み、絶景を満喫する。辺りに人の気配はない。

 吊り橋を渡り、岩壁の基部に達する。目指す鍾乳洞の入り口はこの岩壁の中腹にあり、目の前に長い長い石段が現れる。料金所の小屋は無人だったので通り過ぎようとしたら、女性が向こうから駆けてきた。15,000キープ(約165円)の入場料を払い147段の石段に挑む。下から若者が勢いよく登ってきて、追い越していった。鍾乳洞入り口に登り上げ振り向くと、眼下に素晴らしい景色が広がっている。山々に囲まれた緑多い盆地の中をソン川が悠然と流れ、バンビエンの街並みも見える。洞窟は電灯も確り設置されていてよく整備されていたが、それほど見ごたえのあるものではなかった。再び歩いて街まで帰る。

 明日、ビエンチャンに行く予定なので旅行代理店でミニバスのチケットを得る。G.H.まで迎えに来てくれるとのこと。街には多くの旅行代理店が軒を並べているが、その扱っているチケットが凄まじい。ビエンチャン、ルアンプラバン、ポーンサワンなどラオ国内主要都市行きのバスチケットはもちろんだが、ベトナムのハノイやホーチミン行き、カンボジアのプノンペン行き、タイのバンコクやチェンマイ行きなど近隣諸国行きの国際バスチケットに到るまて、あらゆるチケットが売りだされている。タイのノーンカイからバンコクまでのタイ国有鉄道の列車チケットまでも販売されている。驚きであった。

 暇に任せて街を南北に貫くメインストリートを北に向って歩く。ワット・カーンを過ぎると賑やかな旅行者の街は終わり、粗末な家の並ぶ本来のバンビエンの小集落が現れる。道が国道13号線に合流したところで集落も途切れる。ソン川沿いの道をのんびりと戻る。川では子供たちが真っ裸で水浴びをしている。いかにもラオらしい風景である。見知らぬ白人の女性が、「ブータンに行ったことがあるのですか」と突然話しかけてきた。今日、私はブータンで買ったTシャツを着ている。彼女にはブータンへの強い思い入れがあったのだろう。

 G.H.に戻り、下働きの2人の女の子とトンチンかな会話を楽しむ。名前はモンとモアン、20歳と22歳だという。英語はyes,noも通じない。私のタイ語も通じにくい。よく笑うかわいい女の子である。夕方オーナーが酔っぱらって帰ってきた。友人のパーティでしたたかラオ・ラーオを飲んだ由。日が暮れると、昨日と同様、観光バスやワゴン車がやって来て、運転手やガイドが部屋に消えていった。

 
 第17章 首都・ビエンチャンへのバスの旅

 2月3日。今日はラオの旅の最終行程、バスで首都ビエンチャンに向う。4時間ほどの行程である。朝、宿泊費として10ドル×2泊=20ドル払うと、オーナーは4ドルお釣りをくれた。親切なのか、勘違いなのかーーー、いずれにせよ儲かった。8時45分の約束であったが8時30分に迎えのバスがやって来た。私が最初の1人、数カ所廻って街中心部のG.H.前で降ろされた。ここで、改めてビエンチャン行きのバスを待つらしい。次第に乗客が集まってくる。ずいぶん待たされ、バスが出発したのは9時30分を過ぎていた。ワゴン車と思っていたが22人乗りの小型バスである。乗客は10数人、全員ファランのバックパッカーである。

 国道13号線を一路南下する。低い山並みが続く。2車線の舗装道路だが、アスファルトは継ぎ目だらけで快適な道とは言いがたい。車の通行は多くない。特に乗用車の姿はめったに見ない。時折、牛やヤギの群れが道を横切る。1時間強も走ると、丘陵地帯も終わり、行く手に大きく開けた平原が姿を現す。約2時間走り、ポーンホーン(Phonhong)の街手前のドライブインでトイレ休憩、ビエンチャンまであと70数キロである。

 町と呼べる賑やかな集落を幾つか通過する。行き交う車の数も増してくる。いつしか街並みが途切れることなく続くようになる。やがて信号も現れ、にぎやかな街並みに入った。大型ショッピングセンターなども見られ、日本の大都市の郊外という雰囲気である。突然、見覚えのあるファーグム王の銅像が現れた。ビエンチャンの街の西端に建つ銅像で、6年前にはここから西には街並みなぞなかった。と言うことは、ビエンチャンの郊外がいつの間にか大いに発展していたのだ。このバスは街のどこに着くのかと思っていたが、セーターティラート通りを進ん行く。13時30分、バスはラオ国立博物館脇の道路端で停まった。ここが終点であった。

 ビエンチャンは6年前に歩き廻ったので土地勘は十分にある。すぐに街の中心のナン・プー(Nam Phu  噴水)広場を目指す。ここから数分の距離である。さすがにここまで南下すると、南国の太陽がぎらぎら照りつけ、ものすごい暑さである。ナン・プー広場近くのマリーナンプーG.H.に行く。何と、朝食付きではあるが、1泊29米ドルだという。値引きにも応じない。仕方がないかーーー、ここは首都のど真ん中。それにしても、旅行者増の為なのか、6年前に比べずいぶん高値となったものである。

 
 第18章 ビエンチャン観光

 荷物を部屋に置くと、すぐに街に飛びだした。6年前と比べ、街並みはそれほど変わっていないが、雰囲気は一変していた。街は活気にあふれている。辻辻には信号機が設置され、道は車とバイクが切れ目なく行き交っている。6年前、初めてここにやって来た際は、「えぇぇ、本当にここが首都の中心地なのーー」と戸惑ったほど寂しい街であったがーーー。ここ数年でのラオの発展が強く感じられる。と同時に、何かラオの素晴らしさが失われていくような寂しさも感じる。

 先ずは、メコーンの岸辺に行ってみた。そして、大いなる失望を感じた。砂を採取しているのだろう、河原は多くの重機とダンプカーが動き回り、近づくことさえ出来ない。昔、岸辺にあったオープン・スペースのレストランも姿を消している。がっかりして、市内の中心に立つ仏塔・タート・ダム(That Dam 黒塔)へ行く。16世紀に建設されたと言われる古色蒼然たる仏塔である。タイの侵略からビエンチャンを守った龍が住むと言い伝えられている。不思議なことに、「地球の歩き方 ラオス '10〜'11版」には前版まであったこの塔に関する案内がまったく記載されていない。そのためか、市内に溢れている旅行者の姿はまったくなかった。塔は6年前と同じ姿で静かに立っていた。

 続いて、ワット・ホー・パケオ(Wat  Ho Phakeo)に行くも、16時でクローズとのこと。現在すでに15時50分、諦めてタラート・サオ(Talat Sao)に向う。ビエンチャンで最大のマーケットである。行ってびっくり、タラートは建て替えるとかで、壊されてあとかたもない。2階建てのコの字型の薄暗い大きな建物で、あらゆる種類の店がぎっしり詰まっていたのだがーーー。代わりに、その隣りに3階建てのショッピングモールが新設されていた。エスカレーターまである近代的な商業施設である。ラオも変わったものである。

 続いて、隣りのバスターミナルへ行ってみる。昔はラオ各地へのバスが頻発していたこのターミナルも近距離専用の小型バスだけの発着場となっていた。6年前、タラートで出会った竹細工売りの少女やバスターミナルで出会ったライター売りの少年は遠い過去の思い出となってしまったようである。

 G.H.に帰り、ランドリーサービスを頼もうとしたら、何と、1キロ当たり30,000キープ(約330円)だという。冗談ではない。街に出て洗濯屋を探す。1キロ当たり10,000キープ(約110円)の店を見つけてやれやれである。インターネットカフェから自宅にE-Mailする。スピードも速く、料金もわずか2,000キープ(約22円)と安かった。

 2月4日。早朝6時、玄関のカギを開けてもらって未だ真っ暗な街に出る。托鉢の情景を見たかったのである。お寺の多いセーターティラート通りの西へ行ってみたが、僧の列はおろか僧を待つ人々の姿も見ることが出来なかった。時間が早すぎたのか、遅すぎたのか。

 今日は1日、ビエンチャンをほっつき廻るつもりである。朝食後9時出発、先ずはワット・ホー・パケオを目指す。ビエンチャンで最も格式の高い寺院で、現在タイの国家守護仏であるエメラルド仏が、かつて祀られていた寺院である。1778年、タイ軍の侵略略奪を受け、エメラルド仏も持ち去られた。エメラルド仏はラオにおいても国家守護仏である。ラオの人々はいっの日か、エメラルド仏が帰国する日を待ち望んでいる。眼をくりぬかれた仏像の列が痛々しい。タイ軍は宝石の埋め込まれた眼をくりぬいて持ち去ったのである。仏教徒の仕業とも思えない。

 続いて斜め向いにあるワット・シーサケット(Wat Sisaket)へ行く。1824年、アヌ王によって建立された寺院である。本堂および回廊に安置された1万体を越える仏像が壮観である。アヌ王はラオの英雄である。1827年、独立を求めてタイに対し反乱を起すが破れ、捕虜となり処刑された。

 さて、次はどこへ行こう。市内に見所はまだまだあるが、いずれも6年前に訪問ずみである。1カ所ぐらい未知のところに行ってみたい。案内書に載っている郊外のブッダ・パーク(Buddha Park)へ行ってみることにする。奇怪な姿の数々の仏像が並んでいるという公園である。市内からバスで1時間ほどのところにある。バスターミナルへ行く。14番の小型バスはすぐに見つかったが超満員のため1本見送る。15〜20分間隔で頻発している。ブッダ・パークへ行くことを確認して次のバスに乗り込む。結局このバスも超満員になった。それでも、更なる乗客を求めて、発車後も1メートル進んでは停まり、また1メートル進んでは停まりの繰り返し。かなりいらいらする。

 ようやくまともに走り出し、メコーン沿いの素晴らしい道を南下する。途中乗客を乗降させ、40分も走ると友好橋のイミグレーションに着いた。私は、明日、この国境からタイへ出国するつもりである。乗客の大部分がここで降りた。ここからは田舎道となった。右側にメコーンが見え隠れしている。友好橋から30分近く走るもブッダ・パークに着かない。通り過ぎてしまったのだろうか。不安になる。運転手に確認しようとしたところでブッダ・パークに着いた。やれやれである。

 入場料5,000キープ(約55円)を払い園内に入る。入り口にカボチャのお化けのような得体のしれない巨大なオブジェがあり、その上に登ることができる。上から園内を一望する。外人観光客の姿はないが、地元のグループで結構賑わっている。さして広くもない園内を歩く。これでも仏像かと思える奇っ怪な姿の像が所狭しと並んでいるだけ。わざわざ来る価値があるとも思えない。ルアンブー・ブンルア・スラリットという高僧が造ったとのことだが、その意図はよく理解できない。メコーンに面しているが、ここでも川岸は重機による砂採取が行われていて情緒がない。再びバスに乗って市内へ帰る。

 バスターミナルで、タイのノーンカイ、ウドーン・ターニー、コーケン、コラート行きの国際バスが出ていることを見つけた。明日この国際バスでノーンカイへ行けばよい。予約が可能か聞いてみると、チケットは当日きり販売しないとのことであった。そのまま歩いて10分ほどのパトゥーサイ(Patouxai)へ向う。パリの凱旋門を模して造られたといわれる戦死者慰霊の門である。市内を南北に貫くラーンサーン通りを跨ぐように聳え立っている。ビエンチャン観光の定番である。屋上の展望台に上る。5階までヒィーヒィー階段を登ると、さらにその上に螺旋階段が続いていた。意地になって最上階まで登る。ビエンチャン市内が一望である。メコーンが見える。その岸辺に市内唯一の高層ビル・14階建てのドーン・チャン・パレスがひときわ目立つ。6年前にはなかった建物である。

 ナン・プーまで歩いて帰る。途中のWat That Founでは盛大な葬儀が行われていた。今度は寺街となっているセーターティラート通りを歩く。境内に小学校のあるワット・ミーサイ(Wat Mixay)はちょうど下校時刻で、門前には警察官が立ち、中に入ることは出来なかった。隣りのワット・オントゥ(Wat Ongtey)は大きな寺である。本堂に上がり、御本尊に6年ぶりの御挨拶をする。向いのワット・ハーイソーク(Wat Haysok)は本堂の扉が閉じられ入ることが出来なかった。G.H.に戻る。

 
 第19章 タイへの帰還

 2月5日。朝6時に目が覚めてしまった。ナン・プーへ行き、ベンチに座ってぼんやりと早朝の街を眺めていたら、数人のおばさんが托鉢に対応する準備を始めた。ラオ族の正装の印であるパービアンを肩に掛け、履物を脱いで敷物の上に正座する。膝にはカオニャオ(もち米、ラオ族の主食)の詰まったティップ・カオ(竹で編んだお櫃)を抱えている。やがて、黄色い衣に身を包んだ6〜7人の僧の列が見えた。僧は裸足で正面を見つめたまま歩んでくる。おばさんたちの前で立ち止まり、無言で携えている壺を差し出す。おばさんたちも無言で、ティップ・カオの中から一つかみのカオニャオを差し出された壺の中へ入れる。僧は1列に並び短い経を唱えた後、歩み去る。その間、おばさんたちはじっと手お合わせ続ける。時を経ても変わらぬラオの原風景である。

 今日でラオを去る。18日間のラオの旅を終える。6年ぶりで訪れたラオ北部は大きく変化していた。インフラが整い、物が豊になり、経済発展の様子が目に見えるようになった。喜ばしいことではあるが、一方で、旅行者の群れが押し寄せ、商業主義がはびこり、ラオ本来の素晴らしさが薄れたように感じるのは残念なことである。しかし、この国には今回も物乞いの姿はなかった。危険を感じるような事態にも会わなかった。ラオの本質は変わっていないのかも知れない。托鉢の情景を眺めながら、そんなことを考えていた。

 今日は友好橋からタイのノーンカイに入国するつもりである。9時30分発のノーンカイ行き国際バスに乗るべく、8時30分チェックアウト。歩いてバスターミナルへ向う。チケットは容易に手に入った。待つほどに、ノーンカイからの国際バスが到着した。このバスが折り返すようである。9時30分、バスは定刻に発車した。乗車率は80%程度、乗客のほとんどが現地人である。ラオ人はビザ、パスポートなしでタイに入国できる。隣の席が、何と、同年配の日本人。奇遇である。ビエンチャンではただ1人の日本人にも出会わなかったのにーーー。1人旅だとのことである。

 昨日と同じ道を辿り、約40分で友好橋のイミグレーション前に着いた。国境を越えようとする多くの人々で賑わっている。外人旅行者よりも地元の人の方が遥かに多い。出国手続はいたって簡単であった。ゲートを出たところに両替所があった。小銭も含めて全てのキープを、バンクレシートの要求もなく、タイ・バーツに両替してくれた。キープの信頼度が高まったことをここでも実感した。トイレに行きたくなったので係員に聞くと、イミグレーションのラオス側だという。本来なら、一度イミグレーションを通過したら外には出られない。しかし、何のチェックもなく行かせてくれた。おおらかな国境である。

 メコーンを友好橋で渡ってタイへ向う。2009年3月、この友好橋を渡る鉄道が開通した。ラオで初めての鉄道である。タイとラオが鉄道で結ばれたのである。メコーンの濁流を眼下に眺め、バスはすぐにタイのイミグレーションに到着した。こちらの入国手続も簡単であった。タイに入国すると何やら故郷に帰ったような安らぎを覚える。日本への帰国便は2月12日、まだ1週間ほど余裕がある。これからタイのイサーン地方をしばらく巡るつもりでいる。強弁すればイサーンもラオである。現在の国境線によりタイ領内に組み入れられているが、住んでいる人々はラオ族であり、話されている言葉は、タイではイサーン方言と言われるが、ラオ語である。カオニャオ(もち米)を主食にするなど習慣もラオと同じである。しばし、ラオの余韻に浸ってみよう。

                                                            (完)

 

 アジア放浪の旅目次に戻る    トップページに戻る