富士見峠から七ツ峰を越え智者山へ

踏み跡薄い大井川との分水稜を長駆縦走

1994年4月29日

              
 
富士見峠(915〜920)→三ツ峰(945〜950)→大間分岐(1055〜1100)→七ツ峰(1125〜1135)→楢尾分岐(1210〜1220)→天狗石山 (1335〜1355)→智者山(1420〜1435)→智者神社(1500〜1510)→千頭(1640)

 
 安倍奥の最高峰・山伏より、大井川東岸に添って一本の顕著な尾根が南下する。白根南嶺から続く尾根であり、また、大井川と安倍川・藁科川との分水嶺でもある。この尾根はバス道路が乗越す富士見峠から北は広々としたなだらかな地形で、県民の森やスキー場となっている。しかし、富士見峠から智者山に至る稜線南部は踏み跡も薄く訪れるハイカーも希である。この稜線上の主峰は七ツ峰である。この山を初めて眺めたのは、今年の1月、安倍川西岸の山・見月山やまからであった。稜線から大きく盛り上がり、根張りも確りした堂々たる山容は私の登山意欲を著しく刺激した。

 この富士見峠から智者山に至る山域は実に交通不便である。車を使って一つの山をピストンするなら簡単なのだが、稜線を縦走しようとするとどうにもルートが取れない。考えあぐねた末、バスで富士見峠まで上がり、そこから稜線を縦走すれば、何とか陽のあるうちに千頭に下れるであろうとの結論を出した。稜線までバスで上がってしまう点、若干の後ろめたさを感じないでもないが、この方法以外に縦走ルートは取れそうもない。しかも、この方法とて井川線のバスは1日1本のため、富士見峠着は9時過ぎとなってしまう。稜線の縦走記録もなく山の状況がわからない中で、果たしてこれだけの長距離の縦走が日帰りで可能かどうか不安も大きい。ともかく行ってみることにした。

 新静岡センター発7時20分のバスに乗る。本来このバスは畑薙第一ダム行きであり、連休初日の今日は南アルプスへの登山者でごった返すはずである。しかし、今年は途中土砂崩れのため井川の少し先までしか入れないという。それを知らずに乗り込んできた大きな荷物を背にした男女は途方にくれていた。空々のバスは新緑の美しい山間の道をのろのろ登って、9時15分、富士見峠に到着した。バスを下りると目の前に南アルプスの大展望が開ける。真っ白な聖岳、赤石岳、荒川三山のジャイアンツ。その前には壁のごとくにそそり立つ大無間連峰。もう、谷一つ向こうは南アルプスなのだ。

 支度を調え、9時20分、縦走を開始する。三ツ峰までは遊歩道となっている。新緑の美しい自然林の中を緩やかに登っていく。鶯の鳴き声が頻繁に聞かれ、約30分で山頂に達した。林に囲まれ展望のない山頂にはベンチとテーブルが設置されている。山頂の証拠写真だけを撮ってすぐに出発する。何しろ今日は時間との競走である。遊歩道はここまで。稜線上の踏み跡を進むとすぐに目の前が大きく開けた。右側西面の緩斜面はパイロット農場、左側東面は伐採作業の真っ最中である。突先山、大棚山、天狗岳などの藁科川流域の山々が見える。過去の山行きを思い出しながら頭の中で山岳同定を試みる。行く手にはこれから目指す七ツ峰が大きく盛り上がっている。この高原状の稜線に開かれた農場は思いのほか広い。おそらく戦後開拓されたのであろうが、現在において標高500メートルを越えるこんな交通不便な山上に農地を開く意味があるのであろうか。東面ではチェーンソーがうなりをあげ、搬送ケーブルが激しく動き回っている。

 伐採地と農地との境界の稜線を進む。本来なら農園内の農道を進めばよいのだろうが、忠実に稜線を辿るのが私の趣味だ。伐採は植林樹を切り出しているのではなく山毛欅などの自然林を切り倒している。植林地を確保するためであろうが、山毛欅の大木があちこちで切り倒されているのを見ると心が痛む。住処を追われたリスが地上を走り抜ける。稜線上には微かな踏み跡があるが灌木の藪がうるさい。七ツ峰への登りが始まると農園から延びてきた道と合わさり踏み跡は明確となる。どうやら七ツ峰までは明確な登山道が続いている気配である。雑木林の中の気持ちのよい道を進む。周囲の雑木はまだ若く、所々に朽ち果てた山毛欅の大木が転がっているところを見ると一度伐採の手が入った二次林だろう。尾根は春の息吹に満ち溢れている。芽吹き始めたばかりの雑木林の美しさは何と表現したらよいのだろう。鶯が鳴き、足音に驚いた雉が飛び立つ。明るい尾根は春の陽が差し込み、風の音さえしない。尾根はあくまでも広く緩やかである。しかも、このあたりの山では珍しく下地に笹がないので気分もすっかり開放的になる。時々木々の間より、左手に天狗岳方面、右手に南アルプスが眺められる。

 道標が現われ大間分岐に達した。左手、藁科川最奥の集落・大間から確りした踏み跡が登ってきている。傾斜の増した稜線をさらに進む。山頂部の一角に達すると大井川流域の集落・梅地への踏み跡が右に分かれ、すぐに七ツ峰山頂に達した。狭い山頂は雑木林とカラマツに囲まれ展望はない。遠くから眺めるこの山の姿は立派であるが山頂は平凡である。「展望がなくて残念。周りの木を切れ」と落書きが残っている。小休止の後、すぐに次の目標、天狗石山へ向かう。確りした登山道はここ迄であったが、稜線上には細いながらも踏み跡が更に南へと続いている。しかし周囲の状況は一変する。今迄のゆったりした尾根は狭く急峻となり、スズタケの藪が現われる。山頂直下の急斜面を滑り落ちるように下る。顔を打つスズタケがうるさい。下るにしたがい、藪の間から行く手の稜線が見渡せる。稜線の先には天狗石山、智者山が盛り上がっている。振り返ると七ツ峰がいかにも格好よくそびえ立っている。雑木林の中の単調な道を行く。どこか展望が得られるところはないものかと思うのだが、どこまで行っても雑木林の中である。やがて尾根が広がり薄暗い檜の植林地帯となった。踏み跡が怪しくなりルートファインディングに神経を使う。突然道標が現われ楢尾分岐に達した。藁科川奥の山上集落・楢尾からの細い踏み跡が登ってきている。

 小休止の後さらに稜線を辿る。再び尾根が狭まり、雑木林の道となる。小さなピークを幾つか越える。ガレの頭という感じの小さな岩峰に達した。三ツ峰以来初めての展望が左手に開ける。眼下に崩野、楢尾などの藁科川流域の山上集落が手に取るように見える。よくもまぁ、あれほどの高地に集落を発達させたものである。小岩峰を次のピークとの鞍部に下ると、西側山腹を巻いてきた立派な小道に出合った。突然の余りにも立派な小道の出現に驚く。荷物をおいて、小道を少し戻って偵察してみたが、どこまでも山腹を巻きながら水平に続いている様子。おそらく二万五千図に載っている破線であろう。パイロット農場から山稜の西側を巻きながら続いていると思われる。この小道を利用するのが本来の縦走路なのかも知れない。小道はさらに山腹を巻きながら先へと続いている。私はあくまで稜線を辿ることとする。どこへ導かれるかわからないこの小道を辿るよりも、アルバイトは大きいといえども、稜線を辿るほうが確実である。

 幾つもの急な小ピークを越える。鞍部に至るとこの巻き道と出会う。稜線上の踏み跡はますます細まり切れ切れとなる。所々スズタケの藪も現われる。七ツ峰から天狗石山まで1時間半程度と見積もったが、なかなか着かず焦る。なおも雑木林の中の展望のない尾根を辿る。七ツ峰を出てからちょうど2時間、ついに天狗石山に達した。山頂は小広い雑木林の中で、ここも展望は一切ない。山頂の道標はさらに南に続く稜線上の道を「智者山」、山頂から東斜面を下る踏み跡を「天狗石」と標示している。私の登ってきたあるかないかの微かな踏み跡については何の標示もしていない。どうやら正規のルートは山腹の東斜面を巻いているさきほどの巻き道から登るものと思われる。この天狗石山の東斜面には天狗が一夜にして運んだといわれる岩石累々とした地形があり、山名の謂れとなっている。この地形を見ようと思い少しくだってみたが、遠そうなので諦めた。

 今日最後の目標、智者山を目指す。ここからは立派な登山道となった。道標も到る所にある。すぐに八木白沢温泉への下山道を分け、智者山に続く稜線は左に90度カーブする。広々とした複雑な地形の中を道は緩やかに上下する。すばらしい雑木林の中の道である。木々の間より、辿り来し稜線が見える。分岐に達し、道標に導かれて右の道に入る。まっすぐ進む道は標示はないが崩野集落への道であろう。ほとんど上下動のない尾根上の道を進むと右手に踏み跡が分かれ智者山山頂を示している。ほんの1分で山頂に達した。山頂は高みとも思えない広々とした雑木林の一角で、東側のみわずかに展望が開ける。富士城方面のゆったりした尾根が見通せる。時刻は14時半、どうやら明るいうちの下山が可能なようである。今日は富士見峠を出て以来誰も会っていない。

 山頂からの下山ルートについて迷った。智者山まで来れば千頭への下山道を示す道標はあると思っていたが期待に反して何もない。二万五千図には山頂から南西に延びる尾根に破線が記されている。偵察に行ってみるが、踏み跡はないに等しい。時間に余裕がないので無理はしないほうがよい。この智者山の南面に智者神社がある。ここまで下れば林道が平栗集落を経て千頭まで続いている。この林道を下るのが一番確かである。ただし、この神社までどうやって下るのかが問題である。さきほどの山頂まで1分の分岐の所の道標は、たどってきた方向を「崩野、八草、一般道」、先の方向を「崩野、八草、尾根道」と標示している。崩野も八草も藁科川流域の集落であり、私は大井川流域の千頭に下りたいのだ。「崩野、八草、尾根道」に踏み込む。標示はないがこの稜線ぞいの道を辿れば、どこかで右側、智者神社方面に下る踏み跡があるはずと見当をつけた。急な斜面を樹木に掴まりながら10分も下ると、案の定、道標があり智者神社を示している。これでひと安心である。杉檜の薄暗い樹林地帯の急斜面を30分も下ると神社が見えてきた。

 この智者神社は由緒ある神社であり智者権現ともいわれ、今でもこの地方の信仰を集めている。ここから千頭まで林道をひたすら歩くことになる。この林道は昔の参道に添って作られており、道々置かれた30数体の石仏が参道の面影を残している。途中平栗集落を通過し、車の往来もない林道をひたすら下る。遙か下方に千頭の町並が見えてくる。16時40分、ついに千頭駅に到着した。途中ほとんどまとまった休憩を取らなかったこともあり、7時間半で予定のコースを踏破することができた。